2013年11月19日火曜日

ノーム・チョムスキー: 「文明は資本主義の時代を生きながらえることができるか」 


個人的な話になるが、今年は国際政治の究極の段階とでもいえる戦争に関してかなりの時間を費やした。尖閣諸島問題を始め、シリア紛争については毎日のように多くの時間を情報検索のために使っていた。ブカレスト市に住んでいる私にとっては日本のテレビを見たり新聞や雑誌を購読することは事実上できないので、情報はインターネット上であれこれと検索し、これはと思う記事を拾うことになる。知りたいと思う件については自分の方から情報を取りにいくしかないのだ。この8月、シリア紛争は短期間の間に思わぬ方向へと劇的に展開したことから、しばらくの間私はインターネットに釘付けにされてしまったかのような状況だった。その結果、自作自演の戦争行為をさまざまな角度から知ることができた次第だ。
しかし、今日は環境問題に立ち入ってみたいと思う。
日本では、この秋の台風シーズンに伊豆大島が大豪雨に見舞われ、大規模な土砂災害が発生した。多くの犠牲者が出た。伊豆大島に住む人たちにとっては、このような大規模な土砂災害は生涯で始めてだったという。今までの経験の延長線上では考えられないような状況だったということだ。犠牲者の方々に黙祷したいと思う。
この10月に日本列島に接近した台風の数を見ると、今年は歴史上最多とのことだ。
そして、つい最近フィリピンを襲った超大型台風30号による被害の全貌が判明しつつある。犠牲者数は1116日の時点で国連の推計では3600人を超すと報道されている。街並みが消えてしまい、瓦礫と化した。
暑い夏のシーズンが以前に比べて長期化していると言われている。
オーストラリアで毎年発生する山火事は人口の密集度がもっとも高い州で最悪の事態となった。シドニーの郊外にまで迫った。年中行事になっているとは言え、山火事が発生する期間は長期化し、その規模が大きくなっていると報告されている。米国アリゾナ州のフェニックスでも、今夏、史上でもっとも暑い夏となった。3年前の2010年には、ロシアを襲った暑い夏は大規模な森林火災をもたらした。衛星写真を見ると、赤い炎が何箇所にも見られ、白煙が大きく広がっている。130年前に気象データの記録が始まって以来もっとも暑い夏だった。
地球規模で見ると、地球の温暖化は平均気温で0.8Cの上昇だという。しかし、地域的にみると、気象現象の変動はより大きな振幅となって現れる。巨大な台風になったり局地的な大豪雨をもたらしたりすることが多い。最近の気象データや世界各地で起こっている水害や土砂災害あるいは森林火災の規模をみても、この傾向は否定できない。
世界の気候変動、つまり、地球の温暖化は多くの地域ですでに日常生活の脅威となっている。この環境の激変はどこまで進行するのだろうか。今世紀末にはどんな気候が待っているのだろうか。それは想像を絶するような世界かも知れない。 

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世界でもトップ・レベルの論客であるノーム・チョムスキーの最近の記事[1]を今日は覗いてみたい。その表題は仮訳すると「文明は資本主義の時代を生きながらえることができるか」だ。内容は環境問題。深刻な地球規模での環境問題を抱えて、資本主義はいったい生きながらえることができるのだろうかという観点から論評をしているのだが、その評価は非常に懐疑的だ。
チョムスキーの活動分野はすこぶる広い。特に、国際政治の分野では、チョムスキーはベトナム戦争への反対を意思表示したことを始めとして、多方面にわたって大きな足跡を残している。言語学者としてばかりではなく、高齢になった今でも言論界にはさまざまな形で影響を及ぼしているようだ。ウィキペディアの説明を拝借すると、彼の業績は下記のように記述されている。その記述をみるだけでも、チョムスキーの偉大さが分かる。
 
 
エイヴラム・ノーム・チョムスキー英語Avram Noam Chomsky1928127 - )は、アメリカ合衆国哲学者言語哲学者言語学者社会哲学者論理学者チョムスキー50年以上マサチューセッツ工科大学に在籍し、言語学および言語哲学の研究所教授 (Institute Professor) 兼名誉教授である。
チョムスキーの業績は言語学分野だけにはとどまらず、戦争政治マスメディアなどに関して100冊以上の著作を発表している。Arts and Humanities Citation IndexA&HCI)は1500以上の人文学系の専門誌を網羅し、社会科学や自然科学の分野からも関連データを収録しているが、このA&HCLによると、1980年から1992年にかけてチョムスキーは存命中の学者としては最も多く引用され、全体でも8番目に高い頻度で引用されている。彼は「文化論における巨魁」と呼ばれ、2005年には投票で「世界最高の論客」 (world's top public intellectual) に選出された。
どういう意味合いでノーム・チョムスキーが「世界最高の論客」として選ばれたのかというと、それは、2005年のガーディアン紙[2]によると、彼独特の将来の展望とか国際政治に対する視点から選ばれたものだという。
1991年に旧ソ連邦が崩壊したことから、数十年間続いていた東西冷戦の基本的な構造は消滅した。これによって、米国は一人勝ちの状況となった。まったくの結果論であると私は思うのだが、当時、共産主義に対する資本主義の優位性が様々な形で言いはやされた。それは資本主義陣営の人たちには一種の自己満足や優越感を与えたようだ。
世界市場を席巻しようとする米国の多国籍企業の経営方針は「グローバリズム」とか「新自由主義」と言い直された。しかしながら、たとえ新たな言葉に置き換えられたとしても、米国の経済システムの本質は、物やサービスをより多く販売するために、米国が持つ圧倒的な軍事力を背景に米国の多国籍企業のために海外市場へ飽きることなく展開することである。
このような現状の中、資本主義の将来はノーム・チョムスキーの眼にはいったいどのように映っているのだろうか。それが今日のテーマだ。
チョムスキーの記事[1]を仮訳して、皆で共有してみたいと思う。引用部分は段下げして示す。
「資本主義」という言葉は通常米国の経済システムを指して用いられているが、そこには創造的な変革に対する財政支援から始まって、倒産させるには余りにも大きい銀行に対する政府の保険政策に至るまで、さまざまな国家規模の介入が付きものだ。
このシステムは高度に寡占化されており、市場への依存に限定されている。そして、その傾向は強まるばかりである。企業の利益について言えば、過去20年間、大企業のトップ200社の利益が占める割合は急激に増大した、とロバート W.マックチェスニーが「Digital Disconnect」と題した新刊書で述べている。
「資本主義」は今や資本家が存在しないようなシステムを記述するためにさえも広く用いられている。たとえば、スペインのバスク地方に本拠を置いた労働者所有の「モンドラゴン複合企業体」、あるいは、オハイオ州の北部で保守層からも広く支持を集めて展開されている「労働者所有企業群」があるが、これらふたつの事例はガー・アルペロヴィッツによって彼の貴重な労作の中で詳しく論じられている。
この「資本主義」という言葉は19世紀末から20世紀始めにかけて米国の著名な社会哲学者であったジョン・デユーイが提唱した産業民主主義を指すために用いる者もいる。
デユーイは労働者が「自分たちの産業の運命に関してその主となる」ことを求め、生産、証券取引、広報、輸送ならびに通信を含めて、あらゆる機関を公共の管理下に置くよう求めた。これが不完全に終わると、政治は巨大ビジネスの社会が投げかける単なる影のような存在に留まることになるだろう、とデユーイは論じた。
デユーイが非難したこの不完全な民主主義は近年ズタズタになってしまった。今や、政府に対するコントロール権は収入の尺度で言えばその頂点に集まっているほんの一握りのエリートたちだけに集中しており、「それよりも下にいる大多数の人々は実質的には公民権を剥奪されている。もしわれわれが意味する政治的体制(つまり、民主主義体制)においては政策というものは公衆の意思によって著しく影響されるべきものだと位置づけるならば、現行の政治・経済システムは本来の民主主義からはすっかり逸脱したものとなってしまった。しかも、すっかり寡占化されたものになってしまっている。
「資本主義と民主主義とはうまく整合するのだろうか」という問いかけに関しては、近年、非常にまじめな議論が行われている。もし「実際に存在する資本主義的な民主主義(really existing capitalist democracy)」(これを短縮してRECDと呼ぼう)から今後とも脱却することはできないとするならば、その質問には容易に答えることができる。一言で言うと、両者はひどく相性が悪い。
ここで、RECDについて著者が何を意味したいのかを考えてみよう。RECDという綴りは発音的にはwreckedという単語と重なってくる。その意味は「大破した」とか「破綻した」である。著者が直接そう言っている訳ではないけれども、「現状の資本主義的な民主主義はすっかり破綻してしまっている」と、著者は指摘したいように私には読める。
さらにこの論評の続きを覗いてみよう。
このRECDの時代やそれに同調してひどく希釈されてしまった民主主義を乗り越えて、文明は果たして生き延びることができるのかというと、その可能性はとても低いように私には思える。しかしながら、機能性の良い民主主義であるならば、何らかの違いをこれからでも実現することができるのではないか。
文明が直面している最も重要な議論から反れないようにしよう。最も重要な議論とは環境の激変についてのことだ。RECDの下ではよくあることだが、政府の政策や一般大衆の世論はこの中心的な軌道から大きく反れてしまうことがある。
アメリカ芸術科学アカデミーの雑誌「ダイダロス」の最近号に掲載された幾つかの記事はそのギャップの特質を精査しようとしている。
研究者のケリー・シムズ・ゴラガーの指摘によると、「再生可能な動力源に関して何らかの形を持った政策が109カ国で立法化されている。また、118カ国では再生可能エネルギーの目標値が設定された。しかし、それとは対照的に、米国では再生可能エネルギーの使用を育むために必要となる国家レベルでの恒常的かつ安定的な政策は何ら採用されてはいない。」
国際的な広がりを見せる米国の政策を推進するのは世論ではない。それとはまったく逆である。世論は、どちらかと言うと米国政府の政策が指し示す方向性よりも世界的な標準に遥かに近い位置にあり、科学的合意が形成されている将来の環境災害やそれほど遠い将来のことではなくわれわれの孫たちの生命を脅かすような災害に立ち向かう上で必要な行動についてもより協調的である。
ジョン・A・クロスニックおよびボー・マッキニスはダイダロスで次のような内容を報告している。
大多数の人たちは、電力会社で発電を行う際に生成される温室効果ガスの放出量を削減しようとする連邦政府の政策を好感を持って迎えた。2006年のことではあるが、回答者の86%が電力会社に温室効果ガスの放出を削減するよう要求することや減税措置によってそうするように促す政策に関して賛意を示した。また、水力や風力または太陽エネルギーからより多くの発電をしようとする電力会社に対する同年の減税措置についても好意的であった。これらの大多数の市民の意見は2006年から2010年までずっと同レベルに維持されていたが、その後やや低下した。
一般大衆が科学的な知見によって影響を受けるという現実は経済や国家政策を操ろうとするエリートたちにとっては非常に迷惑至極なこととなる。
彼らが最近心配していることを描写してみよう。それはALECAmerican Legislative Exchange Council)によって州議会に対して提案された「環境問題の理解度向上に関する法律」に見事に反映されている。ALECは民間企業からの資金援助によって運営され、企業群や一部の超お金持ちたちのために奉仕することを目的にして制定された法律だ。
ALEC法とは、K-12という会社が運営するオンライン教室において気象科学については「均衡がとれた学習」を行うよう義務付けようとするものだ。「均衡がとれた学習」とは実に巧妙に暗号化された表現であって、実際には気候変動を否定することを教え込み、主流の気象科学の教えと「均衡」させることが狙いとなっている。それは公立校で「創造科学」を教えることを可能にするために天地創造説の信奉者たちによって擁護された「均衡がとれた教え」とよく類似している。ALECのモデルに基礎を置いた立法がすでに幾つかの州で導入された。
ここには、新自由主義あるいはグローバリズムを推進する資本主義の原理が具体的な行動として明確に現れている。地球の温暖化現象は科学的な知見として大多数の科学者によって受け入れられている。しかしながら、チョムスキーの主張によると、資本の論理はそれさえも覆そうとしている。教育の場で「均衡がとれた学習」を提供し、科学的な知見をこきおろそうとしているのだ。飽くなき利益の追求は留まることを知らない。環境を含めすべてを利益の対象として翻訳してしまうのだ。そして、もちろんのことだが、その結果について責任をとる積もりは毛頭ない。ここに紹介されているALEC法は何と巧妙に作られていることか。素人にとっては、「均衡がとれた学習」という文言からはその背後に隠されている真の理由を見出すことは至難の技だ。この種の洗脳プログラムは他にも数多く存在しているだろうと推測される。
もちろん、その狙いのすべては気象に関する教えの中では言葉のあやを駆使して巧妙に表現されている。疑いもなく、うまい考えだと言えようが、これはわれわれの生存を脅かしかねない。企業の利益を保護する観点から重要だという理由だけで選定されたこのような行動に比べれば、それよりも遥かに重要なテーマを思い浮かべることはさほど困難なことではない。
メデイアの報告は、通例、気候変動に関しては意見がふたつのグループに分かれ、両者間の論争を提起することが多い。
ひとつのグループは大多数の科学者たちや世界中の主だった国々の科学アカデミー、ならびに、専門的な科学雑誌や気候変動に関する政府間パネル(IPCC)によって形成されている。
このグループのメンバーは地球温暖化が進行しつつあるということ、人間活動が大きな要因であること、状況は深刻であり、多分、切迫していること、ならびに、近い将来、恐らくは数十年の内に世界はこの現象が急激に進行する転換点に到達し、後へ戻ることはできないかも知れない、これは厳しい社会的および経済的な影響を伴う、といった点で科学的合意が形成されている。非常に複雑な課題に関してこのような合意に達することは稀なことである。
もうひとつのグループは懐疑派によって構成されている。まだ多くのことは知られてはいないことに警鐘を鳴らす何人かの著名な科学者も含まれている。つまり、状況はそんなに悪くはない、あるいは、状況はもっとひどいかも知れないということだ。
しかし、この不自然な論争からはもっと大きな懐疑派グループが除外されている。このグループはIPCCの定例報告書は余りにも保守的であるとみなす著名な気象科学者たちのことだ。残念なことではあるが、これらの科学者は今までも何度となく正しい意見を述べてきた。
宣伝活動は明らかに米国の世論に対して何らかの影響を与えようとしている。世論は世界的な標準と比べてもより懐疑的である。しかしながら、宣伝活動の成果は背後に控えている主(あるじ)たちが満足するには決して十分ではないのだ。この事実こそが、巨大企業が州の教育システムに対して攻撃をしかけ、一般大衆が科学的研究の成果に関心を寄せるという主たちにとっては不都合で危険な傾向に対して反撃をするひとつの理由となっているのだ。
数週間前に行われた共和党全国委員会の冬の会合において、ルイジアナ州知事のロビー・ジンダルは党の指導陣に対して「われわれは愚かな党のままでいることに終止符を打たなければならない....われわれは選挙民の知性を侮辱するようなことは止めなければならない」と警告した。
RECDシステム内においては、経済や政治システムの主たちの近視眼的な利益を実現するためにはわれわれ国民は愚かなままで、科学や合理的行動によって間違った方向へ導かれることがないように科学的知見や合理的行動をこきおろしておくことが非常に重要なのである。
上述のような関与は奥深いところに隠されており、簡単には確認のしようもなく、非常に選択的な方法でしか観察することができない。これは富裕層や権力者に奉仕させる強力なシステムを維持するためにRECD内で説かれている市場原理主義的な理論に根ざしたものだ。
良く知られているように、公の理論にはさまざまな「市場の非効率性」が存在する。中でも、市場取引では他者への影響を配慮することはできない。これらの「外在性」が招く結果は相当に深刻なものとなり得る。現在進行している経済危機はその好例であろう。これについて因果関係を遡ってみようとすれば、その一部は危険な取引を引き受けた際に「システム上のリスク」(システム全体を崩壊させるような危険性)を無視した大銀行や投資企業にまで辿り着くことが可能である。
環境の激変はもっと深刻だ。現在無視されている影響の中でもっとも極端な事例は生物種の運命だ。一生懸命逃げようとしても逃げ出す場所はなく、その生物が生息する領域と運命を共にするしかない。
将来、(もし人類が生き残るとするならば)歴史家たちは21世紀の初めに起こったこの摩訶不思議な出来事を振り返ってくれることだろう。人類史においては初めてのことではあるが、人類は自分たちの活動の結果として非常に深刻な問題に直面している。つまり、人類の活動そのものが人類のまともな生存を脅かしているのだ。
上述の歴史家たちは、史上でもっとも裕福であり、もっとも強力な国家であり、比べようもないほどの優位性を謳歌している国家がこのやがて起こるかも知れない環境の激変を助長し、しかも、非常に皮肉なことには、それに最大限の支援をしてしまっている現状を観察することになるだろう。
さまざまな社会形態があるが、人類の次世代がまともな生活を送ることができるように最大限の努力を実際に行っているのはいわゆる「原始的な」社会である。つまり、北米先住民族あるいは土着民たちである。
数多くの土着民を抱えている国は地球を保全するという意味合いでは最先端を行くことになる。土着民を絶滅させた国、あるいは、土着民を隅に追いやってしまった国は破滅に向かって競争をしているようなものだ。
エクアドルは非常に多くの土着民を有している。同国は地中に眠っている巨大な石油資源を地下にそのままの状態で維持して行けるようにと先進諸国からの支援を得たいとしている。
それとは対照的に、米国やカナダは、カナダで産出される非常に危険なタールサンドを含めて、引き続き化石燃料を燃焼させようとしている。しかも、このまま自己破壊に向けて突き進んだ結果どのような世界になるのかに関しては何らの注意を払うこともなく、出来る限り早急に開発しよう、できる限り多く使用しようとしているのだ。
この所見は次のように要約することができる。
世界中の如何なる国や地域を取り上げてみても、先住民の社会だけは彼らが「自然界の権利」と名づけたものを防護しようと大変な努力をしている。それとは対照的に、先進国の人たちや世事にたけた連中はこれを一蹴してしまっている。
物事の理由付けが必ずしもRECDのフィルターを通して歪曲されたというわけではないとすれば、この現状は道理をわきまえた者に予見することができるような行動とはまったく逆方向だと言わざるを得ない。 

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ここで、「自然界の権利」という概念を確認しておきたいと思う。「自然の権利」とも表現されている。ウィキペディアに収録されている解説を覗いてみよう。それによると、
自然の権利とは自然保護を目的とした活動を法廷を舞台として行うための考え方のひとつ。「自然の価値を直接的に承認し、自然物に法的主体としての地位を承認する試み」として提唱されている概念である。人間中心主義からの脱却が理論的背景にあり、生命・自然中心主義への発想転換にともなって論じられている。
この「自然の権利」を法廷で実際に訴えた例は幾つかある。その場合、原告名として植物や動物名が象徴的に使われることが多い。
米国では、
1978年、ハワイにおいてパリーラ(鳥の一種)の名のもとに、人間が放牧した家畜による自然破壊を差し止め家畜をパリーラの生息地から除去することを求めて提起された自然保護訴訟が最初の事例となった。この訴訟では、パリーラは勝訴し、パリーラ生息地からの家畜の除去が命じられた。
日本では、
実際に訴訟として本格的に自然の権利論が展開されたのは、1995年提訴の「奄美自然の権利訴訟」(アマミノクロウサギ訴訟)が最初である。この裁判では、自然保護活動家Aらのほか「アマミノクロウサギ」など動物4種が原告として訴状に名を連ねた。鹿児島地方裁判所は、動物に法的な権利主体性(当事者能力)はなく、「アマミノクロウサギ」などの記載は無意味として訴状を却下した。
「自然の権利」は環境保護の概念としてはよく理解できる。しかしながら、上記にもあるように裁判所側は動物には訴訟をする当事者能力がないとして訴状を却下している。一方、「アマミノクロウサギ訴訟」では、裁判所側は問題提起としては理解を示したとも言われている。この訴訟はその後の「ジュゴン訴訟」と並んで「自然の権利」という概念を日本に広めることになった。

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東電の福島第一原発におけるメルトダウン事故は環境破壊の最たる事例だ。そして、廃炉作業には30年も40年もの歳月を必要とするとされている。この廃炉の作業では廃炉を順調に実施する人的資源の確保が最重要だと指摘されている。いままでにはなかった専門性をもった技術者を多数育成することが必要となるのだ。さらには、使用済み燃料棒を地中処理にすることに関しては、埋設後何万年もの安全性を考えると地震が頻発する日本では立地を決めることができないままである。技術的にまっとうな結論が得られないのである。言うまでもなく、廃炉となった原子炉や使用済み燃料の放射能が人の健康には甚大な影響を及ぼすことがこれらの難題の根源的な要素となっている。
ここにも、チョムスキーが述べた「人類の活動そのものが人類のまともな生存を脅かしている」構図が鮮明に現れている。今、日本の政治、経済、市民生活、そして、日本人としての社会集団の意識のど真ん中には福島原発事故が招いた不安が、その実態さえも解明されないまま、それが故に次世代を担う子供たちの健康に対する適切な対策をとることもないままに、厳然と存在している。これは巨大企業による利益を追求する経済システムが今や完全に破綻したということをわれわれ日本人に示していると言えるのではないだろうか。 

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チョムスキーの論理からすると、憲法に「自然の権利」を明記したエクアドルやボリビアがもっとも先進的な国である。その対極にあって、もっとも遅れている国は米国を筆頭にした資本主義国家群だ。天然資源を利益を生み出す資産と見なす資本主義が行き詰っているという事実は今や環境破壊の現状を見ると明白だ。最近の気候変動は、特に、大雨による土砂災害、たつ巻や台風による被害、あるいは、森林火災に見られるように、その規模は大きくなる一方であり、あたかも自然が牙を剝き出し始めたような感がある。
フィリピンを襲った超大型台風は、世界各地が今後襲われるかもしれない気候の大激変を物語っているのではないだろうか。年中行事のように台風がやってくる日本にとっては來シーズン以降の予告編を見せられたようなものだ。
地球温暖化の要因は温室効果ガスのせいではないと主張する科学者もいる。その中心的な論点は地球の温暖化は太陽活動のせいであるとしている。1991年、太陽活動サイクルの長さが地球の温暖化に関係しているとの報告があった。この説は、1991年の報告書の著者も含めて、その後のデータを含めて再検討を行った結果、オリジナルの報告とは異なる結論に到達したという。最新の知見[3]によると、1975年以降の地球温暖化の趨勢との関連性は非常に小さいことが判明した。
私自身も201199日に「10年以内に小氷河期が始まるかも」と題したブログを掲載した。しかし、太陽活動に関する最近の知見[4]によると、それほどにはなりそうもない。確かに太陽活動は低下している。今後90年間ほどは太陽の磁気活動が低下し、太陽の明るさは0.1%ほど低下すると予測されている。それによる地球の寒冷化の程度は現在進行中の地球の温暖化を覆すほどにはなりそうもないという。地球の温暖化を相殺するかも知れないと思えた太陽活動の低下による寒冷化シナリオは脆くも崩れ去ったようだ。
われわれ人類は、自分たちの子孫の幸せを願うならば、資本主義社会は率先して地球の温暖化に対処する方策を講じなければならないということだ。
「人類の活動そのものが人類のまともな生存を脅かしているのだ」とするチョムスキーの言葉は重く受け取るべきであろう。環境問題を解決しようと思えば、今や、資本主義社会の理論的枠組みを完全に組み直すことが必要だということだ。 

 

参照:

1Can Civilization Survive Capitalism?: By Noam Chomsky, AlterNet, Mar/05/2013, www.alternet.org/noam-chomsky-can-civilization-surv...
2Chomsky is voted world’s top public intellectual: By Duncan Campbell, The Guardian, 18 October 2005

3What does Solar Cycle Length tell us about the sun's role in global warming?: Skeptical Science, Jun/26/2010, www.skepticalscience.com/solar-cycle-length.htm

4Weaker sun will not delay global warmingREUTERS, Jan/23/2012


 


 

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