2011年8月27日土曜日

福島第一原発事故 - 独メデイアが日本に伝えたかったこと

 

福島第一原発での事故の直後、読売新聞によると当時のドイツでは日本政府の対応については次のような感じを持っていたという。

 

<引用開始>

 

独メディア「日本政府は事実を隠蔽、過小評価」
2011316()1748分配信

 【ベルリン=三好範英】ドイツでは、福島第一原発の爆発や火災などに関する日本政府の対応について、不信感を強調する報道が目立っている。
 被災地で救援活動を行っていた民間団体「フメディカ」の救援チーム5人は14日、急きょ帰国した。同機関の広報担当者シュテフェン・リヒター氏は地元メディアに対し、「日本政府は事実を隠蔽し、過小評価している。チェルノブイリ(原発事故)を思い出させる」と早期帰国の理由を語った。
 メルケル首相も記者会見で「日本からの情報は矛盾している」と繰り返した。ザイベルト政府報道官は、「大変な事態に直面していることは理解している。日本政府を批判しているわけではない」と定例記者会見で釈明したが、ドイツ政府が日本政府の対応にいらだちを強めていることは間違いない。

 

<引用終了>

ここに引用した記事の表題は「日本政府は事実を隠蔽、過小評価」となっており、非常に手厳しい。どうしてそういう言い方になるのか、当時の私には正確に理解することができなかった。

事故後4カ月、5カ月と時間が経過し、初期状態に関する様々な情報が遅ればせながらも公表されるにつれて、事故後5日目の時点でのドイツのジャーナリストやドイツ政府の判断は正しかったことが明白になってきた。まったくの驚きである。これは、むしろ、敬意を表するに値するのではないか。

菅政権は福島第一原発事故に関する対応の拙さによって国民の間の信頼感を失ってしまった。昨日(826日)首相の座を辞任した。

毎日新聞の全国世論調査(82021日実施)によると、「月内にも退陣する菅内閣に対する厳しい世論が鮮明になった。東日本大震災後の取り組みについて「評価しない」との回答が7割」とのこと。(1)

でも、あの時点でドイツのジャーナリストや独政府はなぜあれほどまでに的を射た物の見方ができたのだろうか。もちろん、日本政府は原発事故の真っただ中にあって、当事者の立場。好意的に見れば、情報の収集や分析にすべての時間を投入していたものとも推測される。

しかし、ドイツのジャーナリストや独政府は日本政府の対応は事実を隠蔽していると判断し、原発事故の重大さを余りにも過小評価し過ぎていると感じた。彼らの行動規範や思考の論理から見ると十分にそう判断されたのだ。

小生が思うに、ドイツでは脱原発に関して日本よりもはるかに真面目に議論してきたのではないか。

ドイツにおいても原発の事故はゼロではない。

最近の事例では、クリュンメル原発において2007628日に変圧器に短絡が発生し、火災事故にまで発展した。この事故の対応にはその後2年間もの時間を費やし、3億ユーロ(330億円に相当)もの設備改善を実施して、2009621日にようやく再稼働となった。しかしながら、またもや変圧器の短絡による故障で、再稼働の直後運転を停止せざるを得なくなった(200974日)。それ以来、現在も停止のままである。(2)

この2009年の2度目の事故の際、クリュンメル原発の運転を行っていた発電事業者(スウェーデンのヴァッテンファル社。同社は50%の出資者でもある。福島第一原発における東京電力に相当。)による情報の出し渋りや消極性が指摘され、批判されていた。事故後9日目にはドイツで最も定評のあるシュピーゲル誌が詳細な報告を行っていた。(3) 2009713日付けの「シュピーゲル・オンライン・インターナショナル」はこの二度目の事故は想像以上に深刻な事故だったと伝えている。メルトダウンの一歩手前だったという。

ドイツでは何年も前から環境志向型の市民運動が活発で、国民の啓発が進んでいた。マスコミもそれに応えて、情報の提供をしてきた。マスコミ本来の役目である。

そして、ある州の選挙では脱原発を掲げた野党が躍進し、本年、ドイツ政府は脱原発に舵を切った。ドイツのアンゲラ・メルケル(Angela Merkel)首相は530日、国内にある17基すべての原子力発電所を2022年までに停止すると発表した。(4)

一方、日本の福島第一原発事故に目を転じてみよう。

東京電力は1号機に「メルトダウン」があったことを512日に始めて公式に認めた。これは、311日の東関東大震災から実に丸2カ月後のことだ。

米国の研究者、クリス・アリソンが行った原発事故のシミュレーション結果によると、原子炉の緊急炉心冷却装置が停止してから1時間20分後には燃料棒が溶け始め、3時間半後には溶けた炉心が圧力容器の底部に落下したとのことだ。このシミュレーション結果は3月末には国際原子力機関(IAEA)にも報告されている。(5)

つまり、3月末にはこの方面を専門にする人たちや行政関係者は誰でも福島第一原発でメルトダウンが起こったこと(あるいはその可能性が高いこと)をすでに認識していた。当然、米国政府は知っていた。ウィーンの国際原子力機関も知っていた。IAEAの事務局長は日本から派遣された天野之弥氏であるから、この情報は、即、事故の当事国である日本の政府へも通報されていたものと思われる。各国から派遣されているIAEAの幹部も皆知っていた。彼らの出身国の政府も皆知っていたと思われる。知らなかったのは日本の国民だけである。

エネルギー総合工学研究所の内藤正則氏によると、「東京電力は初期の段階に同種のシミュレーションを行い、メルトダウンを想定することができた筈」だとしている。(5)

 

また、原子力関連の専門家が集まる日本原子力学界は東京電力と政府を批判して、「原発事故の評価結果や評価のもとになるデータの情報開示が遅れた事について、強く遺憾で、早急な改善を求める。国民の抱く不安に拍車をかけた。専門家による解明や提言に支障を生じさせた責任は重い。」と述べている(7月5日付け朝日新聞)。ここには外部の専門家による批判をかわそうとする東電の姿勢が読み取れる。

福島第一原発1号機の反応炉の内部を見た者はいない。計測器が停止してしまったので計測記録も無く、何時何が起こったのかを詳細に確定することは困難だ。

しかしながら、さまざまな証拠をかき集めてみると、この事故の全体像が浮かび上がってくる。佐藤前福島県知事が何故に「原発事故は人災だ」(6)と言ったかが良く分かるような気がする。

東京電力と政府は少なくとも3月末以降512日までメルトダウンの事実を隠蔽していたと言わざるを得ない。もし、東京電力が事故の発生後直ちにシミュレーションを実施し、何らかの結論を得ていたとすれば、上記よりももっと長い期間にわたってメルトダウンの事実(あるいはその可能性)を隠蔽していたことになる。

日本とドイツの二つの国の間には多くの違いがある。あっても不思議ではない。しかしながら、国民の生命が絡んでくる原発事故の対応に関してはそんなに大きな違いがあってはならない。

ひとつにはマスコミが陰に陽に係っていたのかも知れない。マスコミはその人的資源を最大限に活用して、国民にとって真の意味で有益な情報を提供することができた筈だ。国民の生活を守るために正確な情報発信を行うことがマスコミの最大の役目であることを考えた時、なぜか日本のマスコミはその役目を放棄してしまったようだ。

「マスコミは決して政府の情報管制下にはない。日本には言論の自由がある」とマスコミが言い張れるほど国民はうぶではない。マスコミが政府の情報管制下に置かれている現実は洋の東西を問わず何処でも見られる。恰好の事例として米国の911同時多発テロ事件をめぐる米国のマスコミの対応振りを思いだして欲しい。

ある評論家によると、日本のマスコミは政府の情報管制下にあって各社とも事なかれ主義で毎日を過ごしている。福島第一原発事故に関しては最後までその論調を緩めなかったのは東京新聞だけだったと。

過去の海外での原発関連の事故についても日本国内へは十分に報道されてはいないとのことだ。どこかでスクリーンにかけられていたのだ。

スウェーデン(20067月、メルトダウン寸前となる事故)やドイツ(上記に引用した2007年および2009年のクリュンメル原発での事故)ならびにフランス(使用済燃料の再処理施設での事故)、等における原発関連の事故は日本では殆ど紹介されなかったという。報道されてもベタ記事扱いで、掘り下げがまったくない。

技術的にリスクをはらんだ原発に人的なエラーが加わる。そして、事故は繰り返して起こる。この構図は日本でもスウェーデンでもドイツでも同じことである。外国における事故例を学ぼうと思えば、日本はそこからさまざまなことを学ぶことができた筈である。しかし、日本政府と電力業界が作りだした日本独特の「安全神話」の存在がそういった機会を活用しないままにしてしまった。

最終的には、日本国民が覚醒しているかどうかの問題だ。個人個人が十分に目覚めてさえいれば国政選挙の度に脱原発に向かって歩を進めることはできるだろう。自分の家族の次の世代を考える時、つまり、20年先30年先を考える時、大きな方向性をしっかりと政治に反映させることは非常に大事だと思う。

少なくとも、今までノンポリであった小生自身は今回の福島第一原発事故で目が覚めた。眼を覚まされたのだ。

福島第一原発事故は原発の「安全神話」を根底からくつがえした。世論は目覚めさせられた。原発に対する考え方は大きく変化した。今後の安全な生活を確立するためにわたしたち一人一人がどのように行動するべきか、今皆が個人レベルで試されていると言える。

菅直人首相は昨日(826日)辞意を表明した。日本の国民は福島第一原発事故を通じてここ数カ月の間に体験した不安や将来に対する不透明感を払しょくできないでいる。誰が次期首相になろうとも、そういった不安や不透明感を払拭できるような政治を行なって欲しいものだ。そして、我々庶民は一人一人が選挙民としてそうした政策を要求し続けて行くことが必要だ。

原子炉を廃棄するには20年~30年もの長い年月を必要とすると言われている。非常に息の長い政策が必要となる。個人レベルでも、この分野についてもっともっと勉強して行きたいものだ。                   

もうひとつの重要な論点は、生命の危険性に関して言えば「原発も原爆もとどのつまりは同じことではないか」という点だ。何らかの理由で原発を制御できなくなったらどういうことになるかに関して、福島第一原発事故は日本の国民にその答えを明確に示してくれた。炉心冷却装置が停止すると3時間半後には原発は原爆に豹変するのだ。それが今回の原発事故で分かった。

この続きは別の機会にしたい。

 

参照:

(1)   毎日世論調査:菅内閣の震災対応「評価しない」が7割 (2011821)

(2)   Krümmel Nuclear Power Plant (Wikipedia)

(3)   Atomic Nightmare - Krümmel Accident Puts Question Mark over Germany's Nuclear Future (Jul/13/2009)

(4)   ドイツの脱原発政策、各国の反応 (AFP2011531)

(5)   Nuclear Power Plant Suffered a Nuclear Meltdown with 3.5 hours of the Japan Earthquake and Was Hid From the Public (Aug/25/2011)

(6)   原発事故は人災~佐藤前福島県知事インタビュー(時事ドットコム)





2011年8月22日月曜日

夏の味覚、ルーマニア風ナス・サラダの作り方


我が家の夏の食卓での一番人気は「ナス・サラダ」だと前のブログで報告しました。そこで、このブログではその作り方を記述してみます。
露地栽培のナスの場合、夏の終わり頃になるとナスの実が硬くなってきます。ナス・サラダにはナスの実が硬くなってくる前、つまり、8月以前のナスが最適です。
ナス・サラダはトマトを添えて味わってみてください。また、トマトを添えると生チーズも欲しくなりますよね。フェタチーズは塩分が余りにもきついので、塩分が少なめ目の生チーズを選んでください。

当地のナスは日本のナスに比べるとかなり大型です。

大きな流れ:ナスを丸ごと焼く
⇒ 皮を剥く
   ⇒ 中身を刻む
       ⇒ 玉ねぎやニンニク、油、その他を混ぜる

材料:ナス4個(合計で約1kg
     玉ねぎ(1個)
     ニンニク
     オリーブオイル(食用油なら何でも結構です)を大匙3杯。
     塩は必要に応じて

ポイントは如何に上手にナスを丸ごと焼くかにかかっています。

1.     ガスレンジの火が直接ナスにかからないように薄い鉄板またはそれと同等なものを火の上に置きます。我が家の鉄板は直径が19センチ、1ミリにも満たない厚さです。
2.     熱くなった鉄板の上にナスを2個並べます。



3. 火の強さは中火程度とします。(我が家の例では5分くらい焙った後にはナスを回転させて焼く面を変えていきます。火の強さの目安になったでしょうか。)
4.  焼きあがってくると、皮が黒くなり、その皮が破れて中の水分が出てきます。丸い断面は維持できなくなってきて、扁平な形状になります。こうなってから、断面で90度程ナスを回転させ、引き続き焼きます。
5.  これを4回繰り返すと、全周が焼きあがります。
6. 焼けたナスをストレーナーの上に置いて、全体を丼の上に置きます。ナスの側面を箸で突いて穴をあけ、内部の水分が流れ落ちるようにして、水分を良く切ってください。これは重要なポイントです。


7.  しばらく、放置しておきます。この間に冷却も進みます。(1~2時間程度)
8. ナスの焼けた皮を剥きます。
9.  もう一度水分を十分に切ります。(2~3時間)


10. 焼きナスをみじん切りにします。ペースト状になってきます。ただ、この時の注意ですが、ミキサーは使わないでください。ミキサーを掛け過ぎると、味が半減ししてまうからです。木製の包丁様の物で叩くのが最高です。仕上がりは小さな固まりが幾つも残っているような感じです。
11. 添加する材料である玉ねぎとニンニクをみじん切りにして、それをナスに加えます。
12. 全体を良くかき混ぜると、むらのないペーストとなります。ここで油を加えてよくかき混ぜます。 レモン汁、23滴を加えます。塩は必要に応じて振ってください。
13. お皿にとって、トマトの薄切りを添えます。



上記の分量で、家族3人で2回分の量(合計6食分)に相当します。

我が家のナス・サラダはこの821日が今シーズン最後のものとなりました。


パンにこのナスサラダを塗ってみてください。焼きナス独特の風味が、そして冷たい舌触りが
夏の食事にきっとうまく合うことでしょう。冷蔵庫に入れておく場合は48時間位が賞味期間と
なります。



 

2011年8月2日火曜日

ブカレストの夏

ブカレストの夏、ザルゼレが熟する頃

落下した桑の実がひとしきり通りを黒く染めていた。

その頃、市場では小生の大好物のラズベリー(ルーマニア語でzmeurăが出回る。期間は決して長くないので、その時期を逸しないように注意していることが大事だ。砂糖を加えてミキサーでペースト状にすると即製のラズベリージャムとなる。アイスクリームに添えても旬の味を楽しめる。

この頃は本格的な夏の手前であることから夕方になると雷雨に変わることも多い。ちょうど日本の梅雨の頃に相当する。

ラズベリーの季節が終わる頃、ザルゼレ(ルーマニア語でzarzăreの実は大きくなって赤みをさしてくる。ザルゼレはこのルーマニアの地では果実酒としてのツイカという蒸留酒の原料となる。スモモの仲間だ。ザルゼレの実がさらに赤みを帯びてくる頃、ブカレストの街は本格的な夏の暑さに支配される。

国民的なこのツイカという酒はそのほとんどが家庭で作られたものだと言われている。インターネット情報によると、1世帯当たりに許可されている量はアルコール度が100度相当で50リッター。例えば40度に仕上がったとすれば125リッターだ。日本酒の一升瓶で69本強となる。1年分とは言え大変な量だ。つまり、このように自家用に製造されたツイカがヘンリ・コアンダ空港の売店で売られているツイカの供給源となっていることになる。市場に出回っているのは工場で作られた大量生産による製品ではないのだ。そう言えば、ブカレストから日本へ発つ際にツイカを購入しようと売店に立ち寄っても品切れで買えなかったことも何回かあった。

7月16日撮影、ブカレストにて


暑さの中我が家の夏の味はというと、まず取り上げたいのはサラタ・デ・ヴナタ(直訳すると「ナスのサラダ」)だ。焼きナスの黒く焦げた皮を剥いて熱の通った身の部分だけを取り出し冷却するのを待つ。みじん切りにした玉ねぎとニンニクを加え、さらにはオリーブ油とレモン汁を加えてペースト状にしたもの。レモン汁の量は当地で手に入る結構大き目のナス(1個が250-300グラム位)4-5個分に対してもせいぜい2-3滴だけだと家内は言う。必要に応じて塩味で調節する。また、家庭によっては胡椒を加えたり、ゆで卵を加えたりすることもあるそうだ。この薄緑色のサラダはペースト状なのでスライスにしたパンであってもちぎったパンであっても、スプレッドとして非常に良く合う。多めに作った場合はこのサラタ・デ・ヴナタを冷蔵庫に入れて冷やしておくと、夏の暑い日にはお誂え向きの惣菜となる。簡単な食べ物ではあるのだが、不思議なくらいに旨い。お試しあれ!
            
真夏のブカレストは結構暑い。私たちのアパートは1階にあるので夏の暑さからは最も縁遠いことになるのだが・・・。階上では蒸し風呂のように温まってしまって、エアコンなしではやって行けないと思う。この夏(2011年)今までのところ最も暑かった日、外の最高気温は38Cにまで昇った。その時の最高室温が27.5Cだった。この時はさすがに日本から持参したうちわを使った。その後は高くても33C辺りで、室温もせいぜい26Cに落ち着いている。この建物は熱容量が大きく、日夜の温度変化はほんの僅かで驚くほどに安定している。

しかし、さらに地球の温暖化が進むとこの1階でさえもエアコンが必要になってくるかも知れない。さて、どうなることか。



 

2011年7月22日金曜日

「なでしこジャパン」に敗れた米国チーム選手たちの感想

 
Jul/17/2011

「わたしたちは偉大なチームに敗れた。」
また、「何か大きな力が日本に味方していたと感じた」とし、「勝ちたかったけれど、他のチームが優勝するなら日本が良かった、」と米国チームのゴールキーパー、ホープ・ソロが述べた。

上記は産経新聞の佐々木記者がワシントンから送ってきた報告の一節だ。この記事によると、このホープ・ソロ選手の発言が日本ではたくさんのサッカーファンの心を捉えたという。

「何か大きな力」とはなでしこジャパンが単にサッカーの試合に勝つためだけにワールドカップ・ドイツ大会へやって来たのではない。言うまでもなく、これは今年3月の東関東大震災の被災者の皆さんに少しでも元気をあげたいという気持ちを指したものだ。この特別の気持ちは他の国からやってきたチームにはまったくなく、なでしこジャパン特有のものだった。

女子ワールドカップ米国チームのホームページを覗くと、なでしこジャパンと戦った選手たちの感想を読むことができる。

拙訳ではあるが、米国チームのホームページに掲載されている717日付けの記事全文を引用してみよう。対日本チームの決勝戦で選手たちが感じたさまざまな事柄が述べられている。なでしこジャパンと戦った米国チームのコーチや選手たちがどんな気持ちで決勝戦に臨み、戦いに敗れた後どんな思いを抱いたのかを知る上で貴重な資料だと思われる。


<引用開始>

ヘッドコーチのピア・スンダーゲへの質問

この試合から積極的に学びたい点は?
「今日は観衆の皆さんには立派な試合を見せることができたと思う。記憶にとどめておきたい決勝戦だった。米国チームを称賛したいし、日本のチームも心から称賛したい。最初のハーフでの我々の戦いぶりは実に良かったと思うし、準決勝での試合と比べるとその違いがはっきりしている。銀メダルをとることはできたが、まだその実感はまったくない。2-3週間もすれば実感が湧いてくると思う。誰もが知っていることだろうが、最高レベルの選手たちが繰り広げるペナルテー・キック戦というものは成功と不成功の違いは正に紙一重。」

相手に2失点もあげてしまったことについては?
「全ては私たちの攻撃から始まった。私たちはいとも簡単に相手にボールをとられてしまった。決勝戦では最高のプレーをし、チャンスを生かさなければならないことを肝に銘じておくべきだと思う。あの2失点についてはもっと厳しく対処すべきだったが、そうしなかったので決勝戦をものにすることができなかった。」

ペナルテー・キック戦がうまく行かなかったことについては?
「あのナルテイー・キック戦を見ましたね。時には勝ち、時には負けてしまう。ブラジル・チームとのナルテイー・キック戦を思いだしてみると、皆がいい感じだった。今言ったように、上手く行ったナルテー・キック戦とそれほどでもなかったナルテー・キック戦との間の違いは実にわずかだ。」

女子サッカーにとって今大会は?
「起伏の激しい大会ではあったけれど、実に素晴らしい大会だった。選手たちを称賛したいと思う。今大会の最初のゲームでは北朝鮮との戦いだったが、何度も好プレーがあった。ベンチから加わった選手たちを導入して、先発の選手をちょっと変更してみた。たくさんの素晴らしい観客に囲まれて、すごくいい雰囲気だった。選手やコーチには時間を少し与えてやって欲しいと思う。私たちは皆この銀メダルの素晴らしさを十分に味わうことができると思う。どうしてかと言うと、試合以外の面でもたくさんの素晴らしい収穫があったし、選手たちもいちだんと成長したと思う。この機会を借りて、今大会を準備し盛り上げてくれたドイツを称賛したい。女子サッカーについて言えば、従来とは違った価値観が今表に出てきつつあると思う。私たちは優勝を逸したけれども、この大会は実にすばらしかった。」

アレックス・モーガンについては?
「今後さらに先へ進むにあたって今回の経験は非常に良かったのではないかと思う。ベンチから立ち上がって競技に加わり、彼女は立派な仕事をしてくれた。先発の出場選手に名を連ねることは控えの選手たちに立派な仕事をしようという意欲を起こさせる絶好の機会となるので、その点を強調しておきたいと思う。アレックス・モーガン一人だけの話ではなくて、これは21人全員のことだ。後半になってからベンチを離れ競技に加わった彼女の活躍やその前の試合での彼女はとても良かった。彼女のキャリアーが今花を開こうとしている。今日は皆がそれを眼にしたのだ。彼女は、たくさんのゴールをしたいという気持ちやたくさんの試合に出たいという気持でいっぱいだ。」

日本チームについては?
「前にも言ったことですが、ポジションを意識したチームを相手にして戦った前半戦では、彼女たちよりも私たちの方がずっと攻撃的だったと思う。チャンスは何回も作った。日本チームの動きについては一言述べておきたい点がある。彼女たちはボールを扱うことが得意で、この点は今後の女子サッカーをさらに発展させる上では非常にいい方向だと思っている。最初の45分は圧倒されてはいたものの、彼女たちは自信を持ち続けていたし、自分たちのスタイルを維持していた。自分たちの技を信じていた。将来の女子サッカーを考えた場合、この方向性は大事だと思う。」

たくさんのチャンスに恵まれながら無得点でハーフタイムになった時のお気持ちは?
「いささか不思議に聞こえるかも知れないが、対ブラジル戦や対フランス戦と比較すると、私たちは本当に素晴らしい試合を展開していたので、私自身、気持ちはずっと良かった。単に戦いに挑むだけではなくて、立派な内容のあるサッカーをすることができるようにたくさんのきっかけを作りたいと思っていた。ハーフタイムの時点では私の気分は申し分なく、我々の戦い方でたくさんのきっかけを作り出せると思っていた。事実、その通りだった。しかし、十分なスコアにはつながらなかった。」
 
ペナルテー・キック戦で負けたことについては?
「私たちの側にふたつみっつの間違いがあったけれども、ピッチ上ではすごくいい試合ができたと思う。最初のハーフではボールのキープができていたし、立派な試合だったと思っている。観客の皆さんにとっては胸が躍るような試合だったのではないかと思う。ペナルテー・キック戦で負けるなんて、思いもよらなかった。」
 
試合そのものについては?
「何よりも、立派な試合をしてくれた選手たちを称賛したい。私たちの他の試合に比べてもずっと上手くボールをキープしていた。でも、チャンスをものにすることはできなかった。最初のハーフでは絶好のチャンスを何回も作った。この試合は決勝戦。決勝戦では勝ち負けの間の違いは実に僅かなものでしかない。」

米国チームのフォワード、アビー・ウオンバック選手
 
不満足な結果については?
「明らかに辛い気持ちでいっぱい。日本チームは良く戦った。決してあきらめなかった。勝てなくって非常に残念だ。ペナルテー・キック戦を二度もやるなんて酷だと思う。だって、キーパーは我々のボールが何処へ来るかを予測できたのだから。彼女はいくつも立派にセーブした。試合中は絶好のチャンスがたくさんあったけれども、私たちはものにすることができずに終わってしまった。」
 
この負けた試合をどう受け止めていますか?
「明らかに、こんな結果は誰が予想することができただろうか。皆良く戦った。どの場面でもお互いを信じ切っていた。オリンピックが近づいているので、それに何とか参加したいと皆の気分が高揚している。予選を突破してロンドンへ行きたい。今回の惨敗はしばらくの間辛いだろうと思う。でも、私は自分たちのチームを誇りに思っている。日本チームに『おめでとう!』と言いたい。彼女たちの国では彼女たちのことを本当に、本当に誇りに思っているだろうと思う。」
 
今晩米国チームが冒した小さなミスについては?
「さあ、どうかしら。ワールドカップは非常に偉大な存在で、いいところをたくさん引き出してくれる。日本チームはずっと攻撃をしかけてきて、決して諦めようとはしなかった。そして、ついに世界チャンピオンの座を手にした。」

米国チームのゴールキーパー、ホープ・ソロ選手

不満足な結果については?
「私たちは偉大なチームに敗れた。日本チームは私がかねてから敬意の念を抱いていたチームだ。何か偉大な力がこのチームを引っ張っているような感じを受けた。本当にそんな感じだった。私自身今大会で金メダルを手にしたいと思っていただけに、もし他の国に奪われることがあるとしたら、それはもう日本であって欲しいと思っていた。日本チームの皆さんのために私は今とっても嬉しい。彼女たちは金メダルに相応しいと思う。」

ワールド杯を手にできなかったことについては?
「これは誰でも一生の内で一度は手にしたいと思っている代物だ。私は現実派。思い通りに行くことなんてめったにない。でも、今大会はずっと思い通りに進んできていたので、この試合はいただきだと思っていた。観客は大満足だったと思う。私たちは攻撃をしかけたり、ゴールのチャンスを作ったりした。観ていても楽しかっただろうと思う。本当に楽しい試合だった。どう言ったらいいかしら・・・。金メダルに挑戦すべくさらに4年間頑張ってみたいと思う。」

今晩の感想は?
「今晩は異様な感じだった。この試合は私たちのものだと確信していた。最後の最後までそう思っていた。でも、どこか不思議な感じがしていた。具体的にどうって説明はできないが・・・。膝にちょっとした故障をして膝をついたあの時、不思議な感じがした。でも、私は立ち上がった。ちょうどコーナーからだった。得点をあげられてしまった。心のどこかで、私たちのチームが自信をもって戦い続けるためにも決して膝をつくようなことがあってはならないと願っていた。自衛のためにもチームを呼び集めて、ここからのプレーは引き締めてかかるようにとお互いに確認するべきだったかも知れない。膝をついてしまったのは本当に嫌な感じだった。我々はあの時、一瞬の間、焦点を見失っていたのだろう。あれが全てを決定づけたのかも。」

試合後の式典については?
「式典にでかけました。紙吹雪がキラキラと舞っていた。今大会は私たちのものだと信じていたし、ずっとその思いは続いていた。本当に残念だ。それと同時に、何か大きなものが日本を引っ張っていたようにも思う。彼女らは今大会最高のチームだった。もし私たちが負ける番だとすれば、私は潔く彼女らに脱帽したい。と言うのは、彼女らはすごく礼儀正しくって優雅だったし、情熱を持ってプレーをしていた。手を緩めることなく戦い抜いた。彼女らには本当に敬意を表したい。」

二度もリードして、勝つところだったが、チームはこれで自分たちが勝つぞと思っていたのか?
「私たちのチームにはこれで自分たちが勝つぞというような思いはまったくなかったと思う。個人的にもそんな思いはなかった。そういう思いは私たちの考え方とは噛み合わない。私たちの精神でもない。あくまでも私たちはファイターだ。私が言った言葉を誰かに証明する必要もないと思う。私たちの選手を見て欲しい。ファイターたちの集まりだ。勝利を手にしたと余りにも性急に捉え、試合が終わる前にそれを祝うようなことはしなかった。日本チームはりっぱに戦い抜いた。我々を上回ったのだ。」

ペナルテー・キック戦が心理的に如何に大変なものであるか、そのあたりは?
「この偉大な大会中に二回もペナルテー・キック戦に遭遇して、実に厳しいものがあった。前の試合では私たちはカッコよかった。皆最高の出来栄えだった。あのような状態を再現し、もう一度繰り返すのは至難の技だったと思う。日本チームのゴールキーパーはここぞという時に立派にセーブをした。結局彼女らが一枚上だった。」

米国チームのミッドフィールダー、カーリー・ロイド

二回もリードをとったことについては?
「レギュラータイム中にゴールをし、今でも覚えているが時計を見るとまだ10分残っていた。その後彼女らがゴールをして、同点となった。オーバータイムでは我々がゴールをして、その時時計を見たら5分残っていた。あの時、『これで行ける』と思った。でも、またもや彼女らが同点に追いついた。非常に厳しい失点だった。私たちは素晴らしい動きをしていたし、誰についてさえも私は誇りに思っている。私たちは皆で一緒に勝ち、一緒に負ける。今となっては、来年のオリンピックに備えて頑張りたい。予選を勝ち進んで、この終わりのない旅を続けて行きたい。」

ペナルテー・キック戦で負けたことについては?
ペナルテー・キック戦を見ましたよね。ペナルテー・キック戦の結果だけを見て、試合のすべてを評価するのは酷だと思う。相手に勝つチャンスは確かにあった。アビーとアレックスがふたつの素晴らしいゴールを決めている。不運だったと言うしかない。残念だ。しかし、4年経つとまたワールドカップはやってくる。私たちは勝ち進み、願わくばワールドカップを手にして優勝台に立ちたいと思う。

ワンバック選手のヘッデングが米国チームに勝利をもたらしたと思いましたか?
「もちろん、そう思った。今大会での展開、つまり、対ブラジル戦や対フランス戦を見ても、この大会をものにできるという思いはもう疑う余地もなかった。実に残念な一日となった。」

米国チームのバック、クリステン・ランポーン

 
「私たちが完全に負けたという感じはまったくない。ほんのちょっと運が悪かっただけに過ぎない。日本チームの攻撃はすごかった。強いて言えば、今抱いている感じを十分に消化して、良く記憶して、オリンピックに向けて取り組んで行きたい。」

ペナルテー・キック戦で負けたことについては?
「負けたのは結構しんどい。しかし、これがサーカーというものだ。両チームが得点をしたオーバータイムでのあの試合ぶりを皆さん堪能してくれたと思う。そして、ペナルテー・キック戦にもつれ込んだ。あの時点で、チームの同僚の顔を見てこう言ったものだ。『何が起ころうとも皆が大好き。何としてでも目標を勝ち取ろうね。ここだと思うところへ蹴って、ここへ戻って来て欲しい。皆がお互いを支えてくれていることは分かっているよね』って。

このチームのペナルテー・キック戦への取り組みについては?
「私たちは間違いなくこの課題に取り組んできたし、練習もしている。しかし、依然として強烈なプレッシャーを感じながらのプレー。雌雄を決する瞬間だった。その時、タイミングやその他の諸々の事をどのように感じるか次第だ。ブラジル戦ではペナルテー・キック戦となり、それに挑戦した。そして、この決勝戦でも再度ペナルテー・キック戦となった。二回も続けて勝つのはなかなか厳しい。

米国チームのミッドフィールダー、ローレン・チェニー

ゴールデンボール賞の候補者リストに載ったご感想は?
「これは私にとっては始めてのワールドカップ。それにもかかわらず、候補者に選ばれたことは誇りに思う。また、驚きでもある。でも、これは私たちのチーム全体についてのこと。それは何時でもチーム全体のことなんだということが皆さん(報道陣)には分かってはいないみたい・・・。」

この試合については?
「最高の試合だった。私たちは善戦したし、攻撃もした。私たちは全てを捧げた。このことが大事なんだと思う。日本のチームには脱帽。彼女らは自分たちの国を熱狂させたことだろうと思う。皆がそれを待っていたし、必要としていたのだから。これが試合そのものよりも、もっともっと大きくて一番大事なことかも。」


<引用終了>


出典:U.S. Women Speak after Penalty Shootout Loss to Japan in Women's World Cup Final (July 17, 2011) www.ussoccer.com/News/Womens-National-Team/2011/07/US-Women-Speak-after-Penalty-Shootout-Loss-to-Japan-in-Womens-World-Cup-Final.aspx


      


察するに、ゴールキーパーの位置でプレーをしていると、他のポジションにいる選手たちとは違って、試合全体の流れとか雰囲気、チーム全体の気持ちみたいなものをより客観的につかむことができるのかも知れない。ホープ・ソロ選手の日本チームに関する観察は鋭く、彼女が感じた内容には他の選手にはない何かがあるように思えた。

日頃サッカーの試合には深入りしたことがない小生にとっては、この記事は結構興味深い内容だった。試合の展開の面白さだけではなくて、選手たちの思いの奥深くを垣間見ることができたような気がする。

また、サッカーに関する英文記事には接することはなかったので、専門的な語彙の和訳では間違いがあるかも知れない。忌憚のないご意見を拝聴したいと思う。




 




2011年7月6日水曜日

掛け算の「九九」、娘の場合

 
父親の海外勤務にともなって娘は海外で過ごすことが多かったのですが、小学校低学年ではブカレストで日本人学校へ通っていました。

大人になってからの彼女の言語生活は英語とルーマニア語が中心で、日本語はすっかり片隅に追いやられているのが現状です。日本語を聞く分にはかなりできるものの、しゃべる方はやはり苦手です。日本から取り寄せたDVDで映画を見ても筋書きは問題なく把握できていますし、私自身がハリウッド映画を見るときの英語の理解よりはずっとその程度が上ではないかと思えてなりません。

買い物とか毎日の生活の中で彼女の日本語が圧倒的な威力を発揮する場面がひとつあります。それは掛け算です。小学校の二年生で習った「九九」が今でも彼女の口からこぼれて来るのです。既に説明しましたように彼女の主たる言語は日本語ではないのです。しかし、掛け算になると、とたんに日本語の「九九」に早変わりします。そばでその様子を見ていると、いささか滑稽でもあり微笑ましくもあります。


今私たちは21世紀の初頭にあるわけですが、この「九九」の歴史は一体何処まで遡るのでしょうか。

日本

2010124日付けの 読売新聞の記事によりますと、

奈良市の平城宮(707784)跡で「九九」を記した木簡が出土しました。この木簡には中国の数学書と同じ「如」の文字が書かれていたことがわかったと、奈良文化財研究所が発表しています。つまり、これは「九九」が中国から伝来したことを証拠付けるものです。

こういった「九九」を記した木簡は平城宮跡ばかりではなく、藤原宮跡、長野県の屋代遺跡や新潟県の草野遺跡からも出土しているそうです。

日本へ伝わってきた時期は何時ごろかと言うと、専門家の間では万葉集(759年頃に編纂)に「九九」を使った表現があることから、少なくとも奈良時代(710年~)よりも前に伝わってきたものと推測されています。一つの説としては、唐から輸入された律令制度(681年に編纂を開始)において税金を徴収する基礎となる土地の測量や面積の計算、税の計算のために算術としての「九九」が必要になってきたのではないかと言われています。

中国

お隣の中国では「九九」の使用は何時頃から始まったのでしょうか。

「九九」の使用は春秋時代にまで遡ると言いますから、紀元前770~前403年の頃となります。お馴染みの「三国志」の世界は23世紀の頃の話ですので、その頃よりもさらに600年以上も遡ることになります。日本最古の水田の跡は今から2500年前とのことですから、日本では水田を利用した稲作が始まった頃、つまり弥生時代が始まった頃に相当します。

城地茂氏のウェブサイト「和算の源流」には古代中国における算術に関して興味深い記述があります。それを下記に引用してみます。

ある時、斉の桓公(紀元前685年~643)が人材を求めた時に、「九九」を暗記しているという特技で採用された者がいたという記事が残っている。しかも、この男が言うには、「九九」のような一般的な教養があるだけで召し抱えられる事が天下に知られれば、有能な浪人が広く応募してくるだろうから、宣伝効果として有効だというものであった。事実、そのように桓公の下には多くの人材が集まったのだが、これからも分かるように、「九九」はこの時代にすでに広く流布していたのである。

また、「桓公の下には多くの人材が集まった」という記述との関連で見ると、目下読み進めている「三国志」(陳舜臣著、文春文庫、1982年)では「一国の王にとっては広く人材を集めることが最も大事だ・・・」といった記述が見られます。上記に引用した桓公の逸話も納得できるような気がします。

古代バビロニア(メソポタミア地域)

ヨーロッパ世界ではどうだったのでしょうか。これはヨーロッパがまだ深い眠りから覚める以前のことです。古代ローマから古代ギリシャへ、さらに古代バビロニアにまで遡ります。つまり、現在のイラクの地域です。

古代バビロニアに関してはかなり多くの証拠が見つかっているようです。例えば、楔形文字を刻んだ粘土板が多数見つかっています(400枚以上も!)。そのほとんどは紀元前18001600年頃のものであると言われ、そこには当時の数学のレベルを示す貴重な情報がたくさん含まれています。バビロニアでは数字は60進法で表現されていましたが、その名残が今も円が360度であったり、1ダースが12個で構成されていたり、1時間が60分であったりする点にその名残が見られます。

「九九」に相当する掛け算が多数見つかっています。数表だけを記載した粘土板が見つかるのではなく、多くは文章の中に「九九」の一部が見られるとのことです。これらの粘土板は学校で使われた教科書だったのではないかと推測されています。

当時の数学のレベルはどうだったかと言いますと、例えば、2の平方根は1 + 24/60 + 51/602 + 10/603 と表現され、これは1.41421296...に相当します。小数点以下5桁まで正確な数値です。これは、結構驚きです!
でも、2の平方根をどのように使っていたのでしょうね?
また、その頃には「位取り」が確立されており、現在のように一番大きな桁が左から始まっているそうです。

シュメール文明

古代バビロニアをさらに遡ると、同じメソポタミアの地でシュメール文明が栄えていました。紀元前2600年以降、掛け算の表が使用されていたそうです。これが現時点で分かっている範囲では最も古い「九九」のようです。

このメソポタミアの地での文明の歴史を大雑把に見たいと思います。狩猟や採集の時代から牧畜や農業へ移行した時期は紀元前8000年頃といわれています。農業の生産性を大きく伸ばすことになった灌漑農法は紀元前4800年頃に遡ります。記録された文字体系としては最古と言われている楔形文字が使われ始めたのは紀元前3500年頃。さらに時代がくだると、掛け算の使用が始まった上述の紀元前2600年の頃へと続きます。

ただ、シュメール文明について気になる点があります。シュメール語は孤立した言語であって、周辺のセム語系の言語との関連性はまったく見られないと言われている点です。通常、自然発生的な言語の場合、ふたつの異なる言語であっても陸続きの場合はお互いに関連性があるのが普通です。シュメール語はエーリアンの手によってセム語系の言語の真っただ中へほうり込まれたとでも言うのでしょうか?

エジプト

ピラミッドを建設したエジプトも天文学が発達していた事実から推測すると数学がかなり発展していたと思われますが、その発展ぶりを示す証拠は残念ながら限られていると言われています。
多分、数学はかなり進んでいたことでしょうね。

23x13といった掛け算では
23 x 1 = 23     ✓
23 x 2 = 46
23 x 4 = 92     ✓
23 x 8 = 184    ✓
23 x 16 = 368
上記の✓マークがついた掛け算だけを寄せ集めると、23 x (1 + 4 + 8) = 23 x 13 = 299となります。つまり、乗数は2倍、2倍としていって、乗数を構成する要素と被乗数との積を足しているのです。こういった二進法は現代を象徴するコンピュータの計算法と同じですよね。古代エジプトの数学ではここが一番興味深い点です。

インド

インドでは紀元前9世紀頃には円周率を小数点第2位まで概算しており、幾何学のテキスト(「シュルバ・スートラ」、紀元前8世紀~6世紀)では2の平方根を小数点第5位まで計算していたと言われています。またピタゴラスの定理を記述していたとのことです。何よりも、理論的な展開に抜きんでていたようです。

マヤ

中米のマヤ文明では暦と天文観測が非常に進んでいたと言われています。天体観測に基づいて計算された1年の長さは365.242日とされています。これに対して、現代の値は365.242198日です。非常に良く一致しています。しかしながら、驚いたことには、非常に大きな数字を巧みに表現しながらも、掛け算や割り算の手法はあまり進んではいなかったと言われています。

本当に存在していなかったのでしょうか。それとも単に存在していたという証拠が現時点ではみつかってはいないというだけのことでしょうか・・・。


こうして各国、各地域の数学的な発展を見ますと、共通する点は円や正方形あるいは長方形を幾何学的に解明していたことです。農業の発展と共に、宗教的リーダーあるいは部族社会の政治的リーダーが地域社会あるいは同族社会を統治するために徴税を行い、租税システムの基礎として土地面積を計算し、納税の対象としての穀物や織物の数量を正確に把握する必要があったと説明されています。また、天体観測に長じていたエジプトやマヤ文明では暦の計算が主たる動機だったかと思われます。正確な暦によって農業の年次サイクルを維持することが可能となり、部族社会を統治していく上で非常に強力な道具となっていたに違いありません。


掛け算の「九九」から始まって、古代文明における数学の発展についてその一端を覗いてみました。



2011年6月18日土曜日

クルテア・デ・アルジェシュ修道院を建てた棟梁マノレの伝説

クルテア・デ・アルジェシュ修道院を建てた
棟梁マノレの伝説


創造力を遺憾なく発揮しようとすると常に犠牲が伴うものです。犠牲の対象は創造者自身であったり、最愛の肉親であったりします。このルーマニア伝説ではふたりの犠牲(創造者自身と最愛の妻)が同時に起こり、そこで始めて宗教的な人間味が発露され、何世紀にもわたって人々に愛される創造物が世に送り出されるのです。

さらに、この伝説にはいくつもの基本的な主題が折り重なっています。つまり、最初に登場する場所や人物が意味するもの、廃墟の中に残されていた壁、積み上げては崩れ落ちてしまう壁、夢、約束、壁に塗り込められることになる女性、封建領主の陶酔感や自己満足、イカルスの墜落、こんこんと湧き続ける泉、等。

伝説的な封建領主ネグル・ウダ(1512年から1517年の間王座にあったネアゴエ・バサラブが投影されています)の時代、最もルーマニア的な景観を見せるアルジェシュ川のほとりで修道院を建てる場所が選定され、儀式が取り行われました。




選定された場所には呪いがかかっていました。取り残された壁や死に瀕した犬の鳴き声がそれを暗示しています。封建領主はマノレが率いる9人の石工たちに「この世で誰も目にしたことがないような立派な修道院を建てよ」と命令します。そして、「すべてがうまく行ったら、お前たちにはたくさんの褒美と貴族の称号を与えてやる」と約束します。「しかし、うまく行かなかったらお前たちをこの修道院の壁に塗り込んでやるぞ。覚悟してかかれ!」と脅します。歴史に残るような修道院を建てたい一心の封建領主特有の横暴さそのものです。

ところが、修道院を建てようとする場所に宿っている悪霊の影響で、修道院を建てる作業はなかなか進みません。日中石工たちが苦心して築いた建物は夜中になると崩れ落ちてしまうのです。それが繰り返されました。マノレの夢の中に神様が現れます。そして、神様はどうしたら建立がうまく行くかその秘密を教えてくれたのです。「翌日この修道院の通りに最初に現れる婦人を修道院の壁に塗り込めよ。そうすればすべてがうまく行くだろう。」


多くの場合、偉大な創造物の建築は人的な犠牲を介してしか得られないような力を必要とするのです。長い期間にわたって工事を推し進めるには途方もなく大きなエネルギーが必要となります。そこには、神の意志が人間の魂を介して現世へ投影されてくるのです。

翌日、マノレは朝から周囲の様子を隈なく観察します。そして、遠くに自分のかみさんが彼のお弁当を持ってこちらへやってくる姿を認めました。自分自身がかみさんを修道院の壁に塗り込めなければならないことになるのです。

かみさんの運命を変えて欲しいばかりに、「かみさんがこちらへやって来るのをどうか止めてください」と、マノレは神様にお祈りします。神様はこの男の願いを汲んで、当初の筋書きを緩めてやろうとします。しかし、実世界の現象はややもすると必要以上に強調されることがあります。彼女の運命を変えることは不可能であることを見せつけます。アナは踵を返す素振りも見せません。

類まれな強い性格から、マノレは心の痛みを押しやって、自分のかみんさんを壁に塗り込み始めます。心の痛みを押しやる原動力は神聖な修道院を建てたい棟梁マノレの執念、創造に対する彼の燃えあがらんばかりの精神力です。最愛の妻アナの犠牲は誰もが分け隔てなくこの世から消え去る運命にあり、それを回避することはできないことを示しているのです。

建て終わった時、封建領主は修道院の荘厳な美しさを見て、「これで、自分の名声は永遠に刻まれた」と自己満足に浸ります。

「次回はもっと美しい修道院を建てることができるかも知れない」と、石工たちがしゃべっているのが領主の耳に届いてしまいました。自己満足で頭がいっぱいの封建領主は石工たちを懲らしめるために現場のはしごを外してしまいます。石工たちは修道院の屋根の上に取り残されてしまったのです。しかし、屋根の上から何とか脱出しようと、彼らは屋根の板をはずして翼を作りました。翼を身に付けて飛び降りるのです。

でも、誰もが墜落して死んでしまいます。マノレが墜落した場所からは泉が湧き出ました。

こんこんと湧き出る泉は生命のシンボルであり、永遠の創造心のシンボルでもあります。



封建領主の権力は棟梁を圧倒してしまいましたが、棟梁が建てた修道院は何世紀にもわたって誇らかにその姿を示してきました。その完成度の美しさによって彼の創造物は永遠に残るのです。同時に、それは生命や芸術を愛しむ心にもつながってくるのです。

こうして、「クルテア・デ・アルジェシュの修道院」は非常に基本的な部分でルーマニア人の間で共有される存在となっています。そこにはいくつもの要素が内包されており、倫理観、創造心を全うするために払わなければならない犠牲、邪悪なものや表面には現れないが悪用しようとする権力からの解放といった主題が含まれているのです。

 

出典:Manastirea Curtea de Argeş - Legenda Mesterului Manole sites.benjamincarlier.be/romania/ro/curtea-de-arges-monastery/




訳注: この「棟梁マノレの伝説」にはいくつかのバージョンがあります。詳細を見るとそれぞれが異なっています。最初は英文の原稿を和訳してみました。しかし、今はブカレストに住み、かってはCurtea de Argeş4年間も住んで仕事をしていた事実もありますので、私としては「ルーマニア語の原稿から直接翻訳をしなければ・・・」という思いが募ってきました。そんな背景から、ルーマニア語の「棟梁マノレの伝説」を和訳することになった次第です。

いくつかの違ったバージョンがあると記述しましたが、一例を挙げてみます。それは棟梁マノレの生きざまに関する事柄です。

ここに翻訳したルーマニア語の原典では、棟梁マノレは他の石工と同様、何とか生き延びようと屋根の板をはがして作った翼を使って修道院の屋根の上から飛び降ります。しかし、他の石工と同様に失敗して墜落し、死んでしまいます。このマノレの行動はあくまでも9人の石工を率いる棟梁の姿として納得できるものです。別のバージョンでは、棟梁マノレは愛する妻を壁に塗り込めることによって創造意欲を全うした自分を恥じて、他の石工たちとは違って、修道院の屋根から身を投げてしまいます。ここでのマノレの行動は棟梁としての姿ではなく、妻を愛する一人の男としての一面が描かれています。

多くの読者の方々は後者のバージョンの結末を好まれるのではないでしょうか。個人的には私もそれに賛同です。

なお、2点の写真は201167日に撮影したものです。

(June/18/2011大田芳道記)