ジュリアン・アサンジを米国へ引き渡すかどうかに関する裁判が2月24日(月)にロンドンの南部にあるウーリッジ刑事裁判所で始まった。ロンドンではその前日や当日に数千人が抗議のために集まったと報道されている。
裁判初日の内容については定評のあるCraig
Murrayが裁判の様子をブログで報じている(”Your
Man in the Public Gallery – Assange Hearing Day 1”, 25 Feb, 2020
)。彼の報告によると、裁判の初日は検察側からの告発が説明されたが、その内容は驚く程に貧弱であったと印象を述べている。告発の法的な根拠の説明がなく、メディアに向けたお喋りが延々と続いたと言う。つまり、一大政治ショウに過ぎなかったと酷評している。
アサンジを米国へ引き渡すことの社会的な意味に関してはさまざまな議論が成されている。私が個人的に重要だと感じる中心的な論点はジャーナリストの使命とジャーナリズムの存在価値にある。要するに、これはジャーナリストを御用ジャーナリストだけにしたいのか、あるいは、独立精神を持ち、自由奔放にさまざまな考え方を展開することができるジャーナリストを尊重したいのかの選択である。
極めて抽象的な言い方となってしまったが、簡単に言えば、ジャーナリストには政府を監視し、政府の意図を公平に一般庶民に伝えて貰いたいと思う。何故ならば、歴史的な体験に照らして言えば、政府側の説明は100%の透明度を持っている訳ではなく、政府には常に隠しておきたい事柄が多かれ少なかれあると確信するからだ。彼らは、常に、都合の悪い情報は隠ぺいしようとする。ジャーナリストの使命は明白そのものである。政府や巨大企業を監視し、一般大衆に正確な情報を流すことだ。
今日の大手メディアはジャーナリストとしての使命を全うしているのかと言えば、現実には、洋の東西を問わず、極めて不本意な状況にある。ジュリアン・アサンジの裁判を巡る大手メディアの対応はそのような状況を典型的に見せていると私には思える。
現代の戦争は、多くの場合、一部の勢力が、たとえば、軍需産業が巨大な利益を掴み取ろうとする行為、あるいは、原油や天然ガス等のエネルギー源を略奪するための行為である。もちろん、戦争計画者は本当の意図を説明しようとはしない。彼らが持ち出す典型的な理由説明は「当事国の政府によって虐待されている市民をわれわれは人道的な立場から救済しなければならない」と言う。こうして、見栄えのする理由を喧伝して、原油や天然ガス資源を略奪するために軍隊の派遣を正当化する。不幸なことには、この構図は昔から何も変わってはいない。われわれはイラクへの軍事進攻でこの種の大嘘を見たばかりである。
20世紀は悲惨な世界大戦を二回も経験した。日本も太平洋戦争の当事者であった。このような戦争を二度と繰り返さないためにも、国連は参加国の見解を集約して戦争を防止するためのコンセンサスを図り、戦争犯罪を定義し、国際刑事裁判所を設立した。国際刑事裁判所の仕事のひとつは戦争犯罪を告発し、裁くことにある。たとえば、2019年12月21日の報道によると、国際刑事裁判所のベンソーダ主任検察官はパレスチナ自治区のヨルダン川西岸とガザでの戦争犯罪の容疑について正式に捜査を開始する意向を明らかにしたという。
ところで、ここに「アサンジの裁判についてはひとつの疑問がある。ジャーナリストは戦争犯罪を暴露したからと言って罰せられるべきなのか?」と題された記事がある(注1)。この見出しはアサンジ事件に関する非常に根源的な問いかけを示していると私は思う。
本日はこの記事を仮訳し、読者の皆さんと共有しようと思う。
<引用開始>
明日、英国では、ひとりの判事が非常に重要な問いかけに応えなければならないプロセスを開始する。これこそが問題点であることをわれわれは誰もが知っていたのだが、この問題点は10年前、つまり、2010年に始まった議論の中核であった。彼らはこの問題点を曖昧にし、長々と喋り、いきり立って否定し、人を中傷し、正気ではないと思い込ませ、何かをしようとする試みを諦めるよう仕向け、これを視野からかき消すためにできることは何でも実行した。
われわれがこの問題について応えようとしていることを一般大衆が知ることを彼らは好まなかったのだ。本件はそういった種類の問題なのである。民主主義の中核に及ぶ問題であって、言論界、ジャーナリズムの基本的な役割に関するものである。問題点は次のように要約することが可能だ:
米国の戦争犯罪を暴露したからと言ってジャーナリストや出版者を罰するべきなのか?
そして、問題点についてさらに補足すると:われわれはジャーナリストや出版者がまさに戦争犯罪を犯した連中によって罰せられることを許すべきなのか?
われわれはこのような状況をわれわれの世界のために存続させておきたいのか? どうしてこう問いかけるのかと言うと、この問題に対するわれわれの答えがわれわれの社会を形作り、将来の世代のためにわれわれの文明を形作ることになるからだ。
その答えが「そう、そう!それでいいよ。戦争犯罪者はそのまま先へ進んで、彼らが犯した戦争犯罪に関する事実を出版したジャーナリストを罰するべきだ」と言うのであるならば、このことから得られる重要な点は何もない。
もしもその答えを「そう、そう!それでいいよ」とするならば、終わりにしたいと思っていながらも終わりの見えてこない馬鹿げた戦争にわれわれは誰もが首を突っ込むことになる。メルボルンからカブールに至るまで、シドニーからシリアに至るまで、世界中の人たちが金儲けのための馬鹿げた戦争を終わりにしたいと思っている。
戦争の影響からは程遠い場所で生活するわれわれでさえもが戦争は終わりにしたいと思っている。ましてや、良く晴れた日には無人機が飛んでくることから青空を怖がるパキスタンの子供たち、あるいは、米国の戦争マシーンによって武装され、資金を提供された「中道派の反政府勢力」によって脅かされているシリアの子供たち、さらには、古き良き時代の米国が製造した爆弾で恒常的に爆撃され、飢餓状態に陥っているイエメンの子供たちにとってはなおさらのことである。
戦争から大量の利益を得る連中を除けば、戦争を望む者なんてひとりもいない。戦争は人間の行為の中ではもっとも卑劣だ。戦争は人殺しである。戦争は略奪だ。戦争はレイプだ。戦争はこの地上でもっとも無防備な人たちを目標にし、苦痛を与え、人々を故郷から追い出してしまう。戦争は環境を破壊する。戦争の跡には発がん性物質を残す。
それはあたかも最悪の連続殺人犯がこの地球を破壊する化学物質をまき散らしながら、最悪の殺人行為をやり放題にしているかのようだ。しかし、警察の手から逃れる必要もなく、この殺人犯は何十億ドルもの予算を充当され、訴追免除が与えられる始末である。
このような状況がすでに起こっている。これが今われわれが目にする世界なのだ。アサンジの裁判がもたらす疑問点は、われわれはこのことを問い質すことが許されるのかという点だ。われわれはこの問題を暴露することが許されるのか?これを止めることが許されるのか?
ジュリアン・アサンジのケースは次に何と結びつくのかを示す連結点である。
この議論に到達するまで、もしもアサンジと話す機会が与えられたならば私はいったい何を一番に彼に言いたいのかについて考えていた。今彼に話すことができるとするならば、私は「今は休息を取り給え。君は自分ができることはすべてやった。君が言いたかったことは良く分かった。ここからはわれわれが面倒を見よう」と告げたい。アサンジは何年にもわたってあらゆるたわ言に関して避雷針の役割を務めてくれた。さらには、彼に対して彼らがやった事を通じて彼らの本当の顔を見ることができた。われわれは彼らの邪悪さを見た。今や、彼らが何者であるかをわれわれは知っており、彼らがそれをどんな風に行うのかを知っており、彼らがどのような作戦行動に出るのかについても十分に知っている。そして、最終的には一人のジャーナリストが問題なのではなく、これは大きな動きが常に問題なのだ。今立ち上がって、われわれは一人のジャーナリストとして「われわれは賛成ではない」と訴え、もしも必要ならばわれわれ自身の手で彼をあそこから連れ戻すのがわれわれの仕事なのだ。
これこそが今のわれわれの立ち位置だ。われわれは決意しなければならない。前進するのか、それとも、後退するのか?われわれはユートピアに向かうのか、それとも、暗黒郷に向かうのか?
アサンジの訴追は厚かましい程に、間違っていることは明白でありながらも人々がその本質に気づくことを妨げている唯一の理由は帝国によるプロパガンダである。あなたはたくさんの文書を読み漁る必要はない。賢い人物である必要もない。あなたにはあれこれと操作しようとする筋書によってフィルター分けされないだけの鑑識眼を持つことだけが必要なのだ。
常識と脈打つハートをお持ちならば、誰でもがこれは間違いだと判断することができる。ジャーナリストが戦争犯罪を暴露したからといってそのジャーナリストは拷問を受け、終身刑に処せられなければならないのか?答えは決して複雑ではない。これはプロパガンダによって明快さの彼方へ追いやられることがなかった人たちにとっては明白そのものだ。
幾層にも構築された筋書や言い回しをさらに付け加えると、アサンジの窮状は複雑に見えるばかりである。「スウェーデンは腐っている、
いかがわしい奴だ、奴はジャーナリストではなくハッカーだ!ミュラーは性差別主義者で、トランプは壁にウンチ。プーチンはナチスだ!」
これらの言い回しや歪曲を除けば、事はいたって明白である。彼は拷問され、不当に訴求された。これは、まさに、「裸の王様」の類である。
裁判所の宣伝専門家はアサンジが如何に悪者であるか、なぜ彼はこのように扱われなければならないのかについて美辞麗句を駆使した言葉をわれわれの耳元へ届けようとし、王様の衣服は教育を受けてはいない連中には見えないのだとあなた方に伝えることであろう。
しかし、プロパガンダに惑わされない者は「オーイ!何てことだ。いったいどうして王様のお尻や男根が丸見えのままなんだ?間抜けめ、俺には彼の姿が良く見えるんだ!彼の男根が見えているぞ!」
これこそが、今日、反政府の抗議に対する反対の声が出てこない理由なのだ。通りへ出て「ジャーナリストを全員刑務所へぶち込んでしまえ!皆のために戦争を!」といったプラカードを持つ一般人なんて一人もいない。何人かはアサンジについては依然として強烈な感情を抱いているが、それは単なる感情に過ぎず、通常、ひとつかふたつの悪意のある中傷が見い出されることであろう。でも、彼らが戻ってきて、自分たちが引っ掛けられた個別の中傷に関して何らかの証拠を見い出そうとしても、彼らは何も見い出すことはできない。
それこそが拷問に関する国連の特別報告者であるニルス・メルツアーが如何にして私に勇気を与えてくれる存在であるのかを示す理由なのだ。人々がアサンジの裁判に関して調査をするようにと訴えてメルツアーに近づいた当時、彼自身も中傷による影響を受けていたことから彼は消極的であった。
彼が証拠の発見に取り掛かった頃、実質的な証拠は何も発見しなかった。
けれども、彼は自分の名誉のせいですっかり騙され、間違っていたことについては恥入ったものであるが、彼は自尊心を呑み込んで、自分の航路を変更した。そして、彼は戦争犯罪を暴露し、プロパガンダを暴露し、アサンジに対して仕掛けられた現代版の襲撃や拷問のテクニックを暴露し、アサンジの訴追はジャーナリストや出版者に関して世界規模での先例となることを示すこの闘いにおいてはもっとも強力な同盟者のひとりとなったのである。
つまり、こういうことなんだ!彼の証言の背後にあるパワーは彼自身が騙されていたことを認識した事実から由来している。彼のような非常に知的で、博識で、世事に長けており、情報に明るく、教育のある人物が騙されてしまうならば、誰だって騙されてしまうのだ。
影響を受けない者は誰もいない。人の心は乗っ取ることが可能だ。われわれは誰もが自分の生活で多忙を極めている。資本主義によってわれわれは皆が忙しい。自分がしたことを実行するのに十分な時間を割りあてることができ、じっくりと座り込んで、事実を観察し、事実を評価することができる人は非常に少ない。とたえそうしたとしても、自分の航路を変更することから来る社会的な影響に耐え抜くという自分の確信について十分な勇気を持っていた人はもっと少ない。
あれこれと操縦されることは不道徳ではないが、あれこれと操縦する人物こそが不道徳なのだ。人々は自分が操縦されると恥ずかしく思うが、それは彼らが悪いのではない。それは、常に、操縦する側が悪いのだ。それこそが詐欺が犯罪となる理由なのだ。詐欺行為をされたということは犯罪の被害者であるということだ。
ジャーナリストは戦争犯罪を暴露したことについて罰せられるべきかという問いかけをしているが、ひとびとがこの問いかけを理解するためには、自分たちはプロパガンダの犠牲者であったという事実を認めなければならない。この点は明白だ。これは彼らの責任ではない。しかしながら、それを認めることについては恥じらいを覚えることであろう。この恥じらいが今日ここでわれわれの考えに加わることには強いためらいが感じられるのだ。だからこそ、私はこのことについて概要を述べることが重要であると思う次第だ。
あなたが自分の友人や家族に話をする時、彼らは痛みを覚えるであろう。そのことを念頭に置いて欲しい。彼らは自分たちが騙されていたことに恥じらいを感じる。われわれの気違いじみた、あべこべの文化においては騙されるということは恥ずべきことだと考えられ、その一方で、騙す側はあなたを生産的な社会の一員にしている。
彼らに対しては優しくして欲しい。彼らが自分たちの考えを変えたからと言って、この世が終わる訳ではないことを再確認しておこう。むしろ、考えを変えなかったならば、この世はお終いになるかも知れないのだ。
これこそがニルス・メルツアーの証言は非常に強力であるという理由なのである。つまり、彼の証言はプロパガンダがもたらす虐待的な性格を露わにしてくれるからである。そして、彼は論争の際にわれわれが間違った側に着いてしまったことに気付いた場合の対処の仕方をモデル化してくれた。彼の存在そのものは私に希望を与えてくれる。何故ならば、彼の存在は世界中に彼みたいに目覚めた人たちが他にもいることを示唆しているからである。
実際には、私はすでに自分自身で見てしまった。ドイツでは巨大な動きが始まっており、アサンジを支援する駆動力は大きくなっている。三つのそれぞれ異なる請願書を組織化し、ジュリアンを独房から引き出したのはベルマーシュ刑務所の囚人たちであった(何とまあ、草の根活動の最たるものではないか?)。ちょうど金曜日(2月21日)にアラン・ジョーンズがフェースブック上で世論調査の結果を掲載した。彼は「ジュリアン・アサンジを支援し、彼を帰国させるためにオーストラリア政府はもっと活動するべきではないのか?」
と問うていた。何千人もが回答を寄せ、75%は「その通りだ!彼を帰国させるべきだ」と答えた。この世論調査の下側にはアサンジを支持するコメントが何百も続いている。
潮流は、今、変わろうとしている。十分であろうか?私は十分だろうと考える。しかし、われわれの命はこれ次第であるのだから、われわれはこれをさらに推進しなければならない。何と言っても、われわれの命はこれに依存しているのであるから。
アサンジ、万歳!
どうも有難う。
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https://caitlinjohnstone.com
<引用終了>
これで全文の仮訳が終了した。
確かに、アサンジの裁判に関する情報は山のように大きい。そのジャングルに分け入ろうとすると、途方に暮れてしまうのが落ちだ。そこへこの記事が現れ、素人でるわれわれにこの事件の本質はこうだと明快に示してくれた。独立した代替メディアの素晴らしさがこれほど明確に、具体的に、しかも、強力に発揮できたことは喜ばしいことである。
アサンジ裁判の今後の展開から目が離せなくなった。
参照:
注1:We’re
Asking One Question In Assange’s Case: Should Journalists Be
Punished For Exposing War Crimes?: By Caitlin Johnstone, Information
Clearing House, Feb/24/2020
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