2021年9月18日土曜日

パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」と彼に与えられたノーベル賞 ― これはCIAの作戦であった

 

私が若かった頃、冷戦という東西の対立構造は延々と続いていた。鉄のカーテンの向こう側に隠されているソ連に関係する出来事はことごとく謎めいているように感じられたものだ。言うまでもなく、国際的な事件にはすべて直接・間接的にこの冷戦が投影されていた。朝鮮戦争、ハンガリー動乱、スエズ戦争、ベルリン危機、キューバ危機、プラハの春、JFK暗殺事件、べトナム戦争、ソ連のアフガニスタンへの侵攻、ソ連邦崩壊後の米国の干渉、等が挙げられる。そして、今は冷戦の第2章である。

1985年、ソ連ではゴルバチョフが共産党の指導者となり、停滞していた政治経済を抜本的に改革する路線を標榜した。世界史的に見て、彼の最大の功績は米国のレーガン元大統領と「核戦争は許されない、そこには勝者はいない。ソ連と米国は軍事的優位を志向しない」と約束を交わし、東西間の緊張を緩和することに貢献したことにあると思う。明確な政治的意欲がありさえすれば、冷戦さえをも終結できることを証明したのである。あちらこちらで戦争が終った。

1989年、ポーランドやハンガリー、チェコスロバキアはソ連式の共産党体制を破棄した。停滞した東ベルリンからの脱出を試みて合計で140人もの命が奪われた。あの悪名高い「ベルリンの壁」もついに崩壊。1989119日のことであった。政府による規制緩和の報を受けて、東ベルリンの市民は我先にと西側へ脱出した。その様子が世界中に放映された。一夜のうちに冷戦構造は劇的に変貌したのである。

当時東ドイツ側で警護に当たっていた警備員は「たとえ壁を作ったとしても、人々は必ずその壁を迂回する方法を見い出すものだ」と当時の様子を述懐している。また、ある歴史家は「後になって冷戦中の安定した東西間の秩序を懐かしく思い出す日が来ることであろう」とまで言ったが、当時の私にはその意味を的確に理解することはできなかった。しかし、世界の覇権国たる米国がその地位を失い始め、中国が台頭して、世界は間違いなく多極化に進んでいる。この新たな不確実性に満ちた今の世界を見ると、まさにあの歴史家が言った通りではないか!

ロシア人作家のパステルナークは1890年に生まれ、1960年に没した。彼は「ドクトル・ジバゴ」の著者として有名である。ノーベル文学賞を授与され、世界的な文学者として位置づけられている。多くの日本人は映画を通じて「ドクトル・ジバゴ」を知っている。私もその一人だ。

ここに、『パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」と彼に与えられたノーベル賞 ― これはCIAの作戦であった』と題された記事がある(注1)。

本日はこの記事を仮訳し、読者の皆さんと共有しようと思う。

冷戦は数々の不思議な出来事をもたらした。極端なまでに歪められた世界観が宣伝され、西側の一般大衆はそれを現実として受け入れ、毎日を生きるしかなかった。敵国の政府の転覆を目指してノーベル賞が活用された現実を伝えるこの引用記事は冷戦時の常軌を逸した思考をまざまざと伝えていると言えよう。

***

もしもあなたが自分は天才だと思っており、世界で唯一の人間であるとするならば、バリー・パースニップと言う名前を与えられることは気恥ずかしいに違いない。

ロバート・ヅィンマーマンはこのような命名の問題をうまく解決した。彼はボブ・ディランと名乗ったのだ。見たまえ、彼は2016年にノーベル平和賞を授与された。

Photo-1:(訳注:ロシア語では「Пастернак」と綴られ、「パステルナーク」と発音される。パステルナークとは英語ではparsnip、日本語でもパースニップで、これは野菜の一種である。この写真にあるように、ニンジンのような形状で、色は白っぽい。パースニップは私が住んでいるルーマニアでもパステルナーク(păstârnac)と称され、スープに入れる野菜のひとつとしてよく使用される。引用記事の著者はそんな野菜の名称が一家の姓として用いられている点を揶揄している。)

バリー・パースニップ(つまり、ボリス・パステルナーク)はこの問題を解決しなかった。しかし、この問題は彼のために英国や米国およびソ連の秘密警察の共同作業によって解決されたのである。さらには、オランダやイタリアからの支援も加わった。彼は1958年に小説「ドクトル・ジバゴ」でノーベル文学賞を授与された。その時点では母国語のロシア語であってさえもこの小説を読んだ人たちの数は政府高官たちを含めてもせいぜい千人強でしかなかった。受賞後現在に至るまでに約1千万人がこの小説を読んでいる。つまり、そのほとんどは翻訳言語の読者だ。

しかしながら、パースニップにとってもジバゴにとっても時間と数が物事を改善した訳ではない。ウラジミール・ナボコフが当初評したように、この小説は依然として「残念なことにはぎこちなく、陳腐で、メラドラマ的で、平凡な状況、官能的な弁護士、信じられないような女たち、ロマンチックな強盗、極めて陳腐な偶然の一致で満たされている」のだ。パステルナークの隣人であり仲間でもあったコルネイ・チュコフスキーはこの小説は「退屈で、平凡だ」と感じた。エフゲニー・ユフトウシェンコは「失望した」と言った。アンナ・アフマトヴァはパステルナークに面と向かってドクトル・ジバゴは「風景以外には」立派な小説とは言えないと言った。彼女は皮肉たっぷりであった。と言うのは、この小説には風景の描写なんてないのだから。

面と向かってではなく、ナボコフはパステルナークの急所、つまり、彼の虚栄心を突いた。ナボコフはパステルナークの構成は「甲状腺腫を患って、目玉が飛び出しているみたいだ」と評した。この描写は犠牲者の姿としては完璧なものであって、MI6CIAはソビエト政府を犠牲者パステルナークの訴追に追い込ませることさえできた。この作戦は「AEDINOSAUR作戦」と称され、西側が世界中で信じ込んで貰いたかったことはロシア人は標準的に言って悪党であって、世界中で誰もロシアにしがみ付こうなんて思わないという点であった。

パステルナークの物語で確かなことは、その物語が始まった当時も、そして、今でさえも、ロシア人には国内で如何に暴飲暴食し、侮辱されていようとも、自分たちに対しては国境を越えた愛が存在すると信じ込む用意があった。 

飾りっ気のない言い方をすれば、パースニップ、あるいは、パステルナークは米国人が彼らをそう呼んでいたように、「音域が貧しいジョニー・ワンノート」そのものであった(訳注:これはジュリー・ガーランドが歌う歌詞から由来している。その歌詞の和訳がインターネット上で入手できる。次のような具合だ。音域の貧しいジョニー・イチオン君、楽しそうに歌いあげると、その場をさらってしまった。音域の貧しいジョニー・イチオン君、とにかく声を張り上げた。顔が青くなるまで・・・)。
彼はモスクワの小さな一角をよく知っていた。そこはトウベルスカヤ通りがブレスト(今はベラルーシ)鉄道駅とぶつかる地域である。彼の郷里はペルミ地区のソリカムスク周辺を流れるカマ川の土手によって遮られていた。彼は脚に傷を負っていたことから軍隊には入隊することができず、第一次世界大戦をそこで過ごした。また、第二次世界大戦中はモスクワから東へ800キロ程離れたタタールスタン共和国のチストポリで比較的安全に過ごした。

Photo-2:左から右へレオニード・パステルナーク、ロザリア・カウフマン、26歳のボリス・パステルナーク。1916年の写真。

若い頃、彼は絵を描こうとしたが、肖像画家である父親のレオニード・パステルナークみたいには行かなかった。彼は音楽も試みた。しかし、彼は決してピアニストである母親のロザリア・カウフマンのように巧みではなかった。彼の両親のダーチャへお客としてやって来るアレクサンドル・スクリャーピンは大学での音楽と法律の勉学は止めて、哲学を勉強したらどうかと彼に勧めた。ドイツで一学期を過ごした後、彼は「ヘルマン・コーエンの理論哲学」と題した論文を書いて、卒業した。それから、彼は文学を職とすることに決めた。彼は夜会へ出かけ、そこで「象徴主義と不滅」といった表題で論文を発表した。

時は1913年、文学は有り余っていた。でも、パステルナークは他には何も知らなかった。彼は鳥やネコ、犬を追い掛け回すことはなかった。狩りにも釣りにも行かなかった。キノコ狩りにも出かけなかった。ウォッカやシャンペンも飲まなかった。カード遊びもしなかった。果樹園を耕すこともしなかった。乗馬もしなかった。車を運転することもなかった。女性に対して彼がちょっかいを出したのは要求を持ち出すことがない召使いや娼婦だけに限られ、自分の学生仲間は対象外であった。彼は大学のクラブには参加せず、政治的な抗議デモにも出かけなかった。1905年に起こった学生たちによる抗議行動とゼネストについての彼の自伝的な思い出としては彼の父親が描いた負傷した学生の絵や父親が当時マキシム・ゴーリキーと会っていたこと、「人っ気のない通りをヒュッと飛んでいく流れ弾」のこと、等であった。パステルナークはボーッとしていた。彼はボルシェビキ革命や内戦には加わらなかった。その後、彼の父母や二人の妹はベルリンへ移住し、さらに英国へと移った。

パステルナークは自分の体験から知っていることや彼が空想したことなどをほぼ5年毎に出版した。「Childhood of Luvers」は1922年に、「Safe Conduct」は1929年から1931年にかけて書き、「The Last Summer」は1934年に書いた。1956年には彼は自分の生涯の物語を要約したが、その際「初期の試みは気取った態度によって台無しとなった。あの頃の悪い癖だった」と彼は認めた。これはまさに年代物のパステルナークの言葉であった。責任は何時もどこか他所に存在した。

彼が物語を繰り返す時、パステルナークの経験の無さが彼の想像の中で次第に顕著になって行き、それは歪となって現れた。こうして、彼は混喩の達人となった。たとえば、猫が「エプロンと皿に羽ばたきをする。」ブルドッグは「垂れ下がった頬を持ち、涎を垂らしている年老いた小人のように」頭を持ち上げる。黒鳥は「詰まったフルートを吹くかのように」囀った。収穫前の畑のライムギは「不吉な暗い茶色で、古く、光沢のない金色」を呈していた。エンジンは「あたかも保育所のアルコールランプの上でミルクが沸騰するかのように、歌うようにゴボゴボと音を立てて」蒸気を吐き出す。雪はロシア人の写象主義者であれば誰にとってもまさに専門の分野となるべきものであるが、パステルナークにとっては雪は「何らかの白い狂気が発作的に大急ぎで降り注ぐ」のである。また、別の機会には、雪は「斜めに降り、あたかもいつも何かのための埋め合わせをしようとしているかのごとくに降る。」それから、再び、雪は「吹き溜まりの青い線を越して貪欲に太陽から注がれたパイナップルのような甘さを吸い取っていた。」

レオン・トルストイは、1922年の8月、30分程の会合のためにパステルナーク家に立ち寄ったが、パステルナークは次のような質問を除いては彼に話をする機会さえも与えなかった。「昨日、私はあなたの本の中にびっしりと広がっている植え込みをかき分けて格闘を始めた。あの本であなたはいったい何を言おうとしていたのかね?」パステルナークは「それはトルストイが決めるべきものだ」と答えた。そこでトルストイは彼との会話を中断し、パステルナークとは別れた。

ジョセフ・スターリンは数多くの大罪を犯したが、パステルナークを潰すことはそのような大罪のひとつとして数えられることにはならなかった。

貪欲な読書家であり、本の収集家で、注釈者でもあるスターリンはパステルナークは極めて未経験で、不真面目で、何の脅威でもないと判断し、彼はパステルナークの本は読む価値がないと断定した。スターリンが実際に読んだ書籍についてはこちらをクリック。

1935年の冬、スターリンは「ウラジミール・マヤコフスキーはわれわれの時代でもっとも偉大な詩人であったし、今もそうである」と公に述べた。当初、パステルナークは絶賛されているマヤコフスキーを羨み、マヤコフスキーから受けた批判には恨みを感じていた。彼の批判にはパステルナークの初期の2冊の詩集は決して出版すべきではないという推奨の言葉が含まれていたのである。パステルナークはマヤコフスキーが好きだと言ったが、それは彼が「我々ふたりの間には予期しなかった何らかの類似点を発見した」後のことであった。

1930年に起こったマヤコフスキーの自殺は嫌がらせを受けていたパステルナークにとってはチャンスであった。何年か後にパステルナークは「マヤコフスキーは自尊心から自殺した」と書いた。「何故かと言うと、彼は自分の中の何かを非難をした、あるいは、彼の自尊心が屈服することが出来ない何かに対して非難をした。」しかし、スターリンがマヤコフスキーのことをより積極的に評価した際、パステルナークはスターリンに宛てて次のように書いたのである。「彼に関する閣下のお言葉は私を救う効果をもたらします。西側の影響下で、最近、人々は私の重要性について大袈裟に論じていますが、私に言わせると、その重要性は極めて誇張されています・・・皆さんは私の真面目な芸術家としての力を疑い始めました。今、閣下がマヤコフスキーを第一の地位に据えたことから、この疑いは私から拭い去られ、気持ちが軽やかになったので、私は以前のように生活し、働くことができます。慎み深い静寂の中で、驚きや謎に囲まれながら・・・。もしも驚きや不可解な事が存在しないとしたら、私は生きることを好きにはなれないでしょう。このような不可解さの中、閣下を熱烈に愛し、閣下にすべてを捧げます。B.パステルナーク」

この慎み深さは偽ものであった。つまり、スターリンは欺かれはしなかったのである。それから十数年が経って、1949年、スターリンはパステルナークに対して何の訴追もしないよう検察官に指示を出した。「彼にはかまうな。放っておけ!」とスターリンは言った。「彼は世間からは離れた、雲の上の住人だ。」 

作家同盟に集う仲間の作家や同僚にとってはパステルナークが座っている雲は虚栄心と利己主義で過大に膨らんでおり、彼には彼を支持してくれる同僚は殆どいなかった。ドクトル・ジバゴの抜粋を彼が朗読し始めた時、彼がでっち上げたように何人かの崇拝者はいたものの、専門家からの支持はなかった。1953年にスターリンが亡くなる迄、モスクワにはパステルナークの本を真剣に取り上げる者は誰もいないことを彼は知っていた。さらに、1955年の12月、この本の最後の数行を書き終えた後にパステルナークは崇拝者のひとりにこう言った。「私がいったい何を成し遂げたのかについてはあなたは想像することもできない!私は何十年にもわたって苦悩や障害、驚き、および、論争の原因となっていたこれらの魔術のすべてを発見し、それぞれに名前を付けた。どれについても単純で透明性のある、実に悲しい文言で名前を付けた。また、私はもっとも愛しく、もっとも重要な事柄を再発見し、それらを再定義した。つまり、大地や空、大いなる熱意、創造的な魂、生と死。」

Photo-3:ピーター・フィン

AEDINOSAUR作戦」に関するCIA保管のファイルが公開されたことはワシントンポストの特派員ピーター・フィンとロシア語を喋り協力者でもあるペトラ・キュヴェーとがパステルナークの最初の本がどのようにしてロシアの国外で出版されたのかを調べ上げ、その調査結果を出版することには大きな助けとなった。 この作戦のコード名称の中にある「AE」はCIAのソ連部門を指していた。「DINOSAUR」はCIAがパステルナークを評価することを意味したのではなく、むしろ、それはスターリンとトロツキーといった大物を評価することを意味していた。フィンによると、暗号化はランダムに行われた。

本作戦に関する新刊は2014年に刊行された。フィンとキュヴェーはMI6にかけあってみたが、英国の諜報当局はパステルナークに関するファイルを公開することは拒否したと報告している。CIAの記録を見ると、英国は、恐らく、この小説はモスクワ政府を攻撃するための後押しとして使えるという考えを膨らませていたことを示唆している。これは米国当局がそう考えるよりも前のことであった。

1956年の5月、パステルナークがドクトル・ジバゴを書き上げてから5か月後、彼は原稿のコピーをイタリア人に託し、それはミラノの出版社「 Giangiacomo Feltrinelli 」に持ち込まれた。パステルナークはロシア語での出版のために作品をすでに提出しており、1956年の4月には出版されるとの予告があった。しかし、パステルナークはこのイタリア人には「ソ連邦ではこの小説は出版されないだろう」と言った。その理由は「この小説は当局の公式の文化的指針とは相いれないからだ。」パステルナークが外国からやって来る訪問者に同じことを繰り返して説明すればするほど、彼自身がそのことを信じ込み、外国人はなおさら原稿を欲しがって彼の所へやって来たのである。そして、その結末はさらに確かなものとなっていった。

1956年の春には、パステルナークはフランス語の翻訳本をパリで出版するためにコピーをエレーヌ・ペルティエに渡した。数日後、英語への翻訳と出版のために彼はイサイア・ベルリンにもコピーを与えた。ベルリンは、フィンの新刊によると、オックスフォード大学の大物であって学者であるとして描写されている。だが、戦時中のベリリンの仕事の舞台は英諜報機関と外務省であって、ベルリンがパステルナークと会った際にも当時保とうとしていたMI6のソ連作戦部門との関係は依然として続いていたにもかかわらず、そのことは彼の本からは削除されている。ベルリンはパステルナークから原稿を受け取った英国人の中ではロシア語を流暢に喋ることができる最初の人物の一人であった。他にもいた。ベルリンがパステルナークの原稿を受け取ってから18カ月後の195712月、MI6はロシア語の本のコピーをCIAへ送付した。この間に起こりつつあった出来事はこの本にMI6が興味を示していると言うニュースがKGB側に漏れたことであって、英国は彼らが米国から入手した情報は伏せておくことに決めた。

ここに公開されたCIA文書がある。英国側に関する言外の意味はパステルナークの本がCIAに送付されたのはこれが初めてであったということである。そして、CIA文書が公開されたことの言外の意味はCIAはパステルナークは「雲の上の人物」であると考えていたことであり、ドクトル・ジバゴの文学的な真価または彼を巡る情報戦争については当時は何も考えてはいなかったということである。

後になって、ベルリンは1956年の中頃にこの原稿を読み終わるやいなや彼はその価値を認識したと書いている。ベルリンが感じたことの適格性に的を絞ると、彼はこう言っている。「ソ連邦と西側の読者の何人かが言っているのとは異なり、私にはこれは天才が書いた作品であると感じられた。私にはこれは人としての体験のすべてを伝えようとしているように思えたし、今でもそう思っている。前例のない想像上の言語の中でたった一人の純粋な住人だけが住むひとつの世界を作り出している。」米国人の面前ではベルリンは、明らかに、多くを喋らなかった。

1956年の秋、ベルリンがパステルナークの本を出版してから23週間後、KGBのイワン・セロフ将軍はフェルトリネッリがイタリア語で本を出版しており、パステルナークはフランスと英国でも出版しようとしているとクレムリンへ報告した。これはフェルトリネッリ版であるが、KGBが西側におけるこの本の出版計画についてどのようにして知ることになったのか、情報元としてはいくつもあったのかについては不明である。ひとつだけ確かなことはドクトル・ジバゴの出版は反ソ宣伝のために敵国の諜報機関によって進められた作戦であるとモスクワ政府は理解していたという点だ。この時点で、ソ連共産党中央委員会は静観することに決めた。彼らはイタリア共産党とフェルトリネッリとの繋がりからイタリア語版を阻止し、パステルナークのロシア語版が無修正で市場に現れるのを中断するよう作家同盟に依頼することができるであろうと考えていた。

うまく行けば、中央委員会は彼の原稿を編集し、ロシア語版では反ソ宣伝の要素を削除することについてパステルナークから合意を取り付けることさえもできるだろうと計算していた。そうすれば、反ソ宣伝の要素が何処からやって来たのかに関していったい誰が確かなことを言えるのかという話になる。だが、これは彼の才能は本を編集してまで出版することにはまったく耐えられないというパステルナークの強い信念を過小評価していた。

外国での本の出版を阻止することが失敗に帰し、フェルトリネッリからの出版に続いてフランス語や英語での出版も続くと見られた時、ソ連側は動きを活発化させ、彼らに対する西側の動きが高まる状況に対抗ようとした。700頁にもなる本から精々ひとつの節の長さにしか匹敵しないような引用をたった5カ所から抜粋し、これらが繰り返して引用されていた。2011年にVintage Classicsから出版されたペーパーバック版 を例にとると、それぞれの抜粋は267頁、285頁、362頁、365頁および460頁からのものである。パステルナークはこの本の最後から3番目の節でこう結論付けている。「 理想的かつ高邁であると考えられていたことは粗悪で物質的なものへと変わった。ギリシャがローマに変わったように、ロシアにおける啓蒙はロシア革命へと変わった。」1910年のアレクサンダー・ブロックの詩を引用した後に、彼はこう付け加えた。「隠喩的なものはすべてが文字通り意味するのものへと変貌し、子供は子供であり、テロ行為は恐ろしいものである・・・」 

パステルナークは世間からの注目に反対するような者ではなく、彼の主要な作品を読んでくれた人の数が国内でも外国でも酷く少なかったことから、むしろ彼の自尊心は傷つけられた。1957年の終り頃、彼はドイツからの訪問客にこう喋った。「誰もが私の本について書いているが、実際に誰かが読んでくれたのであろうか?彼らは私の本から何を引用しているのか?何時も同じ内容ではないか。700頁もある本の中から、恐らくは、3ページ程度だけだ。」

振り返って見れば、ソ連邦の高官らはこれらの引用がドクトル・ジバゴを読んだ内容のすべてであったことを認めている。残りを読もうなんて誰も気にかけてはいなかった。しかしながら、パステルナークのすべての作品や彼の妻、愛人、友人のすべてについて暴き出す作業が本格的に開始された。パステルナークに才能があることの証拠こそがドクトル・ジバゴをミラノやロンドンでの出版を推進してくれることを意味していたことからも、ドクトル・ジバゴの中で彼が実際に書いた事柄は西側における反革命的な抜粋に対抗してソ連側が行うキャンペーンとは無関係とさえなって行った。1年間のキャンペーンで読者の数はほとんどゼロに等しいという成功を収めた。

イタリア語の訳本は195711月にたった3,000部が印刷され、その後販売された。19571212日、CIA本部の心理学や準軍事的な分野を扱うスタッフ部門が「外国語での出版は最大部数の発行を目指し、世界中へ最高部数を配布し、この本を称賛し、ノーベル賞の授与を配慮すべきである」とドクトル・ジバゴを推奨した。

2週間後の1958年の1月中旬、米国の大学教授であるアーネスト・シモンズとハリ―・レヴィンから2通の手紙がスウェーデン・アカデミーに届いた。ふたりの米国人は何れもドクトル・ジバゴを原本でもイタリア語版でも読んではいなかったけれども、パステルナークをノーベル賞に推薦した。

パステルナークが告発されたことはノーベル賞の受賞資格を示唆するものであるとレヴィンは主張した。「多分、彼の業績の中でもっとも驚嘆すべき点は、作家が書く作品をイデオロギー的な宣伝に変えさせようとするとてつもない政治的圧力の下であっても、彼は美学的価値に固執して来たことである。彼の作品はそのことを雄弁に物語っている。こうして、彼は芸術的な高潔さの例を示してくれた。この事実は貴アカデミーによる彼の業績の認知を受けるにふさわしいものだ。」

レヴィンがこう述べたことについては、「トロツキーの亡命日誌」を翻訳した彼の妻であるエレナ・ザルドナヤも含めて、CIAでは誰も反対しなかったことから、レヴィンのパステルナークの推奨はでっち上げのプロパガンダであるとは受け取られなかったのである。しかし、それこそが、6カ月後の1958年の6月、CIAのソ連部門の長官でありAEDINOSAURのディレクターを務めるジョン・モーリーがパステルナークの価値として見たものであった。ロシア語版および翻訳版を通じて、ノーベル賞の期待は頂点に達した。パステルナーク自身のメッセージについてはモーリーがCIAの作戦を統括するフランク・ウィスナーに宛ててメモを書いている。それによると、「誰でもが個人的な生活を与えられているが、これは共産党体制のための個人の犠牲というソ連の倫理とは基本的に衝突する。この小説の中には体制に反対して暴動を起こすといった呼びかけは出て来ないけれども、ドクトル・ジバゴが説く異端は政治的消極性にあり、これは極めて基本的なものだ。」

CIAはドクトル・ジバゴを使ってクレムリン政府を転覆させるという案はモーリーによって提案されたものであって、AEDINOSAUR 作戦を実施するための予算に承認を得るためのものであったことを公開した。今日でもCIAは公開文書においてはこの作戦に要した費用は伏せている。だが、オランダの職員に支払う費用、ならびに、アムステルダムでオランダ諜報機関によって作られたロシア語版の最初の数千部を印刷し、配本する費用のために数百万ドル(今の価値に換算すると約2千万ドル)が支払われたとフィンとキュヴェエは報告している。このロシア語版は9月の始めに店頭に現れた。約500部がその後の数週間の間にロシア国内へこっそりと運び込まれた。19581022日、スウェーデン・アカデミーはパステルナークがノーベル賞を受賞したと発表した。

KGBMI6CIAがイタリア人やオランダ人と組んで何をしていたのかを知っていたと想定しよう。ベルリンがパステルナークの本を持ち込んで来た時、KGBのエージェントであってMI6の内部で働いていたキム・フィルビーはロンドンでは仕事をしていなかった(訳注:キム・フィルビーはイギリスの上流階級出身者から成るソ連のスパイ網「ケンブリッジ・ファイブ」の一人でその中心人物。MI6の長官候補にもなったが、二重スパイであることが発覚し、ソ連に亡命した。出典:ウィキペディア)。その頃彼はレバノンのベイルートにいたが、彼は依然として連絡を保っていた。フィルビーがパステルナークを読んでいたかどうかは今でも秘密である。

手短に振り返って見ると、パステルナークは彼が遇せられて然るべきだと思っていた状況を手に入れた。「もしもあの本が弱弱しく書かれていたとしたら、私はあの本を隠しておくべきだった」と書いて、19578月に彼は中央委員会に宛てて手紙を送った。「しかし、私が夢想していた以上に強い力を持っていることが実証された。その力は高い場所から降りて来た。こうして、この本の運命は私自身の手元からは離れて行ってしまった。」 

長期的な観点においては中央委員会とKGBは過剰に反応した。ドクトル・ジバゴの運命を決定的にしたのは天からのものであって、パステルナーク自身の神性からではなかった。ソ連の高官らの対応が少なかったり、皆無であったとしたら、彼らがこの作品を軽視するとか、パステルナークが持っている明らかな弱点をからかうために作家同盟の中にいるパステルナークの批判者や競争相手を勇気づけていたとしたら、米英諜報機関による評価は政権の転覆をさらに進展させていたかも知れない。しかし、時間の経過がパステルナーク伝説の熱気を削いだのである。それは西側の信奉者が思い出すことができる本ではなく、今や、この本に関する197分のフィルムである。ロシアでは信奉者はすっかり消えてしまった。ロシアの文学評論家の間では誰もパステルナークを読まなかったが、ドクトル・ジバゴや1958年の出来事には強く共感していると言う。これは冗談として語り継がれており、今でも残っている。

ズラブ・ツエレテリ(訳注:旧グルジア共和国生まれのソ連邦時代の彫刻家)はパステルナークの模型を大きくして、記念碑にすることを提案したが、モスクワ市当局は数年間にわたって立地には賛成しなかった。

情報源

ワシントンではモーリーの「AEDINOSAUR 作戦」は成功裏に終わったものの、この作戦はソ連部門で何とかやり終えた数少ない事例のひとつであった。モーリーは褒賞を与えられ、ギリシャのアテネへ栄転となった。アテネでは1967年の軍事クーデターの際中に彼はCIA支局の長を務めた。この件はモーリーが関与し成功を収めた唯一の政権交代作戦であったが、長くは続かなかった。

原典:Dances with Bears

***

これで全文の仮訳が終了した。

パステルナークがどれだけ文学の世界に貢献したのかについては私は何も言えない。残念ながら、小説「ドクトル・ジバゴ」は読んだことがない。パステルナークと同じ反体制作家であってもっと後世になって現れたソルジェニーツィンならばいくつかの作品を読んだことがあるが、パステルナークの文学的な貢献に関してはその方面の専門家の方々の意見や見解に頼るしかない。

私がこの引用記事に惹かれた理由は、手短かに言えば、その表題に「CIA」という言葉が入っていたからに他ならない。何が起こっても不思議ではない米ソ(米ロ)関係のことだ。冷戦構造にどっかりと乗っていたCIAMI6の意向によってノーベル文学賞がパステルナークに授与されたとしても、それはまさに時代の要請であったともいえる。何と言っても、われわれ一般庶民の常識の世界からはまったく乖離した国際政治の世界のことであるのだから、いったい何を言えようか?

そして、21世紀の今になっても、ノーベル賞受賞者の選考に限らず、CIAMI6の存在は至る所で見え隠れする。好むと好まざるとにかかわらず今の世界は何も変わってはいないということだ。


参照

1Boris Pasternak’s Doctor Zhivago and His Nobel Prize - a CIA Operation: By John Helmer, RI/Dances with Bears, Sep/04/2021

 





 

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