2021年4月4日日曜日

われわれは何かを知ることはないだろうとあんたは思っている。ね、そうだろう?

BBC(英国放送協会)は長年世界のジャーナリズムを牽引して来た。私が個人的に感銘を受けて来たのはBBCが提供した数々のドキュメンタリーの分野である。政治の分野においてBBCがどれだけ貢献して来たのかについて言えば、私がノンポリであった昔のことについては何も言えないが、少なくとも直近の「ポスト・モダーン」時代のBBCは、学校で教えられたジャーナリズムの中核的な使命から判断すると、英国政府の低迷と弧を一にして凋落の一途を辿っているように見える。残念なことではあるが、国営放送局の宿命であろう。

ここに、「われわれは何かを知ることはないだろうとあんたは思っている。ね、そうだろう?」と題された記事がある(注1)。BBCのことを書いたものである。しかも、BBC内部の著名な人物が作成した一本のドキュメンタリーが論考の対象である。

本日はこの記事を仮訳し、読者の皆さんと共有しようと思う。

昨今の西側のメディアは偏向しているとしばしば言われている。しかも、その傾向は強くなるばかりだ。BBCはかっては国際的にも群を抜いて指導的な地位を保っていたが、恐らくは今でもそう思っているのではないか。BBCの現状を少しでも多く知ることができれば、われわれ一般庶民にとっては国際政治を理解する上で有益であろうと思う。

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6部に分かれ、7時間を超すドキュメンタリー(題名:「あなた方のことは自分の念頭から消すことができない - 現代世界の感情的な歴史」)の中で著名なドキュメンタリー制作者であり、BBCのために何十年にもわたって仕事をして来たアダム・カーティスは「今や何の意味も成さず、物事が起こる理由を理解しようとしてもまったく意味がない」と言う。われわれの理解には極めて顕著な変化が起こっていると冒頭で述べ、彼は断片的で無知な現代的精神を紹介する作業へと移行する。彼はBBCのアーカイブから際限もなく動画映像を取り出して来るのであるが、それらはあるひとつのテーマから何の脈絡もない他のテーマへと次々と跳躍する。この状況こそが彼が指摘したい点なのだ。

視聴後の感想を担当するガーディアン紙のルーシー・マンガンはそのことを認め、「このドキュメンタリーは素晴らしい。圧倒されるような経験を与えてくれる」と書いている。まったくその通りだが、それは彼女が五つ星を与えようと考えたからではない。このドキュメンタリーは確かに素晴らしいし、見事である。だが、それは人々をひどく困惑させるという意味においてもそうなのだ。あるいは、魔力を持っているとも言える。しかし、それは何の目的のためであろうか?

カーティスは今や何の意味も成さないと言う。つまり、われわれは誰もが「LSDによって幻覚症状を起こしている」かのように生きている。世界ではいったい何が起こっているのかに関してわれわれが何かを知ることは決してないだろうと彼は言う。なぜならば、そこには何の論理もないからだ。われわれの脳は断片的な記憶、一塊になった映像、偏執狂的な考え、等に襲われる。その様子はまさに感情を交えずにカーティスが事実を語ろうとする映画を観ているようなものである。彼にとっては自分は冷静であるが、他の連中は大バカ者ばかりだと言う必要はまったくない。これは権威を持った声が大騒ぎの中で静かに主張する時の男のスタイルなのだ。極めてBBC的である。

「すべてが相対的だ」が基本的なメッセージとなっている。ただ、これは、「すべてが相対的であるという主張を除いて、すべては相対的である」というポスト・モダーン的なミームにおける矛盾に関してカーティスが十分に説明することは怠ってしまったことは除いた上での話だ。それは絶対的でさえある。ある者たちは理解しており、他の者たちは理解してはいない。次の動画へ進もう。 

「何処を見ても何の意味も成さない世界では何でも起こり得る」ことに関して、衝動的なまでにこまごまに分断された懐疑心を持ちながら彼が寄せ集めたフィルムを観た後、私はある著名な哲学者が「純粋恐怖批判」の中で書いていた事柄を思い起した。

如何なる哲学であってもそれを形にする際に念頭に浮かぶ最初の考えは決まって次の点だ。つまり、「われわれはいったい何を知ることができるのか」という点。すなわち、われわれが知っていると確信できるのはいったい何か、あるいは、仮にそのことを知ることが出来るとするならば、それを知っていると確信することができるのはいったいどんな点かということだ。あるいは、単にそれをすっかり忘れてしまって、そのことについて何かを言うことは余りにも気恥ずかしいと感じるのであろうか?デカルトは「私の心は私の脚とは極めて友好的ではあるのだが、私の心は私の体を決して認識することはできない」と書いて、この問題にヒントを与えてくれた。 ところで、「知ることができる」という言い方は、物事は知覚によって知ることができるとか、知性によって把握することができると言っているわけではない。むしろ、既知のこと、あるいは、すでに知られていること、これから知ることができること、少なくとも、あなたが友人と一緒に喋り合うことができるような事柄を私は指している。

私は自分の頭の中からカーティスの表題が示しているような重要な言葉を絞り出すことには成功しなかった。なぜならば、それらは過去の半世紀またはそれ以上にわたって何時も基本的なこととされていた時代精神、つまり、われわれの時代についての神経症的な懐疑心を伝え、言葉には表されないメッセージを捉えているかのようであった。カーティスの威厳とは違って、少なくともウッディ・アレンには笑わされるのである。

カーティスは真面目な人物である。パート1で彼が真面目にわれわれに伝えようとして、ニューオールリーンズ地方検事のジム・ガリソンはジョン・ケネディ大統領の暗殺に関して裁判を起こそうとしたただ一人の人物であったが、彼は論理にはまったく欠けていたと言う。何時のことであったか彼は部下に向かってメモを書き、非論理的に物事を考えよ、「時と近親者」に基づいたパターンを見つけ出すよう求めたと述べ、カーティスはガリソンは不可思議なパターンが何も存在しない所にひとつの不可思議なパターンを見い出そうとする、気の狂った陰謀論者であると見なすよう望んでいる。これは米国社会の真正面の背後には極秘裏に社会を操ろうとする勢力が存在することをあなた方に納得させるためにも、あれこれと寄せ集め、切り刻み、それらを貼り付け、まったく関係のない事実を繋ぎ合わせて陰謀論を作り出そうとそうとしたガリソンを気の狂った人物として描写しているのである。

CIAのエージェントやメディア界の従犯者に向けて評論家をからかうには陰謀論とか陰謀論者といった文言を使用するようにと呼び掛けたCIAの有名なメモをオーム返しに繰り返して、カーティスは極めて厳かに視聴者に語るのである。そのような気の狂った陰謀論や彼らにそれを伝える手法、および、事象の背後には隠密行動をする勢力が存在し、やがては現代精神に影響を与えるようになるであろうと言う。ガリソンの思考のほとんどは妄想に過ぎなく、彼が主張することには何の証拠さえももたらすことはなかったと彼は言う。換言すると、リー・ハーヴェイ・オズワルドがケネディを殺害したのであって、CIAではない。

この主張は実際には虚偽ではあるのだが、このドキュメンタリーのその後に続く五つのパートの基礎となっている。そして、ドキュメンタリー全体はまったく同様な切り貼り手法を用いて構成されており、「時と類似性」ならびにポストモダーン時代の人たちに喜ばれそうな寄せ集めやコラージュを駆使して、ガリソンは論理や意味が欠如した手法を用いたとしてカーティスは批判している。

これはウッディ・アレン流の冗談ではない。

カーティスが世界中を網羅し、何年にもわたる時の壁を乗り越えて非常に興味深い歴史的なフィルムを見つけ出し、それらを提示してくれたことに関しては私は何の疑いも持ってはいない。彼は如何にして視聴者に訴えるか、如何にして視聴者を恐怖や被害妄想の経験の中へ感情的に、あるいは、夢の中で引き込んで行けるかをよく知っている。このドキュメンタリーを観ていると、周囲には壁が迫って来るのを感じ、闇の中で恐ろしい惨事が起こるかも知れないとの恐怖に駆られることであろう。それは誰もがコントロール下に居るのではなく、コントロール下に居るという概念そのものは妄想に過ぎないからだ。あなた方は何も知ることはない。あなた方は何も知ることはない。何もかもが相対的だ。 

ところで、彼のドキュメンタリーには学び取ることがたくさんある。しかし、文脈がすべてであり、これを視聴するために過ごす何時間にも及ぶ時間は、彼の「感情的歴史」を作家のジョージ・トラウが述べた「文脈がない文脈」に結び付けるためにカーティスがふたたびパート1に舞い戻って来る時、視聴者はパート6へと導かれる。われわれはカオスや複雑さに関する理論、人工知能、複数の自分、麻薬、神経学者や精神分析の専門家らはどうして意識は存在しないと主張するのか、個人主義の時代の中にあってわれわれはそれぞれが個人である、等々を思い浮かべるけれども、誰もがそう信じ込まされているに過ぎないことを学ぶ。デジタルの時代においてわれわれはガリソンが50年前に行っていたことを今そのまま行っているのだ。ただ、今は彼らがインターネット上のデータのパターンから陰謀論をでっち上げ、すべてが狂気の様相を見せている。

余談ではあるが、2001911日のテロ攻撃についてカーティスは「誰も予期してはいなかった」と言う。もちろん、よく知られ、よく確認されているように、米国政府は正真正銘の奇襲攻撃を受けたわけではなく、これは真っ赤な嘘ではあるのだが、カーティスの主張は何が起こるのかに関しては誰も何も知らなかったし、誰も知らないことであるという主張をさらに強化するものであり、無能振りが世間の新しい標準的な状況となり、「何かを意味することは何もない」のであって、まさにJFKの暗殺についてそうであるように、911テロ攻撃に関する公的な筋書きは正しいのである。事件が起こった当初その案件を捜査しようとした人物であった当のジム・ガリソンは不可思議な偶然の一致を信じ込んでいる変人であった。そして、点と点とを結ぼうとする彼の気が狂ったような手法こそが、今日、われわれの世界をすっかり包んでしまっている。

彼がわれわれを現代に連れ戻す時、カーティスはわれわれにこう告げる。「新型コロナは完全に権力システムの外部からやってきたものだ。」もちろん!そのまったく逆を示す証拠がふんだんにあるにもかかわらず、われわれは支配層のエリートたちが機会に翻弄されながらも彼らはコントロール下にあると考える。いや、そうではなく、これはわれわれの勘違いに過ぎない。大失敗が起こる。世界中のエリートたちは如何に腐敗しているか、自分たちの権力を維持するために彼らは如何にしてあらゆる種類の詐欺行為を行うのか、つまり、如何にそういった陰謀を巡らすのかを示すためにカーティスは何時間も費やした後に、陰謀論は存在しないとわれわれに告げる。存在し、かつ、存在しない。われわれはジレンマに満ちた狂気の世界に陥っている。「意味を成すことは何もないことから、何事でも何かになり得る世界であるのだ。」

このことはこのフィルムにも適合し得ると私は思う。だが、そうではなくて、これは実に意味が深い。つまり、絶妙なプロパガンダがそうであるようにね。 

ウッディ・アレンは実に面白くなり得るが、カーティスは彼自身非常に可笑しい。われわれは自分たちが陥った悪夢の世界に住んでおり、囚われの身になっているという感覚は自分の頭の中から消し去ることができず、われわれは皆が気が狂ってしまうのだと7時間以上にもわたってわれわれに告げてから、彼は冒頭での言い回し、つまり、人類学者のデイビッド・グレーバーの言葉を繰り返して、終わりにするのである: 

世界に関して言えば、秘められた最終的な真実はわれわれが作り上げる何かである。いとも簡単に違った風に作り上げることさえもが可能である。

本当だろうか?私はそんなことは聞いたことがない。あんたは聞いたことがあるかい?

著者のプロフィール:エドワード・カーティンは独立した執筆者であって、彼の著作は何年にもわたって広く刊行されて来た。彼のウェブサイトはedwardcurtin.com で、新著の表題は「Seeking Truth in a Country of Lies」。

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これで全文の仮訳が終了した。

著者のエドワード・カーティンは英国人である。正直に言うと、わたしにとっては英国人の英語は理解が難しいことが時々ある。米国人の英語とは違って、英国人の英語には独特のひねりが施されていることが多いからだ。この著者の文章もひとつの文章を読む時大きな文脈を意識していないと真逆の概念に到達し、何を言ってるんだろうと困惑させられることがあった。

今の世相、特に国際政治の世界を捉えようとすると、「すべてが相対的だ」、「意味を成すことは何もないことから、何事でも何かになり得る世界である」、「文脈がない文脈」、等がまさに今の世界をもっとも適切に表わしている形容詞なのである。こう言われてみると、論理がないこの世界では実に不可思議な事柄がBBCCNN、ニューヨークタイムズ、ウオールストリートジャーナル、あるいは、日本ではNHKや朝日、毎日、等といった主流メディアから大手を振って喧伝されているという現実になぜか納得させられる自分を発見するのである。しかし、その納得の正体は決して安堵感ではなく、諦めの境地に極めて近い。

例を挙げれば切りがないのであるが、いくつかの歴史的事実を拾ってみよう:

JFKの暗殺者は単独犯行者であるオズワルドだ。

9-11同時多発テロ事件の犯人はアルカイダ系のテロリストだ。

世界貿易センタービルが崩落した主な要因は激突した旅客機が引き起こした火災である。

イラクのサダム・フセインは大量破壊兵器を持っていた。

シリアのアサド大統領は化学兵器を使って自国民を殺害した。

マレーシア航空のMH17便を撃墜したのはロシアだ。

スクリッパル親娘の殺害未遂事件ではロシアの軍事用神経ガス「ノビチョク」が使われ、それを使ったのはロシアの諜報機関の関係者だ。

ロシアは米大統領選に干渉し、クリントンを敗退させ、トランプを勝利に導いた。

米連邦議会に押し入った暴徒らはトランプ前大統領の演説の内容に基づいて暴動を引き起こした。


これらの主張はいずれも「文脈がない文脈」で構成されていることがよく分かる。

ただ、ここに例に挙げた事柄は氷山の一角に過ぎないとも言える。この現実を考えると、われわれが住んでいる今の世界が如何に不可思議な世界であるかがよく分かるというものだ。実はこの状況はわれわれが認識し得る「今の世界」だけに限られるわけではない。西欧諸国が植民地経済を展開して来た数百年間もの世界も同様の状況にあったと私は言いたい。さらには、キリスト教が西欧世界に君臨していた中世においても同様な構造が連綿とつづいてきたのだとも考えられる。素人特有の大胆さから一言で言えば、これは人間性が金儲けや権力欲によってハイジャックされた結果到達した世界である。私は現在の世界を完全否定する積りは毛頭ない。しかしながら、残念なことには今の世界は99パーセントにとってはどう見ても不完全で、良心あるいは人間性によって支配されているわけでは決してないのだ。

参照:

1You Know “We’ll Never Know,” Don’t You?: By Edward Curtin, Information Clearing House, Mar/17/2021





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