2012年12月4日火曜日

ブカレストの街を歩く(後編)


「ブカレストの街を歩く」の後編です。


大学広場に通じるレジーナ・エリサベ-タ通り。立像が二体見える。

大学広場の付近では路上の古本屋さんにお目にかかる。通りにはトロリーバスが行き交う。

大学広場はルーマニア革命の際はデモの参加者が集合した場所のひとつだ。銃撃戦が最も激しかったのはアテネ音楽堂や国立美術博物館前の「革命広場」付近だったと言われているが、この大学広場でも死者がたくさんでた。革命があったと言われているが、実質的にはクーデターだったと言う人もいる。
知り合いのタクシーの運転士さんも当時の話をしてくれた。通りに銃撃を受けて怪我をしている人がいたので、助け出そうとしたのだが、通りに人影が現れると何処からか闇雲に銃撃してくるので、怪我人の側へ辿りつくことさえもできなかったという。無茶をしたら、自分が狙撃されるかも知れないという恐怖.... あの数日間はまったく混沌とした状態であった。

革命前、ルーマニア共産党の本部が入っていた建物

この建物の前の広場は今は「革命広場」と呼ばれている。1989年の革命前は「宮殿広場」といった。1221日、この広場には、「出てこないと首だぞ!」と脅されて、市中の大きな企業から10万人もの労働者が駆り出されて、この広場での人民集会のために集まったと言う。

チャウシェスク大統領は宮殿広場に面する党本部の建物のバルコニーから演説を始めた。しかし、演説を始めて1分半もすると聴衆のざわめきや罵声、口笛が起こった。チャウシェスク大統領は演説を中断せざるをえなかった。「同士諸君、静かに!」と、何度も繰り返した。エレナ婦人も「静かに!」と何度も叫んだ。
この演説では最低賃金の値上げや、年金の値上げ、子供手当てや生活保護費の値上げ等を伝え、チャウシェスク大統領は人心を何とか掌握しようとしていた。しかし、10年にもわたって困窮生活を強いられてきた民衆の気持ちは共産党やチャウシェスクから完全に乖離しており、チャウシェスクは民衆の胸の内を正確に読むことはできないままでいた。この演説は生放送でルーマニア全土に放送されていた。

ヘリで共産党本部のビルから脱出するチャウシェスク大統領夫妻(ウィキペデアから)


翌日(1222日)の正午前に、大統領夫妻はビルの屋上から専用のヘリコプターを使って脱出。スナゴフへ到着した後、チャウシェスクはヘリの操縦士にテTitu)へ向かうように命じた。テの近くで、マルタン(操縦士)は機体を上下に揺すって、「地上から対空砲火を浴びたので回避行動を取った」と嘘をついた。チャウシェスクはパニック状態に陥り、直ちに着陸するように命じたという。マルタンは大統領の命令にしたがって着陸した。そこはピテスチに通じる古い道路だった。乗り合わせていたセクリターテ(秘密警察)が通りがかりの車を止めたが、一台は営林署の職員、もう一台は地元の医者だった。この医者はチャウシェスクを乗せてしばらくは車を走らせていたが、突然起こったこの状況に深入りをしたくはないので「エンジンの故障だ」と言って嘘をついた。セクリターテが次に停車させた車は自転車の修理屋だった。彼は皆をトルゴヴィシュテへ案内した。この運転手(ニコラエ・ペトリショール)は町の外れにある農業試験場だったら問題なく隠れていられると言って、皆を説得した。農業試験場へ到着すると、試験場長がチャウシェスク夫妻を一室へ案内した。そして、その部屋の鍵をかけてしまった。彼らは午後3時半に地元の警察によって逮捕された。その後、トルゴヴィシュテの守備隊へ移され、二人はそこで軍事法廷を待つ身となった。(ウィキペデアから
 

ここで、一連の動きの中でも最初の段階に関してもう少し詳しくおさらいをしておきたい。下記の内容もウィキペデアからのものだ。
ルーマニア革命はルーマニア西部の人口が約30万人の都市、テミショアラで1216日に起こった暴動から始まった。

その年の7月、ハンガリー系の牧師で反体制派のラスロ・テケシはハンガリーのテレビ局のインタビュ-で政府が行っている都市計画を批判した。それに対して、政府はテミショアラで副牧師を務めるテケシを田舎の教会へ左遷しようとし、彼が教会のアパートを使用することを禁じた。教区民はテケシの家の周りに集まり、彼に対する嫌がらせや左遷に対して反対し、彼を防護しようとした。これを見て、通行人や宗教心が強い学生たちも加わった。群集が立ち去ろうとはしないのを見て、テミショアラ市長はテケシを左遷することは反故にしたとほのめかした。群衆は市長に対して文書による声明を要求し、群集の間からは反共産党の大合唱が沸き起こった。警察とセクリターテが召集された。夜の7時半には群集は散会。この時点で、発端となったテケシの左遷のことはもうどうでもよくなり、新たな政治的な動機が表面化し始めた。反対派の幾人かはルーマニア共産党の地方支部が入っている事務所を焼き払おうとした。セクリターテは催涙弾で対応し、何人もが逮捕された。暴動は夜9時頃には沈静化した。
翌日(1217日)も暴動は続いた。暴徒は共産党の地方支部に入って書類やチャウシェスクの写真、宣伝用パンフレット、チャウシェスクの書物、共産党に関連するものを何でも窓から放り出した。暴徒の行動は軍隊の介入によって阻止された。暴動の規模が大き過ぎてセクリターテや警察の手に負えなくなっていたのだ。軍隊の出動とは、つまるところ、最高司令官であるチャウシェスクの命令があったということを意味する。しかし、軍隊は暴徒を完全にコントロールすることには成功しなかった。午後8時、自由広場からオペラ広場にかけて激しい銃撃が起こった。タンクやトラックあるいは装甲兵員輸送車が市へ入る通りを封鎖し、ヘリコプターが上空を旋回した。

1218日、市長は党の会議を招集し、前日の破壊行為を非難し、戒厳令を宣言した。3人以上のグループ行動を禁止したのだ。これに反抗して、約30人がオーソドックス聖堂へ向かい、聖堂で共産党の紋章を切り抜いたルーマニア国旗を振りまわし、1947年以降禁止されていた前の国歌、「目覚めよ、ルーマニア人たちよ!」を歌った。銃撃が起こり、死傷者が出た。
1219日、ラド・バランとステファン・グシャは市の工場にいる労働者たちを訪ねようとしたが、工場に辿りつくことさえできなかった。

1220日、膨大な数の労働者がテミショアラへ入ってきた。約10万人がオペラ広場(現在は勝利広場と改名されている)を埋め尽くした。そして、反政府の歌が始まった。「我等が人民!」、「軍隊は我々の味方!」、「恐れるな、チャウシェスク政権は崩壊する!」 
エレナ・チャウシェスクの命を受けて、共産党中央委書記のエミール・ボブと首相のコンスタンチン・ダスカレスクは現状を解決するために現地へ急行。彼らは反体制派の代表団と会い、殆どの逮捕者を釈放する約束をしたが、主要な要求(チャウシェスクの退陣)は拒否した。状況は何も変わらなかった。

翌日(1221日)、オルテニアの工場労働者が汽車でテミショアラに到着した。政府側の狙いはこれらの労働者を使って暴動を治めることだ。しかしながら、労働者は最終的に反政府側についてしまった。一人がこう言った。「昨日、工場のボスと党職員が我々を庭に集め、我々に木製の棍棒を渡しながら、ハンガリー人や暴徒がテミショアラを破壊しようとしている。現地へ出かけ、暴徒を鎮圧するのが我々の使命だ言われた。 しかし、ここへ来てみると、あれはまったくの嘘っぱちだということが分かった。」
全国規模で見ると、ミショアラでの暴動に関しては国営テレビでは何も報道されてはいなかった。しかし、多くの人たちはヴォイス・オブ・アメリカや自由ヨーロッパといった西側のラジオを通じて、あるいは、口コミで真相を知っていた。1220日の時点で、政府側は翌朝人民集会を開くことにした。これは、1968年のワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアへ侵攻した当事チャウシェスクが反論し、国民の支持を受けた時の状況を模して、チャウシェスクを支える自然発生的な動きを作り出そうとする試みであった。
 

1221日のチャウシェスク大統領が演説を中断せざるを得なかった時の様子はすでに述べた通りだ。
ブカレストではその日(1221日)多くの犠牲者が出た。死亡者も出た。一台の装甲兵員輸送車がホテル・インターコンチネンタル前の群集に突っ込み、群集を蹴散らした。フランスからのジャーナリスト、ジャン・ルイ・カルデロンが死亡した。後に、大学広場近くのひとつの通りとテミショアラのある高校は彼の名をとって、「ジャン・ルイ・カルデロン通り」および「ジャン・ルイ・カルデロン高等学校」と命名された。激しい銃撃が夜中の3時頃まで続いた。

チャウシェスクは暴動を抑えることに成功しつつあると読んでいたようだ。
彼は1222日の朝には2回目の人民集会を召集しようとさえ考えていた。しかし、22日の朝7時前、大統領の妻エレナは数多くの労働者たちが反政府デモに加わろうとして、ブカレストの中心地へ向かっているとの情報を受けとっていた。大学広場や宮殿広場に警察が築いたバリケードはひとたまりもなかった。午前9時半、大学広場は反政府派の群集で埋まった。治安維持部隊が再度中心部へ入ってきた。しかし、彼らは反政府側に合流した。

1222日の朝9時半頃、チャウシェスクの国防大臣、ワシレ・ミレアが不振な死を遂げた。チャウシェスクの声明文によると、「ミレアは国家に対する謀反のかどで追放された。自分の反逆が明らかとなり、彼は自殺した。」 当事、広く知られていた見方によると、その日の朝タンクを市の中心部へ配置したとは言え、ミレアはチャウシェスクの命令にしたがってデモの参加者に向けて発砲することには躊躇していた。一般の兵隊たちはミレアは殺害されたと信じていた。兵士たちは実質的に集団で革命に向かっていた。上級の将校たちも兵士たちに対して政府に忠実であれと強制しようとはしなかった。こうして、チャウシェスクが権力にとどまる望みはすべてが消えた。
ミレアの死を知って、チャウシェスクは後任にヴィクトル・スタンクレスクを国防大臣に任命した。スタンクレスクはチャウシェスクには分からないように部隊はそれぞれの宿営地へ戻るように命令した。そればかりではなく、チャウシェスク大統領にはヘリコプターで脱出するように説得した。同時に、怒り狂った群集は共産党本部を襲い始めた。スタンクレスクと兵隊たちは群集に立ち向かおうとはしなかった。

1216日に始まったルーマニア革命では1,104人が亡くなった。殆どのケースはテミショアラ、ブカレスト、シビウおよびアラドで起こったものだという。(以上、ウィキペデアから
 
当事の状況を考えてみるといささか不思議な感じもした。そんな思いがあったので、ウィキペデからの引用を掲載し読者の皆さんと情報を共有したいと思った次第だ。

私の印象では、特に1221日のチャウシェスクの演説から22日のチャウシェスク夫妻の逮捕までの36時間程の短い間にごく普通の人たちが「機転を利かせてよくもまあこうもうまく対処できたものだ」という感じがしたのだ。
1216日以降のテイミショアラでの暴動の様子を外国からのラジオ放送や口コミで知って以来、「反政府」行動が国民規模の意思になりつつあったような気がする。そこへ1221日のチャウシェスク大統領の演説が生で全国向けに放送された。ブーイングが起こり演説を中断せざるを得なかったチャウシェスクの姿があった。この時、一般国民の間では「これが潮時」といった意識が一気に強まったのではないか。

あの演説の翌日にはごく普通の人たちが上述のような具体的な行動をとったのだ。ヘリの操縦士は外部との通信手段を持っているから軍隊や警察と連絡することができたであろう。しかし、たまたま現場を通りかかり、チャウシェスクのセクリタ-テに路上で急遽止められた人たちはそういう環境にはなかったはずだ。それでも、それぞれの市民がああいった行動をとったのだ。軍隊が自分たちの味方になっているという安心感、あるいは、確実にそうなるだろうという期待感が皆の心の支えになっていたに違いない。当事者に会うことができるならば、「当日、自分としてはどの程度確信があってあのような行動をとったんですか?」とたずねてみたい。
また、軍隊はチャウシェスク大統領が中断せざるを得なかった1221日の演説を見て、革命が起こることを確信したのではないかとも思う。

チャウシェスク大統領は外国からの借金を返済するために国内の消費を引き締め、輸出に力を入れたことがよく知られている。1982年、国家の独立を維持するために110億ドルの対外債務を1990年までに返済する旨が宣言された。ここから国民の窮乏生活に拍車がかかった。そして、この返済はチャウシェスクが処刑された1989年の夏には完了した。
 
時間軸を2012年の今に戻すと、EUでは借金の返済を履行することができなくなったギリシャの救済やらスペイン経済の破綻が喫緊の政治課題だ。1980年代のルーマニアと現在のギリシャやスペインあるいはアイルランドとの間には類似性がたくさんありそうだ。と同時に、多くの相違点もある。

そして、日本では国の借金がGDP比で世界で一番大きいと報告されている。これから日本では何が起こるのだろうか。

共通して言えることが少なくともひとつある。それは国の運営を誤った時一番苦労をさせられるのは国民だということだ。最後には、間違いなく、我々一人ひとりの問題として跳ね返ってくる。
日本では1216日に衆議院選挙が行われる。悔いを残さない投票をしたいものだ。



 ホテル・インターコンチネンタル

大学広場の北側にはブカレスト市のランドマーク的な存在であったホテル・インターコンチネンタル(25階建て、高さ77m)が建っている。このホテルは1971年にオープンしたものだ。

写真の左側には路上の古本屋さん、そして、左の建物はブカレスト大学の本館の一部、右側前方には地下交差点へ通じる降り口、右側後方には国立劇場の建物が見える。長い間ブカレスト市のランドマークであったこのホテル・インターコンチネンタルも今年竣工した新しいオフィス・ビル、「スカイ・タワー」(34階建て、高さ137m)にその地位を譲ることになった。
ブカレストは今急速な変化をしている。

プラタナスの樹に見入る男の子。チシミジウ公園にて。
 
街の中心地には大きな公園がある。チシミジウ公園だ。1847年に始まったというから、この公園は今165歳だ。中を歩いてみると、この公園がかなり古いことが直ぐに分かる。直径が1メートル半もあるようなプラタナスの大木を目にすれば、それは一目瞭然だ。上を見上げると大きな枝が何本も横に広がって巨大な天蓋を形成している。高崎から長野へ行く際、碓氷峠の旧国道をしばしば走った。さまざまな樹木に囲まれ、曲がりくねった道路が結構楽しかったからだ。その途中には栃の木の大木がある。そこでよく小休止したものだ。あの栃の木よりも一回りも二回りも大きいのだ。こんなどでかいプラタナスの木は見たことがない。これらのプラタナスの木がこの公園の履歴書そのものだと言えようか。
 
在ブカレスト日本人学校での秋祭り
 
先生と生徒さんたち
 
在ブカレスト日本人学校で秋祭りが開催された。旧日本人学校とは違って、新校舎は大きくなった。また、校舎の周りに広がる芝生の空き地はこういった催しには格好の空間を提供してくれる。この日は初秋の好天に恵まれ、催し物にはもってこいだった。子供たちや父兄の皆さん、先生方を始めたくさんの人たちが集まり、盛況な秋祭りだった。
 
樫の木の紅葉。テタン公園。
 
黄色に染まったこの樹木は何だろうか?
 
ブカレストの近辺では秋の紅葉は主として黄色系と茶色系にとどまる。残念ながら真っ赤に染まる紅葉は山間部へ入らないとお目にかかれない。この日(117日)、青空を背景に樫の木を見上げた。茶色の中にわずかながらも赤みを帯びた葉を観察することができた。
水面に茶色の影を落とす樹木はヌマスギ、メタセコイアの仲間。中央後方には教会の屋根。テタン公園にて。
 
水鳥に餌をやる親子連れ
 
 
散策する人たち
 
秋の装いとなったテイタン公園では、この日も老若男女の市民が散策を楽しんでいた。鴨やかもめ、白鳥や黒鳥に餌をやって子供たちを楽しませている親たちがいた。
そこにあるのはささやかなものかも知れないが両手にいっぱいの幸せを感じさせる平和な日常だ。
ブカレストの特徴は居住空間にかなり近い場所に大きな緑地が設けられている点だ。公園はもとより、大きな通りの歩道は並木で覆われ、アパートの建物の間の二車線程度の細い道路にも街路樹がふんだんに配されている。建物間の空間にも樹木が多いので、四季を通じて目を楽しませてくれるのがありがたい。
ブカレストには魅力的な風景がたくさんある。それらの多くはこのブログには収録されてはいない。さらに写真がたまった時、ブカレストの街をまた歩いてみたいと思う。
  


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