日本では数多くの一般市民がウクライナに同情を寄せている。と同時に、ロシアを侵略国扱いにしている。この構図は2月24日という瞬間とそれ以降の状況を捉えると必然的にそうなる。戦禍を逃れてポーランドやルーマニアへ避難する女性や子供たち、ならびに、年配者の姿を見たら同情心に駆られるのは人間として当然のことである。
しかしながら、2月24日以降の数週間だけを取り出して顕微鏡で覗いてもこの問題の真の姿は見えてこない。最近の数週間と比べ、2月24日以前の8年間、つまり、400週間余りは何処へ行ってしまったのだろうか?大手メディアは過去8年間の状況については何も伝えようとしない。これでは不公正である。これは大問題であると言える。真の姿を見ようとしないことは日本にとっても、西側世界全体にとっても大きな間違いであり、大きな不幸である。
ウクライナのゼレンスキー大統領が日本の議会でビデオ演説を行った。NHKは彼の演説の全文を公開し、岸田首相を始めとする政界の9人の重鎮がどうそれを受け止めたのかを伝えてくれた。政治家たちがゼレンスキーの演説をどう受け止めたのかに関する私の印象は極めて悲観的である。誰一人として個人的に感じたことを喋ってはいないというのが私の印象であった。政治家とは政治的な建前を美辞麗句を駆使して如何にうまく喋るかが彼らの仕事であることを思うと、この状況は当然のことかも知れない。個人的な思いはどこかに抑え込まれてしまう。老いも若きも、男性も女性も、何処か遠くの方から出て来る命令に背かないように喋っているだけだ。自分の声を失ってしまった日本の政治家たちは自分の本当の姿さえも自分には見えていないようである。そんな風に私には見えた。
日本は今集団ヒステリー状態に陥っている。そして、西側世界全体もそうだ。
ここに「地下室で8年 ― 戦禍に曝されたドンバス市民の運命」と題された記事がある(注1)。
本日はこの記事を仮訳して、読者の皆さんと共有したいと思う。ドネツクやルガンスク地域の一般市民が過去8年間に味わってきた苦難や恐怖、精神的ストレスについて詳しく学んでおこう。
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MOSCOW発、3月23日、RIA Novosti, Maria Marikyan
「ロシアへ行く機会があるけど、行く?」と聞かれ、ドネツクの最前線地域に居住するインナ・セメノヴァはほとんど即座に快諾した。脳性麻痺を患っている娘と一緒に住んでいた私はもう耐えられない程になっていた。ドネツク共和国(DPR)とルガンスク共和国(LPR)からの集団疎開が始まってから2-3日して深刻な病を持った子供を連れた母親たちはモスクワの専門病院へ招じ入れられた。過去8年間、彼女らはどんな経験をしてきたのだろうか?RIA Novosti が所有する記録を覗いて見よう。
「私たちは慣れっこになってしまった」:
「2014年5月26日のこと。今も覚えている。軍用機がわれわれのところへ飛んできて、ドネツクを爆撃した。パニックに陥って、周り中は泣き叫ぶ声で一杯だった」とインナは言う。彼女の家はペトロフスキー地区にある。あの時以降、地下室へ行くことに慣れ切ってしまっていたが、頭上を飛び越していく砲弾で、依然として痙攣状態が引き起こされる。
「私の母はドネツク空港地区に住んでいた。あの辺りでは激しい戦闘が起こったので、彼女は私の娘の所へやって来た。しかし、ここも安全ではない。2016年に砲弾が隣家を直撃し、窓や窓枠は・・・これらはむしろ些細なことなんだけれど、一番大事なことは皆が無事だったことだわ」と言って、セメノヴァは溜息をつく。
彼女の11歳の娘は脳性麻痺を患っている。2014まで彼女は定期的にリハビリ治療を受けていた。そして、戦争になって中断となった。「彼らは砲撃を続けた。だが、家から大慌てに逃げ出すことはしなかった。草花が降ってくるのが窓から見えたら、それは直撃であることを意味した。特別措置が必要な子供にとってはこれは実に大きなストレスだわ」と女性は言う。
今、インナと彼女の娘はクラスノゴルスクの「ソズヴェズディエ」センターに居る。これらの子供たちは治療を受け、勉強をしている。子供たちと母親たちは2月21に日にバスで送り届けられることになった。総勢は50人、子供たちは28人。
「一日以上も走った」とマルガリータ・セリシチェヴァは思い出す。出発する前の数日、砲音はより激しくなった。皆が混乱状態にあった。正直言って、全員が避難することになるなんて誰も考えてもみなかった。テントでのキャンプ生活やサナトリウムで身を寄せ合うことは私たちの選択肢ではなかった。ふたりの子供が脳性麻痺で、二人とも特別な治療が必要であった。私たちは決心した。どんなことが起こっても自宅に留まると。しかし、特別ながん治療が提案された時、もちろん、彼女はそれを拒むことはなかった。
ドネツクでは誰もがそうであるように、マルガリータと彼女の子供はサイレンが鳴る度に地下室へ駆け下りる。それに慣れっこになって行った。ふたりは廊下に非難する。窓は爆発の衝撃で窓が破壊されることがないように通気されていた。
「私たちは市の郊外に住んでいる。エレノフカの近くだ。彼女の夫の側の親戚がある。しょっちゅう停電になったり、水道が止まったりする。水道や電気は間もなく復旧するが、またもや攻撃が繰り返される。私の義理の母は3年間も地下室から去ろうとはしなかった。彼女は癌で亡くなったわ」とセリシュチェヴァは肩をすくめて言う。
彼女の夫は戦争の前は鉄道修理工場で働いていた。2014年、彼は解雇された。彼はマッサージ師の資格を取り、ジムでトレイナーとして働くことになった。彼とは特別なコネクションはなかったが、彼は動員された。だが、彼女はどちらかと言うと最善の状況を信じる方である。「結局、悪いニュースが真っ先にやって来るものよ。」
デバルツエボの大釜:
アナスタシア・デミアンは17年間旅客機の乗務員として働いていたが、2014年、多くの同僚たちと同様に職場を失った。それ以降、彼女は身体不自由者に対する年金を支給されている自分の息子と住んでいる。12歳の息子のイーゴルは自閉症だった。「彼は4歳の時に歩き方を覚え、喋りだした。そして、戦争。リハビリ治療は中断されてしまったの」と彼女は言う。
彼女の家はドネツク空港の近くにあった。その場所は安全ではなく、母と息子は2015年の冬ヴーレヒルスクに住んでいるお婆さんの家へ引っ越した。われわれは「デバルツエボの大釜」(訳注:ウクライナ軍はデバルツエボでDPR・LPR軍によって三方から包囲され、多くの死者や負傷者、行方不明者を出したことで知られている。この包囲状態を「デバルツエボの大釜」と称する)に入ってしまった。ウクライナ軍が敗走した後、デバルツエボとその周辺地域はDPRの支配下となった。
「われわれはヤナキーエフへ避難した。3月にはすべてが鎮静化したので、私はヴーレヒルスクの家を偵察しに行った。私たちが使っていたガレージと台所は破壊されていた。ガラクタを自分で整理した。男たちは誰も居なかった。ある者は戦場へ駆り出され、また、ある者は稼いでいた」とアナスタシアは言う。どうにかこうにか修理をした。完全に飢餓状態になったというわけではなかった。庭先には野菜があって、何とか凌ぐことができた。
デバルツエボの大釜について18歳のカーティアはよく記憶している。彼女は両親と寝たきりのお婆さんと一緒に住んでいた。軍隊が家から20~30メートルしか離れていない所にあって、自走多連装ロケットシステム「グラド」の轟音で壁が震えた。
「砲弾が隣家に落下し、我が家の庭へも落下した時、われわれは叔母さんが住んでいる市の反対側へ引っ越した。砂嚢を積み上げて、バンカーを作ったわ。われわれはこのバンカーの中に座っていたが、やがて実家へ戻って来た。その一日後、武器倉庫に砲弾が飛んできたの」と少女は言う。
爆発や機関銃の音が雷鳴のように轟き渡り、通りを埋め尽くしていた。家から離れることは実に危険だった。「人道回廊が宣言された当日、40度弱の熱がありながらも私は出て行った。解熱剤は持っておらず、冷やしたぼろ切れで何とか私は救われた。有難いことにわれわれは脱出することができた。われわれを運ぶバスの中には医者が居て、その医者が私の熱を下げてくれたの。」
われわれはヤナキーヴへ行った。そこには私のお婆さんの家がある。後になって、デバルツエボの家は跡形も無くなっていることが分かった。高層のアパートに部屋が与えられた。時間が経って、状況は改善して行った。カーティアが15歳だった頃、私はドネツクへ引っ越し、法学部へ入学した。今春、私は卒業証書を貰えることになっていたが、またもや、戦況が悪化している。
カーティアの両親とはクラスノゴルスク行きのバス乗り場で出会った。私の娘は出発したが、カーティアの両親は残った。「12歳の娘のリマの面倒を見ているの(編集者の注:子供の名前は別名にした)。私たちは家族でお付き合いをしているのよ。ここではよく一緒になるわ」と、彼女は微笑んで言った。
彼女の父親は招集されていた。近年、彼は寝たきりの母親の面倒を見、彼の妻は家族を支えるためにいくつかの仕事をしていた。カーティアは実家のことを懐かしく思うが、ロシアへの移住を夢見ている。「われわれには何の見通しもない。でも、私には計画がいくつもあるの。もうこれ以上は要らないわ。」
「もう怖くはない」:
ヤナキーヴの近くの住民も酷い被害を受けた。2014年9月2日、8歳のアンドレイ・ドミトリエフは散歩から帰宅する途中だった。砲弾が近くに落下した時、彼には玄関へ駆け込む時間がなかった。
「私は直ぐに屋外へ飛び出して、辺りを見回した。一方には足を切断された友達が転がっており、もう一方には私のアンドリューが血まみれになっていた」と、少年の母親、リナは回想する。涙が目に溜まって来る。「直ぐに民兵が駆け付けてきて、救急車を呼んでくれたわ。」
アンドリューはシュラップネルの傷を何カ所にも負った。背骨にも傷を負い、これが膝から下を麻痺させた。彼は10回以上もの手術を受けた。ドミトリエフ一家は民間の家へ引っ越した。その高層の建物にはエレベーターがなかった。
リナの夫は徴兵されていた。ふたりの子供と一緒に彼女はソズヴェズディエ・センターへ行った。その間ずっとアンドレイは著名なG. N. Speranskyの名前を冠した市立小児科病院に入っていた。少年は腰骨に問題を抱えていた。医師たちは手術を行う前に彼の病状を安定化させようとしていた。
「ここにはそれ程立派な神経外科医はいなかった。とにかく、ここにじっとしていることにしたの。もちろん、私は家へ帰りたい。私たちは心配だった。特にマリウポールのことが。あそこには親戚や知り合いが居るわ。未だ何のニュースもない」と言って、女性は溜息をつく。
「もう年数は数えないの?」:
工作員グループがDPRとLPRに侵入してきた。「私たちが出発する日の2~3日前のことだったが、10代の少年たちのグループが捕まった。最年長が17歳で、最年少は14歳」とゴルロフカ在住の18歳のパヴェルは言う(編集者の注:彼の要求に基づいて、名前は実名ではない)。
同僚と一緒にとある玄関先を通り過ぎようとすると、そこは土埃に覆われており、周りには雑草が生い茂っていた。二個の破壊性手榴弾があった。同僚が近くの部隊に連絡し、現場は速やかに立ち入り禁止にされ、発見物は無事に処理された。「2017年には、アンテナ付きの小包をアパートの建物に置いている女性が捕まった。その場所へ砲弾が飛んできた」と若者は具体的な話を続ける。
地雷の安全な取り扱いについて地域住民は積極的に訓練を受けた。それでもなお数多くの犠牲者が発生する。多くは子供たちだ。2018年にパヴェルはパトロンだと思って何かを拾い上げた。爆発!左手がちぎり取られてしまった。シュラップネルのせいで片目を失明した。
私がソズヴェズディエにやって来るのは初めてではなかった。ここではすでにリハビリ治療を受けていた。私は生体工学的義手を求めてやって来た。何年も経った今でもスポンサーを見つけることができた。友人たちはホロリフカに留まっていたが、この街には依然としてウクライナ軍からの砲撃が続いている。
パヴェルの母は2014年を奇跡的にも生き延びることができた。彼女はパンを買いにでかけて、「グラド」からの砲撃に遭遇したのである。幸運にも、彼女はすべてに恵まれていたと若者は詳しい話をする。彼は自分の兄のことを心配していた。兄は陸軍に徴兵され、彼はイロヴァイスクでの戦闘に参加し、そこでは戦闘が始まったばかりであったが、彼は目を負傷した。「夕方の6時頃になると、夜盲症の兆候が現れてくる。このことが考慮に入れられて、兄は激戦区へ送られることはなかった。」
パヴェルは出来るだけ早く実家へ戻りたいと思っている。そして、その後彼はホルリフカから離れることはないであろう。
ドネツクに住むタチアナはすべてが鎮静化するのを待っている。彼女の娘は脳性麻痺を病んでいる。ふたりはソビエト時代に建てられたアパートに住んでいる。地下室があるが、住むための設備は特にない。「砲弾が降ってきたら、その地下室へ逃げ込む。他の場所へ避難するのは安全ではない。娘を連れていったい何処へ行けって言うの?」二人は地下室の廊下へと避難する。必要な物品や文書を入れた「緊急用スーツケース」を常に準備し、玄関ドア脇の目立つ場所に置いている。
「ウクライナでは母親や子供たちが苦労を強いられているのを見ると私の気持ちは張り裂けそうになるわ。でも、そんな状況がもう8年にもなるのよ。今や年数は数えないの?私たちの母親や子供たちが亡くなっているのに、誰もが静かなままで、自分が行動をおこさないことについて言い訳を探そうとしている。これはどうして?」とタチアナは不思議に思う。
DPRやLPRからの客人たちは状況が安定化するまで必要なだけこの医療センターに留まるであろう。実家から離れて暮らすことなんて誰も望んではいない。そして、子供たちには平和な生活に戻る機会がやがてやって来るだろうと皆が信じているのだ。
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これで全文の仮訳が終了した。
ここに収録されたエピソードはどれもがウクライナ紛争が一般市民にもたらした苦難を雄弁に物語っている。21世紀における最大の不幸は、西側の主要メディアはこういった事柄を報じようとはしない点にある。あたかも報じる必要が無いかのように彼らは振る舞っている。そして、現実にはこれらのエピソードの他に何千もの案件があるのにもかかわらず、それらは誰の関心も引かず、今日もまた放り出されたままとなっているのである。
ウクライナ政府が8年前に引き起こし、今も続けているドンバス地区におけるロシア語住民に対する差別や虐殺の行為は誰が見ても言語道断であるとしか言いようがない。
マリウポールでの戦闘は、報道によると、いよいよ終わりの段階に入ってきた。つまり、ネオナチを標榜するアゾフ大隊による支配からマリウポールが完全に解放される日が近づいているのである。3月25日、マリウポール市役所の屋根にDPRの国旗が掲揚されたらしい。ロシア軍が設定した人道回廊を通って市内から脱出する市民の数が増えている。多くの脱出者たちはアゾフ大隊が今まで行って来た暴力、抑圧、人間の盾として民間人を使用すること、拷問、レイプ、虐殺、居住区に対する砲撃、狙撃、等、を例に挙げて、非人道的な行為について証言している。
ところで、このブログのコメント欄ですでにお馴染みとなっている方々の間に「kiyoさん」という方がいらっしゃいます。この方のブログには貴重な情報が掲載されています。まだご覧になってはいない方は是非とも下記の記事を読んでいただきたいと思います[MO1] :
「ウクライナはナチの巣窟」
https://quietsphere.info/ukraine-is-a-nazi-den/
参照:
注1:"Eight years in
basements": the fate of people affected by the war in Donbass: By RIA
Novosti, Mar/23/2022