まず、「新世界秩序」という用語の歴史的な背景を確認しておきたい。ウィキペディアによると下記のように説明されている。
新世界秩序(New World Order)とは陰謀説の一つで、将来的には現在の主権独立国家体制に取って替わるものだとされる世界統一政府による地球レベルでの全体主義体制のことである。この世界政府による独裁制の成立は国際連合を頂点とし、国際通貨基金、世界銀行による金融的な支配、欧州連合などの地域統合を名目とした国家主権を段階的に廃止し、NAFTAやTPPなどの自由貿易体制を通じて人と資本の移動自由化により経済的な国境を廃止し、地球温暖化や世界金融危機など世界レベルでの取り組みが不可欠であり、いわゆる「グローバルな問題」を創り出し宣伝することによって国家の廃絶が必要であるとの世論の形成を通じて行われるとされる。
New World Orderという用語自体は第一次世界大戦後、国際連盟の設立に貢献したアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が初めて公に用いたとされる。その後、第二次世界大戦の悲惨な帰結を見たウィンストン・チャーチルは破滅的な世界大戦を避けるには国民主権国家を廃絶し世界政府の管理による恒久的な平和体制の実現が不可欠であるとして、この言葉を使った。
SF小説家で歴史家としても著名なH.G.ウェルズは国家の存在を認める国際連盟を批判し、主権国家の完全な根絶を訴え、1940年に『新世界秩序』(New World Order)を出版し、その持論を述べた。日本国憲法の特徴である戦力の不保持や交戦権の否認といった完全平和主義の理念はこのウェルズの思想から大きく影響を受けている。
ビル・クリントンの大学時代の恩師で、ジョージタウン大学国際学部教授のキャロル・キグリーは1966年に1,300ページにも及ぶ大著『悲劇と希望』(Tragedy and Hope)を出版し、新世界秩序の世界像を書いている。キグリーは1648年以降のウェストファリア体制 (独立した主権国家同士による勢力均衡体制) を『悲劇』とし、イギリス・アメリカを拠点とする国際金融資本による世界統治を『希望』として描いた。この著書は出版当初はほとんど反響はなかったが、後に陰謀史観のコミュニティに大きな影響を与えた。このことから新世界秩序や、いわゆるグローバリゼーションとはアングロ・サクソン帝国主義の言い換えに過ぎないのだと言われている。
この用語が陰謀史観のコミュニティだけではなく一般にも広く知られるようになったのは、1988年12月7日にミハイル・ゴルバチョフが全世界に向けて行った国連演説がきっかけである。また、1990年9月11日にジョージ・H・W・ブッシュ大統領が湾岸戦争前に連邦議会で行った『新世界秩序へ向けて(Toward a New World Order)』というスピーチでアメリカでも有名になった。
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さまざまな定義があるようだが、冷戦後の世界の動きを眺めてみると、上記の記述の中で新世界秩序を素人の我々に最も分かりやすく示した言葉は「新世界秩序や、いわゆるグローバリゼーションとはアングロ・サクソン帝国主義の言い換えに過ぎない」ではないかと思う。
先に、「尖閣諸島問題に見る覇権の興亡 ― ある政治学者の見方」を小生のブログに掲載した。
歴史の長い時間軸からみた時、覇権の興亡は戦争という手段によってその決着がつけられ、近代史を見るとその頻度が如何に多かったかについておさらいをした。21世紀の今、そうした過去の歴史を学び、改めて認識しなければならない我々、21世紀に生きる現代人の最大の使命は「覇権の興亡に伴う戦争は何としてでも避けること」ではないか。これは日本人にとっても、中国人にとっても、そして、米国人にとっても普遍的に当てはまる概念だと思う。
その後、覇権の興亡という観点から非常に興味深い記事が見つかった。これは英国の新聞ガーデイアンに掲載されたもの[注1]。その表題をここでは「新世界秩序の終焉」と仮に訳しておくことにしたい。この記事は東西冷戦の終結(1989年)後、経済、国際政治、軍事、等の舞台で一極支配の形で世界に君臨して来た米国による覇権は2008年にその崩壊が始まったと分析している。
2008年にはふたつの重要な出来事があった。
2008年8月8日、グルジア共和国軍がグルジアからの分離・独立を掲げる南オセチア州へ侵攻し、南オセチア民兵や平和維持軍として駐留していたロシア軍を攻撃した。それを受けてロシア連邦軍が反撃した。グルジア共和国の軍隊は戦闘に破れ、ロシア政府は8月26日に南オセチアを新国家として承認した。
同年9月15日、住宅バブルの崩壊を受けて、それまでサブプライムローンのリスクを背負うことで事業を拡大していたリーマン・ブラザーズは約64兆5千億円の負債を抱えて破綻した。その結果、リーマンショックが世界を駆け巡り、4年後の現在でさえも世界経済は低調なままだ。
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今、米国についてはさまざまなことが報道され、論評され、将来の展望が描きにくいことからも不安な気分にかられることが多い。対外政策の失敗、ドルの暴落、国家財政の悪化、所得格差の拡大、貧困家庭の増加、国内テロの増加、等。
21世紀のこの世界は安定から流動へと向かっていることには間違いがなさそうだ。一緒に、このガーデイアン紙を覗いてみたいと思う。その仮訳を下記に掲載する。
率直に言うと、日頃扱っている理工系の文書とはガラリと違ういわゆる文系のテキストの和訳を試みたのだが、慣れない英国英語のせいか、それとも、英国人特有の文章スタイルのせいか、分かりにくい表現に多々遭遇した。結果として、下記に掲載する訳文がどこまで読者の期待にこたえることができるのかは未知数だ。しかし、何とか最後の行まで辿り着くことができたのはこの記事が持つ歴史観や内容の面白さが大きな要因であったと言わざるを得ない。
また、この記事は主要メデイアには取り上げられないかも知れない。そんな印象を受けた。だからこそ、小生はここに掲載したいと思った次第である。一人でも多くの人たちとこの情報を共有できれば嬉しい。
<引用開始>
新世界秩序の終焉
21世紀初頭に起こった社会的な激変は我々の世界をすっかり変えてしまった。失った戦争や経済破綻を受けて、社会的に今までとは違う選択肢を求める声だけが大きくなっている。
シェイマス・ミルン著
ガーデイアン紙、2012年10月19日
2008年の夏、ふたつの出来事が相次いで起こった。これらの出来事は新世界秩序の終焉を示唆するものだ。8月に、グルジア軍は領土問題で異議を唱える南オセチア州に駐屯していたロシア軍を襲撃した。この戦闘は短いけれども血なまぐさい、ロシア・グルジア間の戦争となった。
ワシントンのネオコンにとっては旧ソ連邦のひとつであるグルジア共和国は大変なお気に入りだった。グルジアの権威主義的な大統領はNATOの東への拡大にあやかろうとして、NATOへの加盟を目指してロビー活動をしていた。現実があらぬ方向へと反転してしまったのを見て、米国のデイック・チェイニー副大統領はロシアの応戦を「反撃のないまま見逃すことはできない行為だ」と批判し、イラクに対して悲惨な戦争を展開し、その熱が未だ冷めやらぬジョージ・ブッシュは「ロシアの主権国家への侵攻はこの21世紀に許されるものではない」と宣言した。
戦闘が終了した時、ブッシュはロシアに南オセチアの独立を承認しないように迫った。ロシアはその通りにし、米国の戦艦は黒海の辺りを巡航するだけに縮小された。この紛争は国際的にはひとつの転換点となった。米国の虚勢の実体が声高にしゃべられ、その軍事的統治能力はテロとの戦い、イラク、そしてアフガニスタンを通じて不確定なものとなっていた。巨人として世界を見下ろしていた20年が過ぎ去り、争う者のいない米国の時代はここで終わった。
3週間後、一つ目以上に限りなく影響を与えることになりそうな二つ目の出来事が米国の独壇場とも言える金融システムの中枢を襲った。9月15日、米国の4番目に大きな投資銀行が破綻し、ついに信用危機が噴き出したのだ。このリーマン・ブラザーズの倒産は1930年代以降最大の経済危機として西側世界を呑み込んだ。
21世紀の最初の10年は国際的な秩序を揺るがし、世界のエリートたちが持っていた既存の智恵を根底から覆すものとなった。2008年は流れを変える分岐点となったのだ。冷戦の終了によって、政治や経済上の最大の課題はすべて収束した、と我々は聞かされていたものだ。自由民主主義や自由市場資本主義はその勝利を宣言した。共産主義は歴史のかなたへ封じ込められた。政治的な議論は今や文化戦争についてだけ、あるいは、税金とその使い道との間にどのような妥協点を見つけるべきかという話だけに終わるだろう、とさえ囁かれた。
1990年、ジョージ・ブッシュ・シニアは、もはや争う相手がいなくなった米国の軍事的優位と西側世界が達成した経済的制覇に基づいて、新世界秩序の確立を宣言した。これはライバルのいない一極世界を意味した。それぞれの地域の強国は新たな世界帝国に跪くことになった。歴史の流れはそこで止まった、とさえも言われた。
しかし、世界貿易センター・ビルの崩壊とリーマン・ブラザーズの破綻というふたつの出来事の間にこの新世界秩序は崩れていった。これらふたつのファクターは重要だ。戦争を継続した10年間の最後の年に到ると、米国はその軍事力をさらに拡大するのではなく、逆に、その限界を顕わにすることになった。そして、一世代相当の長い期間にわたって君臨してきた、新自由主義を標榜する資本主義者のモデルはここにあえなく崩壊したのだ。
真の意味で始めての世界帝国となった米国は無敵の存在であるとする感覚を根底から打ち砕いてしまったのは9・11のテロ攻撃に対する米国の反応だった。ブッシュ政権の対応は野放図なまでに計算違いの連続で、その拙劣な対応振りによってニューヨークやワシントンにおける残虐な出来事は歴史上最大のテロ事件として名を残すことになった。ブッシュの戦争は殺人行為が続く軍事行動を反映して、世界中にテロリストを生み出し、人権の守護神たる西側世界の主張は拷問や誘拐などによってその信用を失った。文字通り、対テロ戦争は失敗したのだ。そればかりではなく、米英によるアフガニスタンやイラクへの侵攻は世界的な巨人でさえも自国の国民に対して国家意思として戦いを強いることはできないことさえも露呈する始末だった。これは、戦略的には、米国とその同盟国にとっては非常に大きな失敗となった。
一極支配の時代が過ぎ去ったことは世界を変貌させた四つの決定的な変化のうちの最初のものである。二つ目は2008年の破綻から派生したものであって、この破綻が引き金となった西側世界の資本主義秩序そのものの危機である。これは米国の相対的な凋落をさらに早める結果となった。
これは米国製の危機であり、米国が進めていた複数の戦争の莫大なコストによってさらに深刻なものとなった。そして、エリートたちが規制が緩和された市場での新自由主義の正当性や束縛から解放された企業のパワーを熱狂的に取り込んだ。そして、それらの国々の経済は壊滅的な影響を受けることとなった。
現代の経済を運営するにはこれが唯一のものだとのふれ込みの下、無理やりに世界の口元へ流し込まれた資本主義の貪欲なモデルが処方箋として作成された。しかし、その対価として不平等や環境の劣化が拡大した。そして、歴史上類を見ない最大級の国家介入によって始めて、崩壊の難から何とか逃れるような有様だった。新保守主義と新自由主義との有害な双子の手法を試行錯誤したが、破滅へと向かった。
これらふたつの失敗は中国の台頭を加速させ、これは21世紀における三つ目の画期的な変化となった。中国の劇的な経済成長は何百万もの市民を貧困から救っただけではなく、市場経済の正当性を冷笑し、新たな世界経済の中心を築き上げ、国営投資モデルは西側のスランプ経済を出し抜いた。これは小国の経済運営に対してより大きな自由度をもたらした。
中国の台頭は、南米を席巻していた漸進的変化の潮流の中、南米に将来のための空間を広げてくれた。これが四つ目の変化である。南米大陸ではいたるところで経済や民族間の不正義が攻撃を受け、地域的な独立を築き上げ、企業の管理下にあった資源を取り戻して、方々で社会主義的あるいは社会民主主義的な政府が権力の座についた。かの地で我々の存在が保証されていた20年が経っても、新自由主義的資本主義に取って代わるものはなかった。代替策は南米の人々が自ら構築しつつあったのだ。
これらの重要な変化は、勿論、莫大なコストと必要条件を伴ってやって来た。米国は、予見し得る将来、圧倒的な軍事力を持った国家として存在し続ける。イラクやアフガニスタンでの一部の敗退は比類の無いスケールの死や破壊によってその対価が支払われた。そして、多極化はそこに内包された紛争リスクを招来するだろう。新自由主義モデルは信用を失ったが、多くの政府は残酷な緊縮財政プログラムを用いて同モデルを維持しようとした。中国の成功は不平等や公民権ならびに環境破壊といった高価な代償を払って入手したものだ。そして、米国の後押しを受けた南米のエリートたちは、2009年にホンジュラスで暴力的なクーデターによって成し遂げたように、社会的利得を逆転させようと決意していた。しかし、これらの矛盾は革命的な激変をしつこく悩ませ、2010年から2011年にかけてアラブ世界を呑み込んだ。これはもうひとつの世界的規模の変化をもたらすに至った。
この時点に到る前、ブッシュのテロ戦争は政府としてはその呼称を「海外での偶発事件作戦」という呼び方に変更しなければならない程どうしようもないバツの悪さを経験していた。イラク戦争はほぼ全世界的なレベルで「大失敗だった」と認識され、アフガニスタンの取り組みについても失敗が確実視された。しかし、こうしたしおらしい現実主義的見方も、結局は、これらの作戦が開始された当時西側の主流派が予測した姿からそれほど遠いものにはなり得なかった。
9・11のテロ攻撃後米英の政治家や彼らを取り巻く評論家たちが日常的にしゃべっていた世界へ戻ろうとすると、それはあたかも毒のある妄想に満ちた別世界へ運び込まれるみたいなものだ。当時、テロ戦争は侵攻や占領のためだとしてこの戦争の遂行を拒み続けた人たちがいたが、それらの人たちの信用を失墜させようとありとあらゆる努力が試みられた。
現内閣の保守系閣僚であるマイケル・ゴーブはガーデイアン紙に対して辛辣な批判を浴びせた。ガーデイアン紙がテロ攻撃を批判して全面的な論戦を張ったことについて、同紙を「第五縦隊[注2]」のプラダ・マインホフ・ギャング[注3]みたいなものだと言って公然と非難した。ルパート・マードックのサン紙はそれらの戦争に関する警告を「ファッシスト左派による反米宣伝」だと言ってこきおろした。タリバン政権が駆逐された時、ブレアーはアフガニスタンへの侵攻や対テロ戦争に反対した人たち(私自身も含めて)を高らかに非難したものだ。我々が「間違っている」ことが証明された、と彼は言った。
10年後、惨憺たる結果を見て、「間違っていた」のはブレアー政権だったということを疑う者はいない。米国とその同盟国はアフガニスタンの征服に失敗するだろうと、評論家たちは予想していた。対テロ戦争自体がテロリズムをより拡大することになるだろう。そして、公民権を奪ったりしたら、悲惨な結果を招き、イラクの占領は流血沙汰の大惨事になるだろう、と。
戦争屋の「専門家」たちは、例えば、ボスニアの総督[注4]と称せられたパデイ・アッシュダウンはアフガニスタンへの侵攻は長期にわたるゲリラ戦になるかも知れないとの警告を「空想的だ」と言って、ばかにしたものだ。10年以上経った今、武装抵抗勢力は以前にも増して強力になり、この戦争は米国の歴史上最も長い戦争となった。
街頭では何百万もの市民が反対の声を出していたにもかかわらず、イラクに関してもまったく同様だ。侵攻に反対して立ち上がった人たちは「融和派」として非難された。米国防長官のドナルド・ラムズフェルドはこの戦争は6日しか続かないだろうと予想した。米英の殆どのメデイアはイラクの抵抗は短時日のうちになくなるだろうと予測した。彼らは完全に間違っていたのだ。
侵攻が始まった最初の週、私は「新植民地主義スタイルのイラクの占領はサダム・フセインが更迭された後でさえも長期間にわたってゲリラによる徹底した抵抗にあい、占領軍は追い出されるだろう」と書いた。事実、英軍は容赦のない襲撃に見舞われ、2009年に追い出された。米軍も、同様に、2011年には撤退した。
しかし、新世界秩序に反対を唱えた人たちが結局正しかったことやチヤーリーダーたちが悲惨なナンセンスを話していたことが分かったのは対テロ戦争についてだけではなかった。30年にもわたって、西側のエリートたちは規制が緩和された市場や私有化ならびに富裕層に対して税率を低めに抑えておくことが成功と繁栄をもたらしてくれるのだと主張してきたのだ。
2008年よりもずっと前に、「自由市場」モデルはすでに厳しい攻撃を受けていた。つまり、新自由主義は無責任な銀行や企業にパワーを与え、貧困や社会的不正義を助長し、民主主義を骨抜きにし兼ねない、さらには、新自由主義は経済的にも環境上からも持続可能ではない、と企業のグローバル化に反対する人たちは主張していた。
好景気と不景気の循環はもう過去のものだと主張する新しい労働党の政治家たちとは対照的に、批評家たちは資本家が言う景気循環はばかげた代物だとして廃棄することが出来るとする考えを退けた。規制緩和や融資そして無鉄砲な借金漬けの投機こそが実際に危機につながるだろう、と。
新自由主義モデルは崩壊に向かっていると予測した大半のエコノミストたちは、勿論のこと、左派に属していた。英国では主流の政党は皆が融資に関しては左寄りの規制を支持したが、野党はシテイの規制緩和はより広範にわたって経済に打撃を与えるだろうと反論した。
公的サービスの民営化はよりコスト高となり、賃金や労働条件を悪化させ、汚職を助長するだろうと批評家たちは警鐘を鳴らした。まさに、これは実際に起こった通りだ。企業の特権や市場の正当性が条約に組み込まれている欧州連合においては、その結果は破滅的だった。自由化された銀行業務と非民主的で、均衡を欠いた、さらには、デフレ傾向の通貨統合との組み合わせについて批評家たち(この場合は左派と右派)は崩壊が起きるとしていつも反論していた。惨憺たる有様が起こるのを待つだけだった。その時、上述の破綻が引き金となった。
新自由主義的資本主義に関する反論は、米国主導の侵攻と占領のための戦争についての反対がそうであったように、圧倒的に左派側によるものだった。しかし、その時代の中心的な論争についての汚名挽回は驚くほどゆっくりとしたペースであった。20世紀での敗北による左派の自信喪失を考慮に入れると、多分、驚くには当たらないだろう。
しかしながら、これらの大失敗を繰り返すまいとするならば、大失敗の教訓を持ち帰ってじっくりと吟味することは非常に大事だ。イラクやアフガニスタン後においてでさえも、パキスタンからソマリアに至るまで無人機による殺戮攻撃が行われ、対テロ戦争は市民の間で遂行されてきた。リビア政権の転覆では西側の大国が決定的な役割を演じた。つまり、市民を保護するとの名目でNATOによって内戦が展開された。後に何千もの命が失われたことが分かった。一方、利害の不一致に翻弄されたシリヤでは介入の脅かしが行われ、イランでは全面攻撃の脅かしが行われた。
新自由主義がその信用を失った一方で、西側諸国の政府はそれを守り抜こうとして経済危機を利用した。仕事場や給料ならびに給付金のカットだけではなく、民営化をさらに推し進めた。勿論、右派的にとどまっているだけでは決して十分ではなかった。必要としたのは権力の座を回すのに十分な政治的および社会的な圧力だった。
信用をなくしたエリートに対する嫌悪感や彼らが提唱する社会的ならびに経済的プロジェクトに対するそれは2008年以降着実に強まっていった。経済危機の重荷が大多数の人たちによって担われ、抗議やストライキが広がり、選挙人たちが見せた変化は真の変化を求める圧力がついに始まったことを示していた。企業のパワーや拝金主義を拒絶することがこの時代の常識となっていたのだ。
歴史家のエリック・ホッブスボームは2008年の破綻を「ベルリンの壁の崩壊に匹敵する右派の破綻」であると表現した。共産主義や伝統的社会民主主義の内部崩壊の後、左派は提案すべき体系的な代案は何も持っていなかったとする見方には広く反論があった。それらは全てが、ソビエト圏やケインズ派の福祉国家からサッチャーやリーガンを支持する新自由主義に至るまで、この特異な歴史的状況におけるイデオロギーに駆り立てられた行き当たりばったりの考えから生まれたものだった。
より民主的で、平等な、そして理性的なベースに立って、破壊された経済を再構築する必要性が持続可能な代替案の形を決定づけ始めたことから、このことは新自由主義の秩序が崩壊した後についても当てはまることだろう。経済ならびに環境の両領域における危機は社会的所有や公的介入ならびに富と権力の移行を求めた。日常の生活が斬新的解決の方向に向けて押しやっていたのだ。
21世紀初頭における大混乱は一種の新しい世界秩序の可能性を示し、純粋な意味での社会的ならびに経済的な変革の可能性を示した。共産主義者たちが1989年に学んだように、また、その20年後に資本主義の勝者たちが見い出したように、何もまだ解決はされていないのだ。
(上記はThe Revenge of History: the Battle for the 21st Centuryと題する書籍からの抜粋を編集したもの。 著者はSeumas Milne、出版はVerso。16ポンドにて guardianbookshop.co.ukから購入可能。)
<引用終了>
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追記(Oct/26/2012)
イラク戦争では米国のマスコミはすべてが米国政府のプロパガンダ役を演じていた。そんな中、英国のガーデイアン紙はイラク戦争に全面的に反対したことで知られている。とうに無くなったと思われていた主流派メデイアのジャーナリズム精神はこの英国の新聞に引き継がれていたようだ。また、カタールの衛星放送「アルジャジーラ」は基本的なジャーナリズム精神を踏襲して、米国のメデイアが振り向きもしないイラク側の犠牲を報道し、客観的な報道を行うことに徹した。メデイアの世界は商業主義とジャーナリズム精神との間で大きく揺れている。
「戦争が起こると最初の犠牲者は真実である」と言われる。つまり、遅かれ早かれメデイアが犠牲になる。この方程式はイラク戦争でも成立した。メデイアの世界は商業主義とジャーナリズム精神との間で大きく揺れる。
これらの点を認識しておきたいと思う。
参照:
注1:The End of the New World Order:ガーデイアン紙、2012年10月19日
注2:「第五縦隊」とは「敵を支持する連中」を意味する。一般に、国家のようなより大きな組織の中で内部から秘密裏にその組織を破壊する工作員を指す。スペイン内戦に題材をとったヘミングウェイの小説の題名に使用されたという。
注3:「プラダ・マインホフ・ギャング」とは70年代のヨーロッパで最も恐れられたドイツ赤軍のファッションに由来する過激なファッションを指した言葉らしい。転じて、政治的な信条をあたかもファッションのように使う人たちを指す言葉となった。
注4:「ボスニアの総督」:1995年12月のボスニア・ヘルツエゴヴィナの和平に関するデイトン合意に基づいて、和平の遂行を民生面で担当するため上級代表事務所が設置され、パデイ・アッシュダウンは4代目の上級代表となった(2002-2006)。
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