ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終わった際に、ある歴史家が「近い将来、冷戦期間中に維持されていた秩序が懐かしく思い起こされることになるのではないか」と述べていた。当時、その意味をまともに理解していた人は実際に居たのであろうか?現在の国際政治を考えると、この予見は言い得て非常に妙である。むしろ、気味が悪いほどだ。
そして、そうした予見を可能とする歴史的考察は現在の政治の混迷を読み解く際には不可欠のアプローチである。
最近の記事に「歴史の転換点となった1991年 - ユーゴスラビアの解体とソ連の崩壊」と題した論考がある
[注1]。
今や、国際政治は泥漿の深みに足を取られ、身動きができなくなりつつある。国連安保理からの付託を得ないままに一部の軍事連合は自分たちの政治的目標を達成しようとして軍事的展開を推進し始めた。そして、それが国際政治の舞台で既成事実化されて久しい。
政治的目標を実現する際にもっとも大きな力を発揮するのは商業メディアの存在である。多くの場合、主役を演じている。そして、その宣伝によって洗脳され、一握りの権力者たちの思惑に踊らされているのは常にわれわれ一般庶民なのである。一見、それは民主主義的なプロセスであるかのように見えるが、実際には、「人道主義的介入」という表現を用いて巧妙に偽装が施されている。
本日はこの記事を仮訳して、読者の皆さんと共有してみたいと思う。この機会に情報の歪曲や情報操作の実態を少しでも多く学んでおこうではないか。
<引用開始>
Photo-1
黄金時代なんてまったく存在しない現実の中、今日の世界が実は非常に不健全な世界であることはとてつもなく明らかである。近年、東欧から北アフリカ諸国、そして、中東に至る国々は過酷なまでの不安定さを経験し、何十万人もの市民が流血の犠牲となり、人々の生活は破壊された。
そして、これらの破壊行為のど真ん中には米国と英国の外交政策が鎮座しているのである。
しかし、われわれはいったいどのようにしてこのような現状に辿りついたのであろうか?そして、米英両国が唱える「人道主義的介入」のルーツとはいったい何であろうか?
上記の質問に対して数多くの人たちは米英両国によるイラクへの侵略を引用しようとする。けれども、その引用は断固として間違いである。
たとえば、今日のシリアにおいてわれわれが観察する事象のそもそもの根源は1991年にまで遡る。あの年は地政学における転換点となった。ユーゴスラビア社会主義連邦が解体され、ソ連邦が崩壊した年である。
ユーゴスラビアは西側が世界に対して介入する最初の国となった。この介入行為はイラク、リビア、シリアおよびウクライナへと続いた。そして、かっての「大国」であったソ連はもはや存在しなかったことから、西側はこれらの国々に対する侵略をまんまと実行し得たのである。
1991年の始め、ユーゴスラビアは不安定そのものであって、このことは国家的な死を意味するものであった。ヨーロッパではユーゴスラビアは孤立していた。ユーゴスラビア政府は(かって冷戦中には同国は非同盟主義を標榜していたことから、当時も相手にはされていなかったように)ユーゴスラビアを必要とはしない米国、英国、ドイツ、および、オーストリアと直面していた。これらの国々は新生ヨーロッパに社会主義国家が誕生することを好まなかったし、ロシアの影響力が将来バルカン諸国おいて確立されることを防止しようと務めていた。ソ連邦は当時瀕死の状態にあったことから、モスクワ政府はユーゴスラビア政府に対して支援の手を差し伸べることはできなかった。
西側ならびにNATOの介入政策が誕生したのはこのユーゴスラビアにおいてであったし、国際法は完全に脇へ追いやられ、大量虐殺が行われたとする主張が、米国の主導の下に、人道主義を錦の御旗としてNATO
が軍事介入することを可能とする口実として用いられたのである。ユーゴスラビアに対する西側の介入は、結果として、米国が世界的覇権を強化するためであれば如何なる国家に対してでも介入を実行するという触媒の役目を果たした。そして、米英両国の権力者が新たな介入政策を正当化させるためにもっとも強力な武器を採用した。それは大手メディアであった。米英両国の大手メディアはユーゴスラビアで大成功を収め、このまったく新しい経験は次の前線、つまり、イラク、リビア、シリア、ウクライナにおいても適用された。
Photo-2: カリントン卿
ユーゴスラビアは国連を創立したメンバー国であったにも関わらず、さらには、同国の国境は国際法の下で国際的に承認されていたにも関わらず、ドイツとオーストリアはスロべニア並びにクロアチアのユーゴスラビアからの分離運動を支持し、独立を宣言するよう支援した。また、米国はボスニアやヘルツエゴビナにおいてまったく同様の動きをした。ベルリン、ウィーンおよびワシントンの政府によって採用されたこれらの動きは深刻な国際法違反であり、国連憲章の土台を揺るがすものであり、国際的に認知されている国境の尊厳を台無しにした。さらには、これら西側諸国の非合法的な行動はクロアチアやボスニアにおいて悲惨な戦争を誘発した。ユーゴスラビア和平会議の議長を務めたピーター・カリントン卿が論じているように、「米国やドイツならびに他のヨーロッパの国家がとった行動はバルカン地域に紛争が確実に起こることを約束した。」
西側にとってはユーゴスラビアの分割だけでは十分ではなかった。つまり、西側は新たに発足する国家が自分たちに従属する国家になって欲しかったのである。西側はクロアチアやボスニアの非合法組織が戦場で勝利を収めることを願って、彼らに対して武器を供給し始めていた。
クロアチアにおいて西側はかって第二次世界大戦中には「ウスタシ」を英雄視し、クロアチアの独立を推進した際に中核的な役割を演じた親ナチ運動、つまり、実質的にはファシスト運動に対して武器の供与を行ったのである。当時、約70万人にもなるセルビア人を殺害した。ユーゴスラビアのアウシュビッツと称されるヤセノヴァツ強制収容所で多くの人たちが殺害された。
1990年代へ戻ろう。ユーゴスラビア内戦において行われた最大級の民族洗浄はクロアチア人によるものであった。彼らは米国が計画した「オペレーション・ストーム」を実行し、クラジーナ地域において25万人ものセルビア人を先祖代々の地から追放した。
ボス二アにおいては、米国はユーゴスラビアからの分離を標榜するイスラム教徒に対して武器の供与を行ったばかりではなく、アフガニスタンからムジャヒディーンの戦士をボスニアへ送り込み、ボスニアのイスラム教徒と共闘させた。これらのムジャヒディーンの戦士らはアフガニスタンでソ連軍に対抗した実戦経験を持っており、ボスニア戦争ではもっとも酷い戦争犯罪を犯しただけではなく、ヨーロッパに新たな地歩を固めて、イスラム教の普及やイスラムの過激派によるテロリズムをもたらした。今や、イスラムの戦士らはヨーロッパにおける前進基地を謳歌している。米国がボスニアへ送り込んだムジャヒディーンの戦士の一人はオサマ・ビン・ラーデンであった。彼にはボスニアのパスポートが与えられ、デア・シュピーゲル誌の記者によると、1994年に彼はサラエヴォのホテル「ホリディ・イン」で目撃されていた。
ユーゴスラビアの解体に反対し、クロアチアのファシストやイスラム原理主義者による支配を望まないセルビア人は第二次世界大戦中に遭遇した自分たちの経験に恐れを抱いていた。彼らは西側がバルカンにおける目的を遂行するに当たって邪魔者になると見なされたのである。
ここで、西側の大手メディアを観察してみよう。
Photo-3: マッケンジー将軍。2010年。
セルビアの人々は、セルビアの歴史が示すように、常に外敵の侵入と戦ってきた(オットマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、そして、ナチ・ドイツ)が、西側の大手メディアはセルビアが大量の殺害うぃし、集団レイプや集団虐殺を犯したとして描写した。これらの主張は作り話ではあったが、それでもなお、大手メディアはボスニアのセルビア人に対して空爆を開始する口実を提供したのである。国際法の下ではこれは何の基盤にもなり得ないにも関わらずである。国連保護軍の参謀長およびサラエヴォ地区司令官を務めていたルイス・マッケンジー将軍はこう述べている。「ボスニアで国連軍の司令官として勤務して来たわれわれが理解するところでは、メディアの報道の大部分は、より少な目に見てさえも、偏見に満ち満ちていた。記録を正しいものに維持しようとすれば、われわれは決まったようにセルビアのエージェントとして見なされる始末であった。」
こうして、NATOは1994年にボスニアのセルビア人勢力に対する空爆を開始した。しかしながら、米国や英国の政治家らはボス二ア内における地政学的目的を達成するだけではなく、将来他の地域で行うであろう西側・NATOによる介入に対して先鞭を付け、NATOの武勇を見せつけ、西側から独立した政策を取ろうとする国家を尻込みさせるために、もっともっと大きな前例を必要としていた。1995年7月に起こったとして報道されているスレブレニツアでの大量虐殺はまさにワシントンとロンドンの両政府が望んでいたことを提供したのである。今日に至るまで、スレブレニツアは西側による「人道主義的介入」の根拠とされており、米英両国の政治家やジャーナリストがある国家に対して軍事的介入を主張する際にはこれが決まって引用されるのである。たとえば、彼らはリビアやシリアに関してもそうした。
しかし、スレブレニツアでは1995年の夏にいったい何が起こったのかは西側の政治家やジャーナリストがわれわれ一般庶民に信じて欲しいと思うほどには明確ではない。ここで、エルサレムに本拠を置くサイモン・ウィーゼンタール・センターの所長を務めるエフレイム・ズーロフ博士の言葉を引用してみよう。
「私が理解している限りでは、スレブレニツアで起こった出来事は大量虐殺の定義には合致しない。これを大量虐殺と呼ぼうとしたのは政治的理由からだ。」
さらに、1995年にボスニアで国連軍事監視団を務めていたポルトガル軍のカルロス・マルティンス・ブランコ将軍の言葉を引用してみよう。
「スレブレニツアは無実のイスラム教徒の市民が虐殺されたとして、計画通りの記述が行われ、今も続けてそう描写されている。大量虐殺としてだ!しかし、本当にそうだったのだろうか?これらの出来事に関するより詳しい情報を評価してみると、私はそうした見方を疑うばかりだ。」
Photo-4: International Association of Genocide Scholars (IAGS)からの代表団が1995年7月にスレブレニツアで起こった大虐殺の犠牲者を検証。場所はボスニア・ヘルツエゴビナの ポトチャリ集落の近郊。2007年7月。(原典: Wikimedia Commons)
スレブレニツアの物語は、実際には、1995年に始まったわけではない。1992年に始まったのである。当時、イスラム教徒の勢力は悪名の高いナセル・オリッチの指揮の下でスレブレニツアから作戦を展開し、近隣のセルビア人集落の非戦闘員に対して3年にも及ぶ暴力沙汰を継続していた。3年間に3千人を超すセルビア人がイスラム軍によって殺害され、その殺害の様子は想像を絶するような野蛮行為であった。
1995年の夏、ボスニアのセルビア軍にとってはスレブレニツアのイスラム勢力を征服し、セルビア人の集落に対する虐殺を終わらせる好機が到来した。しかし、これはNATOがボスニアで大規模な軍事介入を行うことを「正当化する理由」を与えるべく「大量虐殺」の場を探していたビル・クリントンとボスニアのイスラム勢力を指揮するアリヤ・イゼトベゴビッチが仕掛けた罠であった。
ここで、ベルナール・クシュネル元仏外相が死の床にあるイスラム勢力の指導者イゼトベゴビッチに対して行ったインタビューの一部を引用してみよう。クシュネルはイゼトベゴビッチにこう尋ねた。
「ボスニアの収容所は酷い有様だったけれども、人々が組織的に殺害されていたわけではない。このことはご存知でしたか?」とクシュネルが質問した。これに対してイゼトベゴビッチはこう答えた。「承知していましたよ。私が主張すれば、結果として空爆を開始させることになることは私には分かっていた。つまり、私の主張は間違っていたのだ。絶滅収容所なんて存在してなかった。」
著者の意見では、1995年の夏にスレブレニツアで起こったことは戦争犯罪ではあったが、大量虐殺ではなかった。セルビア人の兵士の中には軍隊からの命令ではなく、イスラムの兵士に対する報復を個人的な動機に基づいて行ったものであることからも、これは戦争犯罪だと言える。そういったセルビア人の兵士によって、恐らくは、約800人のイスラム兵士が殺害された。おぞましい出来事ではあったが、これは戦争犯罪であって、大量虐殺ではない。
さらには、何千人ものイスラムの兵士がセルビア人との闘いで殺害された。彼らは、主として、トゥズラへの森を通過してスレブレニツアから撤退する最中に殺害された。
ところで、「大量虐殺」という言葉はいったい何を指すのだろうか?大量虐殺とはひとつの民族に属する人々のすべてを組織的に絶滅するために行われる殺害を言う。たとえば、第二次世界大戦中に6百万人ものユダヤ人を殺害した事例は大量虐殺である。また、第一次世界大戦中に百万人のアルメニア人が殺害された事例もこの範ちゅうに入る。
しかし、スレブレニツアでは1995年の夏、国連の文書によれば、セルビア人側は35,632人のイスラム教徒の高齢者や婦人、子供、ならびに、若い男の子らがスレブレニツアを立ち去ることを許可した。彼らのほとんどはトゥズラへ向かった。ここで、ルイス・マッケンジー将軍の言葉を再び引用しておこう。
「まったく不快な出来事ではあったが、もしも大量虐殺を実行するならば、女性を逃がしてやる必要はない。そもそも女性は殲滅しようとしているグループが存続するには不可欠の存在であるからだ。」
そして、このことはエフレイム・ズーロフ博士が次の様に述べた理由でもある。
「凶暴な行為を実行する前に、ナチはユダヤ人の女性や子供たちを選りすぐって、脇へ出して欲しかった。でも、結局、彼らは女性や子供たちまでをも殺害してしまった。しかし、われわれ皆が知っているように、スレブレニツアではそこまでは起こらなかった。」
スレブレニツアに関する公式見解を求める質問については、米英両国の政府ならびに大手メディアはそれらの質問をことごとく過小評価しようとする。何故ならば、それは西側が行った「人道主義的な武力介入」がスレブレニツアでの大量虐殺という作り話を抜きにしては成り立たないからである。
Photo-5: スレブレニツア近郊のポトチャニ大量虐殺記念碑に刻まれた犠牲者たちの名前。 (原典: Wikimedia Commons)
クロアチアやボスニアにおける戦争が終わるまで、国際法はふらふらとよろめいたままの状態にあり、米国は世界の頂点を極めた。こうして、この地域や世界中の如何なる場所であってさえも将来の武力介入は今や西側の判断次第となったのである。
しかし、米英両国はバルカンでの仕事を完全に終えたわけではなかった。セルビアとモンテネグロで構成されたユーゴスラビア連邦共和国がユーゴスラビア社会主義連邦共和国の灰燼の中から生まれ、社会主義に基づいて運営された国家ではあったが、自由主義経済が採用され、ロシアとは緊密な関係を保っていた(また、中国ともある程度の関係を維持していた)。バルカンにおける影響力を完璧な物にするために、米国はユーゴスラビア連邦共和国を破壊しようとして、ベルグラードには西側に友好的な政府を樹立し、セルビアとモンテネグロの植民地化を開始した。しかし、ワシントン政府には口実が必要であった。1999年、米国はその口実を見つけた。コソボだ。
コソボとメトヒハはセルビア文化の発祥の地であり、セルビアの生い立ちを語る際の精神的拠り所でもある。この地はセルビア人にとってのエルサレムなのだ。人口学的な変化が起こった結果、特に、第一次世界大戦や第二次世界大戦で数多くのセルビア人が死亡したことから、コソボとメトヒハではセルビア人は今や少数派であり、大多数がアルバニア人である。1998年、アルバニア人のテロリストや組織犯罪者グループから成るコソボ解放軍(KLA)はイスラム教徒のテロリストらと連携し、この地域の独立を勝ち取るために、コソボとメトヒハでセルビア人やアルバニア人の市民や警察、軍人らに対して殺人行為を開始した。
以前はKLA をテロリスト組織として認定していたワシントン政府はKLA に対して政治的ならびに軍事的な支援を開始した。しかし、1999年の始めまでにはユーゴスラビア軍はKLAを殲滅してしまった。こうして、米国はセルビアとモンテネグロを植民地化するという最終目標を実現するためにはKLA の側に立ってコソボとメトヒハに直接介入しなければならないと認識するに至った。しかしながら、米国には口実が必要であった。米英両国のジャーナリストは約50万人ものアルバニア人が殺害されたと報じて、セルビア人はコソボやメトヒハのアルバニア人に対して大量虐殺を行っていると主張し始めたのである。
ラチャックという場所でユーゴスラビア軍の兵士とKLA のテロリストとの間で起こった戦闘を受けて、米英両国はアルバニア人市民が殺害されたと述べて、NATO
の軍事介入を正当化する「切っ掛け」を見つけたと主張した。しかし、後に、この殺害に関する報告は偽情報であることが判明した。ベルグラード政府が米国の最後通牒を拒否した後、NATO
はユーゴスラビアに対して78日も続く空爆を開始した。これには国中の民間の爆撃目標も含まれ、劣化ウラン弾が民間地域にも投下され、後にセルビア人の間に癌の発症率の急増をもたらした。
主権国家であり、国連の加盟国でもある国家に対して国連安保理からの認証もなしに行われたこのNATO軍による空爆は今日に至るまで国際法上ではもっとも血生臭い攻撃であり、国際法に準拠するシステムは、これ以降、大きな瑕疵を負ったまま放置された。米国と英国がセルビアに対して行った攻撃はイラクへの侵攻やリビアに対する空爆、ならびに、シリアに対する軍事介入の先例となった。
2008年、ワシントンとロンドンの両政府はコソボのアルバニア人が一方的に独立を宣言することを勧め、彼らの独立を承認した。これは国際法の違反であり、国際的に公認されているセルビアの国境に対する言語道断な侵害である。
コソボとメトヒハにおいて大量虐殺が行われたとする米英両国の主張に関して、2000年にはスペイン人の医師から成る国連の病理学専門家チームによって調査が実施された。セルビア人の州で約2千人もの遺体が発掘された。セルビア人もアルバニア人も含まれており、両者ともほとんどの遺体は戦闘の結果死亡したことが判明した。西側がイラクで大量破壊兵器の存在を主張した時と同様に、コソボとメトヒハで大量虐殺が行われたという西側の主張は完全に嘘であったのだ。
元のユーゴスラビアで西側が実行した行動は西側がその後イラク、リビア、シリア、ならびに、ウクライナで行おうとした行動の前例となった。国際法によって法制化されている独立国や主権国家という概念は元のユーゴスラビア連邦において西側によって破壊されたのである。
この記事の冒頭で1991年は歴史の転換点であったと私は言ったが、1991年はソ連邦がその存続を停止した年でもあったことから、国際政治の舞台にとっては決定的な年となった。
1945年から1991年まで、ソ連邦は国際的な舞台において米国の対抗勢力として素晴らしい役割を演じてくれた。
しかし、大国としてのソ連が弱体化し、その崩壊に伴い、西側は世界的な支配を求め、地政学的に重要な主権国家を空爆し、あるいは、侵略を行って、自分たちが進む道を確保したのである。
ロシア連邦はユーゴスラビアの解体やセルビアに対する空爆、イラクへの侵攻、リビアの空爆、ならびに、シリア紛争の激化を防止することは出来なかった。これは論争点ではあるのだが、もしもソ連邦が解体されていなかったとすれば、上記に列記した出来事は起こらなかったのではないかと私は考える。何と言っても、米国とその同盟国は抑止力としてのソ連邦を試してみようなどとは思わないからだ。
ミカイル・ゴルバチョフやボリス・イエルツィンといった破滅的状況がたまたま存在したことから、米国と英国は世界中で何についてでも思いのままに行動する黄金の機会を与えられ、両国は喜々としてこの機会を掴んだ。
さて、2018年にけるロシアはウラジミール・プーチンの強力な指導力の下に置かれ、いったんは失われた強国としての力を取り戻している。しかしながら、軍事力に関してはロシアは依然としてソ連邦時代の影に覆われているのが現状である。この状況は、将来、変化するだろうと私は思うが、長い時間を要することだろう。
もしもミカイル・ゴルバチョフが有能な指導者であったならば、ウラジミール・プーチンは、今日、ソ連邦を支える共産党の書記長としてこの強国の面倒を見ていたことだろうに・・・と、自分のオフィスに座って、残念に思っているに違いない。1991年は歴史の進む方向を変えた。ユーゴスラビアの破壊やソ連邦の死が、その後、あちらこちらで流血沙汰をもたらし、全世界がその有様を目撃した。西側にとっては、1991年は西側が全世界に対して君臨することを告げた年であったことから、1991年は実に輝かしい年となった。しかしながら、地政学的な要所に位置し、独立国家を標榜する国家にとっては1991年は文字通り、そして、比喩的にも致命的な年となったのである。
*
著者のプロフィール: マーカス・パパドポロスはロシアならびに元のソ連邦やユーゴスラビアを専門分野としている。
この記事は当初グロ―バル・リサーチに掲載された。
<引用終了>
この著者は歴史の流れを俯瞰し、前後関係の文脈を明確に捉え、解説してくれている。中でも、大手メディアでしばしば耳にする「人道主義的介入」という言葉が国際政治の舞台では全世界を欺くためのトリックとして使われて来た経緯を具体的に解明して、説明してくれている。
また、大量虐殺と戦争犯罪の定義の違いは圧巻だ。素人であるわれわれのような一般庶民にとっても非常に分かり易い。それだけに、政治が内蔵するおどろおどろしい偽善性がここに明確に浮き彫りにされている。
そして、最大級の論点は大手メディアが米英両国の国際政策のために果たして来た役割にある。白を黒と言う商業メディアの偽善性がこれほどに明確に論じておる記事は珍しい。そして、不幸な事には、その流れは今も「新冷戦」という形で続いており、米ロ間では大ぴらに取り沙汰されている軍拡の現状を考えると、この記事は非常に貴重な見解を示してくれていると言わざるをえない。
著者は次のような見解を述べて、大手メディアの偽善性を見事に言い当てている。実に秀逸だ。
スレブレニツアに関する公式見解を求める質問については、米英両国の政府ならびに大手メディアはそれらの質問をことごとく過小評価しようとする。何故ならば、それは西側が行った「人道主義的な武力介入」がスレブレニツアでの大量虐殺という作り話を抜きにしては成り立たないからである。
参照:
注1: The Defining Year Was 1991:
The Demise of Yugoslavia and the Soviet Union: By Marcus Papadopoulos, Global
Research, Feb/02/2018
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