2012年12月4日火曜日

ブカレストの街を歩く(前編)


ブカレストの街を歩きながら、2012年を振り返ってみたい。まだ僅かな数ではあるが、手持ちの写真を挿入することによって、このブログを読む方々が少しでもブカレストの街を歩いている気分になっていただけたら幸いだ。何処を歩くかはその時の気分次第ということで、まずは外を歩いてみよう。

当地へ来てからは車の運転を止めることにした。地理の不案内な街では運転そのものが大変だな、という思いがあった。また、言葉の問題も気持ちのどこかに引っかかっていた。ルーマニア語による日常会話は問題はないと自負してはいても、「もし、何か極端なことが起こったら...」という懸念もあった。

ということで、私の行動半径は自ずから限られているが、天気のいい日にはカメラをぶら下げて外出したくなるのが常だ。
(注:写真を拡大したい場合は、写真の上を左クリックしてください。)

雪が止んだ!

2011/2012のヨーロッパの冬は厳冬だった。2月、ルーマニアでは半世紀ぶりと言われる大雪に見舞われ、幹線道路が130箇所も通行止めになった。この間、全国レベルでは3,500校もの学校が休校になったという。ドナウ川が26年ぶりに凍結し、水上輸送は大打撃を受けた。

親子連れで繰り出す人たち。テタン公園にて。

愛犬と一緒に散歩する人
 
子供たちで賑わうスケートリンク
 
ブカレスト市内には数多くのショッピング・モールがある。最初のモールは1999年に開店し、140の店舗が入っている。過去10数年間に次々と新しいモールが出現した。最近のモールは大型化して、300店も入っているという。ブカレスト市内だけで大小8箇所もあり、さらに建設中のものもあると聞いている。あるモールではスケート・リンクが子供たちで賑わっている。ジャンプや回転に挑戦する姿も見える。実に楽しそうだ。
ショッピング・モールは空間が広いので散歩をするには格好の場所である。ブラブラと展示商品を眺めるのもいい気分転換となる。ただ、問題は衝動買いのリスクにさらされるので、散歩を始める前に衝動買いには十分気を引き締めてかかることが重要かも。週末は特に人出が多く、午後になると建物内部の温度が上がり汗だくになることがある。また、特定の店舗ではビートのきいた音楽を鳴らして購買意欲を煽ろうとしているらしく、騒音レベルがいささか高すぎるような気がする。ボリュームを少し下げて欲しい、と言いたい程だ。
ブカレスト市民の購買意欲は旺盛だ。こういったショッピング・モールを始めとして、食料品や雑貨の大型小売店もたくさんある。ファースト・フード店はどこも大賑わい。ガソリン代はリッター当たり150-160円もするのに街には車が溢れている。私は1970年代から80年代の始めにかけてルーマニアへ2回の出張をして、合計で7年間住んでいた。当事、食料品店の商品棚は殆ど空っぽだった。そんな店舗の様子を毎日のように自分の目で見ていただけに、今のブカレスト市民の消費生活には隔世の感がある。
氷はすっかり融けた。波にきらめく早春の陽射しが眩い。テタン公園にて。
 
スモモの花が満開、バレーボールに興じる子供たち。近くのテタン公園にて。
 
そこいらじゅうで花が咲き乱れ、子供たちの歓声が聞こえる。この公園はひょうたんのような形状をした湖の周囲を散歩をすることができる。一周を歩くだけだで約1時間。自転車に乗った人、ローラースケートやジョギングを楽しむ人、ベンチに腰をおろして編み物に余念のないご婦人方、新聞を読みふける人、仲良しの若い二人連れ、乳母車を押している母親たち、犬を連れた人、水鳥に餌を撒く親子連れ、あるいは、チェスやバックギャモンに没頭するおじさんたち。季節にもよるが、釣り糸を垂れる人たちも。人が集まるので、週末にはアイスクリームやビールを売る小さな店がたくさん開く。自転車のレンタル店もある。
 
国会宮殿
 
ブカレストの街は、何と言っても、故チャウシェスク大統領が権力の象徴として大動員をかけて建設した人民宮殿(今は国会宮殿と呼ばれている)を語らずに素通りすることはできない。今年は日本からやって来た4人の高校時代の同級生とこの国会宮殿の内部をガイド付きで見学する機会に恵まれた。正直言って、目の前にあっても内部の見学はなかなか出来ないままでいただけに貴重な機会となった。
 
国会宮殿の一部、正面から

270mX240m、地上86m、地下92m、全部で12階建て。総床面積は34万平米。様々な要素を含んだネオ・クラシック調の建築様式だと言われている。つまり、古代ギリシャやローマを想わせる様式だ。確かに、この建物の外観は非常に荘重だ。建物としての美しさみたいなものがある。また、内部も然りだ。見事なシャンデリア。さまざまな色調(赤、ピンク、白)を持った大理石はすべてルーマニアの国内産。木材も殆どが国内産で、クルミ、樫、桜、ニレ、楓、等が使われているとの説明があった。主任建築士のアンカ・ペトレスク(1949年生まれ)の下で700人の建築家がこのプロジェクトのために働き、2万人の労働者が昼夜兼行で工事に従事したという。この国会宮殿の建設は1984年に開始され、1997年に完了。ルーマニア革命の頃は未だ建設の途上だったということになる。30億ユーロの費用をかけたものだそうだ。1,100室もあるのだが、依然として未完成のままの部屋がたくさんあるという。総じて、独裁者が威信をかけて建設しただけのことはある。
ただ、故チャウシェスク大統領には負のイメージが強烈にあって、この黒海宮殿を見学する際にそのことが常についてまわるのが残念だ。今でも、YouTubeの動画サイトでは、銃殺刑直後の映像も含めて、1989年のルーマニア革命のドキュメンタリーをみることができる。

この壮大な建築物を建てるためには多くの民家や教会が立ち退きを余儀なくされたことは想像に難くない。住み慣れた家や通りから高層アパートへの引っ越しを強制され、長年培ってきた地域社会の絆から完全に断ち切られた人たちがたくさんいたことだろうと思う。そして、そのような状況はこの敷地に住んでいて立ち退きを迫られた人たちだけには留まらず、全ルーマニア国民が大なり小なり同様の状況に置かれていたのも事実である。
今でもこの建物の存在価値に関しては賛否が分かれているようだ。私自身は、この国会宮殿は建物としての存在価値が多いにあると思う。

ウニーリ大通り

国会宮殿から真っ直ぐに東の方向に延びる通りは「ウニーリ大通り」だ。中央分離帯には噴水設備が幾つも設けられている。写真の左側には国会宮殿が見えている。このウニーリ大通りも国会宮殿の建設の際に併行して建設されたもの。通りそのものと通りに沿って林立するアパート群とがよく調和している。特に、建物の角には「丸み」がふんだんに施されておりこの丸みが全体の景色の特徴を仕上げているように感じられる。故チャウシェスク大統領の念頭にはパリの現代建築の姿があったらしい。ある専門家の説明によると、この通りの設計にはスペインの建築家、リカルド・ボフィル(1939年生まれ)に触発されたポスト・モダニズムの風潮が現れているという。

カーレア・ヴィクトリエイ

ウニーリ大通りは新しい。一方、カーレア・ヴィクトリエイ(勝利通り)は豊富な歴史を背負っている通りだ。それだけに、この通りにはホテル、レストラン、ブテック、等が軒を連ねており、市中で最も賑やかな通りのひとつとなっている。カーレア・ヴィクトリエイが終わる角地にはスポーツカーで有名なフェラーリの店もある。

当初、この通りはブラショフとブカレストとを結ぶ通商のための通りということで「ブラショフ通り」と呼ばれていたそうだ。当時は春と秋には雨のために道路が泥んこになって大変だったらしい。その問題を解決するために木材を道路に敷き詰めたと言われている。そして、この通りは最もファッショナブルな通りとなった。裕福な人たちはこの通りに魅せられて集まり、1775年には貴族の大きな邸宅が35棟も並んでいたという。しかしながら、木材を敷いた道路は補修が大変だったようだ。その後、馬車によってできる轍を防止するために玉石を敷き詰めた道路となった。さらには、アスファルト舗装の道路に変わっていった。このカーレア・ヴィクトリエイは3世紀にまたがる道路舗装の歴史を深く刻んだ通りでもある。
カーレア・ヴィクトリエイとは「勝利通り」を意味し、当時のルーマニア公国がオスマン帝国から独立したこと(1878年)を記念して名付けられたものだ。

レストラン「カーサ・カプシャ」

かっては文化人や芸能人ならびに政治家たちがたむろしていたと言われるレストラン「カーサ・カプシャ」。その入り口を飾る照明具は当時の時代感覚を伝えている。しかし、今は急速に変化しているブカレストに取り残されている感じだ。









ピアツ・ウニーリ



ウニーリ大通りから左へ折れるとピアツア・ウニーリだ。ピアツアとは「市場」という意味。大きな古いデパートがあり、マクドナルド店があり、地下鉄の駅もあって、人通りが一段と激しい。数多くのタクシーが客を待って並んでいる。また、オールド・タウンがすぐ近くだ。オールド・タウンへ入ると、それぞれの通りにはテーブルを並べたテラス・レストランが延々と並んでいる。週末には、地元の人たちや旅行客でいっぱいになって、空席を見つけるのも難しい程になる。

花菖蒲の群落と樹陰。ブカレスト植物園。
 
風に揺らぐ小さな黄色い花
 
初夏。花の季節が過ぎると、ブカレスト通りの歩道は緑で覆われる。菩提樹のうす黄色い小さな花が落下して路面を覆う頃、甘い芳香が通りに漂う。ハニー・サックルの蔓が絡まる生垣では、繊細な白い花弁が目を楽しませてくれる。そんなある日、ブカレスト植物園を訪れた。バラ、花菖蒲、芍薬、卯の花、等の花々が季節を謳歌している。とある一画では、名もない黄色い小さな花の群落が風に揺れている。
 
睡蓮
 
植物園の一画には小さな池があって、そこには睡蓮が花を咲かせていた。周囲を木々に取り囲まれて水面は暗い。それでも、ところどころに木漏れ日がうっすらと差し込み、最小限の明るさを何とか保っている。都会の喧騒からはすっかりと切り離され、あたかも時間が停止しているような空間だった。
 
薔薇。テタン公園にて。
 
また、この頃はバラの季節でもある。ブカレストへの引越しの前10年間は群馬県の高崎市に住んでいた。バラの季節になると、前橋市の敷島公園にあるバラ園へ出かけたものだ。色とりどりのバラがたくさん植わっていた。
こちらでは、バラ園の様子がどこか違う。まず、空間の取り方が非常に贅沢だ。それに、個々のバラの仕立て方に大きな違いが見られる。地上約1メートル位は一本の幹のままで伸ばし、そこから枝を広げさせている。そんな感じの仕立てが一般的だ。
ヒマワリ畑。7月の第1週。
この夏はかなりの暑さだった。40度Cを越す日が何日もあった。夏らしさを伝えるヒマワリの花を撮影するためにブカレストを出た。知り合いのタクシーでウルズチェニの方向(ブカレストから北東)へ出かけた。たくさんのヒマワリ畑に遭遇。あるものは花の時期が過ぎ、あるものはこれから咲くところ、またあるものは真っ盛りという状態だった。「いったいどこまで続いているの」と聞きたくなるような感じだ。ヒマワリ畑はルーマニア農業を象徴するものでもあり、その広大さはさすがにすごい。素晴らしい景観であった。





ブカレスト大学法学部
 
ブカレスト大学は市のほぼ中心部にある。創立は1864年だとういうから、日本では明治初年の4年前のことである。現在、18の学部に分かれている。
写真の建物はブカレスト大学の法学部であって、1935年に完成したものだそうだ。そして、正面の壁には5人の法律家の像が立っている。左からスパルタ、ソロン、キケロ、パピニアン、ユステニアン。時代はそれぞれ異なるものの、ローマやギリシャあるいは東ローマ帝国で法律家として名を残した人たちである。法学部らしい作りだ。この法学部の建物は大学広場からは少し離れて、チシミジウ公園の近くに位置している。
旧ブカレスト市庁舎
夏を過ぎた頃、またブカレストの街をブラブラしてみた。ブカレスト市の旧庁舎の前へ出た。ルーマニアと欧州連合の旗が飾られている。
壁に残されたいくつもの弾痕。旧ブカレスト市庁舎。
 
そして、この建物の壁面には1989年のルーマニア革命当時の弾痕が補修されずにそのまま残されている。市街戦の痕跡が今もここに保存されているのだ。
 
 
<この続きは「後編」をご覧ください>


 
 
 
 



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