ルーマニアでは、昨年の5月、興味をそそる記事 [注1] が現れた。その表題を仮訳すると、「ブダペストに1000年も保存されていた本がわれわれの祖先の歴史的な解釈を覆す」としている。この表題から察するに、画期的な内容であることが予想される。
「歴史的な解釈を覆す」とは何を意味するのか?ここに引用した記事を読んでいただくと、その詳細が具体的に判明する。確かに、ここで議論されているテーマは科学的にさらに詳しく解明するべきであろう。その必要性は議論を待たない。
ルーマニア人の祖先は「ダキア人」と呼ばれている。ルーマニア語では同一の綴りで「ダチア」と読むが、このブログでは日本語の文献で一般的に使用されている「ダキア」を使うことにしよう。
さっそく、その記事を仮訳して、読者の皆さんと共有したいと思う。
<引用開始>
Photo-1: ダキア人は右から左に向かって書き、下側から上側へと読んだ。
ダキア人の書き物は残されてはいない。古代ローマ人の撤退以降にカルパチア地域 [訳注:カルパチア山脈は主にスロバキア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニアと、周辺のチェコ、ハンガリー、セルビアにまたがっており、全長約1500km。] からドナウ川の流域にかけて居住していた人たちについて分かっていることは極めて少ない。ところが、ブダペストには約千年もの間保管されていた一冊の書籍がある。この本は歴史家の理論を根底から覆すことになるかも知れない。この写本はこの時代に記録された最初の書物である。ダキア文字を用いて右から左へと書かれており、下から上に向かって読む。これはワラキア人とその王国について記述している。
Photo-2: ルーマニアの行政区域:黄がワラキア [訳注:ウィキペデイアから引用]
この「レヒニッツ写本」の解読は多くの研究者によって試みられたが、不成功に終わった。考古学者であるヴィオリカ・エナキュクが初めてこの不思議な写本を解読した。1982年、あるハンガリー伯爵に紹介されて、ヴィオリカ・エナキュクはハンガリーの雑誌を通じてハンガリー・アカデミーの書庫に「レヒニッツ写本」があることを知った。未知の言語で編纂されている。彼女はその書物のコピーを作成した。秘密を解き明かすために20年間も悪戦苦闘した。この写本はハンガリー共和国の科学アカデミーに保管されている。革表紙で装丁されている。1907年までは、ロホンツイ [訳注:現在は「レヒニッツ」と呼ばれている] という地方都市に保管されていた。1838年にグスタフ・バッチャーニ伯爵がハンガリー科学アカデミーへ寄贈したものである。何世紀にもわたって幾人もの手を経て来たと思われるが、その詳細は知る由もない。「秘密の書き言葉」である。第二次世界大戦後、宣教師でもあるヴァイダ・ヨセフ博士はこの古写本と関連のある研究者としてオットー・ジュルクのことを書いた。
つまり、「ハンガリーの科学アカデミー記録保管所には非常に稀有な本がある。この古写本は秘密の書き言葉で書かれており、現在までにその読解に成功した者はいない。私も試みた。書体はギリシャ語に似ている。フェニキア文字に似ているとも思えた。後には、ハンガリー語の古い書体でも読解を試みた。これらの試みはすべて失敗し、結局、火の中へ放り込むことになった…」と。この古写本の研究後、研究者のオットー・ジュルクは1970年に自分が得た所見の一部について論文を書いて、それを公表した。それによると、彼は古写本の中の記号の一部は数字を示していると述べている。
150の文字で構成されたアルファベット:
ヴィオリカ・エナキュクはこの古写本は11~12世紀に編纂されたものであり、俗ラテン語(ダキア・ローマ)で記され、ダキアの文字を用いていることを発見した。「これらはダキアのアルファベットで構成された文字であって、その総数は、接続の仕方を含めると、約150個ほどとなる。ロホンツイの古写本は俗ラテン語で編纂されているが、青銅器時代にインド・ヨーロッパ語族のひとつとして広く使用されていたダキア語のアルファベットで記されている」と、述べている。ワラキア人のメッセージと唄が448頁に収録されており、各頁には9行から14行の文字列が記されている。文章の中には世俗的な場面や宗教的な場面を示す細密画が挿入されている。式辞やメッセージならびに唄や誓いで構成され、86個の細密画が含まれている。これは1064年から1101年にかけてヴラド王による治世の下で隆盛したワラキア人による中央集権国家を記録している。「ダキアと称する国家の運営組織や軍事に関する情報が含まれている。その領土はテイサ川からドニエストル川まで広がり、黒海の海岸に達する。また、ドナウ川から北へ向かい、ドニエストル川の源流域にまで広がっていた。ワラキア人の首都はヴィチナ
[訳注:原文ではTicinaとなっているが、Vicinaの間違いだと思われるので、訳文ではヴィチナとした] 、つまり、パクイウル・ルイ・ソアレ島の砦に置かれていた」ことをヴィオリカ・エナキュクが特定した。古写本に含まれている「ワラキアの若者たちの誓い」あるいは出陣の唄は下記のように訳出される。
悪魔の印を持った命には加わるな、奴らは執拗に監視し、騙そうとする、
悪魔が告げる予言にも加わるな、
お前らを徹底的に打ちのめしてしまうだろう、
もう長い間砦の唄が聞こえている、
元気よく前へ進め、そして帽子に誓え、強力な帽子に、
成熟した男として、説得力を持って誓え、
生き長らえ、戦いに身を投じることができるように、
隼の若者たちよ、この特別な誓いを讃え、
力強く誓って出陣せよ
注:「ロホンツイの写本」(この本の名称:「写本」あるいは「記号」と「ロホンツイ」あるいは「ロホンツ」との幾つかの組み合わせがあり得る)はその記載方法が未知のものであり、説得力のある解読法が提案されてはいないことから、この写本は活発な議論を呼んでいる。この写本はロホンツ(Rohonc:古ハンガリー語ではRohonczと綴り、ドイツ語ではRechnitz、クロアチア語ではRohunacと記す)の町の名称に基づいて呼称され、この町は現在オーストリア東部のブルゲンランド州に属する。ユネスコのメンバーであるヴィクトリア・エナキュクはヤシ
[訳注:ルーマニアの東部にある都市] に所在するアレクサンドル・イオン・クーザ大学言語学部のルーマニア史科を1963年に卒業した。専攻は考古学。1983年からユネスコのメンバー。何年にもわたって、オルテニアやムンテニアならびにモルドバ地方の現場で考古学的な研究に携わった。新石器時代やダキア時代の古い書き物を研究した。国内やオーストリア、フランス、ドイツ、イタリア、イスラエル、等の外国での会議で研究成果を発表した。イタリアでは研究のための基金を得、古代北欧文字について研究をしていたデンマークでも考古学上の課題に関して基金を提供された。これらの事実は秘密ではない。
しかし、私には疑問がある。読者の皆さんにも質問をしてみたい。「われわれの国の政治や学術の権威者はどうして喋べってはくれないのだろうか?さらには、メデイアも。何故かと言うと、窃盗や強姦あるいは交通事故の方がもっと重要であって、そういったニュースの方が良く売れるとでも言うのだろうか?彼らが無能力だというわけではない。それとも、喋らないようにとの命令を受けているのだろうか?」
ダキア人:
私は何回も自問自答してみた。ある社会において肯定的な変革を推進する原動力はいったい何だろうかと。多くの場合、原動力は相対的な正義や虚偽あるいは異論を挟むことが可能な事柄は拒もうとする若者たちである。彼らは政治的あるいは宗教的な関心事には当面興味を示さないが、絶対的な真理を求めようとする。したがって、彼らは歴史や言語学の教授に質問をしようとする:
- ダキア人はその何パーセントがローマ帝国に征服されたのか?もしその教授がご存知だとすれば、ダキア人の領土の14% が征服されたのだ。(ダキア人の領土は西から東へ広がり、コンスタンス湖、つまり、今日のスイスからウクライナのドニエプル川の向こう側にまで及んでいた。)
他にも次のような質問がある:
- ダキア人の14%の領土は古代ローマ帝国によって何年間占領されていたのか? 同教授が答えてくれるとすると、164年間だ。その場合、さらに次のような質問が出てくる。
- 「ローマ人」の兵隊たちは本当にローマから来ていたのだろうか?彼らはラテン語を流暢に喋っていたのだろうか?これらの質問に答えることは結構難しい。「ローマ人」の兵隊はさまざまな言語を使っていたことから、ラテン語だけ使用していたとは決して言えない!
ダキア人の土地に派遣された兵隊たちはローマ帝国の各地からやってきていた。時には非常に遠方からだ。今日の英国からやってきたブリトン族、イベリア半島からはアストウリアン族(スペイン)やルシタニア族(ポルトガル)、黒海の北岸からはボスポラン族、アンテイオキア(トルコ)からはアンテイオキア族、ライン川方面からはウビ族、バタヴィア川の河口付近(オランダ)からはバタヴィア族、ガリア(フランス)からやってきたガリア族、今日のオーストリアやドイツ南部からやってきたレッツ族
、シリアからやってきたコマジェニ族、さらには、北アフリカからやってきたヌミドウ族やマウール族までもが含まれる(ジウレスク著の「ルーマニア人の歴史」第1巻、1942の130頁目)。
最後の質問:
- 歴史的に見るとこれ程に短い期間にダキア人は全員が自分たちの言語を放り出して、新しい言語を勉強して身に付けたとでも言うのだろうか?しかも、ラテン語は古代ローマ帝国の兵隊たちの間でさえも全員が喋っていた言葉ではない。
文明開化した住民の全員が自分たちが先兵となることに誇りを感じることを正当化する歴史的価値を認め、それを発展させ、推進しようとする時、多かれ少なかれ、「ダキア・ローマ人」の生成について説明しようとすると、「本物のローマ人」についての意見に遭遇することになる。「ローマ兵たちはダキアの女性や娘たちを自分たちの寝室に招じ入れて、何代にもわたって子供をもうけた。子供たちは父親、つまり、ローマ兵からラテン語を習った…」と。
彼女たちはバサラビア、つまり、今日のモルドバ、あるいは、ドニエストル川の辺り、さらには、ドニエプル川の流域からどうやって来たのだろうか?彼女らはトラキア・ゲタイ族やカルピ族の妻や娘たちであり、ローマ兵たちの子を宿すにしては何百キロも離れた地域に住んでいた。
これはあくまでも推測に基づいた意見ではあるが、ダキア・ゲタイの婦人たちの間には売春婦もいた。たくさんいたことだろう。彼女らには伝統の言葉を自分の子供たちに継がせたいという気はなかったのだろうか。ダキア・ゲタイの女性たちの皆が恋に陥り、その結果生まれた子供たちについて、彼女らの子孫であるわれわれはいったいどれだけ多くの人が「花から生まれたような子供」たちとして愛着を込めて呼ぶことができるのだろうか?土地の男たちは「誇りの念をもって」彼女らを眺め、「新たな種族」の誕生を待ち望み、その間、新しい言語、つまり、ラテン語を素早く、かつ、完璧に学び、時には(ローマ兵の恋人である)妻たちから、また、時には娘たちから、あるいは、自分たちの家を破壊したローマ兵たちから直接学んだとでも言うのだろうか?
(ニューヨークの)ルーマニア文化センターにおいて、1999年10月26日、ルーマニア出身の考古学の権威者であるイオアン・ピッソ博士から、ダキア人は、トラヤヌス帝の頃、サルミセジェトウーサ [訳注:ルーマニア国内の地名。ここは古代ローマ帝国の頃の「ダキア人の要塞群」として世界遺産となっている] の浴場でローマ人からラテン語を学んだとの説明を聞いたことがある。でも、どうしてローマ人の浴場なのか?浴場で裸のローマ兵たちからラテン語を学んだとでも?
実際に、われわれは強力な腕力を持った二人の男から生まれたと彼らは言う!そのようなおとぎ話はあなたをルーマニア人以外の何者にでも仕立て上げてしまいそうだ!
読者の皆さんには、ダキアはそのたった14%程の領土がローマ人によって侵略され、歴史的な時間としては非常に短い164年間占領されていただけであるという点を念頭に置いて欲しいと思う。ダキアの領土の86%はローマ人によって足蹴にされたわけではないのだ。残りの86%もの地域の住民にとってはローマ兵と遭遇する機会はほとんどなかっただろうから、歴史的にこのような短い期間にダキア人がラテン語を新たに学んだとする見解を受け入れることは難しい。しかし、ダキア人がラテン語を学んだのはローマ兵からではなかったとすると、いったい誰から学んだのだろうか?トラヤヌス帝の誇り高い子孫に対しても同じ質問を問いかけることが可能だ。
ヘロドトス [訳注:紀元前5世紀の頃の古代ギリシャの歴史家] は世界でもっとも人口が多いのはインド人であって、二番目はトラキア人だと言っている。デイオ・カッシウス [訳注:ローマ帝国の政治家、歴史家] は「トラヤヌス帝がトラキア人であったことは忘れまい。トラヤヌスとデチェバル
[訳注:デチェバルはダキア人の王] との間の戦争は言わば兄弟間の戦争だった。トラキア人はダキア人であったのだから」とも述べている。ダキア人が「俗ラテン語」を喋っていたという事実はそのような事実を認めることを拒む人たちにとってはまさに「秘密」なのである。
「トラヤヌス帝の下でローマ兵がサルミセジェトウーサにてダキア人を征服した時、通訳をする必要はなかった、と歴史家のデンスシアーヌは言う。このことは事情を一変させてしまう。つまり、ダキア人とローマ人は同じ言語を喋っていたということになるからだ。」 もしも人類に関する今日の知識の95%は直近の50年間に学んだものだとするならば、ダキア・ローマ人の歴史に関するわれわれ自身の考えが今後どのように展開していくのかをじっくりと見守りたいと思う。人類の進化を染色体の古さによって説明する理論についてはそれ程多くが出版されているわけではないが、結論としては「最初の女性」はアフリカの南東部に現れたと言われている。
それに続く人類の大きな足跡はエジプトの北部に残され、そこからバルカン半島へと続いた。カリフォルニア大学ロサンジェルス校の考古言語学の教授であるマリヤ・ギンブタスがカルパチア・ドナウ地域をヨーロッパがその存在を示した発祥の地であると唱え始めた時、私は心地よい驚きを禁じ得なかった。そして、われわれの国の歴史家たちも同様な反応を示すだろうかと思って、期待して見守っていた。しかし、彼らから聞こえてきたものは沈黙だけであった。レオン・E・ストーヴァ―とブルース・クレイグの両教授による書籍「The Indo-European heritage」がシカゴのネルソン・ホール社から刊行されたが、著者らは紀元前5000年の頃の古代ヨーロッパについて、25ページ目で、下記のように論じている。
今日のルーマニアの中央部に住む人たちは誇りに思うのではないだろうか?分子考古学における研究の成果がわれわれはヨーロッパにおいてはもっとも古い種族であるということを正当に評価してくれている時、研究者たちが他の知識人に伝えたいと思っていることをまったく読もうともしない人たち、あるいは、私が書いていることについてさえもまったくお構いなしの人たちに向けて返事をすることは私にとっては決して易しいことではない。染色体に関する非の打ちどころのない研究はPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)を用いたミトコンドリアのレベルで行われ、この手法を用いると、何百年も何千年にもなる古いミイラについて母系の祖先を特定することが可能となる。
遺伝子による理論に基づくと、多かれ少なかれ、カルパチア・ダニューブ地域はヨーロッパ人の発祥の地となった。今から4万4千年前、最初の3人のエバと最初のアダムがこの地域にやって来た。私が「カルパチア・ダニューブの人たち」や「われわれはローマ人の子孫ではない」、「失われた歴史を求めて」および「ダキア - 神々の国への旅」を書いた時、さまざまな研究成果を目にしていたが、先史時代のヨーロッパに関する権威者、英国のオックスフォード大学のV・ゴードン・チャイルド教授の研究にも出合うことができた。同教授の研究は「文明の歴史」や「アーリア人」と題して1993年にニューヨークのバーンズ・アンド・ノーブル社から出版された。彼はヨーロッパの先史時代の言語の発生や伝播について素晴らしい調子で研究成果を語っている。176頁から177頁にはアーリア人が始めて登場した頃の彼らの揺り籠の地を地図に示しているのだが、驚くなかれ、そこにはカルパチア・ダニューブ地域が揺り籠の地として示されているのだ!車輪や鋤、枷、2輪や3輪あるいは4輪の荷車がわれわれダキア人の地に世界で初めて現れた時、人類の歴史から発せられた最初のメッセージがわれわれの地域であるタルターリアからのものであった頃、ヨーロッパの最初の女性がこの地と共に記述された時、時代は紀元前6,500年の頃であったのだが、英国はその頃大陸から分離し、半島から島に変わろうとしていた。
(ニューヨークのハーパー・コリンズ社から1996年に出版されたジョン・ノースの書籍「先史時代の人および宇宙に関する新たな解釈」を参照されたい。) われわれの国の人々やそれが位置している国土に関する素晴らしい情報が信じられなくて、かえって失望することになるかも知れない!
それほど前のことではないが、ブカレストのインターコンチネンタル・ホテルで開催された第1回ダキア学国際会議では歴史学を専門とするアウグステイン・デアク教授が「ロホンツイ写本」について講和をした。これはダキア・ルーマニア人に関する報告である。同写本は448頁から成り、古代ルーマニア語、つまり、「俗ラテン語」で記され、アルファベットはゲタイ・ダキア文字が用いられている。各頁には9行から14行の文字列が記録されている。テキストの中には羽ペンで描かれた86枚の細密画が挿入されており、それらは世俗的な情景や宗教的な情景を示している。記載の方向は右から左へ向かい、ページの下側から上に向かって読む。ダキア・ルーマニアの古代の教会ではオーソドックス派の祈りは「俗ラテン語」で行われていた。これは12~13世紀まで継承されていたが、公式の祈りの言語はギリシャ語やスラブ語に取って代わられた。写本は幾つものテキストで構成されているが、そこには、たとえば、「ワラキアの若者の誓い」が含まれている。この誓いの言葉は侵入して来る敵(ペチェネグ人やクマン人あるいはハンガリー人)との戦いの前にさまざまな形で唱えられた。1046~1091年にわたってワラキアを導いた領主ヴラドの生活を描いた物語であり、ペチェネグ人に対するワラキア人の勝利の唄でもある。そして、楽譜も添えられている。この歴史学の教授、アウグステイン・デアク博士は正当にも次のように問いかけようとしている:「ローマ人のラテン語よりもずっと以前から存在し、何千年も使われてきたゲタイ・ダキア人のアルファベットを用いてダニューブ地方のラテン語であるダキア・ルーマニア語で書かれたこの歴史的な写本の発見や解読について、ルーマニア・アカデミーの専門の研究所はどうしてこんなに受身的なのだろうか?」と。しかし、イデオロギー的な説明によると、ダイアモンドのように輝く上記の事実はあえて見つからないようにしていたのかも知れない。ルーマニア・アカデミーは大規模な、国内に向けてだけではなく、国際的で科学的な会議を主催するべきであろう。そして、「本物のルーマニア人」と同様に、トラヤヌス帝の活気に溢れた子孫についても、彼らが卑下され、先祖や死者ならびに同胞が無価値と見なされた場合いったい何を意味するのか…
事実、われわれルーマニア人は皆がラテン民族の子孫であり、ラテン民族の遠い親戚というわけではないのだから、誇りを持たなければならない。自分が乗っかっている枝を突然足下から切り落とすようなことをする知恵に欠けた行為や事実に反する議論を敢えて探すことはないのだから。(イオン・エナケ)
出典: worldwideromania.com
<引用終了>
非常に面白い内容であった。
「ワラキアの若者たちの誓い」の訳出は難しかったが、その雰囲気は読者の皆さんにも十分に伝わって来るのではないかと期待したい。これはあくまでも仮訳である。訳者によって大きく変わ得るいうことをお忘れなく。
遺伝子工学を駆使して民族の歴史を紐解くとヨーロッパ人の最初の人間はカルパチア・ダニューブ地域、つまり、現在のルーマニアの中央部に住んでいた3人のイブと一人のアダムに到達するという。ヨーロッパ人の先祖を辿る時、何処かに到達するのは確実ではあるのだが、それが自分の国であった場合、その国の住民にとっては非常に興味深い知見であり、国民の多くにとってはそういった事実はやはり十分に誇りに思えることではないだろうか。
遺伝子の研究が進むにつれて今までの定説を覆すような人類史の新たな解釈が提示されるようになって久しい。われわれ日本人についても同じ状況にある。たとえば、縄文人は弥生人の到来によって日本列島からは駆逐されたと言われていたのだが、遺伝子の研究者は縄文人と弥生人は共生していたと主張している。まったく新しい解釈に至ったのである。
今後もこの分野での活発な研究が続くよう期待したいと思う。
参照:
注1:O carte veche de 1000 de ani păstrată la
Budapesta, răstoarnă toate teoriile istorice despre cultura strămoşilor noştri:
By Valentin Honiges, Valentine Hőniges, May/16/2014, http://www.paginaromanilor.at/stiri-revista-presei/item/326-o-carte-veche-de-1-000-de-ani-pastrata-la-budapesta-rastoarna-toate-teoriile-istorice-despre-cultura-stramosilor-nostri
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