2014年9月7日日曜日

ジェームズ・フォーリーの死 – 疑問が湧いてくるばかりで、答が見つからない

ここにイスラム過激派によって斬首された米国人ジャーナリストを悼む記事 [1] がある。

犠牲者と同業のあるジャーナリストがしたためたものだ。彼の死を悼む時、答えが見つからないままに、新たな疑問が次から次へと湧いてくると言う。何故に彼は死ななければならなかったのか…
戦争のむごたらしさは明らかであるが、一面的には論じられないことが多い。それぞれのストーリーには固有の背景があるからだ。
今日のブログではこの記事を覗いてみることにする。 

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Photo-1: AFP Photo 

彼は39歳だった。誰もが彼を好きになった。皆は彼をジムと呼んでいた。何十人もの同僚たちが彼を偲んで、ソーシャル・ネットワーク上で使っているアバターを黒い色に変えた。
ジェームズ・フォーリーはあなたに話しかけて、数分もしない内にはあなたを兄弟と呼ぶ。彼はそういったタイプの男だった。ジェームズの最後のツイッターはほとんどがパレスチナに関するものだった。2012年にもイスラエルはパレスチナを爆撃していた。あの年、彼はシリアで誘拐された。
リビアでかなりの時間をジェームズと一緒に過ごしたことがある私のふたりの同僚、オカーン・ジャマイルとアサナシオス・アルギラキスはフォーリーがベンガジでは一泊30ドル程の安宿に泊まり、古い道具を使っていたことを思い出す。でも、マイクに装着する騒音低減装置を使っていた。砂漠ではこれが非常に重要なのだ。二人とも彼が作り付けのフラスコ瓶が付いた、使い勝手が良さそうな小型のバックパックを持っていたのを今でも思い出す。このタイプのフラスコ瓶は飲みやすいのだ。砂漠では不可欠である。
他のほとんどのジャーナリストとは違って、ジムはニュースを追っかけていた。リポーターではなかった。
彼は何事についても現場へ間に合うように急行し、ネタを送り出し、ニュースを追っかけ回すべく急がなければならなかった。でも、朝になると決まって朝食のテーブルについている彼を見出すことができた。もちろん、彼が前線のどこかで夜を過ごした場合を除いての話だが。
「最近はメデアで彼の写真を頻繁に見かけるようになった。彼の髪は何時も乱れたままで、日に当たって色あせてもいた。日に焼けた顔には色がついてはいないメガネの跡が丸くついていた。何時も友好的だった。本物のアメリカ人で、いい奴だった。開けっぴろげで、多くのジャーナリストとは違ってお高くとまっている様子は微塵もなかった。彼は私の英語をよくからかって、私にはとても不可能な彼の米語のアクセントを私のために通訳するようにクレアに頼んだものだ」と、彼の友人のオカーン・ジャマイルは言う。
ある日、彼らはどうしてジャーナリストになったのかについてそれぞれ違った経緯を話し合っていた。ジムは大学では林学を専攻したが、何故かその専攻は彼にはそぐわなかったと言った。
彼は外交的なタイプで、困難な状況においても進んでそれに我慢するようなところがあって、戦場にとどまることを心の底から必要としている風でもあった。 
彼は35歳を過ぎてからジャーナリズムに関心を示し、早速、もっとも危険な場所へと赴いた。彼の報告はバランスが良くて、反政府派たちに公平感を与えた。彼が自分のことについてこう書いた。「私はイラクやアフガニスタン、リビア、シリアから報告した… 疑問だらけであったが、答えは見つからなかった。」 
2011年のある日、ジャーナリストの一団が前線へ向かった。どうしたことか、皆は散らばってしまった。そして、突然、カダフィ軍が攻撃を開始した。反政府派の連中は車に跳び乗って、逃げてしまった。ジムと他に二人のジャーナリストが置き去りとなった。彼らはヒッチハイクを試みたが、彼らが止めようとした車は前進して来たカダフィ軍の車だった。
政府軍の兵隊はすかさず撃ってきた。南アから来ていたアントワーヌは腹を撃たれた。彼を病院へ連れていってくれと頼んだが、彼らは拒んだ。「とても、もたないよ」と彼らは言った。彼らはアントワーヌを置き去りにして、彼と同僚のふたりを拘束した。
「彼らは1か月間刑務所で過ごし、その後裁判を受け、リビアへ非合法的に入国したかどで300ドルの罰金を受け、向こう1年間はリビアへの入国を禁止された。私はジムに電話をして、彼が刑務所ではどのように過ごしていたのかについてインタビューをしたいと申し込んだ。ジムは笑って、本物の刑務所には36時間入っていただけで、その後は別荘風の建物へ移ったので、インタビューを受けるほどのストーリーは持ち合わせてはいないと言った。もし別荘での生活についてインタビューしたいのであれば、何時でもいいよ、と彼は言った。彼はそんな調子で、面白い奴だった。その後、彼らはチュニジアへ追放され、さらに彼はシリアへ出かけた。彼は私たちにアントワーヌの死骸を見つけてくれと頼んできたが、誰も彼が死亡した場所を突き止めることはできなかった」と、かってリビアでジムの同僚だったジャマイルは言う。
ジェームズ・フォーリーがトリポリで別荘風の建物に監禁されていた際、米国の政治家たちは彼の家族と会って、ジェームズを支援する言葉を伝え、彼を救出するためには全力を尽くすと約束した。
彼がシリアで拘束された時点までは、誰も約束を果たそうとはしなかった。
 


Photo-2: ユーチューブ・ドット・コムのビデオからの画像
 

ビデオを見ると疑問が湧いてくる
 
このビデオはどこか変だ。しかしながら、何らかの理由で誰も当然湧いてくる疑問を口にしようとはしない。このビデオは余りにも絵画的である。処刑執行者の手は、ジムが平生を装い、喋ることに全力を集中している間、ジムの肩の上に置いてあって、どこか不思議な感じだ。処刑とは関係のない周囲の騒音がまったく聞こえて来ない。
イスラム法はこの処刑に対しては何らの制裁をも課さない。ジェームズ・フォーリーは反政府派に対して戦っていたわけではないし、彼らに何らかの損害を与えたわけでもない。 何故に反政府派は彼らの間に交じって仕事をしていた、しかも、彼らの敵に対してエールを送るようなことは断じてなかったこの貧しいジャーナリストを誘拐したのだろうか?この疑問はシリアの反政府派運動のひとつの秘密としてそのまま残されるのかも。
パレスチナ人のアンカル・コチェンヴは誘拐されたままシリアで5か月もの期間を過ごしたが、多くの反政府派の連中の教育水準は低いと彼は思っている。彼らはジャーナリストの価値を理解する術もなく、身代金を払う人物なんていないことが明白であってさえも、身代金を手に入れようとする。
ジェームズ・フォーリーに対して、何百万ドルもの身代金が要求された。幾つかの報告があって、それぞれが異なるのだが、誘拐犯らは132百万ドルを要求したらしい。こんな金額は明らかに不可能だ。
彼の釈放を要求する署名を募るページには何千人もが署名をした。
メデアにおける報告の数は減少してきていた。
そして、突然、この恐ろしい処刑のビデオが現れたのだ。
ウクライナ東部の反政府派の指導者、イーゴル・ベスラーはかって反政府派がウクライナ兵を処刑した様子をビデオに収めた。これは非常に強い反響を呼んだ。後に、「処刑された」筈の兵隊のひとりがインタビューに登場し、ベスラーがどのようにあの処刑を演出し、後になって捕虜たちを妻と面会させてやり、自分の兵隊たちとまったく同様に食卓につかせたことを詳しく話した。そう、これでお分かりのように、時には、今でさえも、非常に高貴な心情を持った無法者に遭遇することがあるのだが、そう頻繁には起こらない。
ジャーナリストが大儀のために犠牲になることが稀にある。ジャーナリストが殺害されると、そのような事件にはメデア全体がワッと押しかける。さらに重要なことには、時にはそれが戦争を招くことさえもある。
たとえば、英国人ジャーナリストのアレックス・トムソンは、2012年の夏、レバノンの国境からそれほど遠くはないアル・クサイルの市内から報告をしていた。彼が言うには、反政府軍は極度に不愛想で、彼が政府軍の銃撃にさらされた道路に沿って彼を送ってくれた。
この反政府派グループが2013年の5月にシリアで殲滅された後、ヒズボラ-の戦闘員らは放棄された陣地や武器および制服を調べた。それによると、彼らのほとんどはイスラエルからやってきたことが判明した。ヒズボラ-のある司令官は直接私にこう言った。アルカイダの守備隊にはイスラエルからの教官がいたと。
2001年の9月、9/11同時多発テロの後で、米国が爆撃を開始する以前のことではあったが、英国人ジャーナリストのイヴォンヌ・リドリーはアフガニスタンへ出かけ、そこでタリバンによって拘束された。後に、その状況に関して彼女はしばしばこう述べている。西側の諜報部門はタリバンが彼女を処刑するように八方手を尽くしていると強く感じた。彼女を処刑しさえすれば、米国にとってはアフガニスタンを爆撃するもうひとつの口実となるのだ。ところが、タリバンは彼女を釈放した。
2005年、イタリア人のジャーナリスト、ジウリアーナ・スグレナはイラクで反政府派によって誘拐された。彼女はファルージャで反米闘争を取材しており、闘争に立ち上がった人たちには同情的であった。西側のメデアでは自分たちを理解してくれる最高級の同志をどうして彼らは誘拐したのだろう、と多くの人たちは怪訝に思った。イタリア人たちは彼女を救出した。しかし、米国人らは救出を阻止するために全力を挙げた。最終的には、ジウリアーナを乗せた車が空港へ急行しようとした時、米軍の兵士らはその車に向けて発砲した。ジウリアーナは繰り返してこう言っている。「米国の諜報機関は私が救出されるのを好まなかったみたいだ」と。彼女は、イタリア人の士官が自分の体を張って彼女の命を救ってくれたお蔭で、奇跡的に生還することができた。
ジュリアン・アサンジはすべての主流メデイアには拒絶されたビデオを掲載したことで有名になった。あのビデオでは、米軍ヘリコプターの操縦士が、2007年、バグダッドでロイターのジャーナリストたちに向けて発砲した。負傷者たちを運び出すためにやってきたバンに向けて操縦士らが発砲し、笑ったり、お互いに冗談を言い合っている様子を見ることができる。
2003年、バグダッドへの侵攻の際、世界中から集まっている主流メデアの特派員が宿泊していることを承知の上で、米軍はホテル・パレスチナを故意に砲撃した。
2012年の11月、ならびに、この7月の軍事行動においてイスラエルはメデアの事務所を標的にした。
ジャーナリストが標的にされた事例を数え上げるにはかなり長い時間が必要となりそうだ。
今までのところ、ジャーナリストが殺害された数で最高記録を保持しているのはイラクである。米国の11年間の占領中に370人のジャーナリストがイラクで亡くなった。死亡者の多くは占領軍によって殺害されており、反政府派によって殺害されたのではない。
ジェームズ・フォーリーは、自分の最後の言葉として、自分と一緒に拘束されているタイム誌の特派員、ジョエル・ソトロフの命だけは救ってくれと懇願した。
これらの事件の反応として米国政府が言わなければならない言葉のすべては「われわれはジャーナリストがむごたらしく殺害されたことに衝撃を覚えている」であった。バラク・オバマは声明を準備し、ゴルフに出かけてしまった。米国政府は「テロリストと交渉する」ことを拒否し、イスラム国の拠点に対する爆撃を継続した。
 


Photo-3: ロイターズ / 特派員  

どうしてイスラエルはISISをハマスと同じだと言うのだろうか?
 
国際テレビ網がジェームズ・フォーリーの処刑の様子を見た後、ネタニヤフ・イスラエル首相はハマスはイスラム国と同じで、イスラム国はハマスと同じだと言った。
私はこの残虐な映像を見て、この映像はいくつもの政治・軍事的な目標に役立つのではないかと言い出したい気持ちに駆られた。イスラエルはこのカードを使う最初の国となった。同国の軍部は、パレスチナで今まで40年間もの間地獄のような状況を作り出してきたが、パレスチナ人区域の抵抗を抹殺することはできないままであった。ジャーナリストの斬首を伝えたこの映像はパレスチナ人に暗い影を落とす口実となり、彼らを黒衣をまとったあの執行人のように見せることができる。
ガザ地区での死者数は2,000人を超し、その4分の1は子供たちだ。パレスチナ紛争がまたもや大見出しで現れ始めた。とは言え、リビアやシリアおよびイラクにおける出来事がパレスチナの事などは間もなく忘れさせてしまうのかも。
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8日に始まった「プロテクテブ・エッジ」作戦はパレスチナを支援する反イスラエル大衆運動を誘発した。
当初は、イスラエル当局が指示していたように、その目標は武装集団を潰すことにあった。でも、われわれが今見る実態はどうかと言うと、武装集団は武装解除されたわけではなく、むしろ彼らは以前よりも強力になり、イスラエル領内に侵入することさえ可能だ。実際問題として、基地や住居あるいはキブツの地下から忽然と姿を現し、イスラエル軍を攻撃することができる程だ。
「プロテクテブ・エッジ」は脆弱な計画であったことが証明された。パレスチナのロケットは、軍事施設や原発ならびに空港を含めて、イスラエル領内の戦略的な目標に到達することが可能である。
米国が後押しした「アイアン・ドーム」防空システムはパレスチナから侵入して来るロケットの3分の1を仰撃することができる。
この40日間というものイスラエルが成し遂げることができたことと言えば、それはアル・カサム旅団の3人の指揮官と旅団の最高指揮官であるムハンマド・アル・ダイフの妻と一人の娘を殺害することだった。
パレスチナの活動家たちは殺害された指揮官の写真を掲げ、これらの人たちは何の罪もない男を斬首した黒衣をまとった処刑者とは似ても似つかないということを明確に示した。
何千人もの市民がこれら3人の指揮官の埋葬のために街頭に現れ、ガザ地区の上空を常時パトロールしている何十機もの無人攻撃機に挑んだのである。
イスラエルはハマスをテロリストと呼ぶけれども、彼らとの交渉は行われている。イスラエルを交渉のテーブルに着かせたのは米国であった。
パレスチナ人はこれらの間接的な交渉に同意して、多くの派閥間で調整をした要求リストを示して対応した。この要求には封鎖の解除、検問の撤去、港や空港の建設、ならびに、104人の受刑者の釈放が含まれている。
イスラエルはガザ地区の漁民に海岸から9マイル以内での漁業権を与え、一日当たり5,000人が国境を通過するすることができるように国境の一部を開放した。
しかし、パレスチナ派閥連合の代表団は明確に拒否した。イスラエルが封鎖を解くか、さもなければ抵抗を継続すると表明した。
イスラエルはガザ地区への爆撃を再開した。パレスチナ側も同種の攻撃で応答した。金曜日には、彼らはテルアビブ空港の操業を麻痺させた。これはこの戦争中では2回目の出来事である。
結局、ハマスとイスラム国の斬首の執行人は同一の木の中で枝別れしている枝みたいな存在だとネタニヤフに言わせたのはこれらの失敗のせいであった。 
イスラエルは宣伝戦争では敗戦の色が濃くなってきている。これはジラド・シャリトのことを思い出させる。彼は5年間捕虜として囚われていたイスラエル兵であるが、「キャスト・リード」作戦を実行する理由となった人物だ。彼は釈放された時、パレスチナ人は裁きを受ける権利があると言った。
 


Photo-4: ロイターズ / アラー・アル・マルジャニ
 

ジャーナリストの死は諜報機関の策略か?

もしもあなたが「暖かい」を「スミレ色」にたとえたとしたら、皆があなたの主張に同意することはとても期待できないだろう。パレスチナ人の抵抗は十分に記録されているので、彼らが何もしなかったことに関して非難することは時間の無駄になるだけだ。
パレスチナ人のグループはジャーナリストを拘束したり、殺害したりしたことはない。彼らは斬首をするようなこともないし、そのような犯罪をビデオに収めることもない。その代わり、彼らはそういった行為を非難する。
最後の発言で、ジェームズ・フォーリーは米国のイラクでの爆撃やその他の行為を非難した。
「私の友人や愛する人たちに、真の殺人者に対して立ち上がって欲しいと訴えたい。真の殺人者は米国政府だ。自分の身に起ころうとしていることは彼らの自己満足や犯罪性の結果に過ぎない。愛する両親への私のメッセージ: 私のためにいくらかの尊厳を保って、私の死に対する補償金は受け取らないで欲しい。最近のイラクへの爆撃によって、あの同じ連中が私の棺に最後の釘を打ち込んだのだ」と、斬首される前に、ジェームズ・フォーリーは言った。
憶測を立てて言うと、ネタニヤフは無意識ながらもイスラエルが米国製の武器や米国から得た資金で製造された武器を用いてパレスチナ人を殺害していることを世界中に思い起こさせてしまった。逆説的ではあるが、ハマスはイスラム国と同じだとする彼の発言はイスラエル自身にとって大きな害を及ぼすことになろう。
ソーシャル・メデアは攻撃の最中に殺害された何百というパレスチナ人の子供たちの写真で溢れている。そして、もう一人、ジャーナリストの犠牲者が加わった。これらの子供たちとジェームズ・フォーリーは同一の戦争挑発者、つまり、米国とイスラエルによって殺害されたということは確かなようである。
ジャーナリズムはそれほど多くの遺産を残すことが可能な仕事ではない。武力紛争や戦争についての報告や映像は忘却の彼方へ置き去りとなってしまう。ほんの一握りのジャーナリストだけがへミングウェイやチャーチルあるいはロバート・キャパのようになる。
ジェームズ・フォーリーは自分の命を犠牲にして、われわれの仕事に新しい1章を開いてくれた。「あんた方がわれわれを殺害しているんだ」という最後の言葉で、彼はわれわれの仕事の神髄に到達した。
このコラムに示された記述や見解ならびに意見は著者自身のものであって、RTのものではありません。
 
ナジェジダ・ケヴォルコヴァは従軍記者として、世界中でアラブの春や軍事衝突、宗教的紛争、ならびに、世界のグローバル化に反対する立場で取材を行っている。
 
 
 
 
 
<引用終了> 

明確なメッセージを与えているという意味で、これは非常に強烈な記事である。米国とイスラエルが推進しているパレスチナ人に対する不条理を如何なく伝えている。ジャーナリスト特有の論理の展開が見事だ。
インターネットではこのジェームズ・フォーリーの斬首のビデオは偽物だとする主張がいくつかある。著者は「このビデオは余りにも絵画的である」と言っている。何らかの作為を感じているようだ。
この記事では、ジャーナリストの命が諜報機関や紛争当事者の筋書きに沿って操られてしまう様子が何例も紹介されている。紛争の現場に赴くジャーナリストは世論を扇動する上では格好の手近な材料となるようだ。ジェームズ・フォーリーの場合はその典型的な例だったと言えようか。
ジェームズ・フォーリーの最後の言葉、「あんた方がわれわれを殺害しているんだ」には表面的な出来事にはとらわれることもなく、真の理由を探そうとする欲求が感じられる。これは多くのジャーナリストに勇気を与え、彼らを啓発してくれたのではないだろうか。 

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一方、このジャーナリストの斬首事件に関連して、イスラム国の武装組織を偏見を以って「ああだ、こうだ」と判断してはならないとする意見も出ている。
米軍の武力行使の場面では空爆の巻き添えとなって死亡する非戦闘員、つまり、一般市民の死が後を絶たない。米軍はこうした犠牲者を「巻き添えになった市民」とは呼ばずに、「collateral damages」、つまり、「巻き添え被害」と呼ぶ。米軍の記者会見では常にこの「collateral damages」という用語が用いられている。はっきり言って、この用語は罪もない民間人に対する暴力的な行為に関して良心の呵責を和らげるために用いられているとも言えそうだ。それは米軍の広報担当官のためのものであると同時に、テレビのニュース番組を見ているわれわれ自身をも何らかの形で共犯者の立場に位置づけていることにもなる。
2006年、米軍の占領下にあったイラクで戦争の巻き添えになった民間人の中に一家4人の事例がある [2]。父親と母親そして二人の娘だ。特技兵のポール・コルテスによると、彼の部隊はバクダッドの南部をパトロールしていた。その時、特技兵のジェームズ・バーカーがレイプの対象とするイラク人の女を見つけようと言いだした。バーカーは以前から14歳の少女に目を付けていた。こうして、本来の作戦そのものとはかけ離れたレイプ作戦が始まったという。もちろん、このような状況下では一家4人には生き残る術がなかった。
この記事の著者は問いかける。「ジェームズ・フォーリーの斬首は野蛮であり、残忍であることには疑問の余地はない。しかし、フォーリーの死はレイプされた挙げ句に殺害されたアベールという名の14歳の少女と彼女の家族全員の死に比べてより野蛮であり、より残忍であったと言えるのだろうか?」と。
「われわれの爆弾やミサイルによって罪もない人々が殺害された事実に関してそれを示す映像がないからと言って、これらの民間人の死には残忍さや恐ろしさがより少なかったなどとは決して言えない。つまり、ジェームズ・フォーリーの斬首を非難しなければならない時には、われわれは鏡の中の自分の姿を良く見つめ、罪のない市民の殺害にわれわれ自身も連座していることをじっくりと考える必要がある。われわれは、多分、それほど文明化しているわけではないことに気付くのではないか。」
この著者の指摘は秀逸だ。
西側の人たちは、われわれ日本人も含めて、文明の先進国であることを誇りに思っている。それ自体は決して悪いことではないが、時には、発展途上国の人たちを文明化してはいないとして見下すことがある。多くの場合、その見方は通常の社会生活では深刻な摩擦を引き起こすようなことはない。しかしながら、上記の議論で指摘されているように、ジェームズ・フォーリーを斬首した処刑執行者と14歳の少女をレイプし家族4人を殺害した米兵との間に不条理さや野蛮さあるいは残忍さについて優劣をつけることは不可能である。
この記事を読んで、少なくとも私は物事の本質を見てはいなかったという現実に気が付いた。あたかも、雷に撃たれたような気分である。 

 
参照:
1Death of James Foley A lot of questions no answers: By Nadezhda Kevorkova, RT, Aug/25/2014, http://on.rt.com/06r6ij
2The Beheading of James Foley: by Garry Leech, Counterpunch, Weekend Edition August 22-24, 2014, www.counterpunch.org/2014/08/22/the-beheading-of-james-foley/

 

 

 

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