一国にまつわる政治の世界では多くの場合国内の分断を避け、世論をひとつに収れんさせるには外部に仮想の敵を仕立て上げることが少なくない。典型的な事例を挙げると、現時点でさえも日本の隣国ではそういった政治的戦術を取ることが多い。そして、この趨勢は今後も続くことであろう。
ヨーロッパにおける典型的事例のひとつはロシアを仮想敵国としている英国のソールズベリーで2018年に起こったスクリッパル父娘毒殺未遂事件だ。この事件ではロシア製の軍事用化学兵器である神経剤「ノビチョク」が使用されたとして、ロシア政府の関与が仄めかされ、当時のテレーサ・メイ英国首相は確信はないけれども、ロシアが犯人らしいとさえ宣言した。それ以降、彼女が使った「Highly
likely」という文言は方々で皮肉を込めて引用され、流行語にさえなった程である。
こういった構図は一国での状況から始まって、NATOのようなグループ化された国家群に至るまで適応可能である。1950年代から1991年12月に旧ソ連邦が崩壊するまで続いた東西の冷戦においては西側も東側も膨大な量の核兵器を抱えていたが、幸いなことに核戦争には至らなかった。
冷戦構造をもたらした基本的な環境は旧ソ連邦の崩壊によって突然消え去り、NATOはその存在理由を肯定的に説明することが極めて困難な時代に直面することとなった。しかし、その後もNATOの組織は温存された。そこへ、ニューヨークでもっとも目立つ建物のひとつである世界貿易センタービルを崩落させるという事件が起こった。同時多発テロである。そして、アルカイダという幽霊組織がメディアで喧伝され、世界中でテロリストに対する憎悪が掻き立てられた。あの頃、米軍の高官のひとりは「これでわれわれは今後50年間は安泰だ」といった意味の発言をした。これは敵国を見失っていた米軍や軍産複合体が新たな敵を模索していたという現実を正直に示唆しているように見えた。今思うと、他にもさまざまな説があるけれども、NATOの温存を図る勢力があの世界貿易センタービルの崩壊に一枚加わっていたのではないかと勘繰りたくなる程である。
ところで、ここに「NATOが犯している最大の間違いは今のロシアをすっかり弱体化した1990年代のロシアとして扱っていることだ」と題された最近の記事がある(注1)。
本日はこの記事を仮訳して、読者の皆さんと共有しようと思う。
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最近ロシア・ウクライナ間に走った衝撃波や強化される一方の米国からの関与は冷戦の終結以降30年間にもなるヨーロッパの歴史上もっとも重要な里程標のひとつであると言えるのではないか。
しかし、この正面衝突は大分前からお膳立てがされていた。ドイツの再統一以降、欧州大陸の安全保障を支えていた骨格、すなわち、20世紀のもっとも緊張感が高かった時代においてさえも保持することができたかっての東西間の慎重な休戦体制は組織的に排除されて行ったのである。
このような過程は避けることができなかったのだろうか?そんな問いを発することはまったく意味がない。もっとも重要なのは、あれ以降、如何なる国家もどのような軍事的、あるいは、政治的な同盟であってさえも、それに加わるかどうかは自由に決定できるということが基本原則になっているという点だ。もちろん、こういった選択肢は何時でも自由であったといわけではない。特に1991年以降はNATO 以外の同盟はすべてが消滅してしまい、NATO だけが唯一のクラブとして街に残されていたのであった。
NATOの新たな課題:
しかし、これはこの軍事同盟ブロックが罠に陥ってしまったことを意味していた。この軍事ブロックは政治およびイデオロギー上の聖戦として何の苦もなく次から次へと拡張を果たし、拡張に対する反対はほとんど無かった。軍事的な観点は二の次で、新たに加わる参加国がこの同盟にどれだけ貢献するのか、あるいは、この軍事ブロックがこれらの国々を本当に助けてくれるのかどうかは全然重要ではなかった。理論的には相互の助け合いが謳われているとは言え、スロバキアやラトビアといった小国を助けるためにロシアとの戦争を開始するなんて誰も予期することはできなかった。そういった状況はあり得ない筋書きだったのである。
何故かと言うと、ひとつには、ロシアはNATOという安全保障システムの一部であるという漠然とした考えがあったからである。しかしながら、実際的な状況の中ではそれが何を意味するのかについては誰も厳密に定義しようとはしなかった。この軍事ブロックは抽象的な政治的筋書きにしがみついたままに放置され、新たな参加国は次々と署名をした。それと同時に、旧ソ連邦が崩壊した後の10年間、ロシアは酷く弱体化してしまい、外国のパートナーに全面的に依存するままであったことからも、これらのパートナーはNATO の計画には反対し、ロシアは非軍事的な手法で無力化することが可能であると広く信じられていた。結局のところ、自立することが可能なまでにロシアを再構築するには何年も必要なのであった。
あれから歳月が経った。だが、西側の精神状態は一歩も前へ動き出そうとはしなかった。この筋書きを目前に見て、ロシアは確固たる安全保障を交渉によって勝ち取りたいと思い、あれこれと試みた。けれども、その試みは今も昔もほんの一部について成功しただけである。そういった試みが極めて真面目なものであろうと、まったく別物であろうとも、モスクワ側が何かを提案すると、それはすべてが西側の基本的な原則を放棄するよう求めることに繋がる。意思決定をするのはNATO側だけというのが彼らの原則なのである。よそ者の関心事については配慮することも、無視することも自由ではあるが、彼らは自分たちの目標があくまでも第一であって、他者の関心事は常に後回しだ。この軍事ブロックの指導者にとってはそれ以外のものは受け入れられないのである。
1990年代から2010年代にかけてNATO 側の考え方を支配していた主要な持説を忘れないでおこうではないか。つまり、将来の同盟参加国をどのように遇するかに関する当軍事同盟の決定内容についてはそれを拒否する権利なんて外部の者は誰も持ってはいないということだ。
ロシアとの膠着状態:
現実にはある種の限界が存在していた。2008年にブカレストで開催されたNATO サミットの宣言文ではその文言をどうするかで激しい議論となった。フランスとドイツはジョージアとウクライナの両国のために「加盟行動計画」を言及するという米国からの圧力を跳ねのけようとした。疑いもなく、本同盟のヨーロッパ勢はモスクワ側の反発を恐れたのである。しかし、当時提案された妥協案は膠着状態をさらに悪化させれこととなった。ロシアの隣国であるこれらふたつの国家は何時かはNATO
へ加盟させるとの約束が成されたが、両国を招じ入れるドアは閉ざされた。しかし、これが現実に何を意味するのかについては何の説明もされてはいない。
外交レベルにおいては、これは単なる宣言であって、これらの国々を参加させようなんて誰も望んではいないし、これは親切さを示すだけの行為であって、そのことについては誰もが良く知っているとクレムリンには伝えられたものだ。しかし、不誠実極まりないこの行為は信頼の基礎が崩壊するにつれて、軍事および外交上の関係が泥沼にはまることを確実なものにした。NATOとEUとが重なり合っているという事実も事態をさらに複雑にした。これらの組織はふたつの異なる組織であるにもかかわらず、それぞれがほとんど同一の参加国を抱えており、欧州・太西洋にまたがる強固な枠組みを形作っている。2014年のマイダン革命後の争いはヨーロッパのさまざまな枠組みの間に最後まで存在していた政治的境界線を消し去ってしまった。
将来を見通すことはすでに難しい状況にあったが、これらの状況はEUの多くの国々、ならびに、米国やウクライナ、ロシアで起こった内政の動向によってさらに悪化した。国土が置かれている様子を良く理解しており、このゲームでは首尾よく先手を打つことができると考える主要国家の戦略的計算でさえも小国の政治が台無しにしてしまうことが可能であった。今回は、緊張が高まる中、先陣を切ろうとしているのはすべてが反対派であって、彼らこそがわれわれに反発を強いていると主流の派閥は確信しているかのようである。だが、実際に何が起こっているのかに関しては統一見解がなく、状況は困難なものとなっている。
危険極まりない新しい世界:
ロシアがその歴史上でまったく新しい時代に入ってからすでに30年となり、モスクワ政府は西側へ向けて信号を送り出すという古臭いシステムを維持しようとはもう考えてはいない。それは危機をさらに悪化させるようなものであることから非生産的でしかないとみなされている。ウラジミール・プーチン大統領が最近外務省で演説を行った際、彼は同国の外交官のトップであるセルゲイ・ラブロフ外相に2000年代に書いたものと同じように他国に提供することが可能な安全保障について海外のパートナーと話し合うよう求めた。
この考えはある国が何処の国と同盟を結ぶのかは他国が口出しをすることではないという原則を破棄することにあった。つまり、これは決して伝統的な地政学的考えではなかったけれども、最近の何十年かはこれは当然のことのように受け止められている。もはやこの取り組み方は奏功しない。だが、政治的および外交的な話し合いだけによって新しい進め方を開始しようとすることには実現の可能性はないようだ。
仮説上の義務として新加盟国に対して差し伸べられるNATOによる防衛は現実的なものとなり得る。そして、彼らのパトロンに向けて警告を与えるために本同盟の新参加国によって執筆された悪夢のような台本は結局のところ正しかったのだと想像することは極めて難しいことも確かだ。日頃から彼らはプーチンはバルト三国やポーランドを攻撃することによってNATOとの境界線をチェックしたいのだと主張している。しかしながら、現実を見ると、本軍事ブロックはリガやタリンの政府がそうであるよりも遥かに慎重であって、自分たちの義務を尊重するであろうとモスクワ政府は信じているようだ。だが、ウクライナのような非参加国がこのゲームに参加するとなれば、軍事的紛争の可能性は一気に高まるであろう。
2008年にロシアとジョージアとの間で起こり、戦争へと発展して行った事件に見られたような序盤で先手を打つという構図は容易に反復される可能性がある。NATOからの公式の保証はないにしても、暖かい文言が常日頃から存在して来た事実やイデオロギー上の保証、ならびに、さまざまな軍事支援さえもが行われていることは「グレー・エリア」を際限もなく創出してくれる。プーチンがウクライナとの間にある緊張関係について語る時、彼が指摘したい点はこうだ:このグレー・エリアへ向けて一歩でも踏み出すことは深刻な結果を招くであろうということをモスクワ政府としては極めてはっきりと言明して置かなければならない。
東欧における最近のエスカレーションは欧州大陸における安全保障に関する古い原則は今やまったく功を奏しないことを示している。NATOの拡大は軍事・政治的にはまったく新しい風景を作り出した。現在の状況をそのままに放置することは新たな紛争をもたらすかも知れない。その一方で、発射された弾丸はあらゆる取り組みを劇的に改変させるという考え方をこの軍事ブロックは捨てさせる。ロシアはシステムを変更し、「超えてはならない一線」を新たに引き直さなければならないであろう。たとえば、われわれは「フィンランド化」を再定義することが可能だ。これは国家は地政学的な喧嘩には参画せずにその主権を維持するという冷戦時の考え方であって、前向きに捉えようとする姿勢である。冷戦時以降、この用語は軽蔑的な意味合いに変化してしまったが、物事は何だって変化するものだ。
(注)この記事に示されている声明や見解および意見は全面的に著者のものであって、必ずしもRTの見解や意見ではありません。
著者のプロフィール:フィオドール・ルクアノフは「Russia in Global Affairs」の編集長、「
Presidium of the Council on Foreign and Defense Policy」の議長、および、「Valdai
International Discussion Club」の研究部門の長を務めている。
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これで全文の仮訳が終了した。
著者のプロフィールを見ると、著者はロシアにおける対外政策分野ではトップクラスに位置していることが容易に想像される。「NATOが犯している最大の間違いは今のロシアをすっかり弱体化した1990年代のロシアとして扱っていることだ」という引用記事の表題は本質を突いており、それ自体が大きな説得力を持っている。事実、数多くの米国の論客がこのことをさまざまな形で指摘している。たとえば、ドミトリー・オルロフがそうだ。
NATOが抱えている苦悩とNATOが犯した間違いは、一言で言えば、旧ソ連邦の崩壊にともなって冷戦が終結した1991年にNATOを解体しようとはしなかったことに起因すると言えよう。なぜNATOを解体しなかったのかに関しては別の議論にお任せし、ここでは深入りはしない。
このNATO問題は国際情勢を理解する上で陰に陽に影響を与えており、少しでも多く、そして、少しでも深く理解することがわれわれ素人にとっても必須であると言えよう。主要メディアやハイテック企業がディープステーツあるいは軍産複合体の意向にそったプロパガンダ役に専念し、真実を報じようとはせず、大っぴらに検閲に手を貸している現状を見ると、その必要性は、今や、なおさらのことである。
参照:
注1:NATO’s
mistake is that it still thinks it’s dealing with the weakened Russia of the
1990s: By Fyodor Lukyanov, RT, Nov/23/2021, https://on.rt.com/blh8
僕はペレストロイカ末期に都合一年半程、モスクワ、西ベルリン、ロンドンに、物見遊山で滞在した経験があります。西側ではロシア(ソ連)がどう見られているかに興味があり、新聞雑誌の記事を読んだり、知り合った人に聞いたりしたのですが、彼らのゴルバチョフ礼賛にはかなり驚きました。ロシアではほぼ支持する人はいない状況だと理解していたところ、西側のゴルバチョフ人気には違和感がありました。残念ながら昨年亡くなったのですが、ロンドンに数十年在住というロシア人政治学者でネクラーソフという人が居りまして、定期的にモスクワのテレビに中継出演して、「イギリスの政治家、ジャーナリストは何もロシアのことを知らない」ということを繰り返していました。実際、BBCのインタビューを聞いていてもかなりズレている質問をしているのでそうかなと思います。基本的に西側の「専門家」はロシアについては、無関心、無知だと思います。
返信削除今日たまたま見かけた記事にそれを裏付けるようなものがありました。
https://news.yahoo.co.jp/byline/saorii/20211205-00271195
ソルボンヌで欧州外交を勉強したという日本人女性ですが、「アメリカは、ロシア軍が国境を越えてこない限り、自分のほうから紛争や戦争をしかけることはないだろう」だそうです。ここ最近だけでも、アメリカがユーゴ、イラク、リビア、シリアで何をやってきたか知らないのでしょうか。ロシアは、「アメリカやNATOとまともにぶつかって戦争をしたら勝ち目はない」そうです。ロシアは既にアメリカがどうしても開発できないマッハ20のミサイルが配備済みということを知らないのでしょうか。
こうした白痴が「専門家」を名乗るのが西側ですが、僕はこの状況を招いているのは、欧米の経済、軍事、道徳、文化、全ての分野で人類の最高峰に位置しているという全能感にあるように思います。自分たちのやっていることは全て正しいので、他の意見を聞いたり、立ち止まって修正したり、ましてやその行いを反省することなどないのです。ロシアは「遅れた国」で程度の低い人間、ナチの言葉ではUntermensheの住む哀れな国という意識でしょう。僕はプーチンロシアの人の意見を聞いて、反省する態度にロシアの未来を感じています。逆に西側の強烈な優越意識から来る傲慢さには暗い未来を感じます。
石井様
返信削除コメントをお寄せいただき有難うございます。
西側の傲慢さについてはまったくその通りですよね。それが故に西側は自分の弱点を弱点とも自覚できないでいます。それだけではなく、相変わらずの大失敗を繰り返しています。今後も続くことでしょう。結局、覇権を失い、米国はごく普通の国家になって行くのでしょうか。
でも、そうなるまでの間に、自分の弱点を認めない米国の集団思考はとんでもない間違いを引き起こす可能性があり、米ロ間の対話のチャンネルが実働しなくなった今、これは最大級の懸念だと思います。最悪の場合、設備上の欠陥や何らかの事故、あるいは、計算違いから発生した地域的紛争がエスカレートして核戦争に発展してしまうかも知れません。
この核戦争の脅威が増しているが故に2021年の「世界終末時計」は、今、歴史上最短の「100秒前」を指しています。
逆説的に言うと、米ロの指導者が二人とも十分な知性を持ち、共通の価値基準を持っているならば、両首脳はウクライナでの紛争をエスカレートさせることは得策ではなく、是が非でも回避しなければならないと考えるでしょう。国内では反戦意識が高まっている上に、国内の支持率が低迷しているバイデン大統領にとってはコロナ禍の最中に一般大衆の間に広がった反政府感情や国内の分断は国内政治的には無視できないかも知れません。
そういった弱気材料があるからこそ、米諜報部門はロシアが175,000人もの兵力をウクライナ国境に集結させていると言って、ロシアを挑発し、来週火曜日のバイデン・プーチン会談を有利にさせようとしているのではないかと私は解釈しています。
もうひとつの問題点はNATOは必ずしも一枚岩ではないということが重要だと思います。ウクライナでロシアを相手に実際に銃弾が飛び交い始めた時、それがどのように始まったのかは別にしても、NATO軍はいったいどうするのか。駆け付けて来るのか。現時点ではウクライナはメンバーではないのです。NATOの正式メンバーであったトルコがシリア上空でロシア軍の戦闘機を撃墜した時、NATO軍は駆け付けては来なかったことを覚えているでしょうか?
来週の米ロ首脳会談によって世界終末時計の針が1分でも2分でも元へ戻って欲しいものです。
石井様
返信削除本日の記事「GEOFOR interviews The Saker: Will Kiev decide on an open armed conflict?」(The Saker, December 05, 2021) に興味深い分析内容が報告されていましたので、ここに転載します。
ロシア側の分析専門家は今のウクライナとロシアの関係は2008年に起こったジョージアとロシアとの間の戦争の直前の状態と酷似していると言う。しかも、今回はウクライナのゼレンスキー大統領は失う物は何もないことから、当時ジョージアの大統領であったサーカシビリよりも性質が悪いのではないかと見ているとのこと。さて、どうなることやら・・・
もしもウクライナ側の挑発に乗って、ロシアが国境を越えて応戦してくれば、ロシアは軍事的にはいとも簡単にウクライナ軍を敗走させることができる。しかしながら、ウクライナが「ロシアはわれわれを侵略した」と言いさえすれば、米国のプロパガンダによって、国際政治的には米国側の勝利となる。ウクライナと米国はこの筋書きを狙っているのかも。