2018年2月21日水曜日

プーチンの政策を拡張主義であるとしてオランダ政府が嘘をつき、これがNATOの戦争計画を暴露



国際政治はまさに奇奇怪怪である。

ヨーロッパにおいてはロシアを悪党に仕立て上げる試みが米国の指導の下に続いている。

20142月のウクライナでのマイダン革命以降、さまざまな試みが実行され、短期的には西側に有利な成果が上がったかのように見えるが、その多くは化けの皮が剥がれる結果となった。

20147月にはマレーシア航空MH17便撃墜事件の悲劇が起こり、2016年秋の米大統領選に絡んで始まったロシアゲート事件はその後終わる気配を見せない。また、英国政府の国防相を務めるギャビン・ウィリアムソンは国防予算を獲得するために、ロシアがサイバー攻撃を行い、英国のエネルギー・インフラを破壊して、何千人もの生命を奪うという筋書きをでっち上げた。 

さらには、つい最近のことではあるが、オランダのハルバ・ゼイルストウラー外相はロシアのプーチン大統領がこう言った、ああ言った、自分はその場に居て見聞したと述べていたが、それが真っ赤な嘘であったことが明白となり、オランダ議会でマルク・ルッテ首相の不信任投票にまで発展したことから、ゼイルストウラー外相はその責任をとって辞職に追い込まれたと報じられている [1]

これらの一連の出来事を眺めてみると、これらはすべてが米国のディープ・ステ―ツの思惑を忖度した行動である。この文脈でこれらの政治的な出来事を眺めてみると、個々の出来事がより大きな政治的ジグソーパズルにぴったりと納まってくる。

オランダの外相がついた嘘を承知の上でロシア・バッシングを継続し、そのボスであるオランダ首相がそれを放置していたが、国内政治上都合が悪くなったことから外相を更迭した。もしも、政府にとって都合が悪い住民投票が予定されてはいなかったとしたら、この嘘を真面目に見直すことはなかっただろうし、当人も外相の職を辞することはなかったのかも知れない。残念ながら、そこにはひとかけらの倫理感も見られない。

政治家が喋る内容はどこまでが真実であって、どこからが憶測や作り話であるのかは、多くの場合、素人のわれわれが判断することは難しい。前後の脈絡とか第六感に頼るしかない。あるいは、多くの情報を漁って、検証しなければならない。そして、時が流れ、ほとぼりが冷めた頃になってその真相が浮かび上がって来ることが多い。

今日はこのオランダ外相に関する記事 [1] を仮訳して、読者の皆さんと共有したいと思う。


<引用開始>

オランダのマルク・ルッテ首相は、今週(211日の週)、議会で不信任投票にかけられることになった。理由は閣僚のひとりである外相がロシアのウラジミール・プーチン大統領に関して、過去の2年間、危険極まりない嘘をついていたことをついに白状したからである。

ハルバ・ゼイルストラー外相は、月曜日(212日)、汚名の下に辞職した。彼はプーチンが「大ロシア」構想を作ることを意図していたことを個人的に聞いたと喧伝して来たが、それは嘘であったとついに認めたのである。 そして、オランダ議会ではルッテ首相に対する「不信任動議」にまで発展した。最終的には、ルッテ首相はこの政局を生きながらえた。 しかしながら、もしも多数が首相の指導力を否認したならば、彼の連立政権は崩壊していたことだろう。

たとえルッテ首相が首相として生き残ったとしても、オランダの政権に与えられた打撃はそう容易に修復できるものではなさそうだ。今週暴露された醜聞のもっとも重要な点は、オランダ政府の上級閣僚がロシアを中傷し、国際関係に水を差し、すでに緊張が高まっている地政学的関係をさらに悪化させようとする意図の下に、軽率にも真っ赤な嘘をついたことにある。

ゼイルストラーは、2年前の2016年、ロシアの指導者であるウラジミール・プーチンが「大ロシア」の再建を自慢気に喋っていたと主張した。この「大ロシア」にはウクライナ、バルチック諸国およびカザフスタンが含まれると言う。

今回辞任したオランダのトップの外交官はプーチンが2006年にロシア大統領の別荘(夏の家)で要人らとの会合を持った際にプーチンが喋るところを聞いたと述べていた。

今週、ゼイルストラーはついに白状し、実際には報じられている集会には出席してはいなかったことを議会で認めたのである。しかしながら、彼は依然として彼の親友がお客さんのひとりとしてプーチンの別荘に居合わせていたこと、そして、彼からこの「大ロシア」計画の話を伝え聞いたと述べている。それはそれとしても、自白をした嘘つきの言葉をいったい誰が信じてくれるのだろうか?

ゼイルストラーのボスであるルッテ首相も自分の外相は「大きな間違い」を仕出かしてしまったが、「嘘をついたこと自体は取返しがまったくつかないような罪悪ではない」と言って、この大失敗を何とか鎮静しようとした。

ルッテ首相は、今、自分の無頓着な考え方がもたらした寝覚めの悪さをたっぷりと味わっているところであろう。確かに、彼の政府は深刻な嘘をついているところを捕まってしまったのである。これはヨーロッパが戦争に突入するのか、それとも平和を維持するのかという極めて基本的な政治テーマにつながる。

不祥事を巻き起こしたゼイルストラー元外相はロシアの外交政策をひどく歪曲して伝えたことで非難されているのだ。 

米国とヨーロッパからの支援の下に行われたウクライナにおける2014年の非合法的なクーデター以降、米欧の商業メディアはヨーロッパにおけるモスクワ政府の「拡張主義」や「侵略」について非難を続け、反ロシアの宣伝を執拗に繰り広げて来た。

怒涛のような「ロシア恐怖症」がワシントン政府やペンタゴン、NATO、および、EUによって喧伝され、対ロ関係はすでに30年も前に終わっている「冷戦」以降では最悪の事態となっている。

したがって、ゼイルストラーの行為は単に「間違って発せられた」嘘として留まるわけではない。彼が公言した情報の歪曲は地政学的関係をさらに深刻にしてしまったのである。中傷が満載されたこの種のコメントは戦争をも招きかねないとして議論をすることが可能だ。これはニュルンベルグの戦犯法廷の法理においては主要な犯罪に相当する。

嘆かわしいことには、オランダ政府の上級閣僚によってもたらされた嘘はオランダ政府だけに限られるわけではない。ポーランド元外相のラデク・シコルスキーも2014年にロシアに関してまったく同じような、中傷的な嘘をついたことを想い起こして貰いたい。

シコルスキーはロシアに対抗してNATO 軍を増援することに熱心な支持者であるが、報道によると、2008年に彼はウラジミール・プーチンが秘密裏にウクライナ領を割譲する計画を練っていることを個人的に聞き及んだと主張したのである。プーチンがウクライナをポーランドとロシアの間で分割するという取引を当時のポランド首相であるドナルド・タスクに提案したとシコルスキーは述べた。

米国のメディアによって出版されたこの主張について、シコルスキーは速やかに撤回せざるを得なかった。 そして、問題のプーチンとの会合に関しては、彼は出席してはいなかったことを認め、彼の言葉は「超現実派的な冗談」を意図したものであったと述べた。

しかし、これは冗談でもなければ、間違いでもない。これは非常に深刻な情報操作なのである。しかも政府高官が関与しており、ロシアとの緊張や戦争を煽り立てようとするものである。シコルスキーの顕著な点は「American Enterprise Institute」と称される親NATO的なシンクタンクとの関りを持っていることだ。彼はアンネ・アップルバウムと結婚しており、彼女はワシントンポストのような大手メディアに向けて反ロ宣伝の長い論文を書くことを生業としている。

ゼイルストラーやシコルスキーはロシア恐怖症を鵜呑みにする他のヨーロッパ諸国の外相らの仲間である。例えば、英国のボリス・ジョンソンであるが、彼は今年の始めに異様な主張を唱えた ロシアが英国のインフラを「狙っている」と述べたのである。フランス外相のジャン・イヴ・ル・ドリアンはシリアにおける化学兵器の使用に関してロシアを非難したが、エマヌエル・マクロン仏大統領は、今週になって、フランス政府はシリアにおける化学兵器の使用に関しては実際には何の証拠も掴んではいないことを認めた。 

マクロン自身もロシア恐怖症に一役買っている。彼は、何の証拠もなしに、昨年の大統領選においては自身の選挙運動がクレムリンの工作員によって不正侵入されたと主張した。それ以降、彼はロシアのニュース・メディアが彼の記者会見に出席することを拒否している。

これらの政府高官らは無責任にもすべての事柄についてロシアを悪魔視することに熱心である。これらの行為はワシントン政府やバルチック諸国の政治家が発する根も葉もない言動と結びつく。例えば、リトアニア大統領のダリア・グリバウスカイテは、最近、ロシア領土のカリーニングラードに設置されているロシアのイスカンダール・ミサイルはヨーロッパの半分の領域を狙っていると述べて、 警告を発した。そして、ペンタゴンが最近作成した「核態勢の見直しにおいて、この警告はジェームズ・マチス国防長官によってさらに誇張されている。

嘘偽りに満ちた高官らによる熱っぽい主張に基づいてヒステリー状態と化したこの風潮は正常な政治的、ならびに、外交的な関係に悪い影響を与えている。巡り巡って、これはウクライナの内戦を悪化させるだけではなく、ヨーロッパにおいては広域にわたるロシアとの戦争を導きかねないのである。

更迭されたオランダ外相はプーチンに関しての嘘をなぜ今週白状したのだろうかという疑問が湧くかも知れない。その問いかけは非常に当を得ている。

その答は実はより大きな問題であって、オランダ政府や同国のNATO同盟諸国が曝されている信頼性の危機にもつながっている。それはロシア恐怖症を煽って遂行されているプロパガンダ戦争の全体に関わって来るのだ。

来月、オランダでは住民投票が行われる。これは一般大衆の間で行われる電子的な通信内容について政府の監視機能を強化するべきかどうかを問うものだ。スパイ行為の強化についてオランダの一般大衆の賛成票をより多く獲得するために、オランダ政府は、今、ロシアの「不正介入」や「干渉」という言い古された主張に頼ろうとしているのである。 

20152016年の米大統領選の最中に米民主党本部のデータベースに不正侵入したと言われているロシアのハッカーに対してオランダのシークレット・サービスが不正侵入を敢行したと同国のメディアが報じたことは非常に意味深であると思う。何時ものことではあるが、この主張を裏付ける証拠は何も提示されなかった。他の信頼できる報告によれば、この米民主党本部のデータベースは外部から不正侵入を受けたのではなく、民主党本部内の職員がデータをリークしたのだとわれわれは認識している。つまり、ロシアを中傷しようとするオランダの諜報機関のストーリーは極めて疑わしいと言わざるを得ない。(注:米民主党本部のデータべースに対する不正侵入に関しては、2017729日に掲載した「元諜報専門家のグループがロシア人によるダッキングに関して疑問を表明」を参照ください。)

しかし、オランダの諜報機関によって遂行されたと言われているこの「善行」はオランダの一般大衆に取り入って「誠意」を示すひとつの便法としてメディアに売り込まれたものであろう。その目的は「極悪なロシア人」から自分たちを「守る」には来月行われる住民投票で政府によるさらに強力な市民監視について選挙民の支持を得なければならないことにある。

もしもオランダの外相がさらに続投をしていたとするならば、彼がついた嘘が恥ずかしながらも3月の住民投票の近くになってから一般大衆の間で知れ渡ることにもなりかねず、そのような事態が将来したら、一般大衆はスパイ機能を強化しようとする政府の要望を拒絶することになろう。

多分、政府当局の高度な政治的判断として、ロシアに関してついた嘘に関わる一連のストーリーからは一刻も早く抜け出すために、今ここで外相を辞任させることになったのであろう。

この更迭の時期がどのように説明されようとも、ヨーロッパにおけるロシアの拡張主義に関する嘘をオランダ政府が公に認めたという事実は「ロシア恐怖症」や「ロシアとの戦争」が米国やNATO同盟国であるヨーロッパ諸国の手によってどのようにして醸成されているのかに光を当てることとなったにである。

不幸なことには、ヨーロッパ諸国の政府の高官らは嘘や歪曲、あるいは、自分たちに都合の良い偏見に基づいて何百万人もの市民を戦火に曝すリスクを取ることには決してやぶさかではない。

この記事は最初に「Strategic Culture Foundation」にて出版された。

また、下記についても参照されたい:

<引用終了>


これで全文の仮訳は終了した。

多くの出来事や関連する要素をひとつの文脈の下に纏め、一見すると見過ごしてしまいそうな政治の世界における出来事を解説してくれたこの記事の著者に謝意を述べたい。実に秀逸な論評である。

著者は嘆かわしいことには、オランダ政府の上級閣僚によってもたらされた嘘はオランダ政府だけに限られるわけではないと述べている。

洋の東西を問わず、どこの国も同じような政治的状況を抱えている。日本も然りだ。個々の国の間の違いはそのスキャンダルが公に知れ渡っているのか、いないのかの違いだけだ。あるいは、現時点でそれに相当するようなスキャンダルが存在する、または、当面は見当たらないという違いだけだ。

このような現実の政治の姿を承知した上で国際政治の動きを読み取って行きたいと思う。

しかしながら、われわれのような素人にとっての最大の課題は国際政治を毎日のように追いかけようとすると、関連情報の量が余りにも多いという点ではないだろうか。一人ではとても手に負えない。

さまざまな代替メディアから入手できる情報に接していると、不思議なことには、これらの情報をさらに追跡せずに一日を過ごすことは出来なくなってくる。要するに、19日のブログ「戦場の特派員からの新年のメッセージならびに警告 - アンドレ・ヴルチェク」でご紹介しているように、大手メディアによって形作られている「疑似的現実」と代替メディアが伝えようとする「本当の現実」との間に現れているギャップについてもっと知りたい、もっと調べてみようという意欲が湧いて来るのである。

「情報量が多すぎる」、「どこから手をつけたらいいんだ」とお思いの方が多いと思う。僭越に聞こえるのを承知の上で言えば、このブログを通じて一次的なスクリーニングを行った後の情報をお届けすることが何らかのお役に立っているのかも知れない。そうとは言え、もっとも大きな弱点はこのブログが扱うことが出来る分量は高が知れていることにある。投稿数は1ヶ月当たり4篇前後である。読者の皆さんには幅広く、積極的に関連情報を漁っていただきたいと思う。



参照:

1 Dutch Lies Over Putin’s Aggression Expose NATO War Agenda: By Finian Cunningham, Information Clearing House, Feb/15/2018




2018年2月16日金曜日

米兵によるベトナム人女性のレイプは「標準作戦要領とみなされていた」



ここに「米兵によるべトナム人女性のレイプは標準作戦要領とみなされていた」と題された記事がある [1]。衝撃的な内容だ。

侵攻する兵士と侵攻された国の女性との関係は多様を極めると私は想像するが、そこには常に決定的な力の差が存在する。それは武器に代表される腕力の差である。言わば、力ずくの勝負の行方は始めから明らかなのだ。

ベトナム戦争における米軍の内部では「米兵によるべトナム人女性のレイプは標準作戦要領であるとみなされていた」とこの記事ははっきりと指摘する。

しかしながら、この標準作戦要領が実際に行われていたという事実は米軍の手によって、さらには、大手メディアによって隠蔽され、過小評価されて、今や、米国の市民だけではなく世界中の人たちからも忘れ去られようとしている。

歴史上、レイプは長い間戦争行為の一部であった。最近の紛争では、たとえば、ボスニア、ルワンダ、ダルフールにおいては今まで以上に戦争行為の重要な一部となっていたという現実を改めて記憶に留めておきたいと思う。

今最低限求められていることは何か?それはこの歴史的事実を風化させず、レイプという戦争犯罪の実態をより掘り下げて理解することにある。その上で、世界中で起こっている戦場におけるレイプ事件、慰安婦問題、ライダイハン、等を議論して行きたいと思う。

今日はこの記事を仮訳し、読者の皆さんと共有したいと思う。


<引用開始>
























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Ideologies of Forgetting: Rape in The Vietnam Warと題された著書の中で、ベトナム人の女性や米兵から得た証言を比較しながら、米国がベトナムへ侵攻していた最中、米兵によるベトナム人女性のレイプは実に「広範に」行われ、それはもう「連日の出来事」であって、本質的には軍部によって「大目に見られて」いたという事実を著者のジーナ・マリ―・ウィーバーが述べている。しかも、その根源的理由は軍隊の訓練そのものにあり、米国の文化にさえも遡る。著者のウィーバーは米兵によるベトナム人女性に対するレイプはどうしてあのように頻繁に起こったのか、そして、この事実はどうして「ベトナム戦争の歴史」から「抹殺されてしまった」のかという点に迫ろうとしている。米軍においては、今日、レイプの現場は外国の戦場から国内の上官らの間に持ち込まれ、米国人の女性兵士がレイプの対象となっていることから、この問題は非常に重要であると彼女は指摘している。

米兵によるベトナム人女性に対するレイプは「非常に広範なスケールで起こったことから、多くの帰還兵はこれは標準作戦要領であったと見なしている」。「組織的、かつ、集団的に行われた。つまり、非公式ながらも、軍部の政策であったのだ。」 ある兵士はこれは「集団的軍事政策であった」と言う。確かに、レイプの後にベトナム女性を殺害するという構図は非常に広範に観察され、これらふたつの行為を組み合わせて実行した兵士は特に「ダブル・ベテラン」と称される有様であった。兵士による証言の中には、たとえば、次のようなものも含まれている。「連中はひとりの少女をレイプし、彼女に最後の性行為を行った兵士が彼女の頭を撃った」(ウィーバーは「性行為をする」という言葉には軍隊の文化においても一般的な文化においても、愛、セックス、暴力が部分的に合体している様子が観察されると注釈している。)二人の米兵士が「草葺きの家」から若い、裸の女を引きずり出した。この話をしてくれた兵士はレイプは「極めて標準的な作戦要領だった」と言う。その女を「19体もの女や子供」が重なっている「山」へ積み重ねて、「M-16自動小銃が火を噴いた。」 それですべてが終わった。あるいは、兵士らは地下壕から少女を引っ張り出し、彼女の家族の目の前で彼女をレイプした。この話をした兵士は「こういった事例を少なくとも10例や15例は知っている」と言った。小隊長は「レイプを見て見ぬふりをした」。捕虜となった女性は「レイプされ、拷問され、その後で彼女らの体は完全に破壊された。彼女らは徹底して破壊されたのである。」 ある軍曹は自分の小隊に「草葺きの家に女がいたら、彼女をレイプするように」と命令していたと報じられている。

ウィ―バーはこれらの行動を生み出す下地となった当時の軍事的、並びに、一般庶民の文化を究明しようとしている。兵士らはこれらの要素は「すでに以前から存在」しており、軍事訓練を通じて「その存在が顕在化される」と言い、一般的な人種差別や性差別を引き合いに出した。ひとりの兵士はこう言った。「軍隊では前に起こったことのすべてが大袈裟に扱われ、風刺される。」 ウィ―バーは軍隊では「敵」と「人種」が合体されていると指摘している。即ち、外国人によって侵攻され、殺戮を受けている連中は制服さえも持たずに、すべてが汚らしくて、邪悪で、普通の人間以下の「モノ」でしかないのだ。米国の文化や軍隊の訓練は女性は劣っている、あるいは、女性は憎むべき存在であって、暴力的に退けるべきだとする考えを助長する。女性は、特にベトナム人の女性はブツでしかなかった。彼女らが女性である場合、彼女らは性的に男に仕え、嫌らしい存在であると見なされた。こうして、ウィーバーはベトナム人女性は二重に劣等であると見なされ、二重に憎まれることになったのだと指摘する。本質的に言って、軍事訓練は男たちがまさに女嫌いの天敵に変身することを強いるのである。ベトナム軍では女性の存在が突出していたこともあって、べトナム人女性に対する敵意はさらに助長された。女性に殺されるかも知れないという懸念が女性をより大きな脅威として捉え、ベトナム人女性に対する攻撃性はより以上に普遍的に起こり、極端なものへとなっていったのである。文化的にも、単純に言って、男たちは性行為をしなければならないし、戦闘行為中ではあってもそれを自制することはできないとする考えがあった。

ウィ―バーはベトナムで起こった攻撃的な暴力のあるものは米国の労働者階級の家庭が持つ「無力感」、つまり、自分自身の将来を決めることさえもできない「無力な親族らによって構成された部隊」によって誘発されたものであるとも指摘している。「無力な」父親像は、多くの場合、「男たちの熱狂的な愛国主義」に変身し、爆発的に表面化する。60年代の米国におけるウーマンリブ運動ではまさにこれらの考え方が触媒作用として働いた。「セックスで新たな権利を与えられる」という感覚は米兵が信じて止まない米国の例外主義と連結したのである。米国はベトナムの国を破壊し、何百万人ものベトナム人を殺害することによってベトナムに対して好意的な行動をしているのだと固く信じていた。だから、ベトナム人の女性は米国人の男たちには借りがあるのだ。数多くの米兵は男らしさを強調する映画を指摘した。「カウボーイとインディアン」の映画である。特に、ジョン・ウェインが主演する映画は軍隊に加わることを鼓舞する上で絶大な効果があった。映画の撮影陣がベトナムへやって来た時には、兵士らは自分らがハリウッド映画の中の兵士であるかのような振舞いをしたものだ。こうして、彼らは自分たち自身の姿を模倣したのである。1968年には、戦争に好意的な米国人を宣伝しようとして、ジョン・ウェインは実際に西部劇スタイルで映画を製作した。「グリーンベレー」という映画では、ベトナム人のインディアンに対して米兵を「カウボーイ」として描いた。この映画は大きな収益を収めたが、酷評を招いた。軍部の新兵募集係はジョン・ウェインの映画がテレビで放映される度に新人の登録が増加したと述べている。

ウィーバーは国家主義についても研究しており、現実に起こったレイプの歴史が「忘れ去られ」、抑制され、抹消された理由や手法についても深く掘り下げようとする。彼女は「国家主義の強化」のために用いられるレイプについて論じている。1)男たちは「自分たちの」女性がレイプされるような敵からは自国を守るのだと主張し、2)自分たちの国が犯したレイプは誤魔化して済まそうとする。こうして、心地よい米国の例外主義の神話を育くみ、それを復元するために、文化的な物語の制作者は羞恥心を感じさせるようなこれらの米国人の振舞いやその他の側面を忘れてしまおうと試みる。これらを白状することは「こうした振舞いが由来した軍事化された例外主義の誤りを暴く」ことにつながることであろう。「これらの出来事を記憶に留めることが仕事である」筈の学者たちさえも「事実を抹消すること」に関わっている。こんな事が起こった理由のひとつについてウィーバーはこう説明している。それはベトナム戦争からの帰還兵を純粋な犠牲者として扱うべく、国家的な位置づけを修正し、考え直すことにあった。これはベトナム戦争の犠牲者を消し去り、その挙げ句に米国が国家としてこの戦争の本当の犠牲者であるとするのである。ベトナム帰還兵が犠牲者でもあり、加害者・戦争犯罪者でもあるとする非常に微妙な解析や説明を提供することにおいては、トラウマ説は上手く行かなかったことを示している(「これが上手く行かなかった」のは、学会を含めて、深く根付いている国家主義の機能のせいであるのかも知れない、とウィーバーは指摘する)。ウィ―バーはベトナム帰還兵の多くが自分たちが犯した流血沙汰を記憶していることによって「犠牲者である」が、流血沙汰を犯したことによって彼らは「加害者でもある」と指摘してしている。(多くの者がそうしたように)自分たちが犯したことを率直に認め、自分たちが言わなければならないことを誤魔化すのではなく、それを受け入れることが立ち直るための重要なプロセスとなるのだ、とウィーバーは述べている。

「ベトナム女性に対する暴力を忘れる手段」は映像媒体に見られる。具体的に言えば、「ハリウッド映画」である。特に、ウィーバーは普通ならば「反戦」映画として受け取られている映画をいくつか指摘する。ベトナム帰還兵であるハスフォードの小説「ショート・タイマーズ」を映画化したキューブリックの「フル・メタル・ジャケット」はハスフォードが原作で書いた米兵によるレイプを揉み消し、軍隊がレイプと殺人とを合体させる様子も抹消してしまった。ハスフォードの小説にはベトナム人の売春婦は記述されてはいないが、キューブリックの映画は二人の売春婦を登場させている。こうして、キューブリックは米国人によって犠牲となった女性を米国兵を腐敗させる女性と置き換えてしまったのである(それでもなお、ベトナムで売春行為を蔓延させたことに関しては、経済や農業を破壊したことによって人々をありとあらゆる生存の手段に追いやったことに米軍は「ほとんど全面的に責任を負う」とウィーバーは指摘する)。

オリバー・ストーンの映画「プラトーン」はレイプがまさに行われる瞬間を描くが、レイプそのものは映像には含めなかった。彼の映画には一種の規範が見られ、ごく普通の米兵が「悪行」に対して介入し、それを止めさせようとする。デ・パルマの映画「カジュアルティーズ」も同じテーマを描いている。米兵らは戦場で売春婦を見つけることが出来なかったので、レイプを正当化するが、映画ではレイプを(裸体の描写は無しに)描写する際にはひとつの規範があって、マイケル・J・フォックスが演じる中流家庭出身のごく普通の米兵(現実に、これらに関与した米兵は誰もが同じ社会層出身の「家庭人」であった)が「悪行」をしようとする下層階級出身の米兵の前に立ちふさがるのである(実際にはあり得ない介入行為ではあるが・・・)。しかし、こんなことは実際には起こり得ず、本質的には米国人的な出来事の展開ではないという解釈を示唆している。レイピスト・殺害者は現実には報告され、裁きを受けた。デ・パルマは彼らに対する裁判や判決の様子を描いている。そうすることによって、このレイプ問題は限定的であり、最終的には法的システムによって裁かれたとしている。自尊心を高め、一件落着としたのである。しかしながら、非常に簡略な判決が下され、これらの法的処理は実質的には何の意味もなかったということを彼は抹消してしまった、とウィーバーは指摘する。

ストーンの後の作品「天と地」はベトナム人女性のヘイスリップに対する北ベトナム人兵士によるレイプ(実際に起こった話)を描写したものであるとウィ―バーは言う。彼女はこの場面を掘り下げようとはしないが、私の想定では、これは他の映画に比較してもより生き生きと、直接的にレイプを描写しており、レイプを止めさせようとする介入はまったくなく、正当な理由も述べず、加害者は規範者でもない。また、法廷に送り込まれることもなかったことを示唆している。私はこの場面を観察した。私の想定は正しかった。上記に引用したどの映画に比べても、この映画はもっとも生き生きとしている。ストーンは北ベトナム人兵士が雨が降っている泥だらけの地面にへイスリップを押しやる様を描写する。彼女の上着は破られ、彼女の乳房が現れる。そして、彼は自分のズボンを開き、彼女をレイプする。この行為は中距離から撮影され、突き刺す行為が何回か繰り返され、行為中の二人の顔が大写しされる。彼女は拷問に曝された表情を示し、兵士は邪悪に満ちたしかめっ面だ。そこには何の「規範」もない。この行為を中断させようとする北ベトナム人の救済者は現れないのだ。この犯罪は如何なる形でも正当化されない。ここではレイピストは規範的な兵士として描かれ、もうひとりの兵士が護衛役をする。ストーン監督のふたつのレイプの場面を詳しく比較してみると、国家主義がレイプの描写にどれだけ影響を与えるかを良く示している。ウィーバーが記述しているように、自国のメンバーが関与したレイプは抹消され、隠蔽され、否定され、正当化され、規範化され、その国のごく普通の兵士が救済者として介入し、レイプを止めさせる。レイプは非規範者によって成されたのだ。ところが、外部の集団によって成されたレイプ、特に、侵攻の対象となっている国の兵士が関与した場合、レイプは生き生きと描写され、惨たらしい詳細が描写される。そして、これらを埋め合わせる要素はまったく何もない。

著者のプロフィール: ロバート・J・バーソッキ―二は米国研究を専攻する大学院生で、ジャーナリストでもある。映画やテレビの産業界では異文化間の仲介役として何年も仕事を続け、西側の自己像と現実との間に多くの場合驚く程の食い違いを見い出し、爆発的な興味を覚えた。

<引用終了>


これで全文の仮訳は終了した。

次の記述は実に秀逸だ。正直言って、私はこのような解析に初めて遭遇した。

ストーン監督のふたつの(反戦映画の中で)レイプの場面を詳しく比較してみると、国家主義がレイプの描写にどれだけ影響を与えるかを良く示している。ウィーバーが記述しているように、自国のメンバーが関与したレイプは抹消され、隠蔽され、否定され、正当化され、規範化され、その国のごく普通の兵士が救済者として介入し、レイプを止めさせる。レイプは非規範者によって成されたのだ。ところが、外部の集団によって成されたレイプ、特に、侵攻の対象となっている国の兵士が関与した場合、レイプは生き生きと描写され、惨たらしい詳細が描写される。そして、これらを埋め合わせる要素はまったく何もない。

ストーン監督の映画を一本ずつ見ているだけではこの結論に到達することはまったく不可能だ。鋭い観察眼を持ちながら、ふたつの映画を詳しく比較することが必要となる。そのことを考えると、この著者が示した結論は実に秀逸だと言わざるを得ない。レイプに対する国家主義の影響を客観的に示してくれたのである。


     

また、この投稿と関連して、読者の皆さんの注意を喚起しておきたい点がひとつある。

それは「慰安婦問題について - 国際的な視点から (副題: ベトナム戦争における米軍、ならびに、ドイツの占領下にあったフランスを開放した米軍)」と題した201379日の投稿である。そこにはさまざまな歴史的事実を提示しているので、べトナム戦争におけるレイプを論じるに当たって何らかの参考になるのではないかと思う。




参照:

1American Rape of Vietnamese Women was “Considered Standard Operating Procedure”: By Robert Barsocchini, Counterpunch, Oct/03/2017