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2011年1月27日木曜日

モーツアルトの死因はリウマチ熱


[訳者注:この文書は「Rheumatic fever killed Mozart」と題する英文記事の仮訳です。ハリウッド映画「アマデウス」ではモーツルトの死因をウィーンの宮廷で宮廷楽長として名高かったアントニオ・サリエリによる毒殺として取り扱っていますが、映画はあくまでも観客を引き寄せるべくして作られた映画です。この記事の内容はまったく違います。と言うことで、映画とこの記事とを対比しながらお読みいただければと思います。この訳文に疑義が生じましたら、原文の記事をご参照ください。なお、原著者(Franklin Crawford)の承諾を得て、この翻訳を行っています。]

コーネル大学の教授も含めて、医学の専門家や学者らはウオルフガング・アマデウス・モーツルトの死に犯罪行為が絡んでいたのではないかとする説には賛同していない。死因は殺人ではなく、おそらくはリウマチ熱が当時まだ若かった天才音楽家を死に至らしめたものではないかと専門家の立場から考えている。

2000215日発表

[メリーランド州バルチモア市発] 驚くほどの才能に恵まれ、多くの作品を残した作曲家ウオルフガング・アマデウス・モーツルトは今から209年前に35歳の若さで夭折した。死因は不自然な病気ではなく、ごく普通の病気であった。この211日金曜日にバルチモア市で臨床病理に関する第6回年次検討会(CPC)が開催され、病歴がよく知られた事例について職業的な興味を抱く医者やモーツルトを専門に研究する学者らによって構成されたパネルがそう結論したのだ。

リウマチ熱が世界で最も親しまれている作曲家の一人であるモーツルトの命を奪ったのであって、当時の作曲家であり、モーツルトのライバルでもあったとされるアントニオ・サリエリが彼を毒殺したというわけではない、とCPCの検討会へやってきた専門家は語っている。この件に興味を抱く専門家集団にはコーネル大学で音楽の教鞭をとり、モーツルト学者としても著名なニール・ザスロー教授も含まれている。リウマチ熱は血液がストレプトコッカス菌によって感染し発症する免疫系疾患である。今日、抗生物質のお陰でこの病気は非常に稀なものとなっている。しかし、モーツルトの突然の発病とそれに続くあっけない彼の死は例の「Xファイル」に名を連ねるにふさわしく、多くの憶測を許すことになったのは事実である。

「陰謀説は結構立派なフィクションとなるかも知れないが、モーツルトが殺されたとする裏付けがあるかと言えば、そのような歴史的証拠は無い」と、ザスロー教授は言う。同教授はこの金曜日にメリーランド大学医学部とバルチモア市の在郷軍人健康管理部がスポンサーとなって開催した検討会で講演をした。1995年以降、CPCはエドガー・アラン・ポーを始めとしてアレクサンダー大王やルードウィッヒ・ファン・ベートーベン、ジョージ・A・カスター将軍、ペリクレス、等の死因について専門家の立場から詳しい検討を行った。

モーツルトは病に倒れるまでは非常に活発で、多くの成功を収めていた」と、ザスロー教授は説明する。「彼の生涯の最後となる年、彼は大作のオペラを2曲も作曲し、信じられない程多くの演奏活動にでかけていた。そればかりではなく、非常に多忙な交際もこなしていた。」

「一体何がモーツルトを死に至らしめたのかについては確実めいたことは言えないが、リウマチ熱がモーツルトの死因だとする説は前にもあった」と、ザスロー教授は我々に念を押す。211日の講演でザスロー教授は、この作曲家はたぐいまれな才能の持ち主ではあったけれども、皆と同じように自分が作った曲を何とか売るために方々を歩き回り、決して労を惜しまず、非常に意欲的な音楽家であったことを強調し、モーツルトをピーター・パンとしてとらえるような説は誤りだ、と指摘した。神聖な霊感の上昇気流に乗ってでもいるかのように誕生したこの崇高な天才作曲家モーツルトが醸し出すロマンチックな香りとも相俟って、疑問の余地が多い証言や偽造された手紙の文面などが過去200年にもわたって数多くの文人やその分野の権威者らによって繰り返し引用され、無意識のうちに世間に広められたことによりこの天才作曲家について数多くの神話が作りだされていったのではないか、とザスロー教授は説明する。ザスロー教授版の現世的モーツルトの姿はどうかというと、歴史的証拠によれば、疲労困憊に陥ってしまうようなひどい演奏スケジュールではあっても、彼はむしろそれらをすべてこなそうと努力し、作曲を完成するためには平穏で静かな生活を求め、ピアノから離れることはなかった。

この専門家パネルが下したリウマチ熱だとする結論は内科医でカリフォルニア大学デービス校の医学部教授でもあるフェイス・T・フィッツジェラルド博士に拠るところが大きい。フィッツジェラルド博士が行った医学的見地からの究明は、当時のモーツルト家の遺族や侍医らが亡くなったモーツルトについて報告した症状や病歴を詳しく調査することから始まった。ちなみに、同博士の診断はモーツルトの死因について行われた最も新しい診断のひとつである。

ザスロー教授の研究結果は18世紀の医師、エドワルド・グルデナー・フォン・ロベスが下した診断内容と良く一致する。モーツルトが死亡した当時、ウィーン市の保健所で検疫官として勤めていたグルデナー・フォン・ロベスは(モーツルトの死後30年の月日が経ってからの手紙の中でモーツルトの死に立ち会った二人の侍医(手紙が作成された時点ではこれらの医者は既に他界している)と意見を交わした当時の内容を記録している。ザスロー教授の調査によれば、その手紙の中でフォン・ロベスはモーツルトが「リウマチ熱に倒れ」、「脳に沈着物ができた」ことによって死亡したと記述している。モーツルトの義理の妹ソフィー・ハイベルの目撃証言もリウマチ熱の症状をよく示唆している、とザスロー教授はさらに付け加えた。

余りにも若い死は如何なる時代にあってもそれ自体が悲劇であり、モーツルトの死は偉大な彼の才能をこの世から突然奪い去ってしまったがゆえにことさら痛ましいものとなった。下記に示す詳細はひどく陰鬱だととらえられるかも知れないが、彼の死にまつわる不要な混乱や憶測から彼を開放してくれることにはなるだろう。

17911120日、モーツルトは高熱、頭痛、発疹、ならびに、腕や脚の痛みに襲われていた。彼は何時ものように機敏で気がしっかりしてはいたものの、著しく動揺しており、イライラしている様子がうかがわれた。部屋に置いてあるお気に入りのペットのカナリアの鳴き声でさえも「うるさい!」と言って、部屋の外へ移動するように周りの者に頼んだほどだ。イライラはリウマチ熱を示す古典的な症状のひとつである。第二週目、モーツルトは嘔吐や下痢に何度も見舞われ、彼の体はひどくむくみ、膨らんでしまったので、もう衣服は体に合わなくなってしまった。誰かの助けがない限りベッドから起き上がることもできなくなっていた。死を予感し、彼は作曲中の「レクイエム」をどのように完成したいかについて説明し、指示を与えた。病状が進行するにつれてモーツアルトの心臓は衰弱し、体の中には水分が溜まる一方で、彼の体はひどく膨らんだ。まだ若い頃、モーツルトはリウマチ熱を患ったことがある。その発作によって彼の健康状態は当時既に危険な状態に至っていたのではないか、とフィッツジェラルド博士は指摘する。精神錯乱の発作の後、こん睡状態に陥り、モーツルトは1791125日に亡くなった。これは病に倒れてから15日目のことであり、36歳の誕生日を7週間後に控えてのことだった。

この診断そのものは、多分、ハリウッド映画の名監督たちの関心を惹くことにはなり得ないだろう。モーツルトの生涯の最後の二週間を巡っては歴史的にも多くの人たちに計り知れない興味を惹き起し、さまざまな憶測を呼ぶことになったが、ここに述べた内容はそれらを少しでも沈静させることに役立つことになるのではないか。

モーツルトよ、安らかに眠り給え!




 

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