2011年4月7日木曜日

ブカレストの春(その2)

 
あっという間に終わりを告げた早春の花、「ギオチェイ」(日本語では「待雪草」、英語では「スノードロップ」)に代わって登場したのは「ヒナギク」だった。ごくありふれた草花のひとつだ。とは言え、雪が消え去り、冬空に慣れてしまった目には春の陽光がひどく眩しく感じられるこの頃、ヒナギクはあちらこちらで咲き乱れる。場所を選ばないかのようだ。開花している期間もはるかに長い。

そんなヒナギクの写真を掲載してみたい。これはブカレスト市民の多くが足を運ぶヘラストロウ公園で最近撮影したもの(326日)。とりとめのないことを彷彿とさせてくれた。



この2~3年、続けて二回もアルフォンス・ミュシャの絵を鑑賞することができた。

一昨年ブカレストへ来る途上ウィーンで二泊した。目的はベルヴェデーレ美術館。そこでグスタフ・クリムトの作品を見たかったからだ。多くの人たちが語っている装飾的な金の輝きが独特な印象を与えてくれた。肖像画ばかりではなく、風景画も素晴らしいことが分かった。そして、会場の一角にはミュシャの作品が展示されているではないか。縦長の大きな4部作だった。今になってみると、この出会いは翌年に起こったより本格的な出会いの前奏曲だったような気がする。

昨年の夏、高崎市にアルフォンス・ミュシャ展がやってきた。

この画家が表現する女性像には独特な雰囲気がある。女性が持つ特有の優しさ、そこから生まれてくる美しさ、あるいは、女性美への飽くなき賛美・・・とでも言うべきか、表現するべき言葉がままならない。最も秀逸だと思えた作品は「夢想」と題する作品だ。何といっても、この作品が醸し出す透明感がすばらしいと思う。圧倒されるような印象だった。結局、この開催期間中に2回も足を運ぶことになった。


この会場で求めた書籍(「アルフォンス・ミュシャ作品集(新装版)」、創英社/三省堂書店、2004年)を紐解くと、たくさんの作品の中に画家自身の個展のために制作したポスターがある(その下絵を引用すると、下記に示すような感じだ)。白い花の冠が少女の髪を飾っている。ミュシャ自身の個展のためのポスターであることから、このポスターには個人的な感慨が色濃く反映されているようだ。この白い花はヒナギク。ヒナギクには作者の故郷、チェコのモラヴィア地方での青年期の思い出が込められているのだという。


出典:「アルフォンス・ミュシャ作品集(新装版)」
創英社/三省堂書店、2004

「サロン・デ・サンでのミュシャ展のポスターの下絵」
1897年、水彩、70.0x49.0 cm
ミュシャが恋した少女はヒナギクの髪飾りをしていたに違いない、と確信した。

突然のようにやってきた早春の暖かさは気ままな空想を妨げる筈もなく、むしろ空想を際限なく膨らませてくれているようだった・・・




2011年4月5日火曜日

「アナスタシア生存説」は完全に幕引きとなった


 
― 科学技術の進歩についての一考察 -


私は今68歳です。インターネットの存在ならびにその利便性は私たちが成人した頃は想像することすらもできませんでした。一個人の立場から見ますと、インターネットから入手できる情報の質と量には限界が感じられないほどです。

インターネット情報を中心にして科学技術の進歩について具体的な事例を挙げてみようとした場合、その対象にしたい分野は数多くあります。ここでは、まったくの素人の観点からですが、「アナスタシア生存説」の幕引きに大きな貢献を果たしたミトコンドリアDNA (これ以降、mtDNAと称する) 解析に注目したいと思います。これは帝政ロシア最後の皇帝となったニコライ二世の末娘、アナスタシアのことです。

20世紀のヨーロッパ社会を風靡した「アナスタシア生存説」の検証については、1995年の米国のドキュメンタリー・テレビ番組(NOVA)が放映した「アナスタシアは生存していたのか、それとも銃殺されていたのか」があります(1)。この番組を観た時の印象はかなり強烈でした。決定的な説得力を示したDNA解析は素人の私にとっては実に刺激的で、新鮮だったのです。
このドキュメンタリー番組で最も興味をそそられた事項は次の二点です。

(1) 1922年に「私がアナスタシアです」と名乗ったアナ・アンダーソンは1984年に米国で亡くなっています。彼女の遺体は火葬に付されたので、誰もがこれで真相は得られなくなったと思ったのです。しかしながら、彼女がかつて入院していたことがあるアメリカのある病院が院内規程にしたがって彼女の組織標本を保管していたのです。この組織標本をDNA解析した結果、彼女はアナスタシアではないことが判明したのです(1)20世紀の殆どを通じて全ヨーロッパが彼女の主張に振り回されていた事実を考慮しますと、最先端技術によるこの決着は実に見事でした。

(2) ニコライ二世一家7人と一人の侍医ならびに3人の側近を含めて、合計11人が1918年に処刑されました。ところが、1991年の発掘では9体の遺体が見つかっただけでした。伝統的な法医学の専門家の鑑定によりますと、行方が分からないふたりは皇女アナスタシア(当時17歳)と皇太子アレクセイ(当時14歳)であろうと推測されました(1)。しかし、この二人は一体何処へ行ってしまったのでしょうか。このドキュメンタリー番組では謎のまま残されていました。

旧ソ連邦ではニコライ二世とその一家の処刑の実態は完全な闇に包まれたままでした。誰もが口にすることを恐れていたと言われています。それが故に巷ではさまざまな噂が流れ、世間の注目を浴びていたのです。その最たるものが「アナスタシア生存説」だったと言えましょう。

しかし、旧ソ連邦の崩壊とともに状況は一変しました。さまざまな新たな報告が提供されるようになったのです。
ここではその代表的な報告として2009311日に発表された「行方が分からなかったロマノフ家の二人の子供の消息がDNA解析によって判明した」と題する論文(2)を取り上げてみたいと思います。

この論文はアメリカの「国防省病理学研究所」の研究者をリーダーとする専門家グループが得た知見を報告しています。ことの発端は、独立した第三者からの意見を求めたいとして、2007年にロシア政府がDNA解析を要請してきたのです。東西冷戦の終焉を象徴するかのように、ロシアでの出来事を米国の研究者たちが報告をすることになりました。研究者たちの所属先を見ますと非常に多彩で、上記の米国国防省病理学研究所を始めとして、米国のフロリダ大学、オーストリアのインスブルック医科大学法医学研究所、英国のストラスクライド大学ならびにノルウェーのオスロ大学法医学研究所が名を連ねています。

それでは、この論文の内容を垣間見ることにしましょう。


ここからは訳文です。

[訳注:この論文は一般に公開されており、翻訳や引用に関して著者の許可を得る必要はないと原典に明記されています。念のため。]


要旨

20世紀最大の謎のひとつは帝政ロシア最後の皇帝となったニコライ二世一家の運命ではないだろうか。ニコライ二世が退位した後、彼自身と皇后アレクサンドラならびに5人の子供たちはエカテリンブルグ市で亡命生活の日々を過ごしていた。皇帝一家7人と皇帝に忠実な4人の侍従たちはウラル評議会のメンバーによって幽閉されていたのだ。史実によると、1918717日の早朝、彼らは処刑隊の手によって銃殺された。遺体を廃坑へ放り込んでみたものの隠蔽の状況が気に入らず、遺体はその廃坑から数キロ離れた空き地へと運ばれた。9人の遺体は集団墓地へほうり込まれ、二人の子供の遺体は別の場所へ葬られた。

1991年に大きな集団墓地が政府の手によって発掘され、その後のDNA鑑定により皇帝と皇后および3人の娘の身元が確認された。しかし、これらの遺骸が本当にロマノフ家の者たちのものであるかどうかについては疑念が残された。

2007年の夏、大きな墓地から70メートル程離れた地点で素人の考古学愛好者グループが人骨を発見した。我々はこれらの2007年に発見された人骨についてDNA鑑定を行なった。ここにその結果を報告したい。この鑑定ではmtDNA分析[訳注:母親から男女の子供へと受け継がれるが、女性の子供だけがさらにその子孫へと受け継ぐマーカーについての分析]Y-STR分析[訳注:父親から息子へと受け継がれるマーカーについての分析]ならびに常染色体のSTR分析を行った。1991年に大きな集団墓地から発掘された遺骸についてもさらに追加的なDNA鑑定を実施した。これらの結果を踏まえて、2007年に発掘された遺骸が今まで消息が分からなかったロマノフ家の二人の子供たちであることを示す、反論の余地のない証拠を確立することに成功した。つまり、これらは皇太子のアレクセイと彼の姉の一人であることが判明したのだ。

はじめに

ロマノフ家は300年以上にわたってロシアを統治した。ボルシェビキ革命の後、1917年にロシア皇帝ニコライ二世は退位し、弟のミカエル皇子に皇帝の座を譲ろうとしたが、それは断られた。ニコライ二世と皇后アレクサンドラならびに5人の子供(オルガ、タチアナ、マリア、アナスタシアらの皇女、ならびに、アレクセイ皇子)はロシアのエカテリンブルグに追放された。皇帝一家に忠実な4人の侍従たちも同行した。侍医のエウゲニー・ボトキン、皇帝の侍従アレクセイ・トラップ、皇后アレクサンドラの侍女アンナ・デミドヴァ、そして調理人イワン・カリトノフである。

1918年の7月、ウラル評議会はロシア白軍が皇帝とその家族を救出しようと企てるのではないかと恐れていた(3)。皇帝の死を聞きさえすれば皇帝に忠誠を誓っている連中でも意思が砕けてしまうのではないかとの期待を抱いて、ウラル評議会は皇帝の家族全員を処刑することを決定した。1918717日の早朝、皇帝一家と侍従たちは幽閉されていたイパチェフ・ハウスの地下室へ誘導され、そこで処刑された。

1970年代の末、地元の地質学者アレクサンダー・アヴドーニン博士は皇帝一家の7人の内の5人と侍従4人が埋葬された集団墓地の場所をすでに特定していた。しかし、1991年にソ連邦が崩壊するまで、アヴドーニンと何人かの親しい友人たちはその場所を秘密にしていた(4)

公の発掘が行われ、集団墓地から掘り出された9体の遺体には法医学的、人類学的な調査が行われた。1991年に回収された遺骨のDNA鑑定は元法医学サービス(FSS)のピーター・ジル博士とロシアの遺伝学者パヴェル・イワノフ博士によって実施された55種類のSTRマーカーを確定する核DNA鑑定を実施して、それぞれの遺骸の性別を確認し、ニコライ二世、皇后および3人の皇女の間の家族関係を確立した。以前実施されたmtDNA鑑定によると、エデンバラ公とニコライ二世の妻および3人の皇女との間には母系関係があることが確立されていた。ニコライ二世の遺骨との関連性を調べるために、ニコライ二世の母方の親戚であるフィーフェ公ならびにセニア・チェレメテフ・スフリ伯爵夫人が加えられた。ニコライ二世のmtDNA配列では一か所だけ(16169変位 (C/T = “Y”))にヘテロプラスミーが確認されたが、ニコライ二世の母方の親戚たちは本来の16169Tを示した。このヘテロプラスミーの信ぴょう性を確認するために、米軍DNA鑑定研究室(AFDIL)で実施されたDNA鑑定の結果はニコライ二世の弟であるゲオルギー・ロマノフ大公(1899年没)の遺骨から得られたmtDNAとの比較が行われた(6)。ニコライ二世とゲオルギー・ロマノフ大公の両者は16169位置でのヘテロプラスミーを共有していたが、その比率は異なっていた。ニコライ二世は殆どがC/tであり、彼の弟のゲオルギー・ロマノフ大公は殆どがT/cであった。

法医学的な証拠は十分に出揃ってはいたものの、遺骨の信ぴょう性についての疑惑は根強く残った(7)。懐疑的な人たちは、共同墓地からは二人の子供(皇太子アレクセイと彼の姉のひとり)が見つかってはいないことから、共同墓地から掘り出された遺骸はロマノフ家のものではないと指摘した。行方が分からなかった皇女の身元についてはロシア側の法医学人類学の専門家とアメリカ側の専門家との間で意見の不一致が見られた。つまり、ロシア側は行方が分からない皇女はマリアであると確信していたが、アメリカ側はアナスタシアであると主張した(4)。一家7人の内で5人だけについてその身元の確定が完了したという事実は70年近くにもなるロマノフ家の運命に関する謎に幕を下ろすどころか、残る二人は首尾よく銃殺隊の凶弾を避けて、奇跡的にもロシア国外へ逃亡したのではないかとの憶測をさらに鼓舞することになった。まさに、火に油を注ぐ結果だ。

「一番目」の集団墓地の発見後、比較的近い場所に存在していると思われる「二番目」の墓地を探す試みが何年間にもわたって続けられていた(サランデナキ氏との個人的交信)。2007年の夏、考古学愛好家の素人グループが一番目の墓地から70メートル程離れた地点で幾つかの人骨の破片を発見した。スヴェルドロフスク地域考古学研究所の副所長、セルゲイ・ポゴレロフ博士が行った公的な発掘調査に続いて、骨の破片や歯を含む44個の標本がその墓地から慎重に回収された。

ロシアおよびアメリカ両国からの人類学者たちが徹底的に解析を行った結果、下記のような科学的結論を得るに至った:


  • 正中線部の後頭骨といった解剖学的にも意味のある単位が重複して掘り出された事実から、回収された遺骨には最低でも二人が含まれている。
  • 明白に観察することができる坐骨切痕に基づき、回収された遺骨に含まれている一人は女性であると判断され、生物学的年齢は15歳から19歳であると推測される。
  • もう一人の性別は多分男性であると推察され、坐骨切痕が始まる部位の幅から判断すると生物学的年齢は12歳から15歳であると思われる。
  • 入手した遺骨の破片は限られた量であり、代表的な診断解剖学的知見が欠如している現状であることから、人種や祖先の類型を特定したり遺骨から身長を割り出したりすることはできなかった。
  • 墓地から回収された二個の臼歯には3か所に銀アマルガムが使用されており、少なくとも一人は貴族階級の出身者であっただろうと推測される。
  • この墓地が何年程前のものかというと、遺骨と共に見つかった診断材料に基づき60数年以前に遡ると推定される。
ここで訳文は終わりとします。

(引用した文献においてはDNA解析手法の詳細が延々と続くのですが、あまりにも専門的になりますので訳文の掲載はここで割愛することにしました。)

結局のところ、この論文の要旨でも述べられているように、「2007年に発掘された遺骸によって今まで消息が分からなかったロマノフ家の二人の子供たちであることを示す、反論の余地のない証拠が確立された。つまり、これによって皇太子のアレクセイと彼の姉の一人であることが判明したのだ。」としています。

ところで、ロシア国内でのニコライ二世一家の取り扱いはどうなっているのでしょうか。

インターネット情報を物色してみたところ、2011117日付けの小さな記事が目につきました。その内容を下記に引用します。出処はRT.COM(ロシアの国営テレビ局)オンライン版。
「ロシアの検察当局は帝政ロシア最後の皇帝となったニコライ二世とその家族の殺害にかかわる刑事訴訟に終止符を打つ」と、2011117日にロシアの報道機関が報告した(8)


この訴訟は2009年にはすでに幕が閉じられていたのだが、ニコラエ二世の親族からの要求によって昨年再開されていたもの。しかし、最終的には、この皇帝一家の処刑は国家の命令に従って実行されたものであることから、換言すると、処刑は合法的に行われたことを意味することから、法理的には皇帝とその家族らの殺害について親族が法に訴えるところまでは至らなかった。ニコラエ二世とその妻および子どもたちは、侍医や侍従らも含めて、1918年にエカテリンブルグでボルシェビキの兵士によって銃殺された。遺骨は1991[ならびに2007]に発見され、これらの遺骨は他のロシア皇帝が埋葬されているサンクト・ペテルスブルグに再葬された。2008年には皇帝一家は政治的弾圧の犠牲者として認知された。

以上でRT.comからの引用は終わります。

こうして、1995年のテレビでのドキュメンタリー番組がきっかけとなって始まった私の「アナスタシア生存説」検証の旅は終わりを告げたのです。


参考文献:

(1)  Anastasia, Dead or Alive?: NOVA Section 23, Episode 1 (October 10, 1995)
 
(2)  Mystery Solved: The Identification of the Two Missing Romanov Children Using DNA Analysis: By Michael D. Coble, et al. (March 11, 2009)
 
(3)  Ekaterinburg: By Rappaport H (2008), Hutchinson (London).
 
(4)  The Romanovs: The Final Chapter: By Massie RK (1995), Random House (New York)
 
(5)  Identification of the remains of the Romanov family by DNA analysis: By Gill P, Ivanov PL, Kimpton C, Piercy R, Benson N et al. (1994), Nat Genet 6: 130–136. Find this article online
 
(6)  Mitochondrial DNA sequence heteroplasmy in the Grand Duke of Russia Georgij Romanov establishes the authenticity of the remains of Tsar Nicholas II: By Ivanov PL, Wadhams MJ, Roby RK, Holland MM, Weedn VW, et al. (1996), Nat Genet 12: 417–420. Find this article online
 
(7)  Recognition of the remains of Tsar Nicholas II and his family: a case of premature identification?: Zhivotovsky LA (1999), Ann Hum Biol 26: 569–77. Find this article online
 
(8)  Long-running probe into Russian royal family murders closed: RT.com (Jan/17/2011)