2012年12月25日火曜日

法的帝国主義と国際法

副題:戦争犯罪や債権取立ての基盤となる法的枠組み


[注:何故かフォント・コントロールがうまく行きません。文中フォントがごっちゃ混ぜになっていますので、読みにくいかと思います。ご容赦ください。]


124日付けの記事に非常に興味深いものがあった。それは覇権国としての米国の政治・経済・軍事的な機構を法的な枠組みから解説したものだ[1]
表題を仮訳すると「法的帝国主義と国際法」となっており、「法的」という言葉がどういう意味で使われているのかという疑問が湧いてくる。直ぐに判明することではあるのだが、これは覇権国にとって都合の良い法理であって、決して普遍的な意味合いで使われている訳ではない。著者はニューヨーク州立大学ビンガムトン校の名誉教授、ジェームス・ペトラス氏(専門は社会学)。記事の冒頭で著者は次のように述べている。
軍事力を用いて他の独立国を攻撃、破壊、占領する帝国主義国家の存在については我々はすでに十分に理解している。数多くの貴重な研究が行われており、帝国主義国家が多国籍企業と手を組んで如何にして資源の豊富な国や農業生産に適した国をつかまえ略奪してきたかが克明に記録されている。
「帝国主義」や「植民地主義」という言葉はいささか古めかしい響きをもって聞こえてくるかも知れない。大航海時代に入ってから、ヨーロッパ諸国は他国に対して数多くの侵略的行為を行ってきた。すでに数百年もの歴史がある。植民地主義の歴史は覇権国の歴史でもある。大航海時代にはポルトガルやスペインが栄えた。ベネチアも通商で隆盛を極めた。覇権は英国へと移り、大英帝国が出現した。覇権国は第二次世界大戦後は英国から米国に代わった。
そして、私の理解するところでは、「帝国主義」や「植民地主義」は今日でも歴然として存在する。ただ、現在は「グローバリズム」とか「新経済主義」といった言葉で置き換えられているに過ぎない。
歴史を振り返ってみよう。
115日付けのデイリー・テレグラフ紙の記事[注2によると、英国は次のように位置付けられる。約200カ国ほどの歴史を調査したところ、英国の侵略を受けなかった国はたった22カ国しかなかった。90%の国々は何らかの形で英国の侵略を受けた歴史を持っている。侵略を受けなかった幸運な22カ国はどこかと言うと、例えば、ガテマラやタジキスタン、マーシャル諸島、等がこのグループに含まれ、ヨーロッパではルクセンブルグが含まれる。日本では薩摩藩と英国海軍との戦いがあった(1863年)。「薩英戦争」と呼ばれている。戦闘は3日間続いた。この戦いの様子は大河ドラマ「篤姫」にも描かれている。当事の英国は日本へ陸軍を派兵する余裕がまったくなく、日本にとっては幸運なことに3日間だけの小規模の戦闘で終わった。
一方、米国による軍事介入の歴史を見ると、これも長いリストとなる。1890年から2011年までの121年間に行われた軍事介入に関する報告[3]によると、146件の事例が掲載されている。平均で毎年1.2件。ただし、これには1992年にロサンジェルスで起こった略奪や暴動を鎮圧するために海兵隊を派遣した国内での介入がいくつか含まれている。61番目には第二次世界大戦が掲載されている。この表の最後を飾るのは2011年のリビアに対するNATOによる空爆である。今後、シリアやイランといった国々の名前が追加され、この表はさらに長くなるのかも知れない。
日本は、かって、世界の列強の後を追って植民地主義に走った。富国強兵が国家政策となった。朝鮮半島や満州、台湾および南樺太を入手した。しかし、太平洋戦争でその野望は完璧なまでにくじかれ、敗戦によってそれらの植民地のすべてを放棄した。しかしながら、戦後、朝鮮戦争が日本の敗戦国としての地位を180度方向転換させた。東西冷戦構造の下、米国の共産主義に対する新しい戦略が疲弊していた日本経済に幸運をもたらした。朝鮮戦争のための米軍による特需だ。これをきっかけとして日本を経済復興の方向へと導いた。歴史の皮肉としか言いようがないかも知れないが、右肩上がりの経済発展が続いた。日本経済はアジアの近隣諸国の中でも抜きん出て発展した。この発展が何時の日か収束するだろうとはとても予期しえないほどであった。
その結果、東アジアでは日本の経済的侵略が恐れられた。米国では日本との貿易摩擦が何段階かにわたって起こった。日本の経済的台頭はニューヨークのど真ん中での不動産の取得とか映画産業の買収という形で表面化し、これらの動きは米国のプライドを逆なでした。覇権国としての米国は日本の経済的台頭をそう簡単に許したくはない。米国の対日貿易赤字の対策として、日米間では関税政策だけではなく非関税障壁も俎上に乗せられた。日本は米国によって「円高ドル安」構造を強いられ、日本経済は今や20年も低迷している。将来について言えば、「日米同盟の深化」という美名の下で米国は日本の富を収奪するメカニズムとして環太平洋経済協定(TPP)を導入しようとしている。そして、日本政府はこの米国の政策を従順に受け入れようとさえしている。
上記が過去100年間に日本経済が辿ってきた歴史の流れである。そして、これからの50年あるいは100年はどうなるか。現在の日本の対米政治の延長という観点から予測すると、50年後の我々の子孫は苦々しい思いを噛みしめながら記述することになるのではないかと懸念せざるを得ない。
今の日本は人口減少、老人人口の増大、産業の空洞化、国家財政の危機、年金制度の破綻、政治の混迷、福島第一原発事故による「安全神話」の崩壊と政治の不在、等、多岐にわたって重要な問題に直面している。特に、戦後60年間にわたって日本の政治の中枢に設定された日米同盟は日本の政治・経済に対して計り知れない影響を与えてきた。
ここに引用した記事の世界観を借用すると、覇権国である米国の日本に対する影響力には驚くべきものがあることを認識せざるをえない。一言で言えば、それはまさに徹底した帝国主義である。今も弱まるどころか、その勢いを増している。「産業の空洞化」とか「国家財政の危機」といった具体的なひとつの事象を描写する文言と比べると、この米国の帝国主義は余りにも膨大でつかまえどころが無く、非常に広範な分野を擁した巨大システムであると言えようか。こういった特徴を有しているからだろうか、政治の場では一人の政治家がその対立軸に立って現状を明確に批判し論議しようと試みても焦点が定まらず、批判や議論が難しいのではないかとさえ思われる。
日本の政治を理解しようとすると、米国の存在が日本の政治にどのような影響を与えているかを理解することに尽きるのではないか。ここに引用する記事は、特に、覇権国としての米国の法体制に焦点を当てている。法律についてはまったくの素人ではあるが、帝国主義の法体制がどのように機能するのかについて認識を深めてみたいと思う。 

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引用記事[1]の仮訳の続きを以下に示したい。訳文の部分は段下げをして示す。つまり、段下げをしてはいない部分は私の個人的な記載である。
経済評論家たちは帝国主義的な債権者が借金に喘ぐ国やその国の納税者、労働者、従業員、あるいは、生産的な産業分野、等から通常は取立てが非常に厄介な使用料や特許料あるいは貸した金をどのようにして回収してきたかに関して膨大な資料を残している。

しかしながら、十分に精査されてはいない分野がひとつある。それは帝国主義的な戦争や略奪ならびに債権回収についてさまざまな情報を与え、それらに正当性を与えることによってその根拠を解説し、それらの行為を促進するのに役立つ非常に包括的な法体制の存在である。

帝国主義的法体制の中心性

帝国の確立では軍事力や暴力、特に、公然とした軍事的介入や秘密裏における軍事的介入が常に中心的な役割を果たしてきた。しかし、法的な真空状態にあっては事がまったく運ばない。つまり、司法機関や判決および判例が帝国樹立の先頭に立ってその道を開き、それと共に歩み、あるいは、その後に従って行くといった切っても切れない関係が存在する。帝国主義的行為の合法性の説明はその帝国自身の法体制や司法の専門家らに大きく依存する。彼らの法的な論理や意見は常に国際法を踏みにじり、帝国が介入しようとする相手国の国内法を覆すものとして提言される。容赦もない軍事力によって覇権国の法体系がいとも簡単に国際法を優先することになる。そこには帝国主義・植民地主義的な態度があり、国際法に対する優越性を確実にする陸軍や海軍の存在がその背景にある。それとは対照的に、国際法にはそれを効果的に執行させるメカニズムがない。さらには、国際法は弱小国だけに適用され、覇権国によって「違反者」と見なされた政府に対してのみ適用される。司法プロセスそのものは国際法の解釈や国際的犯罪の調査を行い、罪を犯した当事者を逮捕し、彼らに判決を下し、彼らを罰する判事や検事の任命することも含めて、それらの行為のすべては覇権国の直接の影響下に置かれる。換言すると、国際法の適用と管轄権は選択的であり、覇権国の形態によって形成される諸々の制約により左右される。国際法はせいぜい良くても道徳的判断を与える程度だ。つまり、覇権国の戦争犯罪や略奪を正したいとする国家や政権ならびにその国民の政治的要求を強化する上で多少は意味のある基盤を与える程度だと言える。国際法、特に、戦争犯罪や人道に対する犯罪といったジュネーブ議定書の領域においては、覇権国の法律の専門家や学者ならびに判事たちが覇権国の行動を正当化しそれらを免責とする法的枠組みを策定してきた。

上記の内容は驚くばかりだ。個人的な印象を述べると、「法律論的に厳密に理解しようとすればこういうことだったのか」との思いが非常に強い。特に、下線を施した部分は現在日本政府が米国に追従し、後押しをしようとしているTPP(環太平洋経済協定)そのものの姿ではないか。著者は帝国主義的な新経済主義を明確に分析してくれている。

TPPISD条項は日本の国内法を超越した形で米国の多国籍企業や投資家の利益を最大限に守る役割を与えられているのだ。日本側に不服がある場合は仲裁のプロセスが用意されている。しかしながら、それは格好ばかりであることを理解しておく必要がある。一たび仲裁の裁定が下されると、上告は許されずその裁定に従うしかない。仲裁裁判所の仲裁パネルに任命される3人の判事は多国籍企業や投資家たちのために働く弁護士であったりする。つまり、彼らはそれぞれの役割(時には企業の弁護士として、別の機会には仲裁パネルでの仲裁者として)を企業弁護士村の中で「たらいまわし」にしており、このTPPの仲裁システムにおいては彼らに十分な説明責任は期待することができない。

これらについては先に掲載したTPPに関するブログでも述べた通りだ。

帝国主義的法体系の使用

歴史を通じて見られるように、帝国の樹立は征服の結果もたらされる。つまり、圧倒的な武力の行使または武力による脅かしによる。米国が樹立した世界帝国もその例外ではない。そこでは、従順な一国の指導者は帝国の君臨を自国に招じ入れ、帝国の君臨の前に屈服する。傀儡、あるいは、利権目当ての指導者側によるこのような背信行為は、通常、人民蜂起を誘発することが多い。しかし、これは後に帝国とその協力者たちとの連合軍によって鎮圧されるのが落ちだ。協力者たちは蜂起した国民を弾圧するために招じ入れた軍事的介入を正当化しようとして覇権国の法理を引用する。抑えのきかない武力を直接的あるいは間接的に活用することによって帝国が現出することになる。しかしながら、帝国を維持し、それをさらに強化するには法的な枠組みが必要だ。その法理は、様々な理由から、帝国の拡大や強化に先立って体系化されることもあれば、それと共に前へ進んだり、その背後について行きながら次第に形成されていくこともある。

合法性は帝国が何らかの手段によって成し遂げた征服の延長線上で試される。恒常的な戦争状態は帝国を維持するためのコストを引き上げる。特に、帝国主義的な民主主義社会においては、武力は政治家や市民が支えている市民道徳を蝕むことになる。征服された国家において法と秩序を維持するには、帝国の支配を支える司法制度やそのための基本政策が必要であり、その外界世界に対しては正当性を誇示できるような外観を見せつけ、協力者クラスの高官や個人を魅了し、地域や国の軍部、司法ならびに警察の幹部に対して有効な支配基盤を提供する必要がある。

帝国の司法当局による表明は、たとえそれが政府、司法、軍部、あるいは、行政組織によって直接発行されたものであったとしても、「この世の究極的な法」と見なされ、それは帝国に属さない政府や専門家たちによって作成された国際法や議定書を優越するものとなる。そうは言っても、これは帝国の支配者が必ずしも国際法を全面的に葬り去るということでは決してない。彼らは自分の反対者に対しては選択的にそれを適用する。特に、帝国主義的介入や侵攻を正当化するために独立国家や指導者に対してのみそれを適用する。こうして、ユーゴスラビアを解体し、イラクへの侵攻を行い、その指導者たちを暗殺した。

たとえ侵略された国の裁判所が違法であるとの裁定を下したとしても、帝国内の多国籍企業や銀行、債権者あるいは投機家からの経済的要求に順守することを強制させるために、法的な裁定は当事国に対して帝国の司法当局から発行され、指示が出される。帝国の法律は、人権に対する犯罪や公共財産の着服あるいは民主主義体制の破壊のかどで有罪と判決されたかっての協力者や支配者たちさえをも保護し、彼らに庇護を与え、財政的な支援を提供する。帝国の司法当局や行政組織は自分たちに敵対する他の帝国主義的な国に対しては銀行や金融機関について選択的に捜査を行い、起訴し、厳しい罰金を課し、そうすることによって帝国内の企業の経済的地位を強化するのに役立たせようとする。

上記の下線を施した部分はそれ自体が目新しいというものではない。過去の歴史を見れば、米国市場において日本企業が罰金を受けた事例はたくさんある。最近、韓国がそのような日本の新しい仲間として登場してきたことはご存知だろうか。 

1114日の中国情報サイトの報道[4]によると、米国で談合を行ったとして韓国企業に課せられた罰金の額は日本に次いで世界2位だとのこと。何故韓国と日本がダントツなのか?もう誰もが明確な答をお持ちだと思う。私は個人的に談合を推進したり、擁護する積もりは決してなく、覇権国が自国の市場での競争相手の国に対して実に手厳しい対応をとるという冷徹な事実をここに紹介したいまでだ。 

米国は表面的には「日米同盟の深化」を高らかに謳い、日本政府も諸手を挙げてそれに呼応しようとしている。その一方で、米国は自国企業の競争力に有利になるような環境を作り出そうとしている。硬軟取り混ぜた米国の巨大な「帝国主義マシーン」が稼動しているのだ。韓国のサムスン電子と米国のアップルとは今四つに組んで世界の市場で競争をしている。特許係争も起こっている。この係争は起こるべくして起こったという感が深い。米国はアップルを保護するために今後も機会がある度にサムスン電子を容赦なく叩くことだろう。日本は過去20-30年間にわたって全く同じ状況を何度も経験してきている。 

米国にはこうした経済戦争を可能にする強力なインフラが存在する。それは自国の利益を守ろうとする弁護士たち、ならびに、彼らが形成する弁護士社会だ。日本にはそれに匹敵するインフラはない。 

弁護士の数を日米間で比較してみよう。20114月の時点で米国で登録されている弁護士の数は1,225,452(ウィキペデイアから)。2011半ばの米国の人口は約311,800,000人。弁護士一人当たりの人口は254人。日本では、2012331日現在の弁護士数は32,088人(日本弁護士連合会のサイト、www.nichibenren.or.jpから)。また201241日現在の確定人口は12756万人7千人。したがって、弁護士一人当たりの人口は3,975人。米国の人口当たりの弁護士数は日本のそれと比べて15倍も多い。 

ただし、国によって弁護士の定義が異なると言われている。日本では司法書士は弁護士とは別個の認定・登録がされているが、米国では分離されてはいない。日本には約2万人の司法書士がいる。同様に、税理士が7.1万人、弁理士が0.9万人いる。これらを総計すると約13.2万人となる。この場合、日本の弁護士(司法書士、税理士、弁理士を含めて)一人当たりの人口は966人となる。日米比較をすると、依然として3.8倍もの開きがある。 

このインフラの別の側面を見ると、米国内には約200校もの法学部があって、過去20年間にわたって毎年4万人の新卒が巣立ってきた。弁護士が余りにも多く、弁護士数を縮小するべきだとの批判が出ているほどである。新卒者が全員弁護士になるとは思えないが、毎年4万人の新卒という数はすさまじい規模だ。一方、日本では、日本弁護士連合会のデータによると、最近5年間の各年の新規登録者数は2008年の1,922人から2012年の1,603人へと漸減している。 

国際的な経済戦争において「インフラとしての弁護士」を日米で比較する際に忘れてはならない点のひとつは実務に必要な英語能力である。日本人の英語能力の欠如が足かせとなるのではないかと懸念される。定量的に論じることはできないが、日米比較をする場合、英語能力を加味した時の日米間の「インフラとしての弁護士」の実務における機動性や国家規模での動員能力には非常に大きな差異が出て来るのではないか。上記に示した弁護士数の差異がさらに一桁も二桁も大きな違いとなるのではないだろうか。 

最後に、先頭にたって一国を引っ張って行く政治家の資質や職業的背景もこの国家的なインフラに大きな影響を与えるのではないかと思う。米国では議員たちの職業的背景で一番多いのは弁護士である。彼らは法律を専門的に扱うことに習熟しており、経済的紛争を法律面から追求することに慣れている。そういう専門性を持った議員たちが最も多いのだ。日本では地方議会の議員あるいは国会議員の秘書役から国政に転じるケースが一番多い。これらの人たちは最初から政治の世界に浸ってきた人たちであり、法律という専門領域では素人である。国会議員たちの専門領域やプロとして経験したことがある専門分野については日米間で大きな違いがある。このことも無視できない要素だと思う。 

質と量の両面で高度に築き上げられた「帝国の法的インフラ」を有する米国の姿を眺めてみると、米国の持つ覇権国としての国家像がより鮮明に理解できるような気がする。この認識はTPPにおけるISD条項の存在が何を意味するのかをより客観的に理解する上で重要な役割を果たしてくれる。

司法当局の高官は帝国の政治・経済の権力者たちの道具の役割をするばかりではなく、彼らは他の政府機関の高官や事業分野からのエリートたちを道具として使い、時には、彼らを出し抜くことさえもある。特定の金融分野との繋がりを持った判事は一握りの債権者たちのために他の多くの債権者を差別化することもある。最近のある裁定では、ニューヨークの判事が長い間返済ができない状態にあった国債に関して少数の債権者のためにアルゼンチン政府に対して全額を返済するよう裁定した。この裁定内容は、大手の債権者たちとの間ですでに再構築された部分的返済という大筋とは完全に相違するものだ。

この下線部分は最近の時事問題を引用したものだ。アルゼンチン政府に貸してあげたお金の取立てに関するものである。大手の債権者との間で和解が成立しようとしていた矢先に出されたこのニューヨーク地裁の裁定について、アルゼンチン大統領のクリスチナ・フェルナンデス・デ・キルチネルは「わが国は法的帝国主義の犠牲になろうとしている」と悲鳴をあげた[5]。アルゼンチンの国民感情に火がついて、アルゼンチンの世論は右傾化しているとの報道もある。ここに見られる光景は米国の地方裁判所の一判事が一部債権者の利益のためにかなり偏向した裁定を下し、その結果アルゼンチンという独立国を翻弄している姿だ。

帝国の法理が国際的金融テロの実践にその根拠を示し、それを正当化する上で中心的な役割を演じたのである。米国のブッシュ大統領やオバマ大統領には無人飛行機を使って国境を越えて反対者を暗殺し、軍事的介入を実行する法的権限が与えられた。これらの行為は明らかに国際法や国家主権の侵害である。他の国の全てを超越して、帝国法は他国への侵略や経済的搾取を合法化し、侵略の目標となった国家の法を弱体化させ、その国の国民は犠牲者となり、無法状態や無秩序にさらされる。 

帝国主義的法律や裁判所が下す裁定は、世界の法理システムが何段階もの階層によって成り立っているとの想定に基づき、帝国による征服のために必要なひとつの基盤を形成する。この考えにおいては、帝国を世界の中心に据えた法システムが軍事的に弱小な国々の法システムを凌駕する。各階層についてはさらなる詳細がある。互いに競い合う様々な帝国主義的法システムは党派政治や経済のエリートたちにとって最も有利な形で争いごとを解決する。大権力者たる帝国に追従するお得意さんたちは帝国法によって有利に受け入れられる。しかし、反対者たちは帝国法によって厳しい扱いを受ける。

上記の下線部は孫崎享著の「戦後史の正体」を彷彿とさせる内容だ。同著者は、戦後60数年間にわたって日本政府の歴代首相の在位期間を検証した。対米従属派の首相は長期政権を維持することができたが、日本の国益を防護するために自主独立路線を標榜した首相の内閣は短命に終わったと詳細に分析している。敗戦国たる日本においては、米国を前にして日本の国益を最優先にして政治をすることが如何に難しいことかが端的に現れている。現実にはほとんど不可能だ。これが日本が置かれている現実の姿なのである。

結論

世界規模の帝国主義システムにおいては、明らかに、世界中が受け入れることができるような普遍的な法典に準拠しようとする裁判機関などは存在しない。それぞれの司法当局は帝国主義的特権に有利な政策を熟考し、それらの特権を積極的に推進しようとする。一裁判官が個別の帝国主義的な政策に反対して裁定するような場面が起こることもあるが、そのような例は稀である。長期的にみると帝国法が裁判所の見解を導いていくことになる。

帝国主義的な法理や裁判所の決定は帝国主義戦争や経済的な略奪のための基礎を設定する。帝国に仕える法律の専門家たちは、帝国の安全保障に対する危機が目前に迫っており恒常的なものになるかも知れないと主張することによって、暗殺や抑圧ならびに拷問や恣意的な逮捕をしたとしても、これらは決して憲法秩序と矛盾をひき起こすものではないとして、再定義を試みる。

法律は単に経済や政治の公共機関の権力を反映する上部構造の一部として存在するだけではない。法律は帝国の教義を実践するための物的資源に責任を有する経済や政治関連の公共機関をひとつの方向に導き、それらの方向性を決定する。

この意味合いにおいては、帝国の支配者は進歩主義的な批評家が議論するような「無法な存在」であるという訳では決してない。 むしろ、彼らは「帝国主義的な法理」に則って機能し、帝国を樹立するための法的な教義に対しては忠実であろうとする。帝国主義的な支配者たちのほとんどが憲法が保障する権利や国際法を踏みにじると批判することは無意味だ。仮に帝国の支配者が帝国主義的特権をむしばむような憲法レベルの議題を法制化しようとしたり、さらに悪いケースとして、残虐な帝国主義的な政策を実施した部下を訴追するために国際法を適用しようとしたならば、その支配者は職務怠慢であるとして、あるいは、意図的に不道徳な行為をしたとして即座に非難を受け、不信任となろう。あるいは、政権から引きずりおろされることだろう。  

ここで冒頭で引用した記事の仮訳は終わる。

アメリカ映画やポップ・カルチャーを通して理解してきた米国の国家像は、多くの場合、自由の国、民主主義の国といった言葉で形容され、まばゆい程に輝いていたものだ。米国の本心は何かなどと疑う理由は何もなかった。サン・デイエゴの街でブーゲンビリアの赤い花が咲き誇る住宅街を歩き、ラ・ホヤ海岸へ歩を進めて行く時に感じたあの開放感が今でも思い起こされる。カリフォルニア州立大学やスクリップス海洋研究所の図書館は外国人である私にも心地よく対応してくれた。市民に対する開放的なサービス振りに接してひどく感心したことが思いだされる。アメリカ社会には裕福な国だけが持つことができる、ある特有なおおらかさがあったような気がする。日本とは異質の自由を感じた。そういったアメリカが好きだった。

自分たちが育ち、社会に巣立っていった頃の日本社会について自分自身が感じていたことなどを振り返ってみると、ハリウッド映画やデイズニーランドは米国帝国主義の先兵の役割を担っていたのかも知れないと思われてくる。米国帝国主義という遠大な構想の中で日本や他の国々をやんわりと懐柔する役目を持っていたのではないか。ポップカルチャー版のグローバリズムの浸透の結果、日本でさえもハロウィーンを祝うようになってすでに久しい。これらの社会現象には経済や通商におけるグローバリズムや新経済主義という響きの良い言葉と相通じるものがあると言えよう。帝国主義国家のこの硬軟取り混ぜた攻め方は実に心憎いほどだ。

我々日本人が戦後60年余りの間お付き合いをしてきた(あるいは、お付き合いをさせられてきた)米国がどのような国であるのかがはっきりと分かったような気がする。世界に君臨する帝国主義国家としての米国は他国との関係をどのように保とうとしてきたのか、他国をどのように導こうとしてきたのかが分かってきた。特に、太平洋戦争で敗戦国となった日本をどのように扱おうとしていたのかについて明確に理解できたのではないだろうか。

私が経験した米国での生活はイラク戦争の前だった。「アメリカが好きだった」と上記で述べた。「イラク戦争の前だったからそう感じたではないか」と言われるかも知れない。確かに、イラク戦争を境にして米国の対外政策には賛成できないことが実に多くなってきたように思う。
イラク戦争やアフガン戦争で米国の帝国主義的な侵攻が失敗に終わったことを受けて、米国内では自国の対外政策についての反省が湧き起こっている。オキュパイ・ウオールストリートもこの流れの中にある。戦争の遂行には膨大な資金を必要とするが、米国はもう経済的について行けないという現実が誰の目にも明白となってきた。
日本では「戦後は終わった」という言葉はかなり古い。経済的、あるいは、消費物資に関して言えばその通りだと思う。もう死語になったと言ってもいい。
しかしながら、政治の面ではまったく別だ。この引用記事を読んでみた結果、米国の帝国主義に追従する日本の政治においては「日本の戦後」であった米軍の占領時代と2012年の現在とを比較した場合それ程大きくは変わっていないのではないかと感じる。一例を挙げれば、イラク戦争の当初いち早く米国に賛意を表明した日本政府。これはたった9年前の出来事だ。TPPに関しては、マスコミ流の表現を拝借して言うと、米国は発足しようとしている安部晋三新内閣に対してTPPへの参加をするようその意向を伝えているそうだ。これは、とりもなおさず、覇権国である米国が日本の新政府に与えた指示である。これが日本の政治が置かれている現状だ。
これらの出来事の背景にあるのは本日おさらいをした引用記事の内容そのものではないかと思う。
皆さんはどのようにお考えだろうか。

 

1226日の追記:

米国帝国主義の被害者の立場にある日本の視点で歴史を振り返ってみた。ここで忘れてはならないのは、日本が植民地主義に走り朝鮮併合を行った歴史的事実である。米国を前にして今の日本が置かれている不条理、例えば、沖縄の米軍基地にかかわる問題に関して論じれば論じるほど、かつての朝鮮半島の人たちが日本の施政についてどれだけ不条理を感じていたかを理解する必要がある。このプロセスを抜きにしては、米国帝国主義を批判し続けることはナンセンスだと思う。これにどう答えるかによって、我々日本人の理性が十分に大人になっているかどうかについて試験をさせられているようなものだと認識しておかなければならない。

 

 

参照:

1Legal Imperialism and International Law: Legal Foundations for War Crimes, Debt Collection and ColonizationBy James Petras, Information Clearing House, Dec/04/2012

2: British Have Invaded Nine Out of Ten Countries: By Jasper Copping, The Daily Telegraph, Nov/05/2012

3: FROM WOUNDED KNEE TO LIBYA: A CENTURY OF U.S. MILITARY INTERVENTIONS: by Dr. Zoltan Grossman, academic.evergreen.edu/g/grossmaz/interventions.html

4米国で談合した韓国企業の罰金、日本に次いで世界2位=韓国:20121114news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d...

5New York judge’s ruling sparks nationalist surge in Argentina: By Emily Schmall, Contributor, December 10, 2012

 

 

2012年12月4日火曜日

ブカレストの街を歩く(後編)


「ブカレストの街を歩く」の後編です。


大学広場に通じるレジーナ・エリサベ-タ通り。立像が二体見える。

大学広場の付近では路上の古本屋さんにお目にかかる。通りにはトロリーバスが行き交う。

大学広場はルーマニア革命の際はデモの参加者が集合した場所のひとつだ。銃撃戦が最も激しかったのはアテネ音楽堂や国立美術博物館前の「革命広場」付近だったと言われているが、この大学広場でも死者がたくさんでた。革命があったと言われているが、実質的にはクーデターだったと言う人もいる。
知り合いのタクシーの運転士さんも当時の話をしてくれた。通りに銃撃を受けて怪我をしている人がいたので、助け出そうとしたのだが、通りに人影が現れると何処からか闇雲に銃撃してくるので、怪我人の側へ辿りつくことさえもできなかったという。無茶をしたら、自分が狙撃されるかも知れないという恐怖.... あの数日間はまったく混沌とした状態であった。

革命前、ルーマニア共産党の本部が入っていた建物

この建物の前の広場は今は「革命広場」と呼ばれている。1989年の革命前は「宮殿広場」といった。1221日、この広場には、「出てこないと首だぞ!」と脅されて、市中の大きな企業から10万人もの労働者が駆り出されて、この広場での人民集会のために集まったと言う。

チャウシェスク大統領は宮殿広場に面する党本部の建物のバルコニーから演説を始めた。しかし、演説を始めて1分半もすると聴衆のざわめきや罵声、口笛が起こった。チャウシェスク大統領は演説を中断せざるをえなかった。「同士諸君、静かに!」と、何度も繰り返した。エレナ婦人も「静かに!」と何度も叫んだ。
この演説では最低賃金の値上げや、年金の値上げ、子供手当てや生活保護費の値上げ等を伝え、チャウシェスク大統領は人心を何とか掌握しようとしていた。しかし、10年にもわたって困窮生活を強いられてきた民衆の気持ちは共産党やチャウシェスクから完全に乖離しており、チャウシェスクは民衆の胸の内を正確に読むことはできないままでいた。この演説は生放送でルーマニア全土に放送されていた。

ヘリで共産党本部のビルから脱出するチャウシェスク大統領夫妻(ウィキペデアから)


翌日(1222日)の正午前に、大統領夫妻はビルの屋上から専用のヘリコプターを使って脱出。スナゴフへ到着した後、チャウシェスクはヘリの操縦士にテTitu)へ向かうように命じた。テの近くで、マルタン(操縦士)は機体を上下に揺すって、「地上から対空砲火を浴びたので回避行動を取った」と嘘をついた。チャウシェスクはパニック状態に陥り、直ちに着陸するように命じたという。マルタンは大統領の命令にしたがって着陸した。そこはピテスチに通じる古い道路だった。乗り合わせていたセクリターテ(秘密警察)が通りがかりの車を止めたが、一台は営林署の職員、もう一台は地元の医者だった。この医者はチャウシェスクを乗せてしばらくは車を走らせていたが、突然起こったこの状況に深入りをしたくはないので「エンジンの故障だ」と言って嘘をついた。セクリターテが次に停車させた車は自転車の修理屋だった。彼は皆をトルゴヴィシュテへ案内した。この運転手(ニコラエ・ペトリショール)は町の外れにある農業試験場だったら問題なく隠れていられると言って、皆を説得した。農業試験場へ到着すると、試験場長がチャウシェスク夫妻を一室へ案内した。そして、その部屋の鍵をかけてしまった。彼らは午後3時半に地元の警察によって逮捕された。その後、トルゴヴィシュテの守備隊へ移され、二人はそこで軍事法廷を待つ身となった。(ウィキペデアから
 

ここで、一連の動きの中でも最初の段階に関してもう少し詳しくおさらいをしておきたい。下記の内容もウィキペデアからのものだ。
ルーマニア革命はルーマニア西部の人口が約30万人の都市、テミショアラで1216日に起こった暴動から始まった。

その年の7月、ハンガリー系の牧師で反体制派のラスロ・テケシはハンガリーのテレビ局のインタビュ-で政府が行っている都市計画を批判した。それに対して、政府はテミショアラで副牧師を務めるテケシを田舎の教会へ左遷しようとし、彼が教会のアパートを使用することを禁じた。教区民はテケシの家の周りに集まり、彼に対する嫌がらせや左遷に対して反対し、彼を防護しようとした。これを見て、通行人や宗教心が強い学生たちも加わった。群集が立ち去ろうとはしないのを見て、テミショアラ市長はテケシを左遷することは反故にしたとほのめかした。群衆は市長に対して文書による声明を要求し、群集の間からは反共産党の大合唱が沸き起こった。警察とセクリターテが召集された。夜の7時半には群集は散会。この時点で、発端となったテケシの左遷のことはもうどうでもよくなり、新たな政治的な動機が表面化し始めた。反対派の幾人かはルーマニア共産党の地方支部が入っている事務所を焼き払おうとした。セクリターテは催涙弾で対応し、何人もが逮捕された。暴動は夜9時頃には沈静化した。
翌日(1217日)も暴動は続いた。暴徒は共産党の地方支部に入って書類やチャウシェスクの写真、宣伝用パンフレット、チャウシェスクの書物、共産党に関連するものを何でも窓から放り出した。暴徒の行動は軍隊の介入によって阻止された。暴動の規模が大き過ぎてセクリターテや警察の手に負えなくなっていたのだ。軍隊の出動とは、つまるところ、最高司令官であるチャウシェスクの命令があったということを意味する。しかし、軍隊は暴徒を完全にコントロールすることには成功しなかった。午後8時、自由広場からオペラ広場にかけて激しい銃撃が起こった。タンクやトラックあるいは装甲兵員輸送車が市へ入る通りを封鎖し、ヘリコプターが上空を旋回した。

1218日、市長は党の会議を招集し、前日の破壊行為を非難し、戒厳令を宣言した。3人以上のグループ行動を禁止したのだ。これに反抗して、約30人がオーソドックス聖堂へ向かい、聖堂で共産党の紋章を切り抜いたルーマニア国旗を振りまわし、1947年以降禁止されていた前の国歌、「目覚めよ、ルーマニア人たちよ!」を歌った。銃撃が起こり、死傷者が出た。
1219日、ラド・バランとステファン・グシャは市の工場にいる労働者たちを訪ねようとしたが、工場に辿りつくことさえできなかった。

1220日、膨大な数の労働者がテミショアラへ入ってきた。約10万人がオペラ広場(現在は勝利広場と改名されている)を埋め尽くした。そして、反政府の歌が始まった。「我等が人民!」、「軍隊は我々の味方!」、「恐れるな、チャウシェスク政権は崩壊する!」 
エレナ・チャウシェスクの命を受けて、共産党中央委書記のエミール・ボブと首相のコンスタンチン・ダスカレスクは現状を解決するために現地へ急行。彼らは反体制派の代表団と会い、殆どの逮捕者を釈放する約束をしたが、主要な要求(チャウシェスクの退陣)は拒否した。状況は何も変わらなかった。

翌日(1221日)、オルテニアの工場労働者が汽車でテミショアラに到着した。政府側の狙いはこれらの労働者を使って暴動を治めることだ。しかしながら、労働者は最終的に反政府側についてしまった。一人がこう言った。「昨日、工場のボスと党職員が我々を庭に集め、我々に木製の棍棒を渡しながら、ハンガリー人や暴徒がテミショアラを破壊しようとしている。現地へ出かけ、暴徒を鎮圧するのが我々の使命だ言われた。 しかし、ここへ来てみると、あれはまったくの嘘っぱちだということが分かった。」
全国規模で見ると、ミショアラでの暴動に関しては国営テレビでは何も報道されてはいなかった。しかし、多くの人たちはヴォイス・オブ・アメリカや自由ヨーロッパといった西側のラジオを通じて、あるいは、口コミで真相を知っていた。1220日の時点で、政府側は翌朝人民集会を開くことにした。これは、1968年のワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアへ侵攻した当事チャウシェスクが反論し、国民の支持を受けた時の状況を模して、チャウシェスクを支える自然発生的な動きを作り出そうとする試みであった。
 

1221日のチャウシェスク大統領が演説を中断せざるを得なかった時の様子はすでに述べた通りだ。
ブカレストではその日(1221日)多くの犠牲者が出た。死亡者も出た。一台の装甲兵員輸送車がホテル・インターコンチネンタル前の群集に突っ込み、群集を蹴散らした。フランスからのジャーナリスト、ジャン・ルイ・カルデロンが死亡した。後に、大学広場近くのひとつの通りとテミショアラのある高校は彼の名をとって、「ジャン・ルイ・カルデロン通り」および「ジャン・ルイ・カルデロン高等学校」と命名された。激しい銃撃が夜中の3時頃まで続いた。

チャウシェスクは暴動を抑えることに成功しつつあると読んでいたようだ。
彼は1222日の朝には2回目の人民集会を召集しようとさえ考えていた。しかし、22日の朝7時前、大統領の妻エレナは数多くの労働者たちが反政府デモに加わろうとして、ブカレストの中心地へ向かっているとの情報を受けとっていた。大学広場や宮殿広場に警察が築いたバリケードはひとたまりもなかった。午前9時半、大学広場は反政府派の群集で埋まった。治安維持部隊が再度中心部へ入ってきた。しかし、彼らは反政府側に合流した。

1222日の朝9時半頃、チャウシェスクの国防大臣、ワシレ・ミレアが不振な死を遂げた。チャウシェスクの声明文によると、「ミレアは国家に対する謀反のかどで追放された。自分の反逆が明らかとなり、彼は自殺した。」 当事、広く知られていた見方によると、その日の朝タンクを市の中心部へ配置したとは言え、ミレアはチャウシェスクの命令にしたがってデモの参加者に向けて発砲することには躊躇していた。一般の兵隊たちはミレアは殺害されたと信じていた。兵士たちは実質的に集団で革命に向かっていた。上級の将校たちも兵士たちに対して政府に忠実であれと強制しようとはしなかった。こうして、チャウシェスクが権力にとどまる望みはすべてが消えた。
ミレアの死を知って、チャウシェスクは後任にヴィクトル・スタンクレスクを国防大臣に任命した。スタンクレスクはチャウシェスクには分からないように部隊はそれぞれの宿営地へ戻るように命令した。そればかりではなく、チャウシェスク大統領にはヘリコプターで脱出するように説得した。同時に、怒り狂った群集は共産党本部を襲い始めた。スタンクレスクと兵隊たちは群集に立ち向かおうとはしなかった。

1216日に始まったルーマニア革命では1,104人が亡くなった。殆どのケースはテミショアラ、ブカレスト、シビウおよびアラドで起こったものだという。(以上、ウィキペデアから
 
当事の状況を考えてみるといささか不思議な感じもした。そんな思いがあったので、ウィキペデからの引用を掲載し読者の皆さんと情報を共有したいと思った次第だ。

私の印象では、特に1221日のチャウシェスクの演説から22日のチャウシェスク夫妻の逮捕までの36時間程の短い間にごく普通の人たちが「機転を利かせてよくもまあこうもうまく対処できたものだ」という感じがしたのだ。
1216日以降のテイミショアラでの暴動の様子を外国からのラジオ放送や口コミで知って以来、「反政府」行動が国民規模の意思になりつつあったような気がする。そこへ1221日のチャウシェスク大統領の演説が生で全国向けに放送された。ブーイングが起こり演説を中断せざるを得なかったチャウシェスクの姿があった。この時、一般国民の間では「これが潮時」といった意識が一気に強まったのではないか。

あの演説の翌日にはごく普通の人たちが上述のような具体的な行動をとったのだ。ヘリの操縦士は外部との通信手段を持っているから軍隊や警察と連絡することができたであろう。しかし、たまたま現場を通りかかり、チャウシェスクのセクリタ-テに路上で急遽止められた人たちはそういう環境にはなかったはずだ。それでも、それぞれの市民がああいった行動をとったのだ。軍隊が自分たちの味方になっているという安心感、あるいは、確実にそうなるだろうという期待感が皆の心の支えになっていたに違いない。当事者に会うことができるならば、「当日、自分としてはどの程度確信があってあのような行動をとったんですか?」とたずねてみたい。
また、軍隊はチャウシェスク大統領が中断せざるを得なかった1221日の演説を見て、革命が起こることを確信したのではないかとも思う。

チャウシェスク大統領は外国からの借金を返済するために国内の消費を引き締め、輸出に力を入れたことがよく知られている。1982年、国家の独立を維持するために110億ドルの対外債務を1990年までに返済する旨が宣言された。ここから国民の窮乏生活に拍車がかかった。そして、この返済はチャウシェスクが処刑された1989年の夏には完了した。
 
時間軸を2012年の今に戻すと、EUでは借金の返済を履行することができなくなったギリシャの救済やらスペイン経済の破綻が喫緊の政治課題だ。1980年代のルーマニアと現在のギリシャやスペインあるいはアイルランドとの間には類似性がたくさんありそうだ。と同時に、多くの相違点もある。

そして、日本では国の借金がGDP比で世界で一番大きいと報告されている。これから日本では何が起こるのだろうか。

共通して言えることが少なくともひとつある。それは国の運営を誤った時一番苦労をさせられるのは国民だということだ。最後には、間違いなく、我々一人ひとりの問題として跳ね返ってくる。
日本では1216日に衆議院選挙が行われる。悔いを残さない投票をしたいものだ。



 ホテル・インターコンチネンタル

大学広場の北側にはブカレスト市のランドマーク的な存在であったホテル・インターコンチネンタル(25階建て、高さ77m)が建っている。このホテルは1971年にオープンしたものだ。

写真の左側には路上の古本屋さん、そして、左の建物はブカレスト大学の本館の一部、右側前方には地下交差点へ通じる降り口、右側後方には国立劇場の建物が見える。長い間ブカレスト市のランドマークであったこのホテル・インターコンチネンタルも今年竣工した新しいオフィス・ビル、「スカイ・タワー」(34階建て、高さ137m)にその地位を譲ることになった。
ブカレストは今急速な変化をしている。

プラタナスの樹に見入る男の子。チシミジウ公園にて。
 
街の中心地には大きな公園がある。チシミジウ公園だ。1847年に始まったというから、この公園は今165歳だ。中を歩いてみると、この公園がかなり古いことが直ぐに分かる。直径が1メートル半もあるようなプラタナスの大木を目にすれば、それは一目瞭然だ。上を見上げると大きな枝が何本も横に広がって巨大な天蓋を形成している。高崎から長野へ行く際、碓氷峠の旧国道をしばしば走った。さまざまな樹木に囲まれ、曲がりくねった道路が結構楽しかったからだ。その途中には栃の木の大木がある。そこでよく小休止したものだ。あの栃の木よりも一回りも二回りも大きいのだ。こんなどでかいプラタナスの木は見たことがない。これらのプラタナスの木がこの公園の履歴書そのものだと言えようか。
 
在ブカレスト日本人学校での秋祭り
 
先生と生徒さんたち
 
在ブカレスト日本人学校で秋祭りが開催された。旧日本人学校とは違って、新校舎は大きくなった。また、校舎の周りに広がる芝生の空き地はこういった催しには格好の空間を提供してくれる。この日は初秋の好天に恵まれ、催し物にはもってこいだった。子供たちや父兄の皆さん、先生方を始めたくさんの人たちが集まり、盛況な秋祭りだった。
 
樫の木の紅葉。テタン公園。
 
黄色に染まったこの樹木は何だろうか?
 
ブカレストの近辺では秋の紅葉は主として黄色系と茶色系にとどまる。残念ながら真っ赤に染まる紅葉は山間部へ入らないとお目にかかれない。この日(117日)、青空を背景に樫の木を見上げた。茶色の中にわずかながらも赤みを帯びた葉を観察することができた。
水面に茶色の影を落とす樹木はヌマスギ、メタセコイアの仲間。中央後方には教会の屋根。テタン公園にて。
 
水鳥に餌をやる親子連れ
 
 
散策する人たち
 
秋の装いとなったテイタン公園では、この日も老若男女の市民が散策を楽しんでいた。鴨やかもめ、白鳥や黒鳥に餌をやって子供たちを楽しませている親たちがいた。
そこにあるのはささやかなものかも知れないが両手にいっぱいの幸せを感じさせる平和な日常だ。
ブカレストの特徴は居住空間にかなり近い場所に大きな緑地が設けられている点だ。公園はもとより、大きな通りの歩道は並木で覆われ、アパートの建物の間の二車線程度の細い道路にも街路樹がふんだんに配されている。建物間の空間にも樹木が多いので、四季を通じて目を楽しませてくれるのがありがたい。
ブカレストには魅力的な風景がたくさんある。それらの多くはこのブログには収録されてはいない。さらに写真がたまった時、ブカレストの街をまた歩いてみたいと思う。