[注:何故かフォント・コントロールがうまく行きません。文中フォントがごっちゃ混ぜになっていますので、読みにくいかと思います。ご容赦ください。]
12月4日付けの記事に非常に興味深いものがあった。それは覇権国としての米国の政治・経済・軍事的な機構を法的な枠組みから解説したものだ[注1]。
表題を仮訳すると「法的帝国主義と国際法」となっており、「法的」という言葉がどういう意味で使われているのかという疑問が湧いてくる。直ぐに判明することではあるのだが、これは覇権国にとって都合の良い法理であって、決して普遍的な意味合いで使われている訳ではない。著者はニューヨーク州立大学ビンガムトン校の名誉教授、ジェームス・ペトラス氏(専門は社会学)。記事の冒頭で著者は次のように述べている。
経済評論家たちは帝国主義的な債権者が借金に喘ぐ国やその国の納税者、労働者、従業員、あるいは、生産的な産業分野、等から通常は取立てが非常に厄介な使用料や特許料あるいは貸した金をどのようにして回収してきたかに関して膨大な資料を残している。
しかしながら、十分に精査されてはいない分野がひとつある。それは帝国主義的な戦争や略奪ならびに債権回収についてさまざまな情報を与え、それらに正当性を与えることによってその根拠を解説し、それらの行為を促進するのに役立つ非常に包括的な法体制の存在である。
帝国主義的法体制の中心性
帝国の確立では軍事力や暴力、特に、公然とした軍事的介入や秘密裏における軍事的介入が常に中心的な役割を果たしてきた。しかし、法的な真空状態にあっては事がまったく運ばない。つまり、司法機関や判決および判例が帝国樹立の先頭に立ってその道を開き、それと共に歩み、あるいは、その後に従って行くといった切っても切れない関係が存在する。帝国主義的行為の合法性の説明はその帝国自身の法体制や司法の専門家らに大きく依存する。彼らの法的な論理や意見は常に国際法を踏みにじり、帝国が介入しようとする相手国の国内法を覆すものとして提言される。容赦もない軍事力によって覇権国の法体系がいとも簡単に国際法を優先することになる。そこには帝国主義・植民地主義的な態度があり、国際法に対する優越性を確実にする陸軍や海軍の存在がその背景にある。それとは対照的に、国際法にはそれを効果的に執行させるメカニズムがない。さらには、国際法は弱小国だけに適用され、覇権国によって「違反者」と見なされた政府に対してのみ適用される。司法プロセスそのものは国際法の解釈や国際的犯罪の調査を行い、罪を犯した当事者を逮捕し、彼らに判決を下し、彼らを罰する判事や検事の任命することも含めて、それらの行為のすべては覇権国の直接の影響下に置かれる。換言すると、国際法の適用と管轄権は選択的であり、覇権国の形態によって形成される諸々の制約により左右される。国際法はせいぜい良くても道徳的判断を与える程度だ。つまり、覇権国の戦争犯罪や略奪を正したいとする国家や政権ならびにその国民の政治的要求を強化する上で多少は意味のある基盤を与える程度だと言える。国際法、特に、戦争犯罪や人道に対する犯罪といったジュネーブ議定書の領域においては、覇権国の法律の専門家や学者ならびに判事たちが覇権国の行動を正当化しそれらを免責とする法的枠組みを策定してきた。
上記の内容は驚くばかりだ。個人的な印象を述べると、「法律論的に厳密に理解しようとすればこういうことだったのか」との思いが非常に強い。特に、下線を施した部分は現在日本政府が米国に追従し、後押しをしようとしているTPP(環太平洋経済協定)そのものの姿ではないか。著者は帝国主義的な新経済主義を明確に分析してくれている。
TPPのISD条項は日本の国内法を超越した形で米国の多国籍企業や投資家の利益を最大限に守る役割を与えられているのだ。日本側に不服がある場合は仲裁のプロセスが用意されている。しかしながら、それは格好ばかりであることを理解しておく必要がある。一たび仲裁の裁定が下されると、上告は許されずその裁定に従うしかない。仲裁裁判所の仲裁パネルに任命される3人の判事は多国籍企業や投資家たちのために働く弁護士であったりする。つまり、彼らはそれぞれの役割(時には企業の弁護士として、別の機会には仲裁パネルでの仲裁者として)を企業弁護士村の中で「たらいまわし」にしており、このTPPの仲裁システムにおいては彼らに十分な説明責任は期待することができない。
これらについては先に掲載したTPPに関するブログでも述べた通りだ。
帝国主義的法体系の使用
歴史を通じて見られるように、帝国の樹立は征服の結果もたらされる。つまり、圧倒的な武力の行使または武力による脅かしによる。米国が樹立した世界帝国もその例外ではない。そこでは、従順な一国の指導者は帝国の君臨を自国に招じ入れ、帝国の君臨の前に屈服する。傀儡、あるいは、利権目当ての指導者側によるこのような背信行為は、通常、人民蜂起を誘発することが多い。しかし、これは後に帝国とその協力者たちとの連合軍によって鎮圧されるのが落ちだ。協力者たちは蜂起した国民を弾圧するために招じ入れた軍事的介入を正当化しようとして覇権国の法理を引用する。抑えのきかない武力を直接的あるいは間接的に活用することによって帝国が現出することになる。しかしながら、帝国を維持し、それをさらに強化するには法的な枠組みが必要だ。その法理は、様々な理由から、帝国の拡大や強化に先立って体系化されることもあれば、それと共に前へ進んだり、その背後について行きながら次第に形成されていくこともある。
合法性は帝国が何らかの手段によって成し遂げた征服の延長線上で試される。恒常的な戦争状態は帝国を維持するためのコストを引き上げる。特に、帝国主義的な民主主義社会においては、武力は政治家や市民が支えている市民道徳を蝕むことになる。征服された国家において法と秩序を維持するには、帝国の支配を支える司法制度やそのための基本政策が必要であり、その外界世界に対しては正当性を誇示できるような外観を見せつけ、協力者クラスの高官や個人を魅了し、地域や国の軍部、司法ならびに警察の幹部に対して有効な支配基盤を提供する必要がある。
帝国の司法当局による表明は、たとえそれが政府、司法、軍部、あるいは、行政組織によって直接発行されたものであったとしても、「この世の究極的な法」と見なされ、それは帝国に属さない政府や専門家たちによって作成された国際法や議定書を優越するものとなる。そうは言っても、これは帝国の支配者が必ずしも国際法を全面的に葬り去るということでは決してない。彼らは自分の反対者に対しては選択的にそれを適用する。特に、帝国主義的介入や侵攻を正当化するために独立国家や指導者に対してのみそれを適用する。こうして、ユーゴスラビアを解体し、イラクへの侵攻を行い、その指導者たちを暗殺した。
たとえ侵略された国の裁判所が違法であるとの裁定を下したとしても、帝国内の多国籍企業や銀行、債権者あるいは投機家からの経済的要求に順守することを強制させるために、法的な裁定は当事国に対して帝国の司法当局から発行され、指示が出される。帝国の法律は、人権に対する犯罪や公共財産の着服あるいは民主主義体制の破壊のかどで有罪と判決されたかっての協力者や支配者たちさえをも保護し、彼らに庇護を与え、財政的な支援を提供する。帝国の司法当局や行政組織は自分たちに敵対する他の帝国主義的な国に対しては銀行や金融機関について選択的に捜査を行い、起訴し、厳しい罰金を課し、そうすることによって帝国内の企業の経済的地位を強化するのに役立たせようとする。
上記の下線を施した部分はそれ自体が目新しいというものではない。過去の歴史を見れば、米国市場において日本企業が罰金を受けた事例はたくさんある。最近、韓国がそのような日本の新しい仲間として登場してきたことはご存知だろうか。
11月14日の中国情報サイトの報道[注4]によると、米国で談合を行ったとして韓国企業に課せられた罰金の額は日本に次いで世界2位だとのこと。何故韓国と日本がダントツなのか?もう誰もが明確な答をお持ちだと思う。私は個人的に談合を推進したり、擁護する積もりは決してなく、覇権国が自国の市場での競争相手の国に対して実に手厳しい対応をとるという冷徹な事実をここに紹介したいまでだ。
米国は表面的には「日米同盟の深化」を高らかに謳い、日本政府も諸手を挙げてそれに呼応しようとしている。その一方で、米国は自国企業の競争力に有利になるような環境を作り出そうとしている。硬軟取り混ぜた米国の巨大な「帝国主義マシーン」が稼動しているのだ。韓国のサムスン電子と米国のアップルとは今四つに組んで世界の市場で競争をしている。特許係争も起こっている。この係争は起こるべくして起こったという感が深い。米国はアップルを保護するために今後も機会がある度にサムスン電子を容赦なく叩くことだろう。日本は過去20-30年間にわたって全く同じ状況を何度も経験してきている。
米国にはこうした経済戦争を可能にする強力なインフラが存在する。それは自国の利益を守ろうとする弁護士たち、ならびに、彼らが形成する弁護士社会だ。日本にはそれに匹敵するインフラはない。
弁護士の数を日米間で比較してみよう。2011年4月の時点で米国で登録されている弁護士の数は1,225,452人(ウィキペデイアから)。2011半ばの米国の人口は約311,800,000人。弁護士一人当たりの人口は254人。日本では、2012年3月31日現在の弁護士数は32,088人(日本弁護士連合会のサイト、www.nichibenren.or.jpから)。また2012年4月1日現在の確定人口は1億2756万人7千人。したがって、弁護士一人当たりの人口は3,975人。米国の人口当たりの弁護士数は日本のそれと比べて15倍も多い。
ただし、国によって弁護士の定義が異なると言われている。日本では司法書士は弁護士とは別個の認定・登録がされているが、米国では分離されてはいない。日本には約2万人の司法書士がいる。同様に、税理士が7.1万人、弁理士が0.9万人いる。これらを総計すると約13.2万人となる。この場合、日本の弁護士(司法書士、税理士、弁理士を含めて)一人当たりの人口は966人となる。日米比較をすると、依然として3.8倍もの開きがある。
このインフラの別の側面を見ると、米国内には約200校もの法学部があって、過去20年間にわたって毎年4万人の新卒が巣立ってきた。弁護士が余りにも多く、弁護士数を縮小するべきだとの批判が出ているほどである。新卒者が全員弁護士になるとは思えないが、毎年4万人の新卒という数はすさまじい規模だ。一方、日本では、日本弁護士連合会のデータによると、最近5年間の各年の新規登録者数は2008年の1,922人から2012年の1,603人へと漸減している。
国際的な経済戦争において「インフラとしての弁護士」を日米で比較する際に忘れてはならない点のひとつは実務に必要な英語能力である。日本人の英語能力の欠如が足かせとなるのではないかと懸念される。定量的に論じることはできないが、日米比較をする場合、英語能力を加味した時の日米間の「インフラとしての弁護士」の実務における機動性や国家規模での動員能力には非常に大きな差異が出て来るのではないか。上記に示した弁護士数の差異がさらに一桁も二桁も大きな違いとなるのではないだろうか。
最後に、先頭にたって一国を引っ張って行く政治家の資質や職業的背景もこの国家的なインフラに大きな影響を与えるのではないかと思う。米国では議員たちの職業的背景で一番多いのは弁護士である。彼らは法律を専門的に扱うことに習熟しており、経済的紛争を法律面から追求することに慣れている。そういう専門性を持った議員たちが最も多いのだ。日本では地方議会の議員あるいは国会議員の秘書役から国政に転じるケースが一番多い。これらの人たちは最初から政治の世界に浸ってきた人たちであり、法律という専門領域では素人である。国会議員たちの専門領域やプロとして経験したことがある専門分野については日米間で大きな違いがある。このことも無視できない要素だと思う。
質と量の両面で高度に築き上げられた「帝国の法的インフラ」を有する米国の姿を眺めてみると、米国の持つ覇権国としての国家像がより鮮明に理解できるような気がする。この認識はTPPにおけるISD条項の存在が何を意味するのかをより客観的に理解する上で重要な役割を果たしてくれる。
司法当局の高官は帝国の政治・経済の権力者たちの道具の役割をするばかりではなく、彼らは他の政府機関の高官や事業分野からのエリートたちを道具として使い、時には、彼らを出し抜くことさえもある。特定の金融分野との繋がりを持った判事は一握りの債権者たちのために他の多くの債権者を差別化することもある。最近のある裁定では、ニューヨークの判事が長い間返済ができない状態にあった国債に関して少数の債権者のためにアルゼンチン政府に対して全額を返済するよう裁定した。この裁定内容は、大手の債権者たちとの間ですでに再構築された部分的返済という大筋とは完全に相違するものだ。
この下線部分は最近の時事問題を引用したものだ。アルゼンチン政府に貸してあげたお金の取立てに関するものである。大手の債権者との間で和解が成立しようとしていた矢先に出されたこのニューヨーク地裁の裁定について、アルゼンチン大統領のクリスチナ・フェルナンデス・デ・キルチネルは「わが国は法的帝国主義の犠牲になろうとしている」と悲鳴をあげた[注5]。アルゼンチンの国民感情に火がついて、アルゼンチンの世論は右傾化しているとの報道もある。ここに見られる光景は米国の地方裁判所の一判事が一部債権者の利益のためにかなり偏向した裁定を下し、その結果アルゼンチンという独立国を翻弄している姿だ。
帝国の法理が国際的金融テロの実践にその根拠を示し、それを正当化する上で中心的な役割を演じたのである。米国のブッシュ大統領やオバマ大統領には無人飛行機を使って国境を越えて反対者を暗殺し、軍事的介入を実行する法的権限が与えられた。これらの行為は明らかに国際法や国家主権の侵害である。他の国の全てを超越して、帝国法は他国への侵略や経済的搾取を合法化し、侵略の目標となった国家の法を弱体化させ、その国の国民は犠牲者となり、無法状態や無秩序にさらされる。
帝国主義的法律や裁判所が下す裁定は、世界の法理システムが何段階もの階層によって成り立っているとの想定に基づき、帝国による征服のために必要なひとつの基盤を形成する。この考えにおいては、帝国を世界の中心に据えた法システムが軍事的に弱小な国々の法システムを凌駕する。各階層についてはさらなる詳細がある。互いに競い合う様々な帝国主義的法システムは党派政治や経済のエリートたちにとって最も有利な形で争いごとを解決する。大権力者たる帝国に追従するお得意さんたちは帝国法によって有利に受け入れられる。しかし、反対者たちは帝国法によって厳しい扱いを受ける。
上記の下線部は孫崎享著の「戦後史の正体」を彷彿とさせる内容だ。同著者は、戦後60数年間にわたって日本政府の歴代首相の在位期間を検証した。対米従属派の首相は長期政権を維持することができたが、日本の国益を防護するために自主独立路線を標榜した首相の内閣は短命に終わったと詳細に分析している。敗戦国たる日本においては、米国を前にして日本の国益を最優先にして政治をすることが如何に難しいことかが端的に現れている。現実にはほとんど不可能だ。これが日本が置かれている現実の姿なのである。
結論
世界規模の帝国主義システムにおいては、明らかに、世界中が受け入れることができるような普遍的な法典に準拠しようとする裁判機関などは存在しない。それぞれの司法当局は帝国主義的特権に有利な政策を熟考し、それらの特権を積極的に推進しようとする。一裁判官が個別の帝国主義的な政策に反対して裁定するような場面が起こることもあるが、そのような例は稀である。長期的にみると帝国法が裁判所の見解を導いていくことになる。
帝国主義的な法理や裁判所の決定は帝国主義戦争や経済的な略奪のための基礎を設定する。帝国に仕える法律の専門家たちは、帝国の安全保障に対する危機が目前に迫っており恒常的なものになるかも知れないと主張することによって、暗殺や抑圧ならびに拷問や恣意的な逮捕をしたとしても、これらは決して憲法秩序と矛盾をひき起こすものではないとして、再定義を試みる。
法律は単に経済や政治の公共機関の権力を反映する上部構造の一部として存在するだけではない。法律は帝国の教義を実践するための物的資源に責任を有する経済や政治関連の公共機関をひとつの方向に導き、それらの方向性を決定する。
この意味合いにおいては、帝国の支配者は進歩主義的な批評家が議論するような「無法な存在」であるという訳では決してない。
むしろ、彼らは「帝国主義的な法理」に則って機能し、帝国を樹立するための法的な教義に対しては忠実であろうとする。帝国主義的な支配者たちのほとんどが憲法が保障する権利や国際法を踏みにじると批判することは無意味だ。仮に帝国の支配者が帝国主義的特権をむしばむような憲法レベルの議題を法制化しようとしたり、さらに悪いケースとして、残虐な帝国主義的な政策を実施した部下を訴追するために国際法を適用しようとしたならば、その支配者は職務怠慢であるとして、あるいは、意図的に不道徳な行為をしたとして即座に非難を受け、不信任となろう。あるいは、政権から引きずりおろされることだろう。
ここで冒頭で引用した記事の仮訳は終わる。
アメリカ映画やポップ・カルチャーを通して理解してきた米国の国家像は、多くの場合、自由の国、民主主義の国といった言葉で形容され、まばゆい程に輝いていたものだ。米国の本心は何かなどと疑う理由は何もなかった。サン・デイエゴの街でブーゲンビリアの赤い花が咲き誇る住宅街を歩き、ラ・ホヤ海岸へ歩を進めて行く時に感じたあの開放感が今でも思い起こされる。カリフォルニア州立大学やスクリップス海洋研究所の図書館は外国人である私にも心地よく対応してくれた。市民に対する開放的なサービス振りに接してひどく感心したことが思いだされる。アメリカ社会には裕福な国だけが持つことができる、ある特有なおおらかさがあったような気がする。日本とは異質の自由を感じた。そういったアメリカが好きだった。
自分たちが育ち、社会に巣立っていった頃の日本社会について自分自身が感じていたことなどを振り返ってみると、ハリウッド映画やデイズニーランドは米国帝国主義の先兵の役割を担っていたのかも知れないと思われてくる。米国帝国主義という遠大な構想の中で日本や他の国々をやんわりと懐柔する役目を持っていたのではないか。ポップカルチャー版のグローバリズムの浸透の結果、日本でさえもハロウィーンを祝うようになってすでに久しい。これらの社会現象には経済や通商におけるグローバリズムや新経済主義という響きの良い言葉と相通じるものがあると言えよう。帝国主義国家のこの硬軟取り混ぜた攻め方は実に心憎いほどだ。
我々日本人が戦後60年余りの間お付き合いをしてきた(あるいは、お付き合いをさせられてきた)米国がどのような国であるのかがはっきりと分かったような気がする。世界に君臨する帝国主義国家としての米国は他国との関係をどのように保とうとしてきたのか、他国をどのように導こうとしてきたのかが分かってきた。特に、太平洋戦争で敗戦国となった日本をどのように扱おうとしていたのかについて明確に理解できたのではないだろうか。
私が経験した米国での生活はイラク戦争の前だった。「アメリカが好きだった」と上記で述べた。「イラク戦争の前だったからそう感じたではないか」と言われるかも知れない。確かに、イラク戦争を境にして米国の対外政策には賛成できないことが実に多くなってきたように思う。
12月26日の追記:
米国帝国主義の被害者の立場にある日本の視点で歴史を振り返ってみた。ここで忘れてはならないのは、日本が植民地主義に走り朝鮮併合を行った歴史的事実である。米国を前にして今の日本が置かれている不条理、例えば、沖縄の米軍基地にかかわる問題に関して論じれば論じるほど、かつての朝鮮半島の人たちが日本の施政についてどれだけ不条理を感じていたかを理解する必要がある。このプロセスを抜きにしては、米国帝国主義を批判し続けることはナンセンスだと思う。これにどう答えるかによって、我々日本人の理性が十分に大人になっているかどうかについて試験をさせられているようなものだと認識しておかなければならない。
注3: FROM WOUNDED KNEE TO LIBYA: A CENTURY OF U.S. MILITARY
INTERVENTIONS: by Dr. Zoltan Grossman, academic.evergreen.edu/g/grossmaz/interventions.html
注4:米国で談合した韓国企業の罰金、日本に次いで世界2位=韓国:2012年11月14日、news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d...
注5:New York judge’s ruling sparks
nationalist surge in Argentina: By Emily Schmall, Contributor, December 10, 2012
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