2011年7月6日水曜日

掛け算の「九九」、娘の場合

 
父親の海外勤務にともなって娘は海外で過ごすことが多かったのですが、小学校低学年ではブカレストで日本人学校へ通っていました。

大人になってからの彼女の言語生活は英語とルーマニア語が中心で、日本語はすっかり片隅に追いやられているのが現状です。日本語を聞く分にはかなりできるものの、しゃべる方はやはり苦手です。日本から取り寄せたDVDで映画を見ても筋書きは問題なく把握できていますし、私自身がハリウッド映画を見るときの英語の理解よりはずっとその程度が上ではないかと思えてなりません。

買い物とか毎日の生活の中で彼女の日本語が圧倒的な威力を発揮する場面がひとつあります。それは掛け算です。小学校の二年生で習った「九九」が今でも彼女の口からこぼれて来るのです。既に説明しましたように彼女の主たる言語は日本語ではないのです。しかし、掛け算になると、とたんに日本語の「九九」に早変わりします。そばでその様子を見ていると、いささか滑稽でもあり微笑ましくもあります。


今私たちは21世紀の初頭にあるわけですが、この「九九」の歴史は一体何処まで遡るのでしょうか。

日本

2010124日付けの 読売新聞の記事によりますと、

奈良市の平城宮(707784)跡で「九九」を記した木簡が出土しました。この木簡には中国の数学書と同じ「如」の文字が書かれていたことがわかったと、奈良文化財研究所が発表しています。つまり、これは「九九」が中国から伝来したことを証拠付けるものです。

こういった「九九」を記した木簡は平城宮跡ばかりではなく、藤原宮跡、長野県の屋代遺跡や新潟県の草野遺跡からも出土しているそうです。

日本へ伝わってきた時期は何時ごろかと言うと、専門家の間では万葉集(759年頃に編纂)に「九九」を使った表現があることから、少なくとも奈良時代(710年~)よりも前に伝わってきたものと推測されています。一つの説としては、唐から輸入された律令制度(681年に編纂を開始)において税金を徴収する基礎となる土地の測量や面積の計算、税の計算のために算術としての「九九」が必要になってきたのではないかと言われています。

中国

お隣の中国では「九九」の使用は何時頃から始まったのでしょうか。

「九九」の使用は春秋時代にまで遡ると言いますから、紀元前770~前403年の頃となります。お馴染みの「三国志」の世界は23世紀の頃の話ですので、その頃よりもさらに600年以上も遡ることになります。日本最古の水田の跡は今から2500年前とのことですから、日本では水田を利用した稲作が始まった頃、つまり弥生時代が始まった頃に相当します。

城地茂氏のウェブサイト「和算の源流」には古代中国における算術に関して興味深い記述があります。それを下記に引用してみます。

ある時、斉の桓公(紀元前685年~643)が人材を求めた時に、「九九」を暗記しているという特技で採用された者がいたという記事が残っている。しかも、この男が言うには、「九九」のような一般的な教養があるだけで召し抱えられる事が天下に知られれば、有能な浪人が広く応募してくるだろうから、宣伝効果として有効だというものであった。事実、そのように桓公の下には多くの人材が集まったのだが、これからも分かるように、「九九」はこの時代にすでに広く流布していたのである。

また、「桓公の下には多くの人材が集まった」という記述との関連で見ると、目下読み進めている「三国志」(陳舜臣著、文春文庫、1982年)では「一国の王にとっては広く人材を集めることが最も大事だ・・・」といった記述が見られます。上記に引用した桓公の逸話も納得できるような気がします。

古代バビロニア(メソポタミア地域)

ヨーロッパ世界ではどうだったのでしょうか。これはヨーロッパがまだ深い眠りから覚める以前のことです。古代ローマから古代ギリシャへ、さらに古代バビロニアにまで遡ります。つまり、現在のイラクの地域です。

古代バビロニアに関してはかなり多くの証拠が見つかっているようです。例えば、楔形文字を刻んだ粘土板が多数見つかっています(400枚以上も!)。そのほとんどは紀元前18001600年頃のものであると言われ、そこには当時の数学のレベルを示す貴重な情報がたくさん含まれています。バビロニアでは数字は60進法で表現されていましたが、その名残が今も円が360度であったり、1ダースが12個で構成されていたり、1時間が60分であったりする点にその名残が見られます。

「九九」に相当する掛け算が多数見つかっています。数表だけを記載した粘土板が見つかるのではなく、多くは文章の中に「九九」の一部が見られるとのことです。これらの粘土板は学校で使われた教科書だったのではないかと推測されています。

当時の数学のレベルはどうだったかと言いますと、例えば、2の平方根は1 + 24/60 + 51/602 + 10/603 と表現され、これは1.41421296...に相当します。小数点以下5桁まで正確な数値です。これは、結構驚きです!
でも、2の平方根をどのように使っていたのでしょうね?
また、その頃には「位取り」が確立されており、現在のように一番大きな桁が左から始まっているそうです。

シュメール文明

古代バビロニアをさらに遡ると、同じメソポタミアの地でシュメール文明が栄えていました。紀元前2600年以降、掛け算の表が使用されていたそうです。これが現時点で分かっている範囲では最も古い「九九」のようです。

このメソポタミアの地での文明の歴史を大雑把に見たいと思います。狩猟や採集の時代から牧畜や農業へ移行した時期は紀元前8000年頃といわれています。農業の生産性を大きく伸ばすことになった灌漑農法は紀元前4800年頃に遡ります。記録された文字体系としては最古と言われている楔形文字が使われ始めたのは紀元前3500年頃。さらに時代がくだると、掛け算の使用が始まった上述の紀元前2600年の頃へと続きます。

ただ、シュメール文明について気になる点があります。シュメール語は孤立した言語であって、周辺のセム語系の言語との関連性はまったく見られないと言われている点です。通常、自然発生的な言語の場合、ふたつの異なる言語であっても陸続きの場合はお互いに関連性があるのが普通です。シュメール語はエーリアンの手によってセム語系の言語の真っただ中へほうり込まれたとでも言うのでしょうか?

エジプト

ピラミッドを建設したエジプトも天文学が発達していた事実から推測すると数学がかなり発展していたと思われますが、その発展ぶりを示す証拠は残念ながら限られていると言われています。
多分、数学はかなり進んでいたことでしょうね。

23x13といった掛け算では
23 x 1 = 23     ✓
23 x 2 = 46
23 x 4 = 92     ✓
23 x 8 = 184    ✓
23 x 16 = 368
上記の✓マークがついた掛け算だけを寄せ集めると、23 x (1 + 4 + 8) = 23 x 13 = 299となります。つまり、乗数は2倍、2倍としていって、乗数を構成する要素と被乗数との積を足しているのです。こういった二進法は現代を象徴するコンピュータの計算法と同じですよね。古代エジプトの数学ではここが一番興味深い点です。

インド

インドでは紀元前9世紀頃には円周率を小数点第2位まで概算しており、幾何学のテキスト(「シュルバ・スートラ」、紀元前8世紀~6世紀)では2の平方根を小数点第5位まで計算していたと言われています。またピタゴラスの定理を記述していたとのことです。何よりも、理論的な展開に抜きんでていたようです。

マヤ

中米のマヤ文明では暦と天文観測が非常に進んでいたと言われています。天体観測に基づいて計算された1年の長さは365.242日とされています。これに対して、現代の値は365.242198日です。非常に良く一致しています。しかしながら、驚いたことには、非常に大きな数字を巧みに表現しながらも、掛け算や割り算の手法はあまり進んではいなかったと言われています。

本当に存在していなかったのでしょうか。それとも単に存在していたという証拠が現時点ではみつかってはいないというだけのことでしょうか・・・。


こうして各国、各地域の数学的な発展を見ますと、共通する点は円や正方形あるいは長方形を幾何学的に解明していたことです。農業の発展と共に、宗教的リーダーあるいは部族社会の政治的リーダーが地域社会あるいは同族社会を統治するために徴税を行い、租税システムの基礎として土地面積を計算し、納税の対象としての穀物や織物の数量を正確に把握する必要があったと説明されています。また、天体観測に長じていたエジプトやマヤ文明では暦の計算が主たる動機だったかと思われます。正確な暦によって農業の年次サイクルを維持することが可能となり、部族社会を統治していく上で非常に強力な道具となっていたに違いありません。


掛け算の「九九」から始まって、古代文明における数学の発展についてその一端を覗いてみました。



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