8月は毎年やってくる。好むと好まざるとにかかわらず、8月はわれわれ日本人にとっては日本の現代史を反芻する絶好の機会となる。
広島と長崎に原爆を投下し、20万人もの非戦闘員を殺したことについて、米国政府は米国の将兵が殺されることを防ぐことに貢献したとして正当化してきた。そうすることによって、米国は戦争犯罪の汚名から身をかわしてきたのである。しかしながら、多くの歴史的事実が公開され、そういった情報を繋ぎ合わせてみると、われわれ一般庶民が周知の事実として理解してきた事柄は実際にはそんなに単純ではないことが少なくはない。それは米国についても言えるし、日本についても言える。
米軍が日本へ上陸し、日本軍や民間人と地上戦を行わなければならなかったとしたら、多くの米兵が犠牲になったであろうという推測は妥当だ。しかしながら、日本の降伏を促すために原爆の投下が必要であったとする主張は、米軍の高官の大多数の見方であったと肯定することは難しいように思う。数多くの米軍高官は、当時、日本はすでに降伏する寸前に追いやられていたと分析し、原爆投下の必要性を否定していた。
原爆投下は軍事的な観点からは必要性がなかったとするならば、当時の米国政府はどうして広島・長崎への原爆投下に踏み切ったのだろうか?その問い掛けに答えなければならない。われわれの多くはすでに答えを知っているが、原爆の投下から78年が経過したこの夏、もう一度おさらいをしておこうではないか。
ここに、「日本を降伏させたのは原爆ではない。スターリンだ」と題された記事がある(注1)。
本日はこの記事を仮訳し、読者の皆さんと共有したいと思う。なお、この記事は10年前に出版されたものだ。
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副題:70年間にもおよび核政策は虚偽に根ざして来たのか?
第二次世界大戦中に日本に対して米国が使用した核兵器は長い間感情的な議論の対象となってきた。当初、広島と長崎に2発の原爆を投下するというトルーマン大統領の決定に疑問を呈する人はほとんどいなかった。しかし、1965年、歴史家のガー・アルペロヴィッツはこの原爆投下は戦争の即時終結を強制したが、日本の指導者たちはすでに降伏したかったことから、11月1日に計画されていた米軍の侵攻以前に日本は降伏していた可能性が高いと論じた。したがって、原爆の使用は不要であった。もしも戦争に勝つために原爆が必要ではなかったならば、明らかに、広島と長崎への原爆投下は間違っていた。あれから48年、アルペロヴィッツに同調して、原爆の投下を非難する人たちがいる。その一方、原爆が道徳的で、必要で、命を救うものであったと熱く語るたち人もいる。
しかしながら、どちらの思考グループもより強力な新しい武器による広島・長崎への爆撃が8月9日に日本に降伏することを強いたと想定している。そもそも、彼らは爆撃の有用性に疑問を呈してはいないのである。本質的に言って、原爆投下は機能したのかを尋ねなければならない。正統派の見解は「はい。もちろん、うまく機能した」という。米国は8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆を投下し、ついに日本はさらなる核攻撃の脅威に屈して、降伏したのだという。このストーリーへの支持は根深い。しかしながら、そこにはみっつの大きな問題があり、まとめて言えば、それらは日本の降伏に関する伝統的な解釈を著しく損なっている。
タイミング:
伝統的な解釈における最初の問題はタイミングだ。そして、これは深刻な問題である。伝統的な解釈は単純なタイムラインで構成されている。つまり、米軍は8月6日に核兵器で広島を爆撃し、3日後に別の核兵器で長崎を爆撃し、翌日、日本は降伏の意図を示した。*「太平洋に平和:われわれの爆弾がやってのけた!」といった見出しを掲載した米国の新聞を非難することなんてとてもできない。
米国の歴史の中で広島の物語が語られる時、ほとんどの場合、原爆投下の日である8月6日が物語のクライマックスとして機能する。物語のすべての要素は原爆を製造するという決定やロスアラモス研究所での秘密の研究、最初の印象的な実験、そして、広島での最後の集大成、等、すべてがその瞬間を指している。言い換えれば、それは原爆についての物語として語られている。しかし、原爆の話の文脈からは日本が降伏するとの決定を下したことを客観的に分析することはできない。日本の決定を「原爆の物語」として位置付けることは原爆の役割が中心であることをすでに前提としているのである。
日本人から見ると、8月の第2週で最も重要な日は8月6日ではなく、8月9日であった。その日は最高評議会が無条件降伏について話し合うためにこの戦争で初めて会合を持った日であった。最高評議会は、1945年に日本を事実上統治していた政府の6人のトップメンバー(一種の内閣)のグループであった。その日以前には、日本の指導者たちは降伏することを真剣に考えてはいなかった。無条件降伏(連合国が要求していたもの)は飲み込むのには極めて苦い薬だった。米国と英国はすでにヨーロッパで戦争犯罪裁判を招集していた。彼らが神であると信じられていた天皇を裁判にかけることに決めたとしたら、どんなことになるのだろうか?彼らが天皇を追い出し、政府の形態を完全に変えたらどうなるのだろうか?1945年の夏、状況は悪かったが、日本の指導者たちは彼らの伝統や信念、または、彼らの生き方を放棄することを検討することは厭わなかった。8月9日までは。彼らが突然、そして、決定的に彼らの考えを変えさせる原因としていったい何が起こったのだろうか?14年間も戦争を継続した後に、初めて降伏について真剣に話し合うために彼らが一堂に会したのはいったい何だったのだろうか?
それは長崎のせいでもなかった。長崎への原爆投下は、最高評議会がすでに降伏を議論するための会議をすでに開始した後であって、8月9日の午前遅くに起こった。日本の指導者たちに原爆投下の知らせが届いたのは最高評議会の会議が行き詰まって、一時中断され、内閣が完全な議論を行うために再召集された後、つまり、午後の早い段階であった。タイミングだけで長崎への原爆投下が彼らの決定の動機付けとなったとは言えそうにはない。
広島も最適な候補ではない。それは74時間前にやってきた。つまり、3日以上も早くだった。展開するのに3日もかかるというのはいったどのような危機であろうか?危機の際の特徴というのは災害が差し迫っっているという感覚や今すぐにでも行動を起こしたいという圧倒的な願望だ。日本の指導者たちは広島が危機を触発したにもかかわらず、3日間その問題について話すために会合を持たなかったことをどのように感じていたのだろうか?
ジョン・F・ケネディ大統領は、1962年10月16日の午前8時45分頃、国家安全保障顧問のマクジョージ・バンディがソビエト連邦がキューバに核ミサイルを密かに設置していることを知らせるためにやって来た時、朝刊を読みながらベッドに座っていた。2時間45分以内に特別委員会が設立され、そのメンバーが選ばれ、連絡が取られ、メンバーたちはホワイトハウスに出頭し、閣僚のテーブルを囲んで座り、何をすべきかを議論した。
北朝鮮が38度線を越えて韓国に侵攻した時、つまり、1950年6月25日、ハリー・トルーマン大統領はミズーリ州インディペンデンスで休暇を過ごしていた。アチソン国務長官はその土曜日の朝トルーマンに電話して、ニュースを伝えた。24時間以内に、トルーマンは米国のほぼ半分を飛行し、ブレアハウス(ホワイトハウスは改修中であった)に座り、彼の軍事や政治の最高顧問たちと何をすべきかについて話し合っていた。
南北戦争中の1863年にポトマック軍の北軍司令官であり、リンカーン大統領が悲しいことには「彼は遅い」と評したジョージ・ブリントン・マクレラン将軍でさえも、ロバート・E・リー将軍が出したメリーランド侵攻命令のコピーを与えられた時に無駄にした時間はわずか12時間だけであった。
これらの指導者たちは誰もが、まさにどの国の指導者たちもそうであるように、危機がもたらした緊急の呼びかけに応えたのである。彼らはそれぞれ短時間のうちに決定的な一歩を踏み出した。このような行動をわれわれはどのようにして日本の指導者の行動と両立させることができるのか?広島が本当の危機に触れ、14年間も戦ってきた後、最終的に日本人を降伏させたとするならば、なぜ彼らは降伏について話し合うために一堂に会するのに3日間も要したのであろうか?
遅延は完全に論理的であると主張する人がいるかも知れない。おそらく、彼らは原爆投下の重要性にゆっくりと気付いたのだ。おそらく、彼らはそれが核兵器であることを知らなかっただろうし、彼らがそれに気付き、そのような兵器が持つ恐ろしい可能性の影響を理解した時、彼らは降伏しなければならないと自然に結論付けることになった。残念ながら、このような説明は証拠とは一致しない。
第一に、広島が爆撃されたまさにその日に、広島の知事は人口の約3分の1が攻撃で殺され、都市の3分の2が破壊されたと東京に報告した。この情報は次の数日間変更されることはなかった。したがって、結果は、つまり、原爆の最終的な結果は最初から明らかであった。日本の指導者たちは最初の日の攻撃について大まかな結果を知ってはいたが、それでも行動をしなかった。
第二に、広島原爆を調査した陸軍チームが作成した初期報告書はそこで何が起こったのかについての詳細を述べたものであり、8月10日まで届けられなかった。言い換えれば、降伏の決定がすでに下された後になるまで、それは東京には到達しなかったのである。彼らの口頭での報告は8月8日に(軍に)届けられたが、原爆の詳細は2日後まで入手できなかった。したがって、降伏の決定は広島で起こった恐怖についての徹底した評価に基づいたものではなかった。
第三に、少なくとも大まかに言えば、日本軍は核兵器とは何かを理解していた。日本には核兵器計画があった。何人かの軍人は広島を破壊したのは核兵器であったという事実を日記に記している。阿南是近陸軍大臣は、8月7日の夜、日本の核兵器計画の責任者との相談に行った。日本の指導者たちが核兵器について何も知らなかったという考えは成り立たない。
最後に、タイミングに関するもうひとつの事実は極めて顕著な難問を引き起こす。8月8日、東郷重徳外務大臣は鈴木貫太郎首相のところへ行き、広島への原爆投下を議論するために最高評議会を招集するよう求めたが、メンバーたちは辞退した。そのため、この危機は8月9日に一気に満開になるまでは膨らむことはなかった。広島への原爆投下の「衝撃」に依拠したとして日本の指導者たちの行動を説明するには8月8日に原爆投下について話し合うための会合を検討したが、それはあまりにも重要ではないと判断し、そして、突然、その翌日、降伏について話し合うために会合を持つことに決めたという一連の事実をうまく説明しなければならない。彼らはある種の集団的な統合失調症に陥ったか、あるいは、降伏について話し合った本当の動機はまったく別の出来事にあったかのどちらかである。
破壊の尺度:
歴史的には、原爆の使用はこの戦争での最も重要な個別の出来事であったように思えるかも知れない。しかしながら、現代の日本の観点からは、原爆を他の出来事と区別することはそれほど簡単ではなかったのかも知れない。結局のところ、ハリケーンの真っ只中において一滴の雨を識別することは極めて困難な話だ。
1945年の夏、米陸軍航空部隊は世界の歴史の中で最も激しい都市破壊キャンペーンのひとつを実施していた。日本の68の都市が攻撃され、それらはすべて部分的または完全に破壊された。推定で170万人がホームレスになり、30万人が死亡し、75万人が負傷した。これらの襲撃のうち66回は従来の爆弾で行われ、2回は原爆で行われた。従来の攻撃によって引き起こされた破壊は甚大であった。毎晩のように、夏の間ずっと、都市は煙に包まれていた。この破壊の連鎖の真っ只中で、たとえひとつの爆撃が驚くべき新しいタイプの武器で実行されたとしても、あるいは、その個々の爆撃があまり印象に残らなかったとしても驚くことではない。
マリアナ諸島から飛来するB-29爆撃機は、ターゲットの位置と攻撃の高度によって変わるが、16,000〜20,000ポンド(7,200~9,000キロ)の爆弾を運ぶことが可能であった。典型的な攻撃は500機の爆撃機で構成されていた。これは、典型的な従来の攻撃は各都市に4〜5キロトンの爆弾を投下していたことを意味する。 (キロトンは1,000キロを示し、核兵器の爆発力の標準的な測定尺度である。広島原爆は16.5キロトンで、長崎原爆は20キロトン) 多くの爆弾は破壊を均等に(したがって、より効果的に)拡散する一方で、単一のより強力な爆弾は爆発の中心でその破壊力の多くを浪費し、瓦礫を跳ね飛ばすことを考えると、従来の攻撃のいくつかはふたつの原爆の破壊力に近づいたと主張することが可能だ。
通常の攻撃の最初のもの、つまり、1945年3月9〜10日の東京への夜間攻撃は戦争の歴史の中で都市に対して行われた単一の攻撃の中で最も破壊的な攻撃であった。16平方マイル(41平方キロ)に及ぶ市街が燃え尽きた。推定で12万人の日本人が命を落とした。これは都市への爆撃攻撃の中で唯一最大の死者数である。
ストーリーの語り口から、広島への原爆投下ははるかにひどかったと私たちはしばしば想像しがちだ。殺された人の数はチャートからは大きく外れていたと想像しがちである。しかし、1945年の夏に爆撃された68都市すべてで殺された人々の数をグラフ化すると、広島は民間人の死者数で2番目であることが分かる。破壊された平方マイルの数をグラフ化すると、広島は4番目であることが分かる。また、破壊された都市の割合をグラフ化すると、広島は17位だ。明らかに広島はあの夏に実行された通常攻撃のパラメータの範囲内であった。
われわれの視点から見ると、広島は特異で並外れたものに思える。しかし、広島への攻撃に至るまでの3週間における日本の指導者たちの立場に立つと、状況は極めて異なったものとなる。もしもあなたが7月下旬から8月上旬における日本政府の主要メンバーの一人であったとしたならば、あなたの都市爆撃の経験は次のようなものであったであろう。つまり、7月17日の朝、あなたは夜の間に4つの都市が攻撃されたという報告を受けたであろう。大分、平塚、沼津、および、桑名だ。これらの都市では、大分と平塚は50%以上が破壊された。桑名は75%以上が破壊され、沼津はさらに酷く攻撃され、市の90%が焼け落ちた。
3日後、あなたが目を覚ますと、さらにみっつの都市が攻撃されていたことに気付くことになる。福井では80%以上が破壊された。一週間後、さらに3つの都市が夜の間に攻撃された。2日後、75%が破壊された一宮を含めて、一晩でさらに6つの都市が攻撃された。8月2日、あなたがオフィスに到着すると、さらによっつの都市が攻撃されたという報告が待っていた。そして、その報告には富山(1945年のテネシー州チャタヌーガとほぼ同じ大きさ)は99.5%が破壊されたという情報が含まれていたであろう。事実上、街全体が平坦化されてしまった。4日後、さらによっつの都市が攻撃された。8月6日、広島の都市だけが攻撃されたが、被害は大きく、新型爆弾が使用されたと報告されている。何週間も続いていた都市の破壊を背景にして、この新種の攻撃はどれほど際立っていたであろうか?
広島への原爆投下の前の3週間で26の都市が米陸軍航空部隊によって攻撃された。これらのうち、やっつの都市、つまりほぼ3分の1は広島と同程度か、それ以上に完璧に破壊された(破壊された都市の割合の観点から)。1945年の夏に日本が68の都市を破壊されたという事実は広島への原爆投下を日本の降伏の原因にしたい人々にとってはまさに深刻な問題を提起するのである。問題は、ひとつの都市が破壊されたがために彼らは降伏したと言うならば、他の66の都市が破壊されたときに彼らはなぜ降伏しなかったのはなぜかという点だ。
もしも日本の指導者たちが広島と長崎のために降伏しようとしていたとしたら、彼らは都市爆撃全般を気にかけており、都市攻撃は彼らに降伏するよう圧力をかけていたことに気付くであろう。しかし、これはそういうわけではないようだ。東京への爆撃から2日後、引退した幣原喜重郎外相は当時の日本の高官たちの間で明らかに広く抱かれていた感情を表明した。幣原は「人々は毎日の爆撃に徐々に慣れることだろう。やがて、彼らの団結と決意はより強くなるだろう。」友人への手紙の中で、彼は「何十万人もの非戦闘員が殺されたり、負傷したり、飢えたとしても、何百万もの建物が破壊または焼失したとしても」外交には追加の時間が必要であるため、市民が苦しみに耐えることが重要であると述べていた。幣原は穏健派であったことを覚えておいていただきたい。
政府の最高レベル、つまり、最高評議会においても態度は明らかに同じであった。最高評議会はソビエト連邦が中立を維持することの重要性について話し合ったが、彼らは都市爆撃の影響については完全な議論を行わなかった。保存されている記録によると、都市爆撃は、1945年5月の末頃と8月9日の夜の幅広い議論の2回を除いては、最高評議会の議論中にさえも言及されてはいないのである。証拠に基づいて言えば、戦争の実行に関連する他の差し迫った問題と比較して日本の指導者たちが都市爆撃は極めて重要であると考えていたと主張することは困難である。
阿南大将は、8月13日、原爆投下は日本が何ヶ月にもわたって耐えてきた焼夷弾による攻撃ほど脅威的ではないと述べた。もし広島と長崎が焼夷弾爆撃よりも脅威ではなく、日本の指導者たちがそれらを深く議論するほど重要だとは考えていなかったとしたら、広島と長崎への原爆投下はいったいどうやって彼らに降伏を強制することができたのであろうか?
戦略的重要性:
日本人が都市爆撃全般について、特に、広島への原爆投下について関心がなかったとしたら、彼らはいったい何に関心があったのだろうか?答えは単純だ。それはソビエト連邦だ。
日本は比較的困難な戦略的状況にあった。彼らは負け戦の終わりの段階に近づいていた。状況は極めて悪かった。しかし、陸軍は依然として強力で供給が豊富であった。400万人近くの男たちが武装しており、そのうち120万人が日本の故郷の島々を守っていた。
日本政府の最も強硬な指導者でさえも戦争を続けることはできないことを知っていた。問題は継続するかどうかではなく、可能な限り最良の条件で戦争を終わらせる方法であった。連合国(米国、英国、その他。当時、ソビエト連邦はまだ中立であったことを思い出していただきたい)は「無条件降伏」を要求していた。日本の指導者たちは戦争犯罪裁判を回避し、政府の形態を維持し、征服した領土の一部(韓国、ベトナム、ビルマ、マレーシアとインドネシアの一部、中国東部の大部分、太平洋の多数の島々)を維持する方法を見つけ出すことができるかもしれないと期待していた。
彼らはより良い降伏条件を得るためにふたつの計画を持っていた。言い換えると、彼らにはふたつの戦略的選択肢があったのだ。まずは外交的な選択肢。日本は1941年4月にソビエト連邦と5年間の中立条約に署名し、1946年に失効することになっていた。主に文民指導者で構成され、東郷重徳外相が率いるグループはスターリンが米国とその同盟国、および、日本との間の和解を調停することを確信するかも知れないことに期待を抱いていた。この計画は大きな賭けであったが、健全な戦略的思考を反映していた。結局のところ、和解の条件が米国にとってあまり有利ではないということはソビエト連邦にとっては利益になるのである。アジアにおける米国の影響力と力の増加はロシアの力と影響力の減少を意味するからだ。
2番目の計画は軍事的であり、阿南是近陸軍大臣が率いるその支持者のほとんどは軍人であった。彼らは帝国陸軍の地上部隊を使用して、米軍が侵攻してくる際に多くの死傷者を出すことを望んでいた。彼らが成功すれば、彼らは米国により良い条件を提供させることができるかも知れないと感じていた。この戦略も大きな賭けであった。米国は無条件降伏に深く傾倒しているようであった。実際には、侵攻による死傷者が法外なものになるという懸念が米軍側にあったので、日本の最高司令部の戦略は完全に的外れというわけではなかった。
日本の降伏を引き起こしたのは広島への原爆投下なのか、それとも、ソビエト連邦による侵略と宣戦布告であったのかを判断するひとつの方法は、これらふたつの出来事が戦略的状況にどのように影響したのについてを比較することである。8月6日に広島に原爆が投下された後、両方の選択肢はまだ生きていた。スターリンに調停を依頼することはまだ可能だったであろう(8月8日の高木の日記によると、少なくとも日本の指導者の何人かは依然としてスターリンを巻き込む努力について考えていたことを示している)。また、最後の決定的な戦いを行い、大きな犠牲を出させることも可能であったであろう。広島の破壊は日本の故郷の島々の海岸に掘られた塹壕に潜む軍隊の準備状況を減退させるような理由にはならなかった。彼らの背後では、今や、都市がひとつ減ってはいたが、彼らは未だに深く掘り下げており、弾薬はまだ持っていた。彼らの軍事力は重要な意味を持つ減退をしてはいなかったのだ。広島への原爆投下は日本のふたつの戦略的選択肢のどちらをも差し控えさせることにはならなかった。
しかしながら、ソビエトの宣戦布告と満州やサハリン島への侵攻の影響はまったく異なっていた。ソビエト連邦が宣戦布告すると、スターリンはもはや調停者として行動することができず、今では交戦者である。したがって、外交的選択肢はソビエトの動きによって一掃されてしまった。軍事状況への影響も同様に劇的であった。日本の精鋭部隊のほとんどは故郷の島々の南部に配置されていたのである。日本軍は米軍の侵攻の最初の標的になる可能性が高いのは九州の最南端であると正しく推測していた。たとえば、満州におけるかつての誇り高き広東軍は日本自体を守るために彼らの精鋭部隊が移動されていたことから、以前の自己の抜け殻でしかなかった。ロシア軍が満州に侵攻した時、彼らはかつては精鋭部隊であった軍団を切り裂き、多くのロシア軍部隊は燃料が切れた時にだけ進軍を停止した。ソビエト第16軍(10万人)はサハリン島の南半分への侵攻を開始した。彼らの命令はそこで日本の抵抗を一掃し、その後は10〜14日以内に日本の故郷の島々の最北端にある北海道に侵攻する準備をすることであった。北海道を防衛する任務を負っていた日本軍の第5方面軍はふたつの師団とふたつの旅団であり、島の東側の要塞陣地に配置されていた。ソビエト軍の攻撃計画は西からの北海道への侵攻を要求していた。
ある方向から侵攻してくるひとつの大国に対して決定的な戦いを繰り広げることは可能かもしれない。だが、ふたつの異なる方向から侵攻してくるふたつの大国と同時に戦うことは不可能であることを軍事的天才たちが正しく理解するのに時間はかからなかった。ソビエトの侵攻は外交戦略を無効にし、軍の決定的な戦闘戦略を無効にしてしまったのである。日本の選択肢は一気に消えてしまった。ソビエト軍の侵攻は戦略的には決定的であって、日本のふたつの選択肢を差し控えることになった。だが、広島への原爆投下はそうはならなかった(どちらをも差し控えることにはならなかった)。
ソビエトの宣戦布告は、また、機動にどれだけの時間が残されているのかの計算を狂わせてしまった。日本の諜報機関は米軍は何ヶ月も侵攻してはこないと予測していた。一方、ソビエト軍はたった10日間で本土に間違いなく到着する可能性があった。このソビエト軍の侵攻はこの戦争を終わらせることに関しては時間に極めて敏感な形で意思決定をさせることになった。
そして、日本の指導者たちは数ヶ月前にこの結論にすでに達していた。1945年6月の最高評議会の会議で、彼らはソビエトの戦争への参入は「帝国の運命を決定するであろう」と述べた。川辺陸軍副参謀総長は同会議で「ソビエト連邦との関係における平和の絶対的な維持がこの戦争の継続には不可欠だ」と述べていた。
日本の指導者たちは彼らの都市を破壊していた都市爆撃には一貫して無関心を示していた。そして、1945年3月に爆撃が始まった時、これは間違っていたかもしれないが、広島が攻撃されるまで、戦略的影響の観点から都市爆撃をそれ程重要ではない余興と見なすことは確かに正しかった。トルーマンが日本が降伏しなければ日本の都市に「破滅の雨」が訪れさせると脅したことは有名であるが、破壊するものはほとんど残ってはいないことに気付いている米国人はほとんどいなかった。トルーマンの脅迫が行われた8月7日までに、まだ爆撃されていない10万人都市は10都市しか残っていいなかった。8月9日に長崎が攻撃されると、残ったのは9都市だけだった。そのうちのよっつの都市は米国の飛行機が拠点を置いていたテニアン島から離れているため爆撃が困難であった最北端の島、北海道にあった。日本の古都である京都は、その宗教的および象徴的な重要性のために、陸軍長官ヘンリー・スティムソンによって目標リストから削除された。したがって、トルーマンの恐ろしい脅しにもかかわらず、長崎が爆撃された後に核兵器で容易に攻撃される可能性が残されていた主要都市はよっつだけであった。
米陸軍航空部隊による都市爆撃作戦の徹底振りと範囲は彼らが日本の多くの都市を駆け抜けたため、人口が30,000人以下の「都市」を爆撃さえしたという事実によって推し量ることができる。現代世界では人口が30,000人の都市は大きな町に過ぎない。
もちろん、すでに焼夷弾で爆撃されていた都市を再爆撃することは常に可能であった。しかしながら、これらの都市は、平均して、すでに50%が破壊されていた。あるいは、米国は核兵器で小都市を爆撃することもできたであろう。しかし、まだ爆撃されてはいない小都市(人口30,000〜100,000人)はむっつしか残っていなかった。日本はすでに68の都市が大きな爆撃被害を被っていたが、ほとんどの場合それには開き直っていたことを考えると、日本の指導者たちがさらなる爆撃の脅威にそれ程の感銘を受けなかったであろうということは、おそらく、驚くべきことではない。戦略的に説得力があったというわけではない。
都合の良いストーリー:
これらのみっつの強力な異論が存在するにもかかわらず、特に米国における伝統的な解釈は依然として多くの人々の考えを強く捉えている。事実を見ることには本物の抵抗が付きまとう。しかし、おそらく、これは驚くべきことではない。広島に関する伝統的な説明は日本と米国の両方にとってどれほど感情的に便利であったかを思い起こす価値があろう。考えが真実であれば、その考えは持続性を保つことができる。だが、残念ながら、感情的に満足し得るものであれば、その考えを持続することも可能だ。つまり、それらは重要な精神的ニーズを満たしてくれるのである。たとえば、戦争の終わりに当たって広島に関する伝統的な解釈は日本の指導者たちが国内および国際的な多くの重要な政治的目的を達成するのに役立ったのである。
天皇の立場になってみていただきたい。あなたは悲惨な戦争を行って、あなたの国を導いて来たばかりだ。経済はすっかり崩壊している。あなたの都市の80パーセントが爆撃され、焼け落ちた。陸軍は一連の敗北に打ちのめされて来た。海軍は間引きされ、港に閉じ込められた。飢餓が迫っている。要するに、戦争は大惨事であり、何よりも悪いことには、あなたは状況が実際にどれだけ悪いのかに関してあなたの国民に嘘をついて来た。国民は降伏のニュースに衝撃を受けるであろう。あなたはいったいどちらを実行したいのだろうか?あなたは自分が酷く失敗したことを認めるのか?あなたは見事な程に誤算し、繰り返して間違いを犯し、国家に対して甚大な損害を与えたという声明を出すのか?それとも、誰もが予測できなかった驚くべき科学的進歩が欠如していたことを非難するのか?戦争の敗北を原爆のせいにすることは、戦争におけるすべての間違いや誤解を敷物の下へと一掃してくれた。原爆は戦争に負けたことの完璧な言い訳となった。責任を分担する必要はまったくない。調査裁判所を開く必要もなかった。日本の指導者たちは最善を尽くしたと主張することができた。こうして、最も一般的なレベルでは原爆の投下は日本の指導者に対する非難を逸らすのに役立ったのである。
日本の敗北を原爆に帰することは他のみっつの特定の政治的目標にも役立った。第一に、それは天皇の正当性を維持するのに役立った。戦争が過ちではなく、敵の予期せぬ奇跡のような武器のせいで負けた場合、天皇制度は日本国内で支持を見つけ続けるかも知れない。
第二に、それは国際的な共感に訴えかけた。日本は積極的に、そして、征服された人々に対しては特に残忍な戦争を繰り広げた。その行動は他の国々によって非難される可能性があった。残酷で恐ろしい戦争の道具によって不当に爆撃された犠牲国として日本を演出することができれば、日本軍が行った道徳的には嫌悪感を覚えるいくつかの事柄を相殺するのに役立つであろう。原爆投下に注目を集めることは日本をより同情的な光で描き上げ、厳しい処罰への支持を逸らすのに役立つであろう。
最後に、原爆の投下が勝利を導いたと言うことは、米国を勝利者とする日本人を喜ばせるであろう。米軍による占領は1952年まで正式には終了しなかった。そして、その間、米国は彼らが適切と考えるように日本社会を変えたり、作り直したりする力を持っていた。占領の初期には、多くの日本当局者らは米国人が天皇制度を廃止するつもりであることを心配していた。そして、彼らには別の心配もあった。日本の政府高官の多くは戦争犯罪裁判に直面する可能性があることを知っていた(日本の降伏時には、ドイツの指導者に対する戦争犯罪裁判がすでにヨーロッパにおいて進行中であった)。日本の歴史学者の浅田貞夫は「日本の役人は・・・明らかに彼らの米国からの質問者を喜ばせることを切望していた」と戦後のインタビューの多くで述べた。米国人が原爆が勝利に導いたと信じたいのであるならば、いったいどうして彼らを失望させなければならないのか?
戦争の終結を原爆に帰することはさまざまな点で日本の利益に役立ったのである。しかし、それは米国の利益にも役立った。もしも原爆が勝利に導いてくれたならば、米国の軍事力に対する認識が高まって、アジアと世界における米国の外交的影響力が高まり、米国の安全保障が強化されるであろう。原爆を製造するために費やされた20億ドルは決して無駄ではなかった。もしもソビエトの参戦が日本を降伏させたのであれば、米国が4年間でできなかったことをソビエトはたったの4日間でできたと主張することが可能であり、ソビエトの軍事力とソビエトの外交的影響力の認識は著しく強化される。そして、冷戦が始まった際にソビエトの参戦が決定的な要因であったと主張することは敵に援助と慰めを与えることに等しかったであろう。
ここに提起された疑問点を考えると、広島と長崎に関する証拠は核兵器について考えるすべてのことの中心にあるとするの極めて厄介だ。この出来事は核兵器の重要性を主張する際の基盤である。それはこれらふたつの都市のユニークな地位にとっては非常に重要で、これは通常の規則は核兵器には適用されないという概念だ。それは核の脅威を巡る重要な尺度である。日本に「破滅の雨」を訪問させるというトルーマンの脅しは明白に最初の核による脅迫行為であった。それは、武器を取り仕切り、国際関係において自分たちを非常に重要にする超大国のオーラの鍵でもあった。
しかし、広島の伝統的な物語が疑われる場合、これらすべての結論はどうすべきか?広島が中心にあって、他のすべての主張が放射されて来る中心なのである。しかし、私たちが自分自身に語ってきた物語は事実からは非常にかけ離れているようだ。この巨大な最初の成果、つまり、日本が突然降伏したという奇跡は神話に過ぎないことが判明した場合、あなたは核兵器についてどう思うだろうか?
訂正 ― 2016年5月31日:広島市には1945年8月6日に原爆が投下された。この記事の古いバージョンでは、ある例では、同市は8月8日に爆撃されたと誤って述べていた。また、この記事はもともとは米陸軍航空部隊ではなく、米空軍を言及していた。
著者のプロフィール:ウォード・ウィルソンはロンドンにあるシンクタンク「British American Security Information
Council」の上級研究員であり、「核兵器に関するいつつの神話」(Five Myths About
Nuclear Weapons)の著者である。この記事はそこから抽出され、執筆された。
タグ:EAST ASIA, ECONOMICS, FOREIGN
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AND TECHNOLOGY, U.S.
FOREIGN POLICY
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これで全文の仮訳が終了した。
広島・長崎への原爆投下は米軍が日本本土へ上陸する作戦で大量の犠牲者を出すのを避けるのに大いに役だったとする米政府のストーリーは歴史に残されている記録を辿ることによって見事に覆された。
こうして、過去80年間近く続いてきた伝統的な説明は単なる神話へと変わった。日本の大きな都市が米軍機による爆撃によって、何時、どの程度の被害を被ったのかを掘り起こし、ひとつのテーマの下でそれらを時系列的に再構築し、著者は独自の結論を導くことに成功した。実に見事だ!
また、広島・長崎への原爆投下に関する伝統的な説明は米国に都合が良かっただけではなく、日本にとっても都合が良かったとする著者の見解には目から鱗が落ちるような印象を覚えた。
多くの日本人がこ記事を読み、日本の現代史を的確に把握することに役立てて欲しいと思う。
この記事は10年前に公開されたものであるが、その賞味期限はいわば半永久的だと言えよう。そのことを考えると、複雑な心境にならざるを得ない。
特定の情報が教科書や書籍で発刊され、大手メデイアや定期刊行物がその情報について言及している場合、われわれ一般庶民は極めて迅速にその記事の存在に気が付く。少なくとも、その見出しに気が付く。しかしながら、インターネット上に掲載されている場合はそう簡単ではない。あなたは個人的に情報検索をしなければならない。直接その情報を検索する場合は、真っ直ぐにそこへ辿り着くことができる。だが、偶然にその情報を見つけたような場合は、そこへ辿り着くまでに相当の時間を費やすことがある。
ここに、インターネット時代における情報の弱点が隠されているような気がする。誰もが複雑なことは敬遠し、単純さを求める傾向を持っているからだ。
幸いなことに、今年の8月は極めて重要な歴史的事実を学ぶことができた。大きな収穫である。この引用記事の著者には敬意を表したいと思う。
最期に、原爆投下についてはもうひとつのおどろおどろしい事実があるので、それを付け加えておこう。これは米国側の政治的意図に関するものだ。つまり、どうして大都市への原爆投下を選んだのかという点だ。「ソ連に対して新型爆弾の威力を実証して見せたかったならば、無人島へ投下しても実証はできただろうに・・・」という議論に対する答えである。
『【海外の反応】「アメリカ史上最大の汚点だ!」米国シンクタンクが公表した広島長崎の原爆投下の真実に世界中が驚愕...!』(チョモ&チャンキー、Aug/09/2023、https://youtu.be/1pcEqPbX3gY)という表題のユーチューブ動画からの抜粋:
・・・最近の研究では米国が原爆を投下した理由はソ連に対する恫喝であることが明らかになっています。あえて大都市を狙ったトルーマン。当時の米国政府内部では原爆の使用について次の選択肢を考えていました。
1.
無人島、2.軍事基地、3. 大都市
A.
警告あり、B. 警告なし
合計6パターンです。
原爆製造に従事した科学者たちは1を、アメリカ陸軍上層部は2とAの組み合わせを主張しました。陸軍の中でも、ジョージ・マーシャル参謀総長はすでに破壊された軍事基地へ、警告ありで投下することを提案しています。しかし、原爆と核エネルギーを管理する暫定委員会は3とB、つまり、「大都市」、「警告なし」を選択しました。意図的に最も多くの人命が失われる方法を選んだのです。その理由はソ連に原爆の脅威を見せつけるためでした・・・
参照:
注1:The Bomb
Didn’t Beat Japan. Stalin Did: By Ward Wilson, Foreignpolicy.com, May/30/2013
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