2012年9月8日土曜日

日本へ原爆を落とす必要はあったのか?



この夏、8月4日、広島、長崎への原爆投下を命じたトルーマン元米大統領の孫クリフトン・トルーマン・ダニエル氏(55)が広島市中区の平和記念公園を訪れた。原爆慰霊碑に献花し、黙とうしたダニエル氏は「若い頃から核兵器はいけないものと考えていたが、その思いを強くした。二度と核兵器が使われないよう自分も貢献したい」と語った[注1]
同氏は元ジャーナリストであり、核兵器の廃絶に関心があるようだ。いいことだと思う。しかも、広島や長崎への原爆の投下を命令した故トルーマン大統領の孫に当たる人物のことであるから、なおさらそう思う次第だ。
日本だけではなく世界中の多くの人たちにとって、「原爆は何故投下しなければならなかったのか」という疑問が常にあったのではないか。
この夏、それにうまく答えている記事を見つけた。記事の題名もまさにそのものずばり、「日本へ原爆を落とす必要はあったのか?」である[注2]。著者によると、この件は多くの米国人にとっては原爆について真実を語ろうとすると困難を覚えるとのことだ。
著者は歴史を認識する際に自尊心を損なうかも知れないがどうしても通らなければならないことがあると言っている。歴史を直視しながら勇気をもって自分の思うところを述べているところが素晴らしいと思う。

この記事の仮訳を下記に紹介したい。

 
<引用開始>

日本へ原爆を落とす必要はあったのか?
寄稿者:ロバート・フリーマン
CommonDreams.orgにて200686日に発表。

日本への原爆の投下に匹敵するような出来事が米国にはあっただろうか。多分、それは奴隷制度だけではないか。「原爆の投下は本当に必要だったのか?」このような疑問を投げかけるだけでも、憤慨を招いたり、ややもすると激怒を招くことさえもある。歴史的事実の50年後に敢えてこの疑問を投げかけることになった1995年の「スミソニアン博物館展示騒動」でのヒステリックな怒号を注意深く見て欲しい。あれからさらに11年が過ぎた。依然として、米国人は原爆について真実を語ろうとすると困難を覚えるのが実情だ。

しかし、怒りだけでは議論にはならない。また、ヒステリックな議論だけでは歴史を語ることもできない。原爆投下がどのようにして決定されたのかに関しては、米国の神話製造装置によって様々な説明が行われてきた。20万人の市民をほんの1秒間足らずで焼き殺したことがあたかも道義的な意味あいから寛容な行為であったとしたいかのごとく、「米国兵を無駄に戦死させないため」だとか「日本人をこれ以上殺さないため」だとする説明まで多種多様である。

それでも、根源的な疑問は依然として残っており、消え去る筈もない。つまり、広島や長崎に投下された原爆はそもそも軍事的に必要だったのか?原爆投下の意思決定は戦死者を少なくするという理由だけで正当化できるのか?あるいは、他に何らかの動機があったのか?

軍事的な必要性云々・・・は簡単に片付けることができる。「日本は既に完敗しており、原爆投下はまったく必要ではなかった。」 この言葉は後の修正主義的な歴史家の言葉でもなければ、左翼系の作家の言葉でもない。また、間違いなく、これは米国を憎む人たちの言葉でもない。実は、これはヨーロッパ戦線での連合軍最高司令官でもあり、将来米国の大統領となるドワイト・D・アイゼンハワーの言葉である。他の米軍の将官たちもそうであったように、アイゼンハワーは1945年の半ばまでには日本は防衛もできない状況に陥ることを十分に予測していた。

日本の艦隊が194410月にレイテ湾で壊滅的な打撃を被った後、米軍は、東京や大阪への焼夷弾の投下も含めて、日本軍からの応戦を何ら受けることもなしに日本の数多くの都市を爆撃することができた。米国陸軍航空隊のヘンリー・H・アーノルド総司令官が「日本側は制空権を完全に失ってしまっており、最初の原爆が投下される前でさえも完全に絶望的であった」と述べたが、これはその際に意味したかった内容である。そして、海軍もなしに、資源に乏しい日本は世界戦争を継続するために必要な食糧や石油および産業用資材を輸入する手段を完全に喪失していた。

軍事的には裸同然となりまったく無益な状況となった結果、日本はロシアに近づき、戦争を収拾し和平を求めて彼らから何らかの支援を得ようとした。米国側はもう大分前に日本軍が使っている暗号を解読しており、これらの交渉が進行していることや降伏の方法を模索していることに何ヶ月も前から気付いていた。

米国太平洋艦隊の総司令官を務めたチェスター・W・ニミッツ艦隊提督はこの現実を思い出して、次のように書いている。「事実、日本は既に和平を求めていた。純粋に軍事的な観点から見ると、原爆は日本を撃退する上で何の決定的な役割も果たしてはいなかった。」 トルーマン大統領の主席補佐官を務めたウィリアム・D・リーヒイ提督も同じ事を次のように言っている。「広島や長崎で使った原爆は日本との戦争では何も重要な助けにはならなかった。日本は既に完全に負けており、降伏する用意が整っていた。」

文官当局は、特に、トルーマン大統領自身は百万人の米兵の命を救うために原爆が投下されたのだと後に述べて、歴史を書き換えようとした。しかしながら、単純に言って、当時の記録にはこれを支持するような事実としての根拠は皆無だ。米国戦略爆撃調査団は「原爆が投下されなかったとしても、間違いなく19451231日以前、多分、1945111日以前には日本は降伏していただろう」と報告した。この111日という日付けは重要だ。この日は米軍が日本の本州へ上陸する日どりの中で最も早く実現する可能性があるとされていた日付けだったからだ。

換言すると、最も情報に長けていた米軍上層部や将官たちによる判断はほとんど全員が同じ見解を持ち、明快そのものだった。それは「日本に原爆を投下する軍事的に差し迫った理由は何もなかった」というものだ。

しかし、原爆の投下が軍事的に必要ではなかったとすれば、何故に原爆は投下されたのか?その答えはロシアに対する米国の態度、ユーロッパ戦線がどのように終結したか、アジアの状況、等の中に見つけ出すことができる。 

米国の指導者たちは長い間共産党によるロシア政権を憎んでいた。1919年には、米国は1917年に共産党に政権をとらせたボルシェビキ革命を覆そうとして、かの悪名高い「白軍による反革命」を起こすためにロシアへ侵攻した。この侵攻は失敗に終わった。米国は1932年になるまで外交上ロシアを認めようとはしなかった。

米国経済が破綻した大恐慌時代には、ロシアの経済はほぼ500%にもなる成長振りを示し、高度成長に沸いていた。米国の指導者は第二次世界大戦が終わった後に新たに別の恐慌が起こるのではないかとの懸念を抱いていた。第二次世界大戦は米国流の自由放任主義によって勝ち取ったものではなく、ロシア経済によって前例が示されたトップ・ダウン方式、つまり、経済の徹底した指揮・統制によって勝ち取ったものであった。別の言い方をすると、ロシア式システムは立派に作動しているが、アメリカ式システムは最近の破綻により、その上自信も不確かになり、まったく作動せず、指導者の苦悩は最悪であった。

さらに付け加えると、ドイツを降伏させるためにロシア軍は東欧諸国を通過してベルリンへ進軍した。ロシア軍は現在のポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアおよびユーゴスラビアを含む15万平方マイルにも及ぶ膨大な地域を占領し、その管理下に置いた。

19452月、ヤルタにおいてスターリンは新占領地帯をロシアの下で維持することを要求した。スターリンは正論を唱えた。ロシアはナポレオンの侵攻を始めとして、第一次世界大戦ではドイツによって、そして今度はヒットラーによって繰り返して西欧による侵攻に晒されてきた。第二次世界大戦でロシアは2千万人もの命を失っており、スターリンは将来の侵攻に対する緩衝地帯を設けることを要求したのだ。

この時点、19452月の時点では、米国は原爆が使えるかどうかについては確信を持ってはいなかった。しかし、ヨーロッパおよび太平洋でのふたつの戦争を終わらせるにはロシアの助けが必要であることは疑う余地もなかった。ルーズベルトはこれらの現実を見失うことはなかった。つまり、ヨーロッパではスターリンの軍隊を代替する余力はまったくなく、スターリンの助けを必要としていたので、ルーズベルトは東欧について譲歩し、ロシアにはこの大戦で最大級の領土を引き渡した。

最終的に最も重要であると思われる点は、ヤルタでスターリンはヨーロッパ戦線が終了した時点でヨーロッパへ投入していた戦力をアジアへ振り向け、90日以内には日本に対抗して太平洋戦争に参戦することに同意したことである。これこそが太平洋戦争を終結させるタイミングが非常に重要となった経緯である。ヨーロッパでの戦争は194558日に終わった。58日に90日を加えると88日である。ロシアが東欧諸国を占領した際と同じように東アジアの領土の占領を許すような事態を米国が何とか避けようと意図した場合、太平洋戦争を一刻も早く終結させることが必要となった。

日本との戦争が始まる前、中国は内戦状態にあったことから、この東アジアにおける領土問題は特別に重要であった。米国がひいきにしていたのは毛沢東が率いる共産党と戦っていた蒋介石将軍傘下の国民党である。もしロシアが東アジアで領土を得ることが許されると、毛沢東の背後に膨大な量の軍事力を供給することになり、世界大戦が終わり中国の内戦が再開された場合は間違いなく共産党に勝利をもたらすことになりかねない。

原爆の威力が1945715日に証明されると、事態はすさまじいばかりの性急さで展開した。単純に言って、日本側と交渉を行っている時間はなかった。一日遅れる度に毎日のようにロシアへの領土の割譲を意味していた。中国の内戦では共産党が勝利する可能性が高まるばかりとなっていた。アジア全域が共産化されるかも知れない。米国にとっては対ファシスト戦争に勝利したとしても、その挙句に宿敵の共産主義者にその利益を渡してしまうようなことがあっては戦略的には大失敗である。米国は戦争を終わらせるのに何ヶ月、あるいは、何週間も待ってはいられない。一日刻みでの急を要する状況であった。

ロシアが日本に対して宣戦布告する2日前、194586日に米国は広島へ原爆を投下した。当時、降伏の要求に対する日本側の回答を待っていた米軍にとってはリスクは何も無かった。最も近い本島への侵入予定は依然として3ヶ月先にあり、太平洋における軍事的衝突のタイミングはすべてが米国側のコントロール下にあった。しかし、ここへロシア問題が急に浮上して、タイミングの決定に深刻な影響を与えることになった。3日後には米国はふたつめの原爆を長崎へ投下した。1945814日に日本は降伏、これは最初の原爆投下の8日後のことだった。

カーテイス・ルメイ少将は原爆の使用について次のようにコメントしている。「太平洋戦争はロシア軍の参戦もなく、原爆の使用がなくても2週間のうちには終わっていただろう。結局、原爆は戦争の終結には何ら関係がなかった。」 ただ、戦争の終結を著しく早めたことは事実で、ロシアは東アジアで領土を得る機会をなくした。

軍事的必要性に関する話は、戦後、急速にしかも不器用さをもって消えていったが、端的に言って、それは現実の軍事的状況に対して持ちこたえられるものではなかった。その一方、ロシアの進出を何とか閉じ込め、トルーマンがいみじくも言ったようにロシアを「より扱い易く」するという観点は後世我々が知り得るすべての事実にぴったりと適合し、特に米国の動機や利害によく適合する。

どちらの話を受け入れるべきか、つじつまが合わない話だけれども、国家的な定説として社会的に浄化された話をとるか?それとも、史実とよく適合するけれども、我々の自己概念を損なう話をとるか?我々がこれにどう答えるか次第で、我々自身の成熟振りや知性的に正直さを保つ能力があるのかどうかに関してすべてを曝け出すことになるのではないだろうか。

国民にとっては自国の歴史を国家的な神話(未来永劫に潔白で、神意の下に聖油で清められた公正さ)とうまく調和させることは、時には、困難な場合もある。ましてや、国家がもうひとつの戦争の真っ只中にあって、より冷徹な現実に対して国民のやる気を防護するためにもそのような神話がふたたび必要な時、これはより以上に困難である。

しかし、歴史の目的は神話を維持することではない。むしろ、将来の世代が過去の悲劇を避けるためにより正しい認識を持つことができるように、それらの偽りを暴くことである。今後さらに6年もしくは60年もの歳月が必要となるとしても、原爆の使用に関する真実は神話に記載されるのではなく、最終的には歴史書に記述されることになるだろう。その結果、世界がより安全な場所になって欲しい。

(ロバート・フリーマン氏は経済、歴史および教育の分野に関して書いています。robertfreeman10@yahoo.comのメールアドレスにて連絡がとれます。)

<引用終了>
 
この記事は歴史を直視することの大切さを教えてくれていると思う。歴史を直視するにはそれ相応の覚悟や勇気が必要だ。なぜならば、歴史的事実は必ずしも自国の神話にそぐわないかも知れないからだ。そのような場合、事実を受け入れるには感情面での痛みが伴う。著者はこの「日本へ原爆を落とす必要はあったのか?」と題する文章を通じてその辺りを詳しく検証し、単刀直入に述べている。しかも、成熟した個人としての気持ちの置き方についてさえも迫っている点が秀逸だ。

著者は「歴史の目的は神話を維持することではない。むしろ、将来の世代が過去の悲劇を避けるためにより正しい認識を持つことができるように、それらの偽りを暴くことである」と述べている。

この著者の思いが米国社会でどれだけ浸透し、共有されているかはまったく分からない。しかし、この記事が既に6年前に発表されていること自体、我々日本人にとっては歓迎すべきことであろう。時間が困難な問題を解決する例は少なくない。

この著者のスタンスは日韓政府間の最大の外交問題と化してしまった「慰安婦問題」についても当てはまるような側面を持っていると思われ、示唆に富んでいる。歴史的事実を検証する際には真理を探り当てるためには勇気をもって望みたいものだ。日本人にとっても、韓国人にとっても教えるところが大きいのではないかと考える。
 

参照:

注1:<原爆>トルーマン元米大統領の孫、慰霊碑に献花:毎日新聞(201285日)

2Was the Atomic Bombing of Japan Necessary?: By Robert Freeman. Published on Sunday, August 6, 2006 by CommonDreams.org




 

 

2012年9月3日月曜日

関電の嘘 – 原発を再稼動しなくても電力は足りていた



残暑に見舞われることはまだまだあるかも知れないが、この夏の電力需要がピークとなる時期はほぼ終わったと言ってもいいだろう。

63日の毎日新聞の世論調査によると、政府が週内にも最終決定する関西電力大飯原発34号機の再稼働について「急ぐ必要はない」と答えた人は71%に達し、「急ぐべきだ」の23%を大きく上回った[1]。(なお、この世論調査には福島第1原発事故で警戒区域などに指定されている福島県の一部地域は調査対象に含まれてはいないとのことだ。)

世論調査はその手法によって結果が左右されると言われている。しかし、それを差し引いたとしても調査対象となった人々の過半数は「脱原発」と答えたと言えそうだ。

それにも拘らず、政府は大飯原発の34号機を再稼動させた。野田首相は68日に再稼動方針を表明した。「国民生活を守るため、再稼働すべきだというのが私の判断だ」と述べ、「今原発を止めてしまっては日本の社会は立ち行かない」とも述べた。産業界の言い分や懸念に肩を持った政府の決断だった。

この大飯原発34号機の定格出力は合計で236万キロワットである(ウィキペデイアから収録)。

そして、関電の7月および8月の需給データが出揃った。下記に示すグラフは関電の「でんき予報」から収録したもの。毎日のピーク時の最大使用電力と関電側の供給電力のデータである。


 
 

これらのグラフを見ると余裕を持ってこの夏の需要期を通過したことが分かる。今夏の最大需要は83日にあった。

問題は、関電が本当に大飯原発の再稼動を必要としていたのかどうかだ。

47ニュース」は91日、83日の最大ピーク時の需給データに基づいて鋭い指摘をしている[2]。その内容の一部を下記に引用してみる。

関電によると、最大需要は8月3日(筆者注:この日、大阪市の日中最高気温が36.7Cに達し)の2682万キロワット。この日の供給力は、大飯原発3、4号機の計237万キロワットを含む計2991万キロワットだった。供給が需要を309万キロワット上回っていたが、関電は「大飯原発がなければ、火力発電所のトラブルや気温の急な上昇があった場合に需給が非常に厳しくなっただろう。不測の事態が重なることもあり、安定供給のために再稼働は必要不可欠だった」とする。だが周波数が関電と同じ60ヘルツで電力を融通しやすい中部電力以西の電力5社への取材で、この日の供給余力が計約670万キロワットあったことが判明。2基が稼働していなくても、供給力に問題ない状況だった。関電も需給が安定しているとして38万キロワットの火力発電所を止めていた。

 

上記に指摘されている中部電力以西の電力会社による83日当日の関電への供給余力は5社合計で669万キロワットだったとのことだ[2]。因みに、この669万キロワットという電力量は大飯原発クラスの5.7基分に相当する。

政府や電力会社が喧伝してきた大飯原発34号機の再稼動の必要性は、その根拠が見事に崩れた。この現状を829日の東京新聞朝刊は下記のように評している[3]

世論の反対を押し切り、政府や関西電力が進めた大飯原発3、4号機の再稼働の根拠が揺らいできた。関電は、今夏のこれまでの電力需給実績を基に「原発がなくても供給力は維持できた」と認めた。専門家は昨年三月の福島第一原発事故で広がった「節電の社会的な動きを見誤った」と指摘、過大な需要見通しを批判している。関電は五月、原発ゼロで今夏を迎えた場合、15%の電力不足に陥ると試算、「計画停電は避けられない」とした。これを受け、野田佳彦首相は「国民生活を守るため」として、大飯3、4号機の再稼働を容認した。ところが電力需要のピークは、猛暑だった2010年夏のピークに比べ10%も低下。計算上、原発なしでも供給力の方が上回った....

....大阪府と大阪市でつくるエネルギー戦略会議座長の植田和弘京都大大学院教授(環境経済学)は「大飯の再稼働がなければ、市民の危機意識が高まり、節電効果はもっと上がったはず。他社からの電力融通を含めれば、原発なしでこの夏を乗り切れた可能性はかなり高い」と指摘。「政府は夏場の電力不足を理由に再稼働させたのなら、夏が終わったらすぐに原発を停止させるべきだ」と話す。

 

今夏は様々な教訓を得た。

(1)  関電や政府が喧伝してきた大飯原発34号機の再稼動の必要性は、その根拠が見事に崩れた。関電や政府が主張していた電力の需給には嘘があった。政府はまたも産業界の言いなりに終わった。政治的に興味深い点は、夏の節電要請期間が終了する97日以降に政府が大飯原発の稼動を停止すると言明するかどうかだ。

(2)  節電努力が大きな成果を収めた。823日に発表された関電のデータによると、最も暑かった2010年に比べて、817日の時点で家庭用、業務用、産業用の3分野の合計で約310万キロワット(大飯原発クラスの2.6基分に相当)の節減をしたとのことだ[4]。来年以降も節電努力によってさらなる成果を積み増すことが可能だろうか。あるいは、個人の生活や産業界にとっては二度と繰り返したくないような実情だったのだろうか。今夏の成果を来年以降も再現できるかどうかについての詳しい検証が待たれる。

(3)  電力会社間で余剰電力を融通し合うことによって各電力会社はかなりの余力を入手することが可能だ。しかも、これはどの電力会社も原発を稼動してはいない条件下での話しである。

(4)  エネルギー源を輸入原油や天然ガスに依存する体質を大幅に改善しなければならない。そのために総力を挙げて代替エネルギーの開発を行うべきではないだろうか。ドイツ政府は、2011年、福島第一原発事故を眼にして脱原発の方針を明らかにした。ドイツでは既に代替エネルギーが新しい産業として育ちつつあった。この背景が政府決定を後押ししたひとつの要因だったのではないか。本年3月のドイツからの報告によると、代替エネルギー産業は過去10年間で37万人もの新規雇用を生み出し、代替エネルギーに関する技術輸出も急速に伸びて、その輸出額は2006年から2008年の期間だけでも300億ユーロの規模に達したという[5]。政治の決断次第ではこういう状況も作り出し得るということを付け加えておきたい。

 

これらの事柄を考慮に入れると、脱原発への具体的な一歩を踏み出せるような気がする。今夏の経験は非常に心強い。脱原発に向けてさらに自信を深めることができたと言えるのではないか。東電福島第一原発事故の過を転じて福と成すべきだろう。

人口の減少に伴って、日本では今後電力需要がさらに増加するとは考えにくい。むしろ、余剰設備をスクラップ化することが必要になってくる。将来のエネルギー計画を策定する場合、原発を廃炉にすることを最優先とするべきだ。

日本の社会が政治的弱者である声を出さない/出せない一般人や子供たち、ならびに、経済的に恵まれない地域社会を犠牲にするような社会であってはならない。放射能被爆の脅威がない地域社会を作り上げて、安心して住める美しい日本を次世代のために残さなければならない。これこそが今日幸いにも生きている大人たちの使命であると自覚したい。

 

参照:

1毎日世論調査、大飯再稼働「急ぐな」71%:毎日新聞(210263日)

2【関電、ピーク時も原発不要】今夏、大飯再稼働に疑問/専門家「需給検証を」:47ニュース(201291日)

3節電8週間 関電「原発なしでも余力」:東京新聞朝刊(2012829日)

4関電、節電効果11パーセントで目標達成、家庭が後押し 中間報告:産経新聞 2012823日)

5 No nuclear please, we're GermanJurgen Trittin,ABC Environment201238日)