2021年9月25日土曜日

グリホサートはほとんどのフムスやひよこ豆に含有されている ― EWGによる最近の調査結果

 

「フムス」とはひよこ豆を主成分としてニンニクや練りゴマ、オリーブオイル、レモン汁等を加えてペースト状にした食べ物。発祥の地はレバント地域だ。つまり、レバノン、パレスチナ、ヨルダン、シリア、イラク、エジプトといったアラブ諸国である。実に美味しい。特に、フムスをパンに塗って食べるのが好きだ。

米国での調査によると、フムスやひよこ豆単体から除草剤の主成分であるグリホサートが検出されているという。さまざまな食品中にグリホサートが検出されることはすでに当たり前にさえなった感があるが、グリホサートによる食品汚染は調査をすればするほどその実態がより広く見えて来ているのが現実である。

残留グリホサートの量が異常に高い理由のひとつは収穫直前に作物を一様に枯らすために除草剤を散布するという農法にある。除草剤のメーカーにとってはより大量に消費して貰えることであるし、農家にとっては一様に枯れた作物を収穫することができて省力化が期待できるといったメリットがある。

ここに、「グリホサートはほとんどのフムスやひよこ豆に含有されている ― EWGによる最近の調査結果」と題された記事がある(注1)。EWGは非営利団体であって、健康的な環境生活を保護するため、食料や化粧品などの分野で研究、啓発活動を行っている。

本日はこの記事を仮訳し、読者の皆さんと共有したいと思う。

この引用記事が発行されたのは昨年の7月であるが、古きに失するというわけでは決してない。この記事の有効性は今も間違いなく継続している。

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米国の非政府系組織である環境作業グループ(EWG)が行った独立した調査の結果によると、健康食品では定番であるフムスやその原料となるひよこ豆は高レベルのグリホサート、つまり、発がん性のある化学物質で汚染されている可能性がある。また、この調査結果によると、グリホサートは乾燥大豆や缶入り大豆、乾燥レンティル豆やひよこ豆の粉にも含有されている。

伝統的な、つまり、オーガニック食品ではないひよこ豆やひよこ豆製品の37個のサンプルの内で90%近くは検出可能なレベルのグリホサートを含有していた。27個の伝統的なフムスのサンプルについてはその3分の1が一日当たりの摂取量である60グラム(テーブルスプーンで約4杯)のフムスに対するEWGの健康基準を越していた。伝統的な乾燥ひよこ豆のサンプルについて行われた二つの分析の中のひとつは環境庁の余りにも緩い法的な基準量さえをも越していた。

2016年、 「デトックス・プロジェクト」と「フード・デモクラシー・ナウ」は人気のある米国食品に関して初めてグリホサートが残留しているかどうかの調査を行い、その分析データを発表した。グリホサート:如何なる料理も安全ではない

また、EWGはオーガニックのフムスについて12個のサンプル、ならびに、オーガニックのひよこ豆について6個のサンプルに関しても分析を行った。ほとんどのサンプルはグリホサートを含有しているものの、伝統的な栽培方法によるフムスやひよこ豆に比べてオーガニック品の含有レベルは遥かに低かった。われわれが調査したサンプルの中では乾燥ひよこ豆がもっとも高い平均値を示した。オーガニック食品の栽培ではグリホサートの使用は許可されないことから、これらのサンプルは伝統的な手法で栽培されていた近隣の農地から化学物質が飛散して来たものと推測される。伝統的な栽培がおこなわれたそれらの農地では収穫直前に除草剤が散布されたことであろう。あるいは、「スワッピング」として知られている手法に由来しているのかも。これはサプライチェーンの段階でオーガニック食品が伝統的な食品と交換されたことを意味する。

フムスおよびひよこ豆ならびに他の豆類は数多くの栄養上の利点を提供し、米国人はこれらを食料として消費することを止めるわけにはいかない。われわれの知見はグリホサートを収穫の直前に使用することを禁止するだけではなく、より厳しいEPA基準を採用すること、グリホサートが如何に広く食品を汚染しているのかを特定するためにFDAは分析作業を強化する必要があることを明白に示している。

グリホサートは数十年にわたってモンサント社によって、そして、今はバイエル社によって「ラウンドアップ」という商品名で販売されている除草剤である。これは国際がん研究機関(IARC)によって人に対しては発がん性が懸念され、「おそらく発がん性がある」として分類され、カリフォルニア州では癌を引き起こす化学物質であると見られている。

ラウンドアップは米国ではもっとも広く使用されている除草剤であって、さまざまな作物に使用され、栽培期間中のさまざまな異なった時期に使用される。消費者にとってもっとも心配な事柄は豆類や穀類の収穫の直前に乾燥剤として散布されるグリホサートである。EWGや他の公益グループによって今までに実施された分析結果によると、米国の大人や子供たちが好んで食べる朝食用シリアルやその他の食品にもグリホサートが検出されている。

これらのサンプルはすべてがEWGの研究者によってオンライン上で、あるいは、ワシントンDCやニューヨーク、サンフランシスコといった大都市圏にある食料品店で調達された。それらの食料品店にはアルディ、コストコ、ジャイアント、ハリス・ティーター、セイフウェイ、ショップライト、ターゲット、トレーダー・ジョウズ、ウールマート、ホールフーズ、等が含まれる。分析作業はサンフランシスコのアンレスコ・ラボラトリーズが行った。同社はカリフォルニア州の認定を受けている。

EWGはレンティル豆や黒豆、シロインゲン豆、グレート・ノーザン・ビーンの乾燥品や缶入りについて伝統的な手法で栽培された12個のサンプル、および、3個のオーガニックのサンプルを分析した。われわれはこれらのサンプルの60%にグリホサートを検出した。2019年に環境保護団体「地球の友」によって行われた分析では乾燥ピント豆の27個のサンプルのすべてにグリホサートが検出され、それらの平均値は509ppbであった。

米国においてはひよこ豆は主にアイダホ、モンタナ、ノースダコタおよびワシントンの諸州で栽培される。EWGが「国立農業統計サービス」のデータを解析したところ、ひよこ豆の栽培に供される面積は2015年から2018年までの間に4倍にも増加し、20万エーカーから80万エーカーとなった。

この増加はフムスやひよこ豆ならびにひよこ豆をベースにした他の食品を求める消費者が急増したことによって起こった。「コンシューマー・レポート」にて2018年に報じられたように、フムスの売り上げは指数的に増加しており、これは「新鮮なスナックの摂取」を反映したものであった。市場調査会社である「スタティスタ」によると、2019年のフムスの売り上げは約78千万ドルとなった。

1997年、EPAはひよこ豆に対するグリホサートの許容摂取量を200ppbから5,000ppbに引き上げた。EPAは当初この許容摂取量の引き上げは緊急時のための例外であると説明したが、それは1998年にさらに延長され、そのまま施行されることとなった。EPAのグリホサートの許容量は研究所における動物試験での毒性データに基づいていた。これは時代遅れの研究結果に基づいたものであって、最新の研究結果を反映するものではない。また、証拠が増えているにもかかわらず、グリホサートの発がん性は考慮されてはおらず、子供たちに必要となる10倍の安全係数を含めてはいない。

グリホサートはひよこ豆や豆類、レンティル豆、エンドウ豆の栽培で雑草対策や収穫作業を容易にするために収穫直前の乾燥剤として用いられてきた。収穫直前の散布は消費者に販売される食品に高濃度のグリホサートを含有させることに繋がっている。ドイツにおける最近の研究によると、レンティル豆やエンドウ豆を含め、豆類を消費した人は豆類を消費しなかった人に比べて尿中のグリホサートの濃度がより高いレベルにあることが判明している。

オーガニック作物を栽培する農家は作物を育て、収穫を行うに当たってグリホサートやその他の除草剤を散布することは法的に許されない。モンタナ州立大学の最近の研究によると、オーガニックひよこ豆を栽培する農家は浅耕を実施することや播種率を増やすことによって雑草と闘うことが可能である。

米国乾燥豆・レンティル豆評議会が報告しているように、これらの作物は収穫前に自然に乾燥させることが可能である。さらなる研究が必要ではあるけれども、最近オーストラリアで行われた研究によると、グリホサートなしでも、栽培時期の始めに目標とする除草剤による措置と組み合わせることによって、あるいは、除草剤には頼らない除草管理を行うことによっても農業は利益を計上することが可能である。

2012年にモンサントは欧州食品安全機関(EFSA)にレンティル豆についてグリホサート許容含有量を増してくれるよう求めた。これは米国やカナダで行われている乾燥剤としての使用を新たに取り入れるためであった。EUにおける現行の乾燥ひよこ豆中のグリホサート許容含有量は10,000ppbであり、これは米EPA基準の2倍のレベルである。

「グリホサートにはおそらく発がん性がある」との結論がIARCによって出されたにもかかわらず、EFSAは今後グリホサートの発がん性に関して結論を出さなければならない。2016年、94人の科学者から成る国際的なグループが研究結果を発表した。これらの科学者はEFSAの決断を批判し、グリホサートに関してIARCが発表した発がん性の分類を踏襲するよう呼びかけた。

食品用作物に関して米国で除草剤としてもっとも広く使用されているグリホサートの含有量を分析する話になると、連邦当局はまったく別のことを考えているようである。

2018年、米農務省は同省の「除草剤データプログラム」の一環として除草剤含有量の分析を行うためにひよこ豆について500個ものサンプルを集めた。しかしながら、このプログラムにはグリホサートの分析は含まれなかった。FDAはいくつかの食品についてグリホサートの含有量を分析したが、これらの試験にはグリホサートが散布されていることが分かっている食品が含まれてはいなかった2019年、EWGは米国疾病管理予防センター(CDC)に対して同センターの「国家バイオモニタリング・プログラム」にグリホサートを付け加えるよう請願した。これはグリホサートへ曝されることが米国において如何に広っているのかを特定するのに必要な最初のステップである。

他の植物性タンパク源と同じように、フムスとひよこ豆ならびに他の豆類は素晴らしい栄養源として実に大きな利点を持っている。これらは食物繊維や高レベルのビタミンAEおよびC、葉酸、マグネシウム、鉄、カリウム、等の優れた供給源であり、体重管理やコレステロールの低減の助けとなる。フムスは成人によって広く消費されているだけではなく、スナックとしても子供たちの昼食用として人気が高い。また、ひよこ豆はベビーフードとしても店頭で求められたり、家庭で調理されている。

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これで全文の仮訳が終了した。

この引用記事を読むと、国民の健康について責任を担っている筈のFDACDCといった米連邦機関がグリホサートの実態を調査することには極めて消極的であることが明白に感じ取られる。何故かと言うと、グリホサートを主成分としたラウンドアップ除草剤はモンサント社によって開発され、長い間市場に出回り、世界中でもっとも多く使用されている除草剤となっているからだ。除草剤としての認可から始まって、食品中の残留物の濃度の設定に至るまで、これらの連邦機関は長い間直接的に関与して来た。言わば、これらの連邦機関は大企業との運命共同体である。幸か不幸か、消費者の安全よりも大手企業の利益を確保することが彼らの優先目標となっていたと言わざるを得ない。

これらのあってはならない現実は米国の消費者だけではなく、米国産の食品を大量に消費している日本の消費者にとっても大問題である。

ところで、グリホサートやそれが抱き合わせで販売されている遺伝子組み換え作物がもたらす健康影響に関しては、このブログでも何回となく取り扱って来た。それらを総括したものとして2019618日の投稿(21件の投稿を収録)がある。さらに、最近のものとしては202192日の投稿もある(22件目)。そして、今回の引用記事は23件目となる。健康影響に関する全体像を把握したい方はこれらをご一覧いただくと便利かと思う。


参照

1GLYPHOSATE DISCOVERED IN MOST HUMMUS AND CHICKPEAS IN NEW EWG STUDY: By THE DETOX PROJECT, Jul/15/2020 

 



2021年9月18日土曜日

パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」と彼に与えられたノーベル賞 ― これはCIAの作戦であった

 

私が若かった頃、冷戦という東西の対立構造は延々と続いていた。鉄のカーテンの向こう側に隠されているソ連に関係する出来事はことごとく謎めいているように感じられたものだ。言うまでもなく、国際的な事件にはすべて直接・間接的にこの冷戦が投影されていた。朝鮮戦争、ハンガリー動乱、スエズ戦争、ベルリン危機、キューバ危機、プラハの春、JFK暗殺事件、べトナム戦争、ソ連のアフガニスタンへの侵攻、ソ連邦崩壊後の米国の干渉、等が挙げられる。そして、今は冷戦の第2章である。

1985年、ソ連ではゴルバチョフが共産党の指導者となり、停滞していた政治経済を抜本的に改革する路線を標榜した。世界史的に見て、彼の最大の功績は米国のレーガン元大統領と「核戦争は許されない、そこには勝者はいない。ソ連と米国は軍事的優位を志向しない」と約束を交わし、東西間の緊張を緩和することに貢献したことにあると思う。明確な政治的意欲がありさえすれば、冷戦さえをも終結できることを証明したのである。あちらこちらで戦争が終った。

1989年、ポーランドやハンガリー、チェコスロバキアはソ連式の共産党体制を破棄した。停滞した東ベルリンからの脱出を試みて合計で140人もの命が奪われた。あの悪名高い「ベルリンの壁」もついに崩壊。1989119日のことであった。政府による規制緩和の報を受けて、東ベルリンの市民は我先にと西側へ脱出した。その様子が世界中に放映された。一夜のうちに冷戦構造は劇的に変貌したのである。

当時東ドイツ側で警護に当たっていた警備員は「たとえ壁を作ったとしても、人々は必ずその壁を迂回する方法を見い出すものだ」と当時の様子を述懐している。また、ある歴史家は「後になって冷戦中の安定した東西間の秩序を懐かしく思い出す日が来ることであろう」とまで言ったが、当時の私にはその意味を的確に理解することはできなかった。しかし、世界の覇権国たる米国がその地位を失い始め、中国が台頭して、世界は間違いなく多極化に進んでいる。この新たな不確実性に満ちた今の世界を見ると、まさにあの歴史家が言った通りではないか!

ロシア人作家のパステルナークは1890年に生まれ、1960年に没した。彼は「ドクトル・ジバゴ」の著者として有名である。ノーベル文学賞を授与され、世界的な文学者として位置づけられている。多くの日本人は映画を通じて「ドクトル・ジバゴ」を知っている。私もその一人だ。

ここに、『パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」と彼に与えられたノーベル賞 ― これはCIAの作戦であった』と題された記事がある(注1)。

本日はこの記事を仮訳し、読者の皆さんと共有しようと思う。

冷戦は数々の不思議な出来事をもたらした。極端なまでに歪められた世界観が宣伝され、西側の一般大衆はそれを現実として受け入れ、毎日を生きるしかなかった。敵国の政府の転覆を目指してノーベル賞が活用された現実を伝えるこの引用記事は冷戦時の常軌を逸した思考をまざまざと伝えていると言えよう。

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もしもあなたが自分は天才だと思っており、世界で唯一の人間であるとするならば、バリー・パースニップと言う名前を与えられることは気恥ずかしいに違いない。

ロバート・ヅィンマーマンはこのような命名の問題をうまく解決した。彼はボブ・ディランと名乗ったのだ。見たまえ、彼は2016年にノーベル平和賞を授与された。

Photo-1:(訳注:ロシア語では「Пастернак」と綴られ、「パステルナーク」と発音される。パステルナークとは英語ではparsnip、日本語でもパースニップで、これは野菜の一種である。この写真にあるように、ニンジンのような形状で、色は白っぽい。パースニップは私が住んでいるルーマニアでもパステルナーク(păstârnac)と称され、スープに入れる野菜のひとつとしてよく使用される。引用記事の著者はそんな野菜の名称が一家の姓として用いられている点を揶揄している。)

バリー・パースニップ(つまり、ボリス・パステルナーク)はこの問題を解決しなかった。しかし、この問題は彼のために英国や米国およびソ連の秘密警察の共同作業によって解決されたのである。さらには、オランダやイタリアからの支援も加わった。彼は1958年に小説「ドクトル・ジバゴ」でノーベル文学賞を授与された。その時点では母国語のロシア語であってさえもこの小説を読んだ人たちの数は政府高官たちを含めてもせいぜい千人強でしかなかった。受賞後現在に至るまでに約1千万人がこの小説を読んでいる。つまり、そのほとんどは翻訳言語の読者だ。

しかしながら、パースニップにとってもジバゴにとっても時間と数が物事を改善した訳ではない。ウラジミール・ナボコフが当初評したように、この小説は依然として「残念なことにはぎこちなく、陳腐で、メラドラマ的で、平凡な状況、官能的な弁護士、信じられないような女たち、ロマンチックな強盗、極めて陳腐な偶然の一致で満たされている」のだ。パステルナークの隣人であり仲間でもあったコルネイ・チュコフスキーはこの小説は「退屈で、平凡だ」と感じた。エフゲニー・ユフトウシェンコは「失望した」と言った。アンナ・アフマトヴァはパステルナークに面と向かってドクトル・ジバゴは「風景以外には」立派な小説とは言えないと言った。彼女は皮肉たっぷりであった。と言うのは、この小説には風景の描写なんてないのだから。

面と向かってではなく、ナボコフはパステルナークの急所、つまり、彼の虚栄心を突いた。ナボコフはパステルナークの構成は「甲状腺腫を患って、目玉が飛び出しているみたいだ」と評した。この描写は犠牲者の姿としては完璧なものであって、MI6CIAはソビエト政府を犠牲者パステルナークの訴追に追い込ませることさえできた。この作戦は「AEDINOSAUR作戦」と称され、西側が世界中で信じ込んで貰いたかったことはロシア人は標準的に言って悪党であって、世界中で誰もロシアにしがみ付こうなんて思わないという点であった。

パステルナークの物語で確かなことは、その物語が始まった当時も、そして、今でさえも、ロシア人には国内で如何に暴飲暴食し、侮辱されていようとも、自分たちに対しては国境を越えた愛が存在すると信じ込む用意があった。 

飾りっ気のない言い方をすれば、パースニップ、あるいは、パステルナークは米国人が彼らをそう呼んでいたように、「音域が貧しいジョニー・ワンノート」そのものであった(訳注:これはジュリー・ガーランドが歌う歌詞から由来している。その歌詞の和訳がインターネット上で入手できる。次のような具合だ。音域の貧しいジョニー・イチオン君、楽しそうに歌いあげると、その場をさらってしまった。音域の貧しいジョニー・イチオン君、とにかく声を張り上げた。顔が青くなるまで・・・)。
彼はモスクワの小さな一角をよく知っていた。そこはトウベルスカヤ通りがブレスト(今はベラルーシ)鉄道駅とぶつかる地域である。彼の郷里はペルミ地区のソリカムスク周辺を流れるカマ川の土手によって遮られていた。彼は脚に傷を負っていたことから軍隊には入隊することができず、第一次世界大戦をそこで過ごした。また、第二次世界大戦中はモスクワから東へ800キロ程離れたタタールスタン共和国のチストポリで比較的安全に過ごした。

Photo-2:左から右へレオニード・パステルナーク、ロザリア・カウフマン、26歳のボリス・パステルナーク。1916年の写真。

若い頃、彼は絵を描こうとしたが、肖像画家である父親のレオニード・パステルナークみたいには行かなかった。彼は音楽も試みた。しかし、彼は決してピアニストである母親のロザリア・カウフマンのように巧みではなかった。彼の両親のダーチャへお客としてやって来るアレクサンドル・スクリャーピンは大学での音楽と法律の勉学は止めて、哲学を勉強したらどうかと彼に勧めた。ドイツで一学期を過ごした後、彼は「ヘルマン・コーエンの理論哲学」と題した論文を書いて、卒業した。それから、彼は文学を職とすることに決めた。彼は夜会へ出かけ、そこで「象徴主義と不滅」といった表題で論文を発表した。

時は1913年、文学は有り余っていた。でも、パステルナークは他には何も知らなかった。彼は鳥やネコ、犬を追い掛け回すことはなかった。狩りにも釣りにも行かなかった。キノコ狩りにも出かけなかった。ウォッカやシャンペンも飲まなかった。カード遊びもしなかった。果樹園を耕すこともしなかった。乗馬もしなかった。車を運転することもなかった。女性に対して彼がちょっかいを出したのは要求を持ち出すことがない召使いや娼婦だけに限られ、自分の学生仲間は対象外であった。彼は大学のクラブには参加せず、政治的な抗議デモにも出かけなかった。1905年に起こった学生たちによる抗議行動とゼネストについての彼の自伝的な思い出としては彼の父親が描いた負傷した学生の絵や父親が当時マキシム・ゴーリキーと会っていたこと、「人っ気のない通りをヒュッと飛んでいく流れ弾」のこと、等であった。パステルナークはボーッとしていた。彼はボルシェビキ革命や内戦には加わらなかった。その後、彼の父母や二人の妹はベルリンへ移住し、さらに英国へと移った。

パステルナークは自分の体験から知っていることや彼が空想したことなどをほぼ5年毎に出版した。「Childhood of Luvers」は1922年に、「Safe Conduct」は1929年から1931年にかけて書き、「The Last Summer」は1934年に書いた。1956年には彼は自分の生涯の物語を要約したが、その際「初期の試みは気取った態度によって台無しとなった。あの頃の悪い癖だった」と彼は認めた。これはまさに年代物のパステルナークの言葉であった。責任は何時もどこか他所に存在した。

彼が物語を繰り返す時、パステルナークの経験の無さが彼の想像の中で次第に顕著になって行き、それは歪となって現れた。こうして、彼は混喩の達人となった。たとえば、猫が「エプロンと皿に羽ばたきをする。」ブルドッグは「垂れ下がった頬を持ち、涎を垂らしている年老いた小人のように」頭を持ち上げる。黒鳥は「詰まったフルートを吹くかのように」囀った。収穫前の畑のライムギは「不吉な暗い茶色で、古く、光沢のない金色」を呈していた。エンジンは「あたかも保育所のアルコールランプの上でミルクが沸騰するかのように、歌うようにゴボゴボと音を立てて」蒸気を吐き出す。雪はロシア人の写象主義者であれば誰にとってもまさに専門の分野となるべきものであるが、パステルナークにとっては雪は「何らかの白い狂気が発作的に大急ぎで降り注ぐ」のである。また、別の機会には、雪は「斜めに降り、あたかもいつも何かのための埋め合わせをしようとしているかのごとくに降る。」それから、再び、雪は「吹き溜まりの青い線を越して貪欲に太陽から注がれたパイナップルのような甘さを吸い取っていた。」

レオン・トルストイは、1922年の8月、30分程の会合のためにパステルナーク家に立ち寄ったが、パステルナークは次のような質問を除いては彼に話をする機会さえも与えなかった。「昨日、私はあなたの本の中にびっしりと広がっている植え込みをかき分けて格闘を始めた。あの本であなたはいったい何を言おうとしていたのかね?」パステルナークは「それはトルストイが決めるべきものだ」と答えた。そこでトルストイは彼との会話を中断し、パステルナークとは別れた。

ジョセフ・スターリンは数多くの大罪を犯したが、パステルナークを潰すことはそのような大罪のひとつとして数えられることにはならなかった。

貪欲な読書家であり、本の収集家で、注釈者でもあるスターリンはパステルナークは極めて未経験で、不真面目で、何の脅威でもないと判断し、彼はパステルナークの本は読む価値がないと断定した。スターリンが実際に読んだ書籍についてはこちらをクリック。

1935年の冬、スターリンは「ウラジミール・マヤコフスキーはわれわれの時代でもっとも偉大な詩人であったし、今もそうである」と公に述べた。当初、パステルナークは絶賛されているマヤコフスキーを羨み、マヤコフスキーから受けた批判には恨みを感じていた。彼の批判にはパステルナークの初期の2冊の詩集は決して出版すべきではないという推奨の言葉が含まれていたのである。パステルナークはマヤコフスキーが好きだと言ったが、それは彼が「我々ふたりの間には予期しなかった何らかの類似点を発見した」後のことであった。

1930年に起こったマヤコフスキーの自殺は嫌がらせを受けていたパステルナークにとってはチャンスであった。何年か後にパステルナークは「マヤコフスキーは自尊心から自殺した」と書いた。「何故かと言うと、彼は自分の中の何かを非難をした、あるいは、彼の自尊心が屈服することが出来ない何かに対して非難をした。」しかし、スターリンがマヤコフスキーのことをより積極的に評価した際、パステルナークはスターリンに宛てて次のように書いたのである。「彼に関する閣下のお言葉は私を救う効果をもたらします。西側の影響下で、最近、人々は私の重要性について大袈裟に論じていますが、私に言わせると、その重要性は極めて誇張されています・・・皆さんは私の真面目な芸術家としての力を疑い始めました。今、閣下がマヤコフスキーを第一の地位に据えたことから、この疑いは私から拭い去られ、気持ちが軽やかになったので、私は以前のように生活し、働くことができます。慎み深い静寂の中で、驚きや謎に囲まれながら・・・。もしも驚きや不可解な事が存在しないとしたら、私は生きることを好きにはなれないでしょう。このような不可解さの中、閣下を熱烈に愛し、閣下にすべてを捧げます。B.パステルナーク」

この慎み深さは偽ものであった。つまり、スターリンは欺かれはしなかったのである。それから十数年が経って、1949年、スターリンはパステルナークに対して何の訴追もしないよう検察官に指示を出した。「彼にはかまうな。放っておけ!」とスターリンは言った。「彼は世間からは離れた、雲の上の住人だ。」 

作家同盟に集う仲間の作家や同僚にとってはパステルナークが座っている雲は虚栄心と利己主義で過大に膨らんでおり、彼には彼を支持してくれる同僚は殆どいなかった。ドクトル・ジバゴの抜粋を彼が朗読し始めた時、彼がでっち上げたように何人かの崇拝者はいたものの、専門家からの支持はなかった。1953年にスターリンが亡くなる迄、モスクワにはパステルナークの本を真剣に取り上げる者は誰もいないことを彼は知っていた。さらに、1955年の12月、この本の最後の数行を書き終えた後にパステルナークは崇拝者のひとりにこう言った。「私がいったい何を成し遂げたのかについてはあなたは想像することもできない!私は何十年にもわたって苦悩や障害、驚き、および、論争の原因となっていたこれらの魔術のすべてを発見し、それぞれに名前を付けた。どれについても単純で透明性のある、実に悲しい文言で名前を付けた。また、私はもっとも愛しく、もっとも重要な事柄を再発見し、それらを再定義した。つまり、大地や空、大いなる熱意、創造的な魂、生と死。」

Photo-3:ピーター・フィン

AEDINOSAUR作戦」に関するCIA保管のファイルが公開されたことはワシントンポストの特派員ピーター・フィンとロシア語を喋り協力者でもあるペトラ・キュヴェーとがパステルナークの最初の本がどのようにしてロシアの国外で出版されたのかを調べ上げ、その調査結果を出版することには大きな助けとなった。 この作戦のコード名称の中にある「AE」はCIAのソ連部門を指していた。「DINOSAUR」はCIAがパステルナークを評価することを意味したのではなく、むしろ、それはスターリンとトロツキーといった大物を評価することを意味していた。フィンによると、暗号化はランダムに行われた。

本作戦に関する新刊は2014年に刊行された。フィンとキュヴェーはMI6にかけあってみたが、英国の諜報当局はパステルナークに関するファイルを公開することは拒否したと報告している。CIAの記録を見ると、英国は、恐らく、この小説はモスクワ政府を攻撃するための後押しとして使えるという考えを膨らませていたことを示唆している。これは米国当局がそう考えるよりも前のことであった。

1956年の5月、パステルナークがドクトル・ジバゴを書き上げてから5か月後、彼は原稿のコピーをイタリア人に託し、それはミラノの出版社「 Giangiacomo Feltrinelli 」に持ち込まれた。パステルナークはロシア語での出版のために作品をすでに提出しており、1956年の4月には出版されるとの予告があった。しかし、パステルナークはこのイタリア人には「ソ連邦ではこの小説は出版されないだろう」と言った。その理由は「この小説は当局の公式の文化的指針とは相いれないからだ。」パステルナークが外国からやって来る訪問者に同じことを繰り返して説明すればするほど、彼自身がそのことを信じ込み、外国人はなおさら原稿を欲しがって彼の所へやって来たのである。そして、その結末はさらに確かなものとなっていった。

1956年の春には、パステルナークはフランス語の翻訳本をパリで出版するためにコピーをエレーヌ・ペルティエに渡した。数日後、英語への翻訳と出版のために彼はイサイア・ベルリンにもコピーを与えた。ベルリンは、フィンの新刊によると、オックスフォード大学の大物であって学者であるとして描写されている。だが、戦時中のベリリンの仕事の舞台は英諜報機関と外務省であって、ベルリンがパステルナークと会った際にも当時保とうとしていたMI6のソ連作戦部門との関係は依然として続いていたにもかかわらず、そのことは彼の本からは削除されている。ベルリンはパステルナークから原稿を受け取った英国人の中ではロシア語を流暢に喋ることができる最初の人物の一人であった。他にもいた。ベルリンがパステルナークの原稿を受け取ってから18カ月後の195712月、MI6はロシア語の本のコピーをCIAへ送付した。この間に起こりつつあった出来事はこの本にMI6が興味を示していると言うニュースがKGB側に漏れたことであって、英国は彼らが米国から入手した情報は伏せておくことに決めた。

ここに公開されたCIA文書がある。英国側に関する言外の意味はパステルナークの本がCIAに送付されたのはこれが初めてであったということである。そして、CIA文書が公開されたことの言外の意味はCIAはパステルナークは「雲の上の人物」であると考えていたことであり、ドクトル・ジバゴの文学的な真価または彼を巡る情報戦争については当時は何も考えてはいなかったということである。

後になって、ベルリンは1956年の中頃にこの原稿を読み終わるやいなや彼はその価値を認識したと書いている。ベルリンが感じたことの適格性に的を絞ると、彼はこう言っている。「ソ連邦と西側の読者の何人かが言っているのとは異なり、私にはこれは天才が書いた作品であると感じられた。私にはこれは人としての体験のすべてを伝えようとしているように思えたし、今でもそう思っている。前例のない想像上の言語の中でたった一人の純粋な住人だけが住むひとつの世界を作り出している。」米国人の面前ではベルリンは、明らかに、多くを喋らなかった。

1956年の秋、ベルリンがパステルナークの本を出版してから23週間後、KGBのイワン・セロフ将軍はフェルトリネッリがイタリア語で本を出版しており、パステルナークはフランスと英国でも出版しようとしているとクレムリンへ報告した。これはフェルトリネッリ版であるが、KGBが西側におけるこの本の出版計画についてどのようにして知ることになったのか、情報元としてはいくつもあったのかについては不明である。ひとつだけ確かなことはドクトル・ジバゴの出版は反ソ宣伝のために敵国の諜報機関によって進められた作戦であるとモスクワ政府は理解していたという点だ。この時点で、ソ連共産党中央委員会は静観することに決めた。彼らはイタリア共産党とフェルトリネッリとの繋がりからイタリア語版を阻止し、パステルナークのロシア語版が無修正で市場に現れるのを中断するよう作家同盟に依頼することができるであろうと考えていた。

うまく行けば、中央委員会は彼の原稿を編集し、ロシア語版では反ソ宣伝の要素を削除することについてパステルナークから合意を取り付けることさえもできるだろうと計算していた。そうすれば、反ソ宣伝の要素が何処からやって来たのかに関していったい誰が確かなことを言えるのかという話になる。だが、これは彼の才能は本を編集してまで出版することにはまったく耐えられないというパステルナークの強い信念を過小評価していた。

外国での本の出版を阻止することが失敗に帰し、フェルトリネッリからの出版に続いてフランス語や英語での出版も続くと見られた時、ソ連側は動きを活発化させ、彼らに対する西側の動きが高まる状況に対抗ようとした。700頁にもなる本から精々ひとつの節の長さにしか匹敵しないような引用をたった5カ所から抜粋し、これらが繰り返して引用されていた。2011年にVintage Classicsから出版されたペーパーバック版 を例にとると、それぞれの抜粋は267頁、285頁、362頁、365頁および460頁からのものである。パステルナークはこの本の最後から3番目の節でこう結論付けている。「 理想的かつ高邁であると考えられていたことは粗悪で物質的なものへと変わった。ギリシャがローマに変わったように、ロシアにおける啓蒙はロシア革命へと変わった。」1910年のアレクサンダー・ブロックの詩を引用した後に、彼はこう付け加えた。「隠喩的なものはすべてが文字通り意味するのものへと変貌し、子供は子供であり、テロ行為は恐ろしいものである・・・」 

パステルナークは世間からの注目に反対するような者ではなく、彼の主要な作品を読んでくれた人の数が国内でも外国でも酷く少なかったことから、むしろ彼の自尊心は傷つけられた。1957年の終り頃、彼はドイツからの訪問客にこう喋った。「誰もが私の本について書いているが、実際に誰かが読んでくれたのであろうか?彼らは私の本から何を引用しているのか?何時も同じ内容ではないか。700頁もある本の中から、恐らくは、3ページ程度だけだ。」

振り返って見れば、ソ連邦の高官らはこれらの引用がドクトル・ジバゴを読んだ内容のすべてであったことを認めている。残りを読もうなんて誰も気にかけてはいなかった。しかしながら、パステルナークのすべての作品や彼の妻、愛人、友人のすべてについて暴き出す作業が本格的に開始された。パステルナークに才能があることの証拠こそがドクトル・ジバゴをミラノやロンドンでの出版を推進してくれることを意味していたことからも、ドクトル・ジバゴの中で彼が実際に書いた事柄は西側における反革命的な抜粋に対抗してソ連側が行うキャンペーンとは無関係とさえなって行った。1年間のキャンペーンで読者の数はほとんどゼロに等しいという成功を収めた。

イタリア語の訳本は195711月にたった3,000部が印刷され、その後販売された。19571212日、CIA本部の心理学や準軍事的な分野を扱うスタッフ部門が「外国語での出版は最大部数の発行を目指し、世界中へ最高部数を配布し、この本を称賛し、ノーベル賞の授与を配慮すべきである」とドクトル・ジバゴを推奨した。

2週間後の1958年の1月中旬、米国の大学教授であるアーネスト・シモンズとハリ―・レヴィンから2通の手紙がスウェーデン・アカデミーに届いた。ふたりの米国人は何れもドクトル・ジバゴを原本でもイタリア語版でも読んではいなかったけれども、パステルナークをノーベル賞に推薦した。

パステルナークが告発されたことはノーベル賞の受賞資格を示唆するものであるとレヴィンは主張した。「多分、彼の業績の中でもっとも驚嘆すべき点は、作家が書く作品をイデオロギー的な宣伝に変えさせようとするとてつもない政治的圧力の下であっても、彼は美学的価値に固執して来たことである。彼の作品はそのことを雄弁に物語っている。こうして、彼は芸術的な高潔さの例を示してくれた。この事実は貴アカデミーによる彼の業績の認知を受けるにふさわしいものだ。」

レヴィンがこう述べたことについては、「トロツキーの亡命日誌」を翻訳した彼の妻であるエレナ・ザルドナヤも含めて、CIAでは誰も反対しなかったことから、レヴィンのパステルナークの推奨はでっち上げのプロパガンダであるとは受け取られなかったのである。しかし、それこそが、6カ月後の1958年の6月、CIAのソ連部門の長官でありAEDINOSAURのディレクターを務めるジョン・モーリーがパステルナークの価値として見たものであった。ロシア語版および翻訳版を通じて、ノーベル賞の期待は頂点に達した。パステルナーク自身のメッセージについてはモーリーがCIAの作戦を統括するフランク・ウィスナーに宛ててメモを書いている。それによると、「誰でもが個人的な生活を与えられているが、これは共産党体制のための個人の犠牲というソ連の倫理とは基本的に衝突する。この小説の中には体制に反対して暴動を起こすといった呼びかけは出て来ないけれども、ドクトル・ジバゴが説く異端は政治的消極性にあり、これは極めて基本的なものだ。」

CIAはドクトル・ジバゴを使ってクレムリン政府を転覆させるという案はモーリーによって提案されたものであって、AEDINOSAUR 作戦を実施するための予算に承認を得るためのものであったことを公開した。今日でもCIAは公開文書においてはこの作戦に要した費用は伏せている。だが、オランダの職員に支払う費用、ならびに、アムステルダムでオランダ諜報機関によって作られたロシア語版の最初の数千部を印刷し、配本する費用のために数百万ドル(今の価値に換算すると約2千万ドル)が支払われたとフィンとキュヴェエは報告している。このロシア語版は9月の始めに店頭に現れた。約500部がその後の数週間の間にロシア国内へこっそりと運び込まれた。19581022日、スウェーデン・アカデミーはパステルナークがノーベル賞を受賞したと発表した。

KGBMI6CIAがイタリア人やオランダ人と組んで何をしていたのかを知っていたと想定しよう。ベルリンがパステルナークの本を持ち込んで来た時、KGBのエージェントであってMI6の内部で働いていたキム・フィルビーはロンドンでは仕事をしていなかった(訳注:キム・フィルビーはイギリスの上流階級出身者から成るソ連のスパイ網「ケンブリッジ・ファイブ」の一人でその中心人物。MI6の長官候補にもなったが、二重スパイであることが発覚し、ソ連に亡命した。出典:ウィキペディア)。その頃彼はレバノンのベイルートにいたが、彼は依然として連絡を保っていた。フィルビーがパステルナークを読んでいたかどうかは今でも秘密である。

手短に振り返って見ると、パステルナークは彼が遇せられて然るべきだと思っていた状況を手に入れた。「もしもあの本が弱弱しく書かれていたとしたら、私はあの本を隠しておくべきだった」と書いて、19578月に彼は中央委員会に宛てて手紙を送った。「しかし、私が夢想していた以上に強い力を持っていることが実証された。その力は高い場所から降りて来た。こうして、この本の運命は私自身の手元からは離れて行ってしまった。」 

長期的な観点においては中央委員会とKGBは過剰に反応した。ドクトル・ジバゴの運命を決定的にしたのは天からのものであって、パステルナーク自身の神性からではなかった。ソ連の高官らの対応が少なかったり、皆無であったとしたら、彼らがこの作品を軽視するとか、パステルナークが持っている明らかな弱点をからかうために作家同盟の中にいるパステルナークの批判者や競争相手を勇気づけていたとしたら、米英諜報機関による評価は政権の転覆をさらに進展させていたかも知れない。しかし、時間の経過がパステルナーク伝説の熱気を削いだのである。それは西側の信奉者が思い出すことができる本ではなく、今や、この本に関する197分のフィルムである。ロシアでは信奉者はすっかり消えてしまった。ロシアの文学評論家の間では誰もパステルナークを読まなかったが、ドクトル・ジバゴや1958年の出来事には強く共感していると言う。これは冗談として語り継がれており、今でも残っている。

ズラブ・ツエレテリ(訳注:旧グルジア共和国生まれのソ連邦時代の彫刻家)はパステルナークの模型を大きくして、記念碑にすることを提案したが、モスクワ市当局は数年間にわたって立地には賛成しなかった。

情報源

ワシントンではモーリーの「AEDINOSAUR 作戦」は成功裏に終わったものの、この作戦はソ連部門で何とかやり終えた数少ない事例のひとつであった。モーリーは褒賞を与えられ、ギリシャのアテネへ栄転となった。アテネでは1967年の軍事クーデターの際中に彼はCIA支局の長を務めた。この件はモーリーが関与し成功を収めた唯一の政権交代作戦であったが、長くは続かなかった。

原典:Dances with Bears

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これで全文の仮訳が終了した。

パステルナークがどれだけ文学の世界に貢献したのかについては私は何も言えない。残念ながら、小説「ドクトル・ジバゴ」は読んだことがない。パステルナークと同じ反体制作家であってもっと後世になって現れたソルジェニーツィンならばいくつかの作品を読んだことがあるが、パステルナークの文学的な貢献に関してはその方面の専門家の方々の意見や見解に頼るしかない。

私がこの引用記事に惹かれた理由は、手短かに言えば、その表題に「CIA」という言葉が入っていたからに他ならない。何が起こっても不思議ではない米ソ(米ロ)関係のことだ。冷戦構造にどっかりと乗っていたCIAMI6の意向によってノーベル文学賞がパステルナークに授与されたとしても、それはまさに時代の要請であったともいえる。何と言っても、われわれ一般庶民の常識の世界からはまったく乖離した国際政治の世界のことであるのだから、いったい何を言えようか?

そして、21世紀の今になっても、ノーベル賞受賞者の選考に限らず、CIAMI6の存在は至る所で見え隠れする。好むと好まざるとにかかわらず今の世界は何も変わってはいないということだ。


参照

1Boris Pasternak’s Doctor Zhivago and His Nobel Prize - a CIA Operation: By John Helmer, RI/Dances with Bears, Sep/04/2021

 





 

2021年9月9日木曜日

人類が直面する破局の兆候は地球の温暖化にあるのではなく、いい加減な科学に基づいて政策を据える点にある

 地球の温暖化現象がもたらす自然災害が方々で目に見えて激しくなる中、市民生活は危機的な状況になりつつある。今までの経験の枠からはずれてしまうような自然災害が方々で起こっている。フィリピンは、2013年、超巨大台風に襲われた。90m/sの最大瞬間風速が観測され、死者・行方不明者数が6000人という大災害に見舞われた。日本も例外ではない。近年、局地的な豪雨によって土砂災害が起こり、毎年のように貴重な命が数多く奪われている。ドイツでは、2021年、史上最悪の洪水災害に見舞われ、死者・行方不明者が300人を超したという。メルケル首相は「気候変動が原因だ」と発言した。

温暖化現象を説明する科学の世界は、今、危機的な状況を迎えている。地球の温暖化現象を学問的に究明する場であるIPCCにおいて世界中の気象学の専門家たちは厳しい選択の場に立たされている。それは真理を追究するという科学の本質をあくまでも踏襲するべきか(つまり、太陽活動の影響をもっと考慮に入れるべきかど)、それとも、温室効果ガスの大気中への人為的放出が温暖化の主要因であるとする従来の路線を維持し続け、研究費を入手するべきかの二者択一である。

ここに、「人類が直面する破局の兆候は地球の温暖化にあるのではなく、いい加減な科学に基づいて政策を据える点にある」と題された記事がある(注1)。

本日はこの記事を仮訳し、研究者たちが二者択一を迫られている現状について読者の皆さんと共有したいと思う。

これは現行の地球温暖化説をゴリ押しする国連のIPCCに対する痛烈な批判であり、一読に値すると私は思う。

89日、国連はIPCCによる第6回目の「評価報告書」を発表した。これに基づいて、この11月、英国のグラスゴーで、昨年開催する予定であったが新型コロナの大流行によって1年間延期されていたCOP2626回国連気候変動枠組み条約締約国会)が開催され、世界中の締約国が集合する。そこで何が話し合われるのかについては主要メディアが詳しく報じている。しかしながら、とんでもない落し穴が潜んでいるようなのだ。その落し穴について少し学んでおきたいと思う。

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Photo-1:保管されている写真から。COP26気候サミットを
100日後に控えてデモを行う「気候連合」のデモ
参加者たち。©  REUTERS/Peter Nicholls

気候変動に関する国連の報告書が発行されたが、これは人類が直面している破局の兆候は地球の温暖化そのものではなく、一方に偏った科学に基づいて政策を採用することにあるという現実を見せつけている。

国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)は、最近、破局の兆候に関する報告書を発行した。それはわれわれを行動にかきたてるよう意図したものだ。世界中がグラスゴーで集う気候変動に関する会議が開催されるまで80日弱となり(訳注:COP262020119日~1120日にグラスゴーにて開催する予定であったが、新型コロナ危機に見舞われ、20211031日~1112日の開催へと延期された)、この行動の呼びかけは今や耳をつんざくばかりとなっている。

アントニオ・グテレス国連事務総長はこの報告書が到達した結論は「人間性に対する警告」を表明しているものであると述べた。彼にとっては、「その証拠は反論の余地がなく、化石燃料の燃焼によってもたらされた温室効果ガスの放出ならびに森林破壊は今やわれわれの惑星を窒息させ、何十億人もの人々を直ちにリスクに曝そうとしている」程に切羽詰まっているのである。気候変動に関して米国の特使を務めるジョン・ケリーはこの発言に同意しており、COP26 のホスト役を務めるボリス・ジョンソン英首相もこれは「人類に対する警鐘」であると信じ込んでいる。

あなたが行っていることはそれが何であっても直ちに止め、行動を起こすよう彼らは求めている。さもなければ、遅きに失すると。しかしながら、本当にそうなのだろうか?一言で言えば、そんなことは誰にも分からないのだ。

RT.COMからの関連記事:UK’s conveniently timed boasts about hydrogen solving CO2 crisis at odds with experts’ questions about its green credentials

気候変動の科学は本来ならば遍く開かれた論争の場である筈なのであるが、宗教的統一見解にみられるような狭量なものへと変貌してしまった。今や、それは科学を実践することに対する新たな障壁とさえなっている。気候変動が実在することや人人間生活に対する脅威であること自体には疑問の余地はない。しかし、気候変動が大問題であるからと言って、われわれが破局の兆候に直面しているわけではない。

ここで必要なのは明快さと客観性である。端的に言えば、われわれは「王立協会」のモットーである「Nullius in verba(訳注:ラテン語で「誰の言葉でもない」、「他人の言葉を鵜呑みにするな」の意。)という文言を支持しなければならない。王立協会は世界中から数多くの著名な科学者が参加している団体であって、現存する中ではもっとも古い学会でもある。権力者の支配に抵抗し、実験によって実証された事実を訴求しなければならない。これは今までの科学の基礎であったし、今後もそのことに変わりはない。

しかしながら、最近刊行されたIPCCの報告書はほとんど真逆を報告している。その結論は独断的であって、下記に論じているように事前に決められた特定の、かつ、人間嫌いな筋書きを支持する偏った研究結果に基づいている。われわれは単にその報告書の共著者たちの言葉を盲目的に信じるよう求められているのだ。結局のところ、彼らは専門家であるのだから。われわれは誰もが科学者であるわけにはいかない。われわれにとってはIPCCの専門的な分野に対して挑戦を挑むことは実に困難である。しかし、ひとつだけ確かなことがある。つまり、専門家のすべてがこの報告書の結論に同意しているわけではないのだ。

14か国にまたがる太陽物理学や気象学を専門とする23人の科学者が極めて興味深い、かつ、重要な論文を「太陽はどれ程多く北半球の大気温度の趨勢に影響を与えたか?これが今行われている議論だ」(原題:How much has the Sun influenced Northern Hemisphere temperature trends? An ongoing debate)と題して、査読が求められる「Research in Astronomy and Astrophysics」誌に発表した

関連記事:Solar panels are creating 50 times more waste than predicted, and much of it is toxic. Our race to ‘net zero’ is madness

この論文は一読に値する。なぜならば、本論文が気候変動に関する今までの説明を否定しているからということではなく、科学について、ならびに、IPCCは何故に現行のような説明を選んだのかについて根本的な疑問を表明しているからである。「今行われている議論」という表題中の文言には然るべき注意を払うべきであろう。

今までの諸々の論文を吟味する68ページにもなるこの論文(18個の図、2個の表、544個の参照論文)はIPCCが統一見解を得ることだけに志向した議論の進め方を明確に回避し、著者らはどの部分について賛成できないのか、そして、どの部分については合意できるのかについて明確に述べている。

本論文は今までの論文の中ではもっとも包括的であり、IPCCが参照している論文も含めて、太陽出力に関して出版された論文の中でもっとも重要な16個の論文を吟味している。著者らは気候変動に関して温室効果ガスだけにその責任を負わせるのは時期尚早であると結論付けた。この結論はIPCCの結論とは相反するものであって、IPCCの結論は全太陽放射度(TSI)に関して狭い範囲から得られた不完全なデータに基づいていることを示したのである。

彼らが真相を暴いているように、地球を取り巻く大気のエネルギーはそのほとんどが太陽からやって来る。いわゆる全太陽放射度の変化は長年にわたって観察されて来た。つまり、過去何世紀にもわたって放出されて来た全太陽放射度の量は最近の気候変動に実質的に大きな影響を与えているに違いない。

この新論文はIPCCが気候変動に関する太陽の役割について評価を行った際にTSIについて報告されているデータの内でごく一部を考慮に入れただけであるという事実を明らかにした。つまり、この一部のデータを取り上げることによりただ単に「低太陽活動変動」のデータだけを取り上げたのである。その結果、IPCCは太陽が最近起こっている気候変動に与えた 大きな役割を拙速にも排除してしまった。

それぞれの共著者はここで論じられている事柄に関しては違った科学的見解を持っている。見解の相違が統一見解を持つことと同じ程度に重要であることを示すために、彼らはこの論文を出版することに合意した。たとえば、何人かの共著者は競い合う科学的な議論の長所や短所がどのようにして本論文のために客観的に審査を行う過程が将来の研究についても新たな考えをもたらしてくれたかを言及している。また、もしもIPCCが、これと同様に、統一見解を迫らない研究の進め方を踏襲していたならば、IPCCの報告書はより大きな科学的価値を持つに至ったのではないかとも述べている。

本論文についてのプレスリリースによると、筆頭著者である米環境研究地球科学センターのロナン・コノリー博士は統一見解を追求するIPCCの姿勢がもたらす危険性を指摘している。合意に達することは政治家にとっては物事がより容易になることから、政治的有用性が認められるものの、彼は「科学は統一見解を得ることによって機能するものではない」と強調している。確かに、科学者たちがお互いに相違する意見を持つことや合意に至らないさまざまな理由をさらに詳しく調査することが許される時、科学はもっとも堅固な成長を遂げる。彼らが事前に選定した政治的筋書きを支持するようなデータや研究だけを取り上げることによって、IPCCは最近の、ならびに、将来の気候変動の原因を純粋に理解する上で必要とされる科学的な進歩に対して深刻な害を与えたのではないかと私は危惧する。

RT.COMの関連記事:Extinction Rebellion's infantile plan to cause chaos in London will only put off those it supposedly wants to attract to its cause

コノリー博士と彼の同僚科学者たちの意見は正しい。IPCCの報告書のベースとなった政治化された科学は、事実上、気象科学を理解する上で障壁と化してしまった。

これらの著者は疑義を持ち出そうとし、科学データそのものに関心を寄せ、われわれが自分たちの知識をさらに深めるために質問をし、今だけではなく将来も行動を起こす能力を高めるよう促しているのである。単純に言って、彼らは不必要な警告を与え、不必要な恐怖感を煽り、短期的で条件反射的な反応を引き起こすことには反対しているのである。

IPCCの筋書きは基本的には科学的に聞こえる論争を繰り返し、人の理性や行動を挫折させるような人間嫌いの政治的議題を導き出す。理性は地球上における人の生活の将来を保証する科学的な洞察や実践において真に再生可能な根源であって、科学的判断力を損なうことはそれを根底から崩す大変動となる。そのような事態は何としてでも避けなければならない。 

著者のプロフィール:ノーマン・ルイスは作家であり、講演を行い、技術革新に関するコンサルタントでもある。最近はプライスウオーターハウスクーパー社のディレクターを務め、同社ではクラウドソースによる技術革新サービスを主導した。ツイッターでの追跡は@Norm_Lewis

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これで全文の仮訳が終了した。

いわゆる「ホッケースティック論争」は誰もが大なり小なり知っている。あれはデータの捏造であった。ところが、地球の温暖化に関しては国連を背景とするIPCCによる主導は、現在も依然として、絶対的な権威を誇っている。その現状について、「気候変動の科学は本来ならば遍く開かれた論争の場である筈であるのだが、宗教的な統一見解にみられるような狭量なものへと変貌してしまった。今やそれは科学を実践することに対する新たな障壁とさえなっている」と述べ、著者は苦言を呈している。

われわれ一般庶民は気候変動のメカニズムやデータの妥当性について議論をする立場にはないし、残念ながら専門的な知識も十分に持ってはいない。現実には、気候変動を議論する科学者の間では客観的な判断が成され、幅広い意見に耳を傾け、最終的にもっとも妥当な政策を導くために最善の努力をして貰いたいと願うしかない。完全に受け身の立場である。

ところで、この著者が引用している論文(表題:How much has the Sun influenced Northern Hemisphere temperature trends? An ongoing debate69頁にもなる大論文であって、素人がアクセスするには気が遠くなるほどに荷が重い。しかしながら、著者の言わんとすることを少しでも正確に理解するために同論文の要旨だけでも仮訳して、ここに掲載しておこうと思う。ご参考になれば幸いである。

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要旨

全太陽放射度(TSI)が北半球の大気温度の動きにどれほど多くの影響を与えるのかを評価するには両者の量を高い信頼性をもって推定することが基本的に重要である。TSIの変動に関しては19世紀以降、少なくとも16個の推定値が文献から収集された。これらの推定値の半分は「低レベルの変動」であり、残りの半分は「高レベルの変動」である。ところで、北半球の大気温度の傾向を推定する独立した手法としては5種類がある。次のようなデータベースが含まれる。つまり、1) 地方の測定施設にて得られたデータ、2) 都市部と地方の両方で得られたすべてのデータ(標準的な手法)、3) 海面温度データのみ、4) 気温を代表するものとしての年輪の幅、5) 気温を代表するものとしての氷河の長さ。都市部と地方での測定値を用いる標準的な手法は他の手法に比較して直近の数十年間は大きな温暖化傾向を示しており、どちらかと言うと異常値である。それ故に都市化によるバイアスが持ち込まれ、以前の研究で結論が導かれているにもかかわらず現時点における世界的な大気温度のデータベースとしては問題がある。それでもなお、これらの5種類のデータはすべてが現在は19世紀よりも暖かいことを示している。即ち、19世紀以降、何らかの「地球の温暖化」が起こっている。北半球の大気温度に関する5個のデータベースのそれぞれについてTSIに関する16個すべての推定値に対する太陽光の直接強制からの寄与は単純な線形最小二乗法を用いて評価を行った。それから、最近の温暖化における人間行動の役割は残余を国連のIPCCが推奨する「人為的強制」の時系列に割り当てることによって算出した。五つの北半球の大気温度データについては、それぞれ異なるTSIが得られ、太陽光は何の役割も持ってはいない(つまり、最近の地球の温暖化はほとんどが人間活動によって引き起こされたことを示唆する)ケースから始まって、最近の地球の温暖化はそのほとんどが太陽活動の変動によって引き起こされた(即ち、最近の地球の温暖化はそのほとんどが自然現象)というケースに至るまで実に幅が広い。今までに発表されている諸々の研究は(最近公開されたIPCCの報告書も含めて)時期尚早にも前者のケースを結論にしてしまったようである。関係性を示すTSIの推定値のすべてを適切に考慮に入れることには失敗したことから、彼らはそのように結論したのだ。あるいは、北半球の大気温度の傾向の推算値に依然として関わって来る不確定要素を適切に考慮に入れることには失敗したのである。したがって、科学者集団はこれらの課題を如何にしてより満足できる形で解決するすることができるのかについてここにいくつかの提言を示す。

キーワード:太陽活動、太陽地球関係、太陽黒点、太陽表面の白斑、太陽表面の明るく高温な斑点

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素人判断であることは承知の上で総括すると、この新論文(原題:How much has the Sun influenced Northern Hemisphere temperature trends? An ongoing debate)によれば、今まで国連のIPCCが推進して来た地球温暖化のメカニズムに関する説明は得られるデータが示す全体像の半分を考慮しただけであったということになる。

IPCCはどうしてこのような偏狭な結論に至ったのかという疑問に関しては、広く言われている「いったい誰が得をするのか」という考察を行えばほぼ間違いのない理解が得られるであろう。科学者も人間である。科学者にも人間行動の大原則が当てはまる。

参照:

1The apocalypse facing humanity is not climate change, but the politicisation of lousy science: By Norman Lewis, 16 Aug, 2021, https://on.rt.com/beje