ここに「米兵によるべトナム人女性のレイプは標準作戦要領とみなされていた」と題された記事がある [注1]。衝撃的な内容だ。
侵攻する兵士と侵攻された国の女性との関係は多様を極めると私は想像するが、そこには常に決定的な力の差が存在する。それは武器に代表される腕力の差である。言わば、力ずくの勝負の行方は始めから明らかなのだ。
ベトナム戦争における米軍の内部では「米兵によるべトナム人女性のレイプは標準作戦要領であるとみなされていた」とこの記事ははっきりと指摘する。
しかしながら、この標準作戦要領が実際に行われていたという事実は米軍の手によって、さらには、大手メディアによって隠蔽され、過小評価されて、今や、米国の市民だけではなく世界中の人たちからも忘れ去られようとしている。
歴史上、レイプは長い間戦争行為の一部であった。最近の紛争では、たとえば、ボスニア、ルワンダ、ダルフールにおいては今まで以上に戦争行為の重要な一部となっていたという現実を改めて記憶に留めておきたいと思う。
今最低限求められていることは何か?それはこの歴史的事実を風化させず、レイプという戦争犯罪の実態をより掘り下げて理解することにある。その上で、世界中で起こっている戦場におけるレイプ事件、慰安婦問題、ライダイハン、等を議論して行きたいと思う。
今日はこの記事を仮訳し、読者の皆さんと共有したいと思う。
<引用開始>
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「Ideologies of Forgetting: Rape in The Vietnam War」と題された著書の中で、ベトナム人の女性や米兵から得た証言を比較しながら、米国がベトナムへ侵攻していた最中、米兵によるベトナム人女性のレイプは実に「広範に」行われ、それはもう「連日の出来事」であって、本質的には軍部によって「大目に見られて」いたという事実を著者のジーナ・マリ―・ウィーバーが述べている。しかも、その根源的理由は軍隊の訓練そのものにあり、米国の文化にさえも遡る。著者のウィーバーは米兵によるベトナム人女性に対するレイプはどうしてあのように頻繁に起こったのか、そして、この事実はどうして「ベトナム戦争の歴史」から「抹殺されてしまった」のかという点に迫ろうとしている。米軍においては、今日、レイプの現場は外国の戦場から国内の上官らの間に持ち込まれ、米国人の女性兵士がレイプの対象となっていることから、この問題は非常に重要であると彼女は指摘している。
米兵によるベトナム人女性に対するレイプは「非常に広範なスケールで起こったことから、多くの帰還兵はこれは標準作戦要領であったと見なしている」。「組織的、かつ、集団的に行われた。つまり、非公式ながらも、軍部の政策であったのだ。」 ある兵士はこれは「集団的軍事政策であった」と言う。確かに、レイプの後にベトナム女性を殺害するという構図は非常に広範に観察され、これらふたつの行為を組み合わせて実行した兵士は特に「ダブル・ベテラン」と称される有様であった。兵士による証言の中には、たとえば、次のようなものも含まれている。「連中はひとりの少女をレイプし、彼女に最後の性行為を行った兵士が彼女の頭を撃った」(ウィーバーは「性行為をする」という言葉には軍隊の文化においても一般的な文化においても、愛、セックス、暴力が部分的に合体している様子が観察されると注釈している。)二人の米兵士が「草葺きの家」から若い、裸の女を引きずり出した。この話をしてくれた兵士はレイプは「極めて標準的な作戦要領だった」と言う。その女を「19体もの女や子供」が重なっている「山」へ積み重ねて、「M-16自動小銃が火を噴いた。」 それですべてが終わった。あるいは、兵士らは地下壕から少女を引っ張り出し、彼女の家族の目の前で彼女をレイプした。この話をした兵士は「こういった事例を少なくとも10例や15例は知っている」と言った。小隊長は「レイプを見て見ぬふりをした」。捕虜となった女性は「レイプされ、拷問され、その後で彼女らの体は完全に破壊された。彼女らは徹底して破壊されたのである。」 ある軍曹は自分の小隊に「草葺きの家に女がいたら、彼女をレイプするように」と命令していたと報じられている。
ウィ―バーはこれらの行動を生み出す下地となった当時の軍事的、並びに、一般庶民の文化を究明しようとしている。兵士らはこれらの要素は「すでに以前から存在」しており、軍事訓練を通じて「その存在が顕在化される」と言い、一般的な人種差別や性差別を引き合いに出した。ひとりの兵士はこう言った。「軍隊では前に起こったことのすべてが大袈裟に扱われ、風刺される。」 ウィ―バーは軍隊では「敵」と「人種」が合体されていると指摘している。即ち、外国人によって侵攻され、殺戮を受けている連中は制服さえも持たずに、すべてが汚らしくて、邪悪で、普通の人間以下の「モノ」でしかないのだ。米国の文化や軍隊の訓練は女性は劣っている、あるいは、女性は憎むべき存在であって、暴力的に退けるべきだとする考えを助長する。女性は、特にベトナム人の女性はブツでしかなかった。彼女らが女性である場合、彼女らは性的に男に仕え、嫌らしい存在であると見なされた。こうして、ウィーバーはベトナム人女性は二重に劣等であると見なされ、二重に憎まれることになったのだと指摘する。本質的に言って、軍事訓練は男たちがまさに女嫌いの天敵に変身することを強いるのである。ベトナム軍では女性の存在が突出していたこともあって、べトナム人女性に対する敵意はさらに助長された。女性に殺されるかも知れないという懸念が女性をより大きな脅威として捉え、ベトナム人女性に対する攻撃性はより以上に普遍的に起こり、極端なものへとなっていったのである。文化的にも、単純に言って、男たちは性行為をしなければならないし、戦闘行為中ではあってもそれを自制することはできないとする考えがあった。
ウィ―バーはベトナムで起こった攻撃的な暴力のあるものは米国の労働者階級の家庭が持つ「無力感」、つまり、自分自身の将来を決めることさえもできない「無力な親族らによって構成された部隊」によって誘発されたものであるとも指摘している。「無力な」父親像は、多くの場合、「男たちの熱狂的な愛国主義」に変身し、爆発的に表面化する。60年代の米国におけるウーマンリブ運動ではまさにこれらの考え方が触媒作用として働いた。「セックスで新たな権利を与えられる」という感覚は米兵が信じて止まない米国の例外主義と連結したのである。米国はベトナムの国を破壊し、何百万人ものベトナム人を殺害することによってベトナムに対して好意的な行動をしているのだと固く信じていた。だから、ベトナム人の女性は米国人の男たちには借りがあるのだ。数多くの米兵は男らしさを強調する映画を指摘した。「カウボーイとインディアン」の映画である。特に、ジョン・ウェインが主演する映画は軍隊に加わることを鼓舞する上で絶大な効果があった。映画の撮影陣がベトナムへやって来た時には、兵士らは自分らがハリウッド映画の中の兵士であるかのような振舞いをしたものだ。こうして、彼らは自分たち自身の姿を模倣したのである。1968年には、戦争に好意的な米国人を宣伝しようとして、ジョン・ウェインは実際に西部劇スタイルで映画を製作した。「グリーンベレー」という映画では、ベトナム人のインディアンに対して米兵を「カウボーイ」として描いた。この映画は大きな収益を収めたが、酷評を招いた。軍部の新兵募集係はジョン・ウェインの映画がテレビで放映される度に新人の登録が増加したと述べている。
ウィーバーは国家主義についても研究しており、現実に起こったレイプの歴史が「忘れ去られ」、抑制され、抹消された理由や手法についても深く掘り下げようとする。彼女は「国家主義の強化」のために用いられるレイプについて論じている。1)男たちは「自分たちの」女性がレイプされるような敵からは自国を守るのだと主張し、2)自分たちの国が犯したレイプは誤魔化して済まそうとする。こうして、心地よい米国の例外主義の神話を育くみ、それを復元するために、文化的な物語の制作者は羞恥心を感じさせるようなこれらの米国人の振舞いやその他の側面を忘れてしまおうと試みる。これらを白状することは「こうした振舞いが由来した軍事化された例外主義の誤りを暴く」ことにつながることであろう。「これらの出来事を記憶に留めることが仕事である」筈の学者たちさえも「事実を抹消すること」に関わっている。こんな事が起こった理由のひとつについてウィーバーはこう説明している。それはベトナム戦争からの帰還兵を純粋な犠牲者として扱うべく、国家的な位置づけを修正し、考え直すことにあった。これはベトナム戦争の犠牲者を消し去り、その挙げ句に米国が国家としてこの戦争の本当の犠牲者であるとするのである。ベトナム帰還兵が犠牲者でもあり、加害者・戦争犯罪者でもあるとする非常に微妙な解析や説明を提供することにおいては、トラウマ説は上手く行かなかったことを示している(「これが上手く行かなかった」のは、学会を含めて、深く根付いている国家主義の機能のせいであるのかも知れない、とウィーバーは指摘する)。ウィ―バーはベトナム帰還兵の多くが自分たちが犯した流血沙汰を記憶していることによって「犠牲者である」が、流血沙汰を犯したことによって彼らは「加害者でもある」と指摘してしている。(多くの者がそうしたように)自分たちが犯したことを率直に認め、自分たちが言わなければならないことを誤魔化すのではなく、それを受け入れることが立ち直るための重要なプロセスとなるのだ、とウィーバーは述べている。
「ベトナム女性に対する暴力を忘れる手段」は映像媒体に見られる。具体的に言えば、「ハリウッド映画」である。特に、ウィーバーは普通ならば「反戦」映画として受け取られている映画をいくつか指摘する。ベトナム帰還兵であるハスフォードの小説「ショート・タイマーズ」を映画化したキューブリックの「フル・メタル・ジャケット」はハスフォードが原作で書いた米兵によるレイプを揉み消し、軍隊がレイプと殺人とを合体させる様子も抹消してしまった。ハスフォードの小説にはベトナム人の売春婦は記述されてはいないが、キューブリックの映画は二人の売春婦を登場させている。こうして、キューブリックは米国人によって犠牲となった女性を米国兵を腐敗させる女性と置き換えてしまったのである(それでもなお、ベトナムで売春行為を蔓延させたことに関しては、経済や農業を破壊したことによって人々をありとあらゆる生存の手段に追いやったことに米軍は「ほとんど全面的に責任を負う」とウィーバーは指摘する)。
オリバー・ストーンの映画「プラトウーン」はレイプがまさに行われる瞬間を描くが、レイプそのものは映像には含めなかった。彼の映画には一種の規範が見られ、ごく普通の米兵が「悪行」に対して介入し、それを止めさせようとする。デ・パルマの映画「カジュアルティーズ」も同じテーマを描いている。米兵らは戦場で売春婦を見つけることが出来なかったので、レイプを正当化するが、映画ではレイプを(裸体の描写は無しに)描写する際にはひとつの規範があって、マイケル・J・フォックスが演じる中流家庭出身のごく普通の米兵(現実に、これらに関与した米兵は誰もが同じ社会層出身の「家庭人」であった)が「悪行」をしようとする下層階級出身の米兵の前に立ちふさがるのである(実際にはあり得ない介入行為ではあるが・・・)。しかし、こんなことは実際には起こり得ず、本質的には米国人的な出来事の展開ではないという解釈を示唆している。レイピスト・殺害者は現実には報告され、裁きを受けた。デ・パルマは彼らに対する裁判や判決の様子を描いている。そうすることによって、このレイプ問題は限定的であり、最終的には法的システムによって裁かれたとしている。自尊心を高め、一件落着としたのである。しかしながら、非常に簡略な判決が下され、これらの法的処理は実質的には何の意味もなかったということを彼は抹消してしまった、とウィーバーは指摘する。
ストーンの後の作品「天と地」はベトナム人女性のヘイスリップに対する北ベトナム人兵士によるレイプ(実際に起こった話)を描写したものであるとウィ―バーは言う。彼女はこの場面を掘り下げようとはしないが、私の想定では、これは他の映画に比較してもより生き生きと、直接的にレイプを描写しており、レイプを止めさせようとする介入はまったくなく、正当な理由も述べず、加害者は規範者でもない。また、法廷に送り込まれることもなかったことを示唆している。私はこの場面を観察した。私の想定は正しかった。上記に引用したどの映画に比べても、この映画はもっとも生き生きとしている。ストーンは北ベトナム人兵士が雨が降っている泥だらけの地面にへイスリップを押しやる様を描写する。彼女の上着は破られ、彼女の乳房が現れる。そして、彼は自分のズボンを開き、彼女をレイプする。この行為は中距離から撮影され、突き刺す行為が何回か繰り返され、行為中の二人の顔が大写しされる。彼女は拷問に曝された表情を示し、兵士は邪悪に満ちたしかめっ面だ。そこには何の「規範」もない。この行為を中断させようとする北ベトナム人の救済者は現れないのだ。この犯罪は如何なる形でも正当化されない。ここではレイピストは規範的な兵士として描かれ、もうひとりの兵士が護衛役をする。ストーン監督のふたつのレイプの場面を詳しく比較してみると、国家主義がレイプの描写にどれだけ影響を与えるかを良く示している。ウィーバーが記述しているように、自国のメンバーが関与したレイプは抹消され、隠蔽され、否定され、正当化され、規範化され、その国のごく普通の兵士が救済者として介入し、レイプを止めさせる。レイプは非規範者によって成されたのだ。ところが、外部の集団によって成されたレイプ、特に、侵攻の対象となっている国の兵士が関与した場合、レイプは生き生きと描写され、惨たらしい詳細が描写される。そして、これらを埋め合わせる要素はまったく何もない。
著者のプロフィール: ロバート・J・バーソッキ―二は米国研究を専攻する大学院生で、ジャーナリストでもある。映画やテレビの産業界では異文化間の仲介役として何年も仕事を続け、西側の自己像と現実との間に多くの場合驚く程の食い違いを見い出し、爆発的な興味を覚えた。
<引用終了>
これで全文の仮訳は終了した。
次の記述は実に秀逸だ。正直言って、私はこのような解析に初めて遭遇した。
ストーン監督のふたつの(反戦映画の中で)レイプの場面を詳しく比較してみると、国家主義がレイプの描写にどれだけ影響を与えるかを良く示している。ウィーバーが記述しているように、自国のメンバーが関与したレイプは抹消され、隠蔽され、否定され、正当化され、規範化され、その国のごく普通の兵士が救済者として介入し、レイプを止めさせる。レイプは非規範者によって成されたのだ。ところが、外部の集団によって成されたレイプ、特に、侵攻の対象となっている国の兵士が関与した場合、レイプは生き生きと描写され、惨たらしい詳細が描写される。そして、これらを埋め合わせる要素はまったく何もない。
ストーン監督の映画を一本ずつ見ているだけではこの結論に到達することはまったく不可能だ。鋭い観察眼を持ちながら、ふたつの映画を詳しく比較することが必要となる。そのことを考えると、この著者が示した結論は実に秀逸だと言わざるを得ない。レイプに対する国家主義の影響を客観的に示してくれたのである。
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また、この投稿と関連して、読者の皆さんの注意を喚起しておきたい点がひとつある。
それは「慰安婦問題について - 国際的な視点から (副題: ベトナム戦争における米軍、ならびに、ドイツの占領下にあったフランスを開放した米軍)」と題した2013年7月9日の投稿である。そこにはさまざまな歴史的事実を提示しているので、べトナム戦争におけるレイプを論じるに当たって何らかの参考になるのではないかと思う。
参照:
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