2011年3月23日水曜日

ブカレストの春

1973年から3年間程、ルーマニアの片田舎の石油化学コンビナートで日本企業から派遣された技術陣の一員として私は働いていた。早春のある日、通訳の女性が小さな白い花を届けてくれた。「ギオチェイ」と呼ぶとのこと。31日は「マルツショール」という贈り物をし、春の到来を祝う習慣がある。春を象徴するこの慣習は古く、古代ローマ時代にまで遡るという。春の象徴は愛の象徴でもある。まだ雪が降っても決しておかしくはないこの時期に山野に開花する可憐な花を何本か集めて作られたギオチェイの小さなブーケはこのマルツショールの日に彩りを添える重要な役割を持っている。

私の実家がある長野県では春一番の草花と言えば福寿草。山野へ分け入った場合は檀香梅があげられようか。雪の中に黄色の福寿草の花を見ることさえもある。日本とヨーロッパとでは花の種類こそ異なるものの、何れも心が弾むような早春の風景だ。

日本ではこの311日に東北関東大震災が発生。地震と大津波により甚大な被害を受けた。ブカレストに住み始めた私にとっては、テレビやインターネットでのニュースに釘付けになる日々が続いた。特に津波による被害はすさまじいもので、壊滅的な被害を受けた市町村がたくさんある。被災者の皆さんには哀悼の意を表したい。そして、残されたご家族の皆さんには一日も早く再起していただきたいものと願うばかりだ。また、福島第一原発の事故による放射性物質の放出はニュースで大々的に報道され、今や内外を問わず原発の将来についての議論が活発になっている。ヨーロッパでは25年前に旧ソ連邦でのチェルノブイリ原子力発電所での事故を経験しているだけに、今回の福島原発での放射性物質の漏えいはマスメデイアの恰好の報道対象となったみたいだ。

いたたまれないようなニュースが続く中、321日、ブカレストでは最大の公園であるヘラストロウ公園へ出かけることにした。この日は、先ず、日本人会からの呼びかけがあった東北関東大震災の犠牲者の皆さんに向けた大使公邸での弔問記帳を済ませた。それから、この公園へ向かった。既に時期が過ぎていることは承知の上で、ギオチェイの花を探したかったのだ。

ブカレストでは車を運転しないことに決めていた私は外出する際にはタクシーを使う。そんなことから、30代の若い運転手君と懇意になっている。彼は英語も話すので当方にとっては非常に重宝だ。「何処かギオチェイが咲いているような場所へ行きたいけど、当てがないかい」と聞くと、運転手君は「1週間ばかり前に60キロ程離れた田舎へ行って来たんだけれど、その頃がちょうど満開だったから、もう遅すぎると思う」と、そっけない返事。彼としてもブカレストでは具体的に何処と言って思い当たる場所はないみたいだ。結局、凱旋門の近辺で停車して貰い、ヘラストロウ公園を物色してみることにした。


黒々とした落葉樹が幹や枝をかなり高くまで伸ばしている。新芽はまだ膨らんではいない。まだ冬の眠りの中だ。それでも、地表は既に薄い緑色が支配的になってきている。何本かの歩道に沿ってぶらぶらと歩いてみた。花らしいものは見当たらない。何の収穫もなくひと廻りして戻ってきた。公園の入り口に警官がいたので、来年のためにもと思って尋ねてみた。「ギオチェイの花は咲いていないだろうか。咲 いていたら写真を撮りたいのだが・・・」と。「この歩道を真っ直ぐ行くと、歩道が終わる辺りにミハイ・エミネスクの像がある。その周辺に咲いていたのだが・・・」と言って、携帯を取り出し同僚を呼び出した。ちょっと先にいる同僚と言葉を交わした。何とまだ咲いていると言うではないか。


喜び勇んで歩いていくと左手に像がある。周辺をみると確かに小さな白い花をつけたギオチェイが僅かに残っていた。かなり大型の犬が一頭居眠りをしており、早春を満喫しているかのようだ。その辺りにも幾つか咲いている。野良犬かもしれないその犬を邪魔しないように手前のギオチェイを撮影することにした。待ちに待った一瞬だった。


さらに先へ移動すると、色とりどりのクロッカスが咲き誇っているのが目に飛び込んできた。白、黄色、濃いブルー、縞模様と様々だ。
 


これからパンジーやデイジー、水仙、タンポポ、等の草花が咲き始めることだろう。そうこうする内にレンギョウ、リンゴ、スモモ等の花が満開となってくる。今年もブカレストの花前線は駆け足でやってくる筈だ。

ブカレスト市内でギオチェイが咲く場所を少なくとも一か所見つけたということは素晴らしい収穫だ。来年の春は2月の下旬頃から注意して観察をしていきたいと思う。この冬は3月に入ってからも降雪があった。私が挑戦したい写真はギオチェイが開花した後に雪がやって来て、雪の中からギオチェイが顔を出しているような姿だ。「そんな姿を撮影できたらな~」と、今から楽しみにしている。




2011年2月8日火曜日

生命を構成する基本物質は思いがけない場所で生成されていたのかも

 
Dec/15/2010

[訳注:この文書は20101215日に米国航空宇宙局(NASA)のゴダード飛行センターのニュースとしてNASAのウェブサイトに掲載された記事「Building Blocks of Life Created in "Impossible" Place(http://www.nasa.gov/centers/goddard/news/releases/2010/10-111.html)2010/10-111.htmlの仮訳です。なお、和訳に際しては正確さを心がけてはいますが、もし訳文に疑義が感じられた場合は原文をご参照ください。]


<引用開始>




この写真はNASAのハッブル宇宙望遠鏡が撮影したものである。撮影された物体は当初彗星であると考えられていた。しかし、これは小惑星同士の衝突ではないかと推測されている。挿入画に示されている詳細を観察すると、非常に複雑な構造を呈しており、この物体は彗星ではなく、小銃弾の速度の5倍にも相当するような高速度(4.8キロメートル/秒)で移動していた小惑星同士が衝突したものであると考えられている。小惑星帯の物体はお互いに衝突を繰り返しながらだんだん損耗していくものだと天文学者たちは長い間推測していたが、衝突そのものを観察する機会はなかった。写真に見られる線状の構造は塵や小石から成っており、直径が138メートルの中心部から最近放出されたものであると推測される。幾つもの線状構造が太陽からの放射圧によって後方に流され、真っ直ぐに伸びた塵状の帯となっている。線状構造の部分には塵状物質で構成された小さな塊状のものも含まれ、これらの塊は線状構造と一緒に移動しているが、これらは衝突する前には見ることもなかった小惑星に由来したものだ。この「衝突に由来する」という見方は、地上の望遠鏡を用いて記録されたスペクトルではガスの存在が観察されてはいないので、この推測とよく一致する。[訳注:通常、彗星はガスを放出しているので、その点が小惑星の場合とは異なる。] ハッブル望遠鏡による20101月の観察の時点では、この物体は太陽から約3億キロメートルの距離、地球からは14千万キロメートルの距離にあった。
提供: NASA(アメリカ航空宇宙局)ESA(欧州宇宙機関)およびD. Jewitt (カリフォルニア大学ロサンゼルス校)

[メリーランド州グリーンベルト市] NASAの支援を受けた研究者たちが誰も予想することがなかった隕石から生命を構成する基本物質を発見した。

「この隕石はふたつの小惑星が衝突した時に生成されたものだ」と、メリーランド州のグリーンベルト市にあるNASAゴダード宇宙飛行センターのダニエル・グラヴィン博士は言う。「衝突時の衝撃によって2,000F1,093度C)以上にも熱せられ、アミノ酸のような複雑な有機物は破壊されてしまうような温度に到達したのだが、それでも我々はアミノ酸を発見することができた。」グラヴィン博士は、1215日発行の隕石学の専門誌、Meteoritics and Planetary Scienceに掲載される論文の筆頭著者である。「この種の隕石からアミノ酸を発見できたということは宇宙においては生命を生成する方法はひとつだけには限らないということを示しており、宇宙のいたるところで生命を発見する機会が今後増えていくのではないか。」


アミノ酸はたんぱく質を構成し、生命体の主要な分子である。例えば、髪の毛から始まって、化学反応を促進し調整する、触媒作用を持った酵素に至るまで、まさにありとあらゆるところで用いられている。アルファベットの26個の文字を組み合わせることによって数限りない言葉が作りだされているように、生命体は20個のアミノ酸を用いて何百万ものお互いに異なるたんぱく質を作り出す。ゴダード宇宙生物研究所の科学者たちは、さきに、NASAの探査機「スターダスト」で得たヴルト第2彗星のサンプルや炭素を多量に含むさまざまな隕石からアミノ酸を発見していた。これらの物体からアミノ酸を発見したという事実は、生命の起源は宇宙にあるとする説、つまり、生命の基本物質の幾つかは宇宙にあり、その昔隕石によって地球にもたらされたとする説を支えるものだ。

カリフォルニア州マウンテンビューにあるSETI(地球外知的生命体探査協会)ならびに同州のモフェットフィールドにあるNASAのエイムズ研究センターで研究を進めているピーター・ジェニスケンズ博士は小惑星「2008 TC3」からの炭素を豊富に含んだ残骸にアミノ酸が含まれているかどうかを究明してみたいとNASAに提案した。しかし、その当時、何かが見つかるかも知れないといった期待はまったく無かった。非常に過酷な状況を生み出す衝突が過去にあったことから、この小惑星から発見された生命の基本物質はあたかも「すっかり焦げ付かせてしまったお料理」のようにほとんどが炭化してしまっていたのだ。縦横の直径がせいぜい1.2メートルと4.5メートル程度と推定される小惑星は、まず、2008107日の地球との衝突の前に宇宙空間で確認されていた。ジェニスケンズ博士がハルトーム大学のムアウィア・シャッダード博士とともに南スーダンのヌビア砂漠で幾つもの残骸を発見した時、それらの残骸はまだ汚染がまったくなく、このような良好な状態で見つかったものとしては初のユレイライト隕石であることが判明した。
隕石サンプルは分割され、ゴダード研究所とカリフォルニア州のサン・デエゴ市にあるカリフォルニア大学スクリップス海洋研究所に引き渡された。「我々の分析結果もゴダードで得られた結果とまったく同じだ」と、分析を進めたスクリップス研究所のジェフリー・バダ教授が語った。両研究所で使用された高感度分析機器は少量(0.5149ppm)とは言え、19種類のアミノ酸を隕石サンプルから同定していた。研究チームはこれらのアミノ酸が地球上の生命体によって汚染されてはいないことを確認しなければならなかった。その作業も首尾よく終わった。アミノ酸分子は人の両手のようにお互いに鏡像関係にある二種類の構造をとることができる。地球上の生命体は左手構造のアミノ酸だけで構成されており、決して右手構造のアミノ酸と混用されることはない。しかしながら、隕石サンプルからのアミノ酸は左手構造と右手構造とが同じ割合で発見されたのだ。





「メテオサット8号衛星」によって撮影された小惑星「2008 TC3」の爆発の様子を示す赤外線映像。隕石が辿った軌跡を黄色の矢印で示し、矢印の赤黄色の塊は衝突時に発せられた赤外線である。
提供: EUMESTAT(欧州気象衛星機関)

同サンプルからは高温においてしか生成されないようなミネラルが幾つか発見されているが、これらは衝突時に非常に過酷な状況に曝されたことを物語っている。これらのアミノ酸は衝突をしたふたつの小惑星のどちらかに由来するものである。つまり、どちらかがアミノ酸の生成に対してより好ましい条件を備えていたということだ。SETIのジェニファー・ブランク博士は水や氷に閉じ込めたアミノ酸について実験を行ったところ、低い角度で地球と衝突した場合や小惑星同士が衝突した場合に匹敵するような圧力や温度に対してもアミノ酸は耐えることができることを示した。

しかしながら、同チームとしては、衝突によって隕石が生みだされた時の条件、すなわち、2,000度F(1,093C)を超すような高温に曝されながら、しかも、長時間にわたって曝されながらもアミノ酸が分解せずに済んだとする考えには抵抗を感じた。「衝突に由来する高エネルギ-状態を配慮すると、衝突を惹き起した小惑星のひとつから他の天体(地球)へアミノ酸が引き継がれたとする考え方には無理がありそうだ」と、バダ教授は述べた。


上記の考えに代わって、同チームは宇宙空間においては別の方法でアミノ酸を作りだすことができるのではないかと信じている。「以前は、隕石の中でアミノ酸を作りだせる最も単純なケースは液体の水が存在する環境下であって、その場合はより低い温度でアミノ酸を作りだせると考えていた。しかし、この隕石の場合はさらに別の考え方を導いてくれた。つまり、非常に熱い隕石が冷却していく過程で、何らかのガス反応が起こったのではないか」と、グラヴィン博士が語った。同チームは、目下、ガス相での化学反応について幾つかの条件を実験し、アミノ酸が生成されるかどうかを追及しようとしている。



2008 TC3」小惑星に由来する典型的な隕石の残骸。炭化した状態を呈している。
提供: ピーター・ジェニスケンズ博士

2008 TC3」の残骸は全体として「アルマハタ・シッタ」または「ステイション・シックス」と呼ばれているが、この名称はこれらが回収された場所に近いスーダン北部の鉄道の駅名にちなんで名づけられたもの。これらの隕石は非常に貴重だ。ユレイライト隕石は非常に稀にしか見つからないからである。「ひとつの興味深い可能性としては、一部の研究者たちによるとユレイライト隕石は太陽がまだ星雲であった頃に生成されたものだと考えられており、アルマハタ・シッタから見つかったアミノ酸は太陽系の歴史の中でも非常に初期の時期に生成されたものであることを示唆している」と、バダ教授が説明した。

ゴダードの分析チームにはグラヴィン博士を始めとしてジェイソン・ドウオーキン、マイケル・キャラハン、ジェイミー・エルシラ博士らが含まれている。本研究はNASAエイムズ研究センターやゴダード宇宙生物学センターの傘下にあるNASA宇宙生物学研究所ならびにNASA宇宙化学・宇宙生物学/宇宙生物学・進化生物学プログラムからの支援を受けている。




Goddard Release No. 10-111
Nancy Neal-Jones / Bill Steigerwald
NASA's Goddard Space Flight Center, Greenbelt, Md.
301-286-0039 / 5017

<引用終了>




翻訳雑感:

生命の起源については諸説があり、今後も引き続き新たな説が出てくると思われますが、このニュースは「生命の起源が小惑星同士の衝突後の冷却過程におけるガス反応によってもたらされたものではないか」との新たな考え方を提示しています。個人的に最も興味を覚えたのはたんぱく質の構造が地上のアミノ酸のそれとは違って、ふたつの小惑星の衝突に由来する隕石から発見されたアミノ酸は左手構造と右手構造とがそれぞれ半々であるという点にあります。

では、地球上の生命体のアミノ酸はどうして左手構造だけに限られているのだろうか?右手構造のアミノ酸はいったい何処へ行ってしまったのだろう・・・

京都大学の研究者によりますと(詳細は「たんぱく質中のD-アミノ酸の生成と老化現象との関連について」: http://hlweb.rri.kyoto-u.ac.jp/fl/research.html 参照ください)、人の皮膚や眼の水晶体においては老化に伴って本来ならば存在しないはずの右手構造のアミノ酸(D-アミノ酸)が生成されるとのことです。特に紫外線にさらされた部分ではこの反応が顕著であるとのこと。地球上の動物の場合は右手構造のアミノ酸は生命を脅かす存在であるようです。何十億年もの進化の過程で右手構造のアミノ酸は選択的に排除され、左手構造のアミノ酸だけが存在するようになったということでしょうか。

同研究者は地球上では左手構造のアミノ酸だけであるが、右手構造のアミノ酸だけで構成された生物がいる惑星の存在も否定はできないとさえ述べています。



 

2011年2月7日月曜日

ふたつの漢字、「訳」と「釈」

 
白川静さんが著した「常用字解」あるいは「字統」をひもとくと、日頃何気なく使っている個々の漢字の由来を知ることができる。古代中国の人たちがどんな世界観を持って毎日を生活していたのかを垣間見ることができるとも言える。たとえば、私ら翻訳者は毎日のように「訳」という仕事に従事し、他国語の文章を日本語に訳したり日本語の文章を他国語に訳したりすることを生業としている。

白川静さんは「訳」の語源をどのように説明しているのだろうか。下記に引用してみよう。

「訳」のもとの字は譯と書き、その音符は睪(えき)。「睪」は獣の屍体の形を表し、その屍体をばらばらにして解きほぐすことを「釈」という。睪はある言語を一つ一つに解体し、別の言語に改めること、他国語の意味を伝えることをいう。中国の周辺には言語が異なる多くの民族がおり、古くから伝訳(他国語に移しかえて伝えること)が行われ、当時の周の国の言語では伝訳の職は「舌人」と呼ばれた。

解釈の「解」は牛と角と刀で構成されている。牛の角を刀で切り取ることをいう。解と釈は、獣の角を切り取り、肉を取り分けてばらばらにするのがもともとの意味である。

「言」と「睪」とを組み合わせて「訳」のもとの字「譯」が作られたのだという。この「譯」という文字は、文字そのものの発展の歴史上からは「篆文」の時期に起源するそうだ。篆文は群雄が割拠していた戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)に発達し、その戦国時代を制した秦王朝がそれぞれの地方の国で使われていた様々な様式の文字を廃して、そのうちのひとつである「篆文」(厳密には「小篆」)に統一したと言われている(秦王朝は紀元前221年に始まる)。

小篆の文字様式の時代から二千数百年を下った今、この「訳」という文字の成り立ちには21世紀初頭を生きる我々には、上記の引用が示すように、想像を超えた世界が隠されている。また、白川静さんの「訳」の解説文には解釈の「釈」が解説の一部として登場してくる点も非常に興味深い。実際に「訳」の作業を行うに当たっては、翻訳者はまず言葉を正しく解釈しなければならない。「訳」と「釈」の二つの漢字にはそれぞれの旁が同一であることから容易に推測されるように、これらは互いに密接な関係を持っていることは明らかだ。しかし、我々素人にとってはそれらがどのように関係していたのかはなかなか推測できない。

上記の白川静さんの書籍には甲骨文字の時代である三千数百年前にまで遡って語源を説明した漢字がたくさん掲載されている。日頃使っている漢字のもともとの意味は「こういう意味だったんだ」、「こんな風に考えていたんだ」と初めて納得することができる。象形文字から表意文字に変化していく過程やそこに秘められた論理もまた非常に興味深く、実に見事である。

戦いに赴く兵士らは戦勝を祈願してご先祖様にお供えした「肉」を携行し、軍が行動する間はこの肉を軍の守護霊として用いていたという。「道」という漢字では「首」が主要な構成要素となっているが、これには異族の首を手にぶら下げて邪霊を祓い清めながら道を進む行為そのものが反映されているという。嫁いできた新婦が夫の家の先祖の霊にお参りし、そうすることによって夫の家の人たちにも受け入れられ、その結果やすらかで平穏な家庭生活を送ることができた。これが「安」のもともとの意味であるという。


ところで、日本語における漢字の使い方については常日頃気にかかっている点があります。少しばかりそれを反芻してみたいと思います。

日常の会話やマスコミを注意して見ると、カタカナで表現した外来語が非常に多い。しかも、それらは増えるばかりだ。漢字の論理性や語源について少しでも注意を向けると、この趨勢が果たして好ましいものかどうかという疑念が強まってくる。

例えば、「趨勢」とか「動向」という立派な言葉があるにもかかわらず、どうして「トレンド」と言わなければならないのだろうか。テレビのニュースを聞いていても、最初にカタカナ文字で喋り、その後で『いわゆる「何々」』と漢字に置き換えている場面に遭遇することがある。新聞でも同じような状況であって、カタカナ文字の後に括弧内に漢字を挿入している。あたかもマスコミの人たちは漢字をカタカナ言葉に置き換えようとしているかのごとく見えてくる。

これらは一体何を意味するのだろうか。好意的に見れば、われわれ日本人が持つある種の精神構造が背景にあるような気もしないではない。日本が中国の漢字を書き言葉として導入し続け(日本で最も古いとされる漢字は埼玉県の稲荷山古墳で出土した鉄剣に刻まれている115文字だそうだ。これらの文字はX線検査で初めてその存在が明らかになった。この鉄剣は471年に制作されたもので、古代国家の成立の過程が記録されている。これより以前にも日本で漢字が使用されていたのかも知れないが、確認はされていない)、千数百年にもわたって漢字の恩恵に浴してきた歴史的背景から、日本人には外来語を容易に(あるいは、安易に)受け入れる行動様式が確立されているということではないだろうか。

日本以上に中国文化の影響を受けたと思われるお隣の韓国ではどんな様子だろう。韓国では1948年に漢字の使用を止めた。その後も中学校では漢字教育が容認されてはいたが、漢字教育は低調だったとのことである。1990年代以降は漢字復活の動きが出てきたと聞く。漢字教育推進総連合会が結成され、その主要な三つの主張のひとつが「朝鮮語でも、日本語並みに漢字を使用すべきである」としているという。その一方、「ハングル文字は韓国が誇る科学的文字である」あるいは「ハングル専用で不便を感じる韓国民はいない」、「漢字を使う必要はない」といった主張も根強いそうだ。

韓国は日本に負けず劣らずの貿易立国である。近年、韓国の人たちの間では国際競争力の観点から漢字教育を見直したいとする意見もあるそうだ。漢字を読み書きできれば、中国はもとより、日本、台湾、シンガポール、等ではお互いの筆談も可能になってくる。中国は2010年には日本を抜いて世界第二の経済大国となり、国際経済の中でその地位を急速に高めている。政治的にも中国は米国と共にG2と見なされている今、韓国では漢字教育のニーズが高まるばかりであるという。就職試験に漢字試験を課すといった例も出てきており、民間ではこの趨勢を先取りしているようである。韓国での今後の展開を注視していきたいと思う。

日本語と韓国語はお互いに非常に近い言語であるとは言え、これら二つの言語はその特性が違うのでこれらを直接比較することはすべきでないと思う。しかし、仮に漢字とひらがなを混用することが基本となっている日本語をある日突然ひらがなだけの表記に移行したとしたらわれわれの言語生活はどんなことになるのだろうか。察するに、殆どの人たちは「ひらがなだけでは読みにくい」とか「ひらがなだけでは誤解してしまう」あるいは「メリハリがない」といった反応を示し、社会生活はかなり混乱するのではないだろうか。

言語学の専門家にとっては「言語は常に流動している」といった考えが基本的な見方のようだ。「ツナミ」や「カラオケ」あるいは「テリヤキ」を挙げるまでもなく、日本の言葉が英語圏で採用されている事例もたくさんある。また、フランスでは「かわいい」がもてはやされている。英語にはラテン語、ギリシャ語、イタリア語、スペイン語、フランス語、ドイツ語、等、たくさんの外来語が取り入れられている。要するに、ふたつの異なる文化が交流すると、相手の言語が外来語として取り込まれるという現象が多かれ少なかれ起こる。

しかし、伝統を守るという観点からはお国柄が出てくる。ドイツ語圏では、ある専門家の話によると、たとえば現代人が200年、300年も前の人たちと会話をしたとしても、お互いに容易に分かりあえるそうだ。それに比べると、日本語の変化の度合いは余りにも急激だと言う。仮にあなたが200年、300年前の日本人と話をする機会があったとしても、即座に理解しあえるかどうかは全く期待できないのではないか。町人文化が花開いた元禄時代(今から300年程前)に大阪で初演され、大いに受けたと言われる「曽根崎心中」を我々が今理解しようと思っても、一筋縄では行かない。ここに、ドイツと日本の大きな違いがあるような気がする。ドイツ語圏の人たちはそれなりに努力を重ね、自分たちの言葉を守り続けてきたのではないだろうか。

日本語の現実を見ると、残念ながら、そういった努力をあまり目にすることはできない。変化こそが日本語の特質だと一言で片づけてしまってもいいのだろうか。

安易に外来語を多用することなく、日本語においては漢字をもっと大切にして行くべきではないかとの思いが強まってくるのだ。伝統的な言葉には無いような外国の言葉であって日常生活にどうしても必要な言葉であれば、それは導入すればいい。しかし、「趨勢」や「動向」といった既に確立されている言葉を「トレンド」という外来語で置き換えるような行為は行き過ぎで、はしたないと思う。このような思いにかられるのは小生だけではないだろう。


一方、ここまで述べてきた小生の思いは、大きな時代の流れの中での些細な抵抗みたいなものかも知れない。古代ギリシャでも「最近の若い者は・・・」と嘆く年配者の様子がアリストテレスの著書にも出てくるそうだ。今から200年、300年後には、今日の日本人が持っている外来語に対する「偉大なる寛容さ」については何らかの評価が成されるのかも。

「ふたつの漢字」から大分脱線してしまったようです。悪しからず!




 

2011年2月2日水曜日

まったく新しい種類の生命体が見つかった

 
ヒ素を摂取して生命を維持するまったく新しい種類のバクテリアが、米国、カリフォルニア州のモノ湖で発見されたということです。これは2010122日のNASAの報道です。
 
ヒ素と言えば、10年以上も前の話になりますが「ヒ素入りカレー事件」で4人の方々が亡くなっています。ヒ素をあおって自殺した小説「ボヴァリー夫人」のヒロインであるエンマを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
 
ヒ素はなぜ毒性を持つのか。専門家の説明を借りると、こんな感じだ。ヒ素は化学的には燐に非常に近い。一方、燐は炭素や水素、酸素、窒素ならびに硫黄と共に地球上のあらゆる生物を構成する六つの要素のひとつであって、DNARNAの構造を維持する基本物質。燐は細胞内でのエネルギー伝達にもかかわっており、燐脂質は細胞膜を形成する重要な成分でもある。燐なしでは生物は生きてはいられない。
 
ヒ素が人あるいは生物の体内に持ち込まれた場合いかに毒性を発揮するかは十分に想像できそうだ。低濃度でも中毒を起こし、胃腸障害、神経学的症状、皮膚の炎症、等を起こし、血液学的な障害も現れる。急性中毒では死に至る。
 
ところが・・・
インターネット情報を下記に引用しよう。

<引用開始>

[訳注: この仮訳の作成に際しては原文からの逸脱がないように気を付けていますが、もし疑義が生じましたら原文をご参照願います。なお、この引用に当たってはNASAの担当編集者から翻訳・転載についての許可を得ています。]

[2010122] NASAの支援を受けた研究チームが生体に毒性のある物質であるヒ素を摂取し、増殖を続けることができる微生物を発見した。世界で初めての発見である。カリフォルニア州のモノ湖に棲息するこの微生物はDNAの基本構造や細胞物質に用いられている燐の代わりにヒ素を用いている。


ヒ素を摂取して生きるGFAJ-1の顕微鏡下の姿。


ワシントンにあるNASAの科学ミッション理事会の准運営役員、エド・ワイラー氏はこう言及した。「これで、生命の定義が大きく広がった。我々が太陽系で生命体の探究に取り組む際には、生命というものをもっと広く、もっと多岐にわたって考える必要がありそうだ。我々は生命に関してはまだまったく理解してはいないのだから。」 今までの常識とはまったく異なるこの生命体の発見は、生物学の教科書を書き換えさせるには十分だ。地球外生命の探査範囲を大きく塗り替えるものともなろう。本研究はサイエンス・エクスプレス誌の今週号に掲載される。

炭素、水素、窒素、酸素、燐および硫黄は地球上のあらゆる生命体を構成する六つの基本物質であることが知られている。燐はDNARNAの化学構造の一部であり、生命体に遺伝的な指令を伝える基本構造の一部でもあることから、すべての生物にとっては必須元素である。燐はすべての細胞内で(アデノシン3燐酸の形で)エネルギーを伝達する中心的な役割を担っており、燐脂質はすべての細胞の形成に役立っている。

燐と化学的に近いヒ素は地球上の殆どの生物にとっては毒物である。化学的に燐と同様に振る舞うヒ素は生物の代謝経路を混乱させてしまう。「幾つかの微生物はヒ素を体内に取り込めることは分かっているのだが、今回我々が見つけた微生物はまったく新しい挙動をする。つまり、ヒ素を使ってその微生物自身を構成している」と、カリフォルニア州のモンロー・パークにある米国地質調査所で研究を続けるNASA宇宙生物探査研究員であり、この科学者チームのリーダー役でもあるフェリサ・ウルフ・サイモン博士は言う。「この地上に存在する生命体がこんなにも予想を超えた活動をしている現実を見ると、実際にはまだ見たこともない地球外の生命体は一体どんなものになるんでしょうか?」


カリフォルニア州の中央部に位置するモノ湖

新たに発見された微生物(GFAJ-1株)はガンマ・プロテオバクテリアと呼ばれるごく普通の種類のバクテリアである。この研究所では、湖から採取した微生物に与える燐の量を非常に少なくし、その代わりにたっぷりとヒ素を与えて微生物を訓養することに成功した。さらには、燐を完全に省きヒ素に置き換えたところ、この微生物は依然として成長し続けたのだ。その後の分析によると、ヒ素はGFAJ-1の細胞の中心構造を作りだすためにも用いられていることが判明した。

研究者たちの最大の関心事は、この微生物がヒ素を摂取して生育する際にそのヒ素が生命を支える生化学的機構、つまり、DNAやたんぱく質、あるいは、細胞膜に実際に取り入れているのかどうかという点である。ヒ素がどこに取り入れられているのかを特定するために、幾種類もの最先端の分析技術を駆使することになった。研究者たちがモノ湖を研究対象に選んだ理由は、著しいほどに不自然なその化学的環境にある。モノ湖では、特に、塩濃度やアルカリ度が非常に高く、ヒ素の濃度も異常な程に高い。このような特異な化学的環境がなぜ生まれたのかというと、ひとつには、モノ湖には50年間にわたって淡水の供給が断たれてきたという事実がある。


[訳注:モノ湖はシエラ・ネヴァダ山脈からの融雪水を水源としていた。この地域の年間降水量はたったの200ミリ前後であると言われている。人口が増える一方のロサンゼルス市の水道局へ水利権が譲渡されてからは、水源地帯の山脈からの融雪水はロサンゼルス市への供給に振り向けられて、モノ湖の水位は下がる一方となり、水中の塩濃度やアルカリ度は上昇する一方となった。ヒ素の濃度も然りである。]


地質微生物学者、フェリサ・ウルフ・サイモン博士。カリフォルニア州のモノ湖の浅瀬で湖底に堆積する泥を採取しているところ。出処: ©2010 Henry Bortman

この研究成果は、地球の起源、有機化学、生物地球化学的な循環、疾病の撲滅、地殻構造、等の数多くの分野で進行している諸々の研究に対して示唆するところが大きい。また、この成果は微生物学以外の分野でもまったく新しい研究分野を切り開くことにもつながるだろう。
「生命現象にまったく新しい生化学的な解釈を持ち込もうとする試みはサイエンス・フィクションではよくあることだ」と、カリフォルニア州のモフェット・フィールドにあるNASAの宇宙生物学研究所に所属するエイムズ研究センターの役員、カール・ピルヒャーが語った。「今までは生命体がヒ素をその生命体自身の構成要素として用いるといった考えは空論でしかあり得なかったものだが、今はそのような生命体がモノ湖に存在している。」

この研究チームは米国地質調査所、アリゾナ州立大学テンぺ校、カリフォルニア州のリバモアにあるローレンス・リバモア国立研究所、ペンシルバニア州ピッツバーグのデユケイン大学、ならびに、カリフォルニア州のメンロー・パークにあるスタンフォード・シンクロトロン放射光施設、等からの研究者で構成されている。

この研究はワシントンにある「NASA宇宙生物学プログラム」に属する「宇宙生物学と進化生物学のプログラム」および「NASA宇宙生物学研究所」を通じて財政支援を受けている。「NASA宇宙生物学プログラム」は地球上の生命の誕生や進化およびその分布、ならびに、その将来に関する研究を支援している。

編集者: トニー・フィリップス博士
提供:Science@NASA

<引用終了>


翻訳雑感:
 
「生命とは何か」、「生命はどこからやって来たのか」、「地球外にも生命が存在するのか」、「地球外にも生命体が存在するとしたら、それは一体どのような生命体なのだろうか」、等々、生命にまつわる疑問は尽きません。それぞれの問いに答えることはそう簡単ではありません。上記のニュースは一つの回答を与えてくれているように思えます。でも、この回答によってまた新たな疑問が加わってくるとも言えそうです。我々を取り囲む疑問の境界線が少しだけ外側に移動しただけかも知れませんね。




 

2011年1月27日木曜日

ブカレストの冬

 
20101227日の朝、外はうっすらと雪化粧をしていた。この冬の二回目の雪である。初雪は17日にやってきたのだが、その後ぶり返した暖かさですっかり消えてしまっていた。今度の雪は終日続き、翌朝には10cm前後の積雪となった。

カメラを手にして早速外へ。曇り空が続いており、風もないので、今日のブカレストの寒さはそれほどではない。人や車の往来が激しい場所ではもう雪がその姿を消している部分さえもある。周りに比べてより低い場所にはシャーベット状の水溜まりさえできている。昼が近くなってきた今、その程度の寒さである。
 
 

栃の木の枝という枝には雪が積もって、白と黒との文様を作りだしている。そこには、「どんなに細い枝であっても決してないがしろにはしたくない」といった周到な意思さえもが感じられる。雪があった翌日には決まったように披露される光景ではあるのだが、また新たな感動を覚えた。

 



アパートが立ち並ぶ住宅街をしばらく歩いていくと、小学校の前に出た。校庭を取り巻く緑色のフェンスが雪綿帽子をかぶっていた。垂直に立っているそれぞれの角材のてっぺんにほとんど同じ高さに雪が積もっており、上下に波打つように配置されている角材の端部がリズミカルな佇まいを醸し出す。昨晩は風もなく、静かな雪だったにちがいない。


この辺一帯はブカレストでも緑が多い地域のひとつであると言われている。雪がすべてを覆い隠してしまった朝、まだ足跡も何もないこの空き地はあたかも森の中の一部ではないかと言ってもいいような風景を見せていた。これが森の中だったとしたら、うさぎや狐あるいは鹿などの動物たちの活動の跡がしっかりとついているかも知れないのだ・・・
 

そして年が明けて、
2011124
 

今冬4回目の雪。地表の雪は消えてしまっていたのだが、また雪がやってきた。降ったり止んだりの3日間だった。公園へでかけてみた。15センチほどの積雪だ。

この公園には小さな湖があって、そこにはかもめや鴨がたくさん浮かんでいた。パン屑だろうか、餌をまいている人がいる。そして、遠くに4頭の犬の姿が見えた。一人のおじさんの周りを連れだって歩き回っている。4頭も犬を飼っているなんて羨ましい限りだ。それぞれが結構大型である。そのうちの一頭が突然仰向けになって背中を雪に擦りつけはじめた。気持よさそうだ!

子供の赤っぽい衣装も見える。そりを引いた親子連れだ。ふたりにとって楽しい一日となるにちがいない。
 
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今冬一番の冷え込みとなった。ブカレストの辺りでもマイナス15度にまで下がったとの報道。日中でもマイナス5度までに上がっただけ。空気が刺すように冷たい。明日もこんな寒さが続きそうだ。 



モーツアルトの死因はリウマチ熱


[訳者注:この文書は「Rheumatic fever killed Mozart」と題する英文記事の仮訳です。ハリウッド映画「アマデウス」ではモーツルトの死因をウィーンの宮廷で宮廷楽長として名高かったアントニオ・サリエリによる毒殺として取り扱っていますが、映画はあくまでも観客を引き寄せるべくして作られた映画です。この記事の内容はまったく違います。と言うことで、映画とこの記事とを対比しながらお読みいただければと思います。この訳文に疑義が生じましたら、原文の記事をご参照ください。なお、原著者(Franklin Crawford)の承諾を得て、この翻訳を行っています。]

コーネル大学の教授も含めて、医学の専門家や学者らはウオルフガング・アマデウス・モーツルトの死に犯罪行為が絡んでいたのではないかとする説には賛同していない。死因は殺人ではなく、おそらくはリウマチ熱が当時まだ若かった天才音楽家を死に至らしめたものではないかと専門家の立場から考えている。

2000215日発表

[メリーランド州バルチモア市発] 驚くほどの才能に恵まれ、多くの作品を残した作曲家ウオルフガング・アマデウス・モーツルトは今から209年前に35歳の若さで夭折した。死因は不自然な病気ではなく、ごく普通の病気であった。この211日金曜日にバルチモア市で臨床病理に関する第6回年次検討会(CPC)が開催され、病歴がよく知られた事例について職業的な興味を抱く医者やモーツルトを専門に研究する学者らによって構成されたパネルがそう結論したのだ。

リウマチ熱が世界で最も親しまれている作曲家の一人であるモーツルトの命を奪ったのであって、当時の作曲家であり、モーツルトのライバルでもあったとされるアントニオ・サリエリが彼を毒殺したというわけではない、とCPCの検討会へやってきた専門家は語っている。この件に興味を抱く専門家集団にはコーネル大学で音楽の教鞭をとり、モーツルト学者としても著名なニール・ザスロー教授も含まれている。リウマチ熱は血液がストレプトコッカス菌によって感染し発症する免疫系疾患である。今日、抗生物質のお陰でこの病気は非常に稀なものとなっている。しかし、モーツルトの突然の発病とそれに続くあっけない彼の死は例の「Xファイル」に名を連ねるにふさわしく、多くの憶測を許すことになったのは事実である。

「陰謀説は結構立派なフィクションとなるかも知れないが、モーツルトが殺されたとする裏付けがあるかと言えば、そのような歴史的証拠は無い」と、ザスロー教授は言う。同教授はこの金曜日にメリーランド大学医学部とバルチモア市の在郷軍人健康管理部がスポンサーとなって開催した検討会で講演をした。1995年以降、CPCはエドガー・アラン・ポーを始めとしてアレクサンダー大王やルードウィッヒ・ファン・ベートーベン、ジョージ・A・カスター将軍、ペリクレス、等の死因について専門家の立場から詳しい検討を行った。

モーツルトは病に倒れるまでは非常に活発で、多くの成功を収めていた」と、ザスロー教授は説明する。「彼の生涯の最後となる年、彼は大作のオペラを2曲も作曲し、信じられない程多くの演奏活動にでかけていた。そればかりではなく、非常に多忙な交際もこなしていた。」

「一体何がモーツルトを死に至らしめたのかについては確実めいたことは言えないが、リウマチ熱がモーツルトの死因だとする説は前にもあった」と、ザスロー教授は我々に念を押す。211日の講演でザスロー教授は、この作曲家はたぐいまれな才能の持ち主ではあったけれども、皆と同じように自分が作った曲を何とか売るために方々を歩き回り、決して労を惜しまず、非常に意欲的な音楽家であったことを強調し、モーツルトをピーター・パンとしてとらえるような説は誤りだ、と指摘した。神聖な霊感の上昇気流に乗ってでもいるかのように誕生したこの崇高な天才作曲家モーツルトが醸し出すロマンチックな香りとも相俟って、疑問の余地が多い証言や偽造された手紙の文面などが過去200年にもわたって数多くの文人やその分野の権威者らによって繰り返し引用され、無意識のうちに世間に広められたことによりこの天才作曲家について数多くの神話が作りだされていったのではないか、とザスロー教授は説明する。ザスロー教授版の現世的モーツルトの姿はどうかというと、歴史的証拠によれば、疲労困憊に陥ってしまうようなひどい演奏スケジュールではあっても、彼はむしろそれらをすべてこなそうと努力し、作曲を完成するためには平穏で静かな生活を求め、ピアノから離れることはなかった。

この専門家パネルが下したリウマチ熱だとする結論は内科医でカリフォルニア大学デービス校の医学部教授でもあるフェイス・T・フィッツジェラルド博士に拠るところが大きい。フィッツジェラルド博士が行った医学的見地からの究明は、当時のモーツルト家の遺族や侍医らが亡くなったモーツルトについて報告した症状や病歴を詳しく調査することから始まった。ちなみに、同博士の診断はモーツルトの死因について行われた最も新しい診断のひとつである。

ザスロー教授の研究結果は18世紀の医師、エドワルド・グルデナー・フォン・ロベスが下した診断内容と良く一致する。モーツルトが死亡した当時、ウィーン市の保健所で検疫官として勤めていたグルデナー・フォン・ロベスは(モーツルトの死後30年の月日が経ってからの手紙の中でモーツルトの死に立ち会った二人の侍医(手紙が作成された時点ではこれらの医者は既に他界している)と意見を交わした当時の内容を記録している。ザスロー教授の調査によれば、その手紙の中でフォン・ロベスはモーツルトが「リウマチ熱に倒れ」、「脳に沈着物ができた」ことによって死亡したと記述している。モーツルトの義理の妹ソフィー・ハイベルの目撃証言もリウマチ熱の症状をよく示唆している、とザスロー教授はさらに付け加えた。

余りにも若い死は如何なる時代にあってもそれ自体が悲劇であり、モーツルトの死は偉大な彼の才能をこの世から突然奪い去ってしまったがゆえにことさら痛ましいものとなった。下記に示す詳細はひどく陰鬱だととらえられるかも知れないが、彼の死にまつわる不要な混乱や憶測から彼を開放してくれることにはなるだろう。

17911120日、モーツルトは高熱、頭痛、発疹、ならびに、腕や脚の痛みに襲われていた。彼は何時ものように機敏で気がしっかりしてはいたものの、著しく動揺しており、イライラしている様子がうかがわれた。部屋に置いてあるお気に入りのペットのカナリアの鳴き声でさえも「うるさい!」と言って、部屋の外へ移動するように周りの者に頼んだほどだ。イライラはリウマチ熱を示す古典的な症状のひとつである。第二週目、モーツルトは嘔吐や下痢に何度も見舞われ、彼の体はひどくむくみ、膨らんでしまったので、もう衣服は体に合わなくなってしまった。誰かの助けがない限りベッドから起き上がることもできなくなっていた。死を予感し、彼は作曲中の「レクイエム」をどのように完成したいかについて説明し、指示を与えた。病状が進行するにつれてモーツアルトの心臓は衰弱し、体の中には水分が溜まる一方で、彼の体はひどく膨らんだ。まだ若い頃、モーツルトはリウマチ熱を患ったことがある。その発作によって彼の健康状態は当時既に危険な状態に至っていたのではないか、とフィッツジェラルド博士は指摘する。精神錯乱の発作の後、こん睡状態に陥り、モーツルトは1791125日に亡くなった。これは病に倒れてから15日目のことであり、36歳の誕生日を7週間後に控えてのことだった。

この診断そのものは、多分、ハリウッド映画の名監督たちの関心を惹くことにはなり得ないだろう。モーツルトの生涯の最後の二週間を巡っては歴史的にも多くの人たちに計り知れない興味を惹き起し、さまざまな憶測を呼ぶことになったが、ここに述べた内容はそれらを少しでも沈静させることに役立つことになるのではないか。

モーツルトよ、安らかに眠り給え!




 

ブカレストの秋

Nov/01/2010

秋をブカレストで過ごすのは何十年振りだろうか。

ブカレストは平地に囲まれています。したがって、日本の秋のような真っ赤に染まった紅葉はなかなか見られません。ほとんどが黄色系。ルーマニアの中央部に位置しているカルパチア山系を訪れると日本の秋に何ら遜色のない光景を堪能することができるのでしょうが、そういう光景を眼にするのは今後の宿題となります。


 1022日、久しぶりに好天となったので、街へ。

私たちが住んでいるアパートからこの界隈で最も大きな通りへ出るまでの距離は100メートルもない。そこへ出る手前にちょっとした緑地帯があって、そこは小さな公園のような感じになっている。黄色系に染まった木立の下で、ひとりの男性がベンチに座って新聞を広げ、何かを読みふけっている。

この通りは片側3車線で、中央分離帯には路面電車がガタゴトと音をたてながら走っている。この写真でも、木立の向こうにちょうど3両編成の電車が写っていますよね。


  23日、ちょっと足を延ばして、「国民の館」を撮影した。これは例の悪名高い故チャウシェスク大統領の頃の遺産。現在は議会として使われている。1989年の革命の直後には、この壮麗な建物を始めとして、「チャウシェスク大統領の息のかかった建物はすべて破壊するべきだ」といったかなり強硬な意見がたくさんあったらしい。

  しかしながら、結果としては1棟も破壊されることもなく残されている。


   「人民の館」を正面に見て、その直前の広場まで一直線に伸びているウニリ大通りは実に壮大だ。この通りに並ぶ建物は丸みを帯びた外観を特徴としており、「国民の館」の建物やその広場と一体となって、計画しつくされた都市空間を作り出している。




 1029日、まだまだ好天は続く。秋の色は種類の違った樹木へとどんどん伝播して いく。青空を背景にして、おだやかな風にあおられて小刻みにふるえる黄色に染まった葉が眩しい!


 群馬県高崎市に住んでいた頃は、紅葉の季節になると谷川岳の麓に出かけた。一の倉沢を経てさらに奥の方へ。タイミングがすべてではあるのだが、青空と真っ赤な紅葉や黄色に染まったイタヤカエデの葉との組み合わせは人の目には実に刺激的だ。そんな光景を写真に収めることができると、その日はずいぶんと得をしたような気分になって帰宅することができる。自然は偉大な芸術家だ。そして、何時でも惜しげなく勇気を与えてくれる。

  ブカレストでのこの日もそんな一日だったのです。


 はやばやと裸木となった栃の木は路面に見事な幾何学な文様を投げかけていた。日中の日差しはまだ結構強く、寒さを感じるほどではない。

この地が北海道と同緯度に位置している事実を考えると、北海道では住んだことがないとはいえ、本当に厳しい冬が来たとしたら「真冬に外を歩き回るのはかなり大変だろうなあ」などと、今から考えているところだ。