2017年2月12日日曜日

トランプ政権はすでに死に体か?



120日、米国にトランプ新政権が誕生した。あれからまだ1ヶ月にもならない。

したがって、同政権を評価することはあまりにも近視眼的である。それにもかかわらず、世間にはトランプ政権をあれこれと批判する声が実に多い。なぜだろうか?

ひとつには、トランプ大統領自身が国際政治にはまったくの素人だとする見方があって、外交には疎い新大統領が行おうとすること、たとえば、メキシコとの国境沿いに塀を建設するとか、イスラム教徒の入国を禁止するといった政策やその進め方がひどく稚拙に見えてしまうからではないか。そして、もうひとつは、昨年11月の大統領選で大敗を喫したヒラリー・クリントン候補を支えていた活動家や民主党を支えるネオ・リベラル派は、主要メディアやジョージ・ソロスと組んで、新政権をあれこれと非難し、街頭デモを行い、トランプ叩きを継続することに余念がない。

新政権にあれこれと注文をつけることはむしろ建設的なプロセスだ。メディアは社説で多いに論じるべきだ。

しかしながら、彼らは世論操作のためのフェーク・ニュースに貴重な人的資産をふんだんに投入しているのが現状だ。1960年代から1980年代にかけての米国では調査報道がメディアの主流であった。ニクソン大統領を辞職させたワシントンポストのニュース記者の活躍は映画にもなって一世を風靡した。しかし、今や、そうした伝統を持つワシントンポスト紙さえもが退廃の一途を辿っている。メディアはもはや娯楽の一形態でしかない。英語圏では「infotainment」という合成語が新たに登場し、ニュース報道は娯楽の一翼を担う役割を与えられているに過ぎない。この新語は、とりもなおさず、現在のメディアの位置を象徴していると言えよう。

こうして、一般庶民の洗脳のためには膨大な資源が投入されている。そんな人的資源の浪費は止めて、真実を報道することに少しでも専念して欲しいものだ!

こうした表面的な諸々の現象を目にして、これらの現象の背後にはいったいどのような真相が隠されているのだろうか?われわれ一般人には見えてこない根源的な理由はいったい何だろうか?

そのような問いに対する識者の答えがひとつ見つかった。米国の政治に関しては冷静、かつ、辛辣な論評で名高いポール・クレイグ・ロバーツの記事 [1] である。その表題には「トランプ政権はすでに死に体か?」という衝撃的な言葉が躍っている。

本日はこの記事を仮訳して、読者の皆さんと共有したいと思う。


<引用開始>

トランプ新政権に対する希望は必ずしもその明るさを増し、さらに燃え上がりつつあるわけではない。トランプ政権の国防長官に指名されたマティス将軍は彼のニックネームである「狂犬」に相応しい姿を見せ始めた。イランは「世界で唯一のテロ支援国である」と、最近、 彼は断言した。

彼はロシアは米国にとって最大級の脅威であるとも言っている。

彼は中国の領土問題に介入するという脅しもかけている。

私は間違がっていた。わたしはマティス将軍の起用はまともな選択だと思っていたのだ。何故ならば、彼は拷問の効果に関しては異論を唱えており、トランプ大統領によれば、「拷問は効果がない」ことをトランプにも確信させたとのことであったからだ。しかしながら、マティスはどうやらこのレベルの確信を超えて、それよりもさらに先にある次元がより高い地政学的な確信にまでは到達することはできないようだ。トランプ大統領はロシアとのまともな関係の再構築の行く手を塞ごうとするペンタゴンの長官としてのマティスを解任する必要がある。

イランやロシアおよび中国の挙動にはマティスの見解を支持する証拠は何もない。「脅威」という言葉に関する彼の定義はネオコン派のものである。つまり、米国の覇権に抵抗する国家を指している。これは軍産複合体にとっては非常に好都合な言葉だ。そのような「脅威」が存在することによってこそ、天井知らずの軍事費の予算を正当化できるからである。この覇権に対する強い欲求こそがテロリズムの源泉となっている。

真実を語ることが許されるとすれば、覇権に強い願望を抱く国は世界中でも2カ国しかない、と私は断言したい。米国とイスラエルだ。そして、これらのふたつの国がテロリズムの源泉となっているのだ。イスラエルはパレスチナ人にテロ行為を行い、すでに約70年となる。米国は全世界でそれ以外の国々でテロ行為を働いている。

イスラム教徒のテロリストは、知り得る限りでは、米国政府が作り上げた産物である。アルカエダは、アフガニスタンが旧ソ連によって占領されることを聖戦によって阻止するために、カーター政権によって作られた。ISISは、トランプ政権の国家安全保障補佐官に任ぜられた国防情報局元長官のフリン少将がテレビで公表したように、リビアのカダフィ政権を打倒するためにオバマ/ヒラリー政権によって作られた。ドネツクおよびルガンスクの両共和国を攻撃しているウクライナのネオナチらはオバマ/ヒラリー政権がウクライナで民主的に選出されていた政権を打倒したことによって解き放たれた。ワシントンとイスラエルはすべてのテロ行為に関連している。

ウクライナ政権の打倒にワシントン政府が関与した事実には反論の余地がないけれども、洗脳されてしまった大多数の米国人はロシアがウクライナへ侵攻したと信じ込んでいる。この洗脳の構図は「イランはテロ支援国家である」とするフェークニュースを信じてしまうことと酷似している。

イランが最後に他国に対して侵略戦争を行ったのは18世紀最後の10年間であった。当時、コーカサス地方とジョージアを再度征服したが、イランは間もなくロシアとの戦争の結果それらの地域を失った。

我々の時代におけるイランは侵略行為を行ってはいない。単にワシントン政府の傀儡国家になることを拒んでいるだけだ。

加えるに、自らは何の政策も持たず、独立した対外政策を持たず、独立した経済政策を持たないイスラム教徒の国家の間では、ロシア人によって救出されたイランとシリアだけが米国に従順な傀儡政権ではない。

イランは膨大なエネルギー資源に恵まれた大国である。イランはその独立心と軍事能力に関しては古代まで遡る長い歴史を持っている。今日、イランはロシア連邦のイスラム教地域にイスラムによる聖戦を引き起こそうとする米ネオコン指導者らの企てに対する緩衝地帯としてロシアにとっては非常に重要である。その結果、もしもトランプがロシアとの間に脅威を与えない正常な関係を構築しようとするならば、イランはトランプにとってはもっとも都合の悪い目標である。その上、狂犬とのニックネームを持つペンタゴンの長官は、向こう見ずにも、イランは「テロリスト国家」であると主張し、脅しの声明を発している。

イランに対する脅かしにはイスラエルの手が伸びているのであろうか?中東においてはイランとシリアは米国の操り人形ではない唯一の国家である。シリア軍は戦闘を通じてより以上に頑健な軍隊になっており、これはシリア軍が米国の支援を受けたイスラエルに立ち向かうためには必要不可欠である。シリアとイランの両国はナイル川からユーフラテス川までに及ぶ「大イスラエル」というシオニスト構想を奉じるイスラエルの前にはだかっている。シオニストにとってはパレスチナやレバノン南部はほんの緒戦に他ならない。

イスラエルは腐敗に満ちた英国を実に巧妙に活用して来た。そして、今は、神が彼らを放り出した地で自分たちの領土を再構築するために腐敗に満ちた米国を操ろうとしている。これは英国や米国の知性や道徳を褒めるものではない。そもそも褒めるべき事柄なんていったいあるんだろうか? 

また、マティスやティラーソンからは中国の影響圏に対して干渉しようとする脅かしの声が聞こえて来る。トランプ政権の要職に指名されたこれらの高官は、イランや中国に照準を合わせているようでは、ロシアとの関係を改善することはできないということが十分に理解することができてはいないようだ。

トランプ政権には地政学的に覚醒する見込みがあるのだろうか?強気な発言をするトランプ政権は米国の外交政策に影響力を及ぼそうとするイスラエルのシオニスト勢力を屈服させ、米議会の票をひっくり返すだけの十分な頑健さを果たして見せてくれるだろうか?

もしもそれが不可能であるとすれば、より多くの戦争が不可避的に勃発することだろう。

24年間(つまり、犯罪者的なクリントン政権の8年間、ブッシュ政権の8年間、ならびに、オバマ政権の8年間)にわたって世界はワシントンからの脅かしを受けて来た。その結果、何百万人もの無辜の市民が殺害され、幾つもの国家が崩壊した。トランプ政権は今までとはまったく異なるワシントンの姿を全世界に向けて提示する必要がある。

著者のプロフィール: ポール・クレイグ・ロバーツ博士は経済政策担当の財務次官補を務め、ウールストリートジャーナルでは副編集長として働いた。また、ビジネスウィーク、スクリップス・ハワード・ニュースサービス、および、クリエーターズ・シンジケートではコラムニストとして執筆した。数多くの大学から招聘を受けている。彼のインターネット・コラムは世界中の読者を魅了している。ロバ―ツ博士の最近の著書:The Failure of Laissez Faire Capitalism and Economic Dissolution of the WestHow America Was Lost、および、The Neoconservative Threat to World Order

注: この記事に掲載された見解は全面的に著者のものであって、必ずしもInformation Clearing Houseの見解を代弁するものではありません。 

<引用終了>


この記事を読むと、ネオコン派のイデオロギーや政策が如何に米国の政策を歪めているかがよく分かる。歴史を歪曲し、一般庶民を洗脳してしまう。それが過去24年間の米国政府の姿だ、と著者は言う。

また、結びの言葉が素晴らしい。

24年間(つまり、犯罪者的なクリントン政権の8年間、ブッシュ政権の8年間、ならびに、オバマ政権の8年間)にわたって世界はワシントンからの脅かしを受けて来た。その結果、何百万人もの無辜の市民が殺害され、幾つもの国家が崩壊した。トランプ政権は今までとはまったく異なるワシントンの姿を全世界に向けて提示する必要がある。

トランプ新大統領が今までとはまったく異なるワシントン政府の姿を全世界に向けて提示することができたとしたら、彼は間違いなく米国のトップクラスの政治家として歴史に名を残すことになるだろう。そうなれば、クリントン、ブッシュおよびオバマの三人の大統領とは大違いとなる。

ここで言う「今までとはまったく異なるワシントン政府の姿」とは経済的、政治的および軍事的覇権を追求する今までの国内政策や対外政策とはまったく異なるものであり、多国籍企業のためにさまざまな国際条約を締結して米国の利益のみを確保しようとする姿勢とも異なり、気に入らない政権の転覆や傀儡政権の樹立に翻弄する対外政策の対極に位置するものを指す。それは過去24年間の米国の政策を正面から否定するものに他ならない。

現在の米国の政策やNATOの動きは軍産複合体という一部の組織や企業の利己的な延命策に翻弄されている。一般大衆は覇権の維持のために主要メディアによって作り出されたイデオロギーによって洗脳されている。こうして、最悪の場合、米国ではロシアに対する核先制攻撃さえもが正当化されよう。米ロ核大国間の核戦争による相互確証破壊を誘発し、人類の絶滅のリスクは、偶発的な核戦争を含めて、飛躍的に高まってしまう。今までの米国の政策と決別することによってしか人類は生き延びることができないのだ。国際社会は、富める国も貧しい国もすべてが分け隔てなく、今や、そのような位置にまで追い込まれているのだと認識しなければならない。

トランプ政権の出現は伝統的な指導者層にとっては天地をひっくり返すような大きな変化である。トランプ政権が約束のすべてを実現できるとはとても思えないが、その基調は米大統領選の最中に繰り返して聞かされてきた。そして、昨年11月の米国の大統領選ではトランプ候補が大勝した。選挙民が彼を選んだのである。

ポール・クレイグ・ロバーツによれば、トランプ新政権に対する希望は必ずしもその明るさを増し、さらに燃え上がりつつあるわけではないと言う。しかしながら、これは新政権の発足の前後に見られた、そして、今でも続いているクリントン候補の陣営による執拗な嫌がらせやサボタージュによって引き起こされた一時的な混乱に過ぎないのではないか。

今後必要な軌道修正を適宜行って、トランプ新大統領による選挙公約の実現を目にしたいものだ。



参照:

1Is The Trump Administration Already Over?: By Paul Craig Roberts, Information Clearing House, Feb/06/2017






2017年2月7日火曜日

フィンランド式学校教育は「詰め込まない方がいい」と示している - 11の要素



国際機関のひとつに経済協力開発機構(OECD)という組織がある。その本部はパリに置かれ、現在の参加国は日本も含めて35カ国。いったい何を行う国際機関なのかと聞かれても、われわれ一般庶民には明確に答えることは難しいが、この機関はさまざまな経済統計を行い、報告をしている。それらの活動の中に、「OECD生徒学習到達度調査」(PISA)という調査がある。2000年に始まって、3年毎に調査が行われてきた。このPISA調査では、義務教育修了段階の15歳児が持っている知識や技能が実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用されているかが評価される。

読解力に関して2000年に行われた最初の調査では32カ国(OECD加盟国28カ国、および、非加盟4カ国)が参加した。2003年の数学的な読み書き能力に関する調査には41カ国(OECD加盟国30カ国、および、非加盟11カ国・地域)が参加し、2006年の科学的な読み書き能力に関する調査には57カ国(OECD加盟国30カ国、および、非加盟27カ国・地域)が参加した。最近の調査(2015年)は72カ国・地域で科学的な読み書き能力を中心に実施され、調査結果が文科省によって出版されている。

たとえば、2003年のPISA調査の結果によると、日本の15歳児の数学的な読み書き能力全体の平均得点は534点で、香港、フィンランド、韓国、オランダ、リヒテンシュタインと統計的な有意差がないため、1位グループであるといえる、と要約されている。

しかし、ここで注目したいのは日本の生徒が1位グループにあるかどうかではない。

フィンランドやシンガポール、あるいは、日本やエストニアの生徒は1位グループの常連である。中でも、フィンランドでは授業時間が短かく、宿題は皆無だという。それでも、トップグループにいられるのは何故か?要するに、トップグループの間ではフィンランドは他の国とはまったく違った教育方式を採用しながらも、好成績を実現しているのである。

本日は、そんなフィンランドの教育事情を報告した2015年の記事 [1] を仮訳して、読者の皆さんと共有したいと思う。

この引用記事の著者は米国の数学教師である。彼はフィンランドの教育現場で自分たちの常識とはまったく異なるさまざまな教育の進め方を体験した。彼にとっては驚きの連続であったようだ。


<引用開始>


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私はフルブライト国際交流プログラムからフィンランドへの研究旅行の機会を与えられた。7年生の数学の教室を去る時、このような貴重な機会に恵まれたことによって、私は生徒たちをより活気づけ、授業内容により多く没頭できるような、それでいて非常に独創的な授業の仕方に関する知識をたくさん手にして帰国することになるだろうと考えていた。私は自分の数学の授業をどう教えるべきかに関してまったく新しい進め方や重要な考え方を身に付けることができるのではないかと期待した。さらに、私はより多くの授業を行い、数学をもっとたくさん教え、生徒たちにはもっともっと考えさせ、たくさんのことを話し合い、たくさんの数学の問題を解くよう指導することができるようになるだろうと期待していた。

米国の教師たちの間では、この「もっと多く、もっと多く」という衝動は、多くの場合、ごく普通のことだ。われわれの間ではこのような状況が第一日目から始まる。われわれ教師には生徒たちを常に鼓舞し、より高いレベルに到達させ、より大きな事柄を達成するようにと圧力がかけられる。授業はもっと面白く、もっと興味をそそり、もっと多くの内容を提供するものでなければならない。この現象はデータによって測定され、親たちや学校の管理者によって、あるいは、単純に言って、我が国の仕事中心の社会によって後押しされ、この社会ではわれわれがその日にどれだけ忙しい思いをしたか、あるいは、その日の終りにどれだけ疲れ切ってしまっているかによって自分たちの人間としての成功を測ろうとする。われわれはやり遂げたことのリストによって自分たちの価値を測ろうとし、無駄に過ごした時間を犯罪視する。われわれはこの「最後までやり遂げる」という心意気を生徒たちに教えるが、生徒たちは時にはどこか途中で放り出したり、時にはわれわれ教師と同様にすっかり疲れ切ってしまう。

私がフィンランドに到着した時、数学の授業に挑戦させるような偉大で、派手で、独創的な考えを自分の目で見ることはなかったし、特に数学に秀でている生徒や数学の内容を奥深くまで理解している生徒を見い出すこともなかった。事実、中学校や高校での数学の授業はインディアナ州で私自身が典型的に経験してきたものとほとんど同じであった。(基礎的な事柄を記憶してはいない生徒のように)苦労させられる課題や内容はほとんど同じである。フィンランドでの数学の授業やその構成の仕方は何世紀にもわたって数学の先輩教師らによって編み出されてきた方式を踏襲している。つまり、教師は宿題を復習し、知恵を与える(何人かの生徒は先生の言うことを良く聞き、何人かの生徒は聞こうともしない)。そして、宿題を課す。いくつかの授業は素晴らしく、立派な先生を何人も見た。その一方で、全体としては、米国の中学校ではもっと興味をそそる授業をし、生徒たちと一緒になって数学の問題を解こうとする先生たちをたくさん見て来た。数学の授業が私の勤務する学区よりも素晴らしく、それを測定することが可能な事例に遭遇することは非常に稀であって、むしろ、実際にはもっと貧弱な例がいくつもあった。

いったい何が違うのか?中学校での数学の授業が米国で見る授業と同じであって、ややもするともっと貧弱でさえあるとするならば、どうしてフィンランドの生徒は高成績を収め、米国の生徒は貧弱な成績に終わるのであろうか?授業そのものにはそれ程の違いはない。上手な教え方はどこの国でもほぼ同じだ。上手な教え方はフィンランドでも米国でも見い出すことができる。(悪い教え方についても同様なことが言える。)その違いは形としては現れにくく、より根源的だ。フィンランドの人たちは「少ない方がいい」と本当に信じている。この国家的な合言葉はフィンランド人の信念に深く刻み込まれており、フィンランドの教育哲学の指針となっている。

少ない方がいい。 

これを彼らは信じている。彼らはこの信念に従って行動している。彼らの家屋は快適に生活するのに必要な面積よりもはるかに大きいわけではない。彼らは決して多くを買わず、浪費はしない。彼らは単純で謙虚な生活を送る。10種類ものシリアルがあれば事足りる時、300種類ものシリアルを持つ必要性はまったく感じないのである。女性は化粧を少ししかしない。男性は巨大なトラックを所有しようとはしない(あるいは、車を持とうとさえも思わない)。何百点もの安物の衣料を購入する代わりに、フィンランド人はたった数か月ではなく何年も持つような高級品を何点か購入する。彼らは「少ない方がいい」という考え方を本当に信じており、それに従って行動する。

それとは反対に、米国ではわれわれは本当に「多い方がいい」と信じて、自分の生活においてもわれわれは常にあらゆる面でより多くの物を求め、より多くの物を購入する。自分たちの生活の質を高めるために、われわれは新しい物や輝かしい物、あるいは、刺戟的な物に憑りつかれている。古いものは捨て、新しいものを取り込む!この「多い方がいい」という考えはわれわれの生活のすべての面に忍び込み、それはわれわれの教育制度をも混乱させ、窒息させる。

ひとつの教育哲学が実際に役立つのかどうかを見極めるために十分に長い期間その哲学をしっかりと守ることさえもわれわれにはできない。われわれは常に新しい手法や考え方、あるいは、構想を試そうとする。当面、われわれは「もっと多く」がわれわれの教育課題のすべてに対する答えであると信じている。より多くのクラスを編成し、毎日の学科編成を長時間にわたって埋め尽くし、より多くの宿題を与え、生徒に対してはより多くの圧力をかけ、盛りだくさんの授業を行い、より多くの会合に参加し、より多くの課外個別指導を行い、そして、もちろん、より多くの試験を行う!その結果、すっかり疲れ切った先生が多くなり、疲労困憊した生徒が増え、欲求不満は高まるばかりだ。

ところが、フィンランドでは「少ない方がいい」と皆が信じている。これは先生方や生徒たちの両者に対して幾つかの例証を挙げることができる。

詰め込まないことが結果としてはより多くの成果をもたらす!


1.  公式の義務教育はより少なく - より多くの選択肢を

フィンランドでは義務教育は7歳から始まる。7歳だ!フィンランドでは子供たちは子供でいることが許されるのだ。つまり、教室に押し込められることはなく、むしろ、遊ぶことや冒険をすることから何かを学び取ることができる。しかし、彼らが遅れを取るようなことはないのだろうか?それはないのだ!発育の段階から見ると、子供たちは実際に学校で学び、何かに重点的に集中する用意ができた年齢になってから学校へ通い始める。この最初の年から9年間の義務教育が始まる。9学年が終了した後は選択次第だ。16歳の時、生徒らは下記の三つの選択肢の中からひとつを選ぶこととなる:

 高等学校: この3年間のプログラムで大学への進学を決める大学入学許可試験のための準備をする。生徒たちは、通常、高校の専門性を考慮してひとつの高校を選び、その高校への入学を出願する。私の理解するところでは、これは高校とカレッジの中間みたいなものだ。(近年は40パーセント近くがこの選択肢を選ぶ。) 

 職業教育: この3年間のプログラムは生徒たちにさまざまな職業のための訓練を施し、もしも大学への進学を希望するならば彼らに大学入学許可試験を受ける選択肢が提供される。しかしながら、通常、このコースにある生徒たちは自分たちの技能に満足しており、就職するか、あるいは、さらなる教育訓練を求めて技術系大学へ進学するかのどちらかを選ぶ。(60パーセント弱がこのコースを選ぶ。) 

(でも、ちょっと待ってくれ!誰もが微積分や経済学、応用化学を履修するべきではないのか?! いや、皆が大学へ進学するべきだとは言えない!フーム・・・、これは興味深い議論だ・・・。立派な(そして、いい稼ぎをする)溶接士や電気工になろうと望んでいる生徒たちに選択肢を与えてはどうだろうか?自分の有能な分野は高校の3年間に学問的な教育を受けることではなく、実際にはそれ以外の分野に才能があることをすでに知っており、高校の授業が退屈で、何の役にも立たないと思っている生徒たちに無駄な学習を強要しているとしたらどうだろうか?彼らには自分たちが興味を感じ、優れた才能を持っている分野について教育訓練を受け、適切な職業を見い出せるようにしたらどうだろうか?これらの生徒たちには自分自身の価値を感じ取り、教育の領域でも自分の立ち位置が大好きだと思えるようにしてやったらどうだろうか?) 

 職に就く。 (5パーセント弱がこのコースを選ぶ。)

2.  学校での時間はより少なくする = より多く休ませる

学校は多くの場合9時から945分の間に始業する。実際に、フィンランド政府は学校は午前9時前に始業してはならないと法律で制定する考えだ。何故かと言うと、研究結果によると、青少年は質の高い朝の睡眠を必要とすることが一貫して証明されているからだ。学校は午後の2時から245分には終業する。ある時は学校は朝早く始業し、ある時は遅く始業する。

フィンランドの生徒の日課は常に異なり、変化するが、典型的な日課の場合は75分間の授業が毎日三つか四つある。そして各授業の間には休憩時間がある。この制度は、全体としては、生徒や先生らが十分に休息を取り、授業を行う側や受ける側がそれぞれ必要とする準備をするのには打って付けだ。

3. 授業時間をより短くする = 計画を練る時間をより多くする

先生方にとっても一日当たりの勤務時間が短くなる。OECDによると、フィンランドの先生は平均で年間600時間、あるいは、一日当たり約4回以下の授業を受け持つ。米国の平均的な先生はその約2倍となる、年間1,080時間以上の授業をする。これは毎日6回以上の授業に相当する。また、フィンランドの先生や生徒は授業がない時間には学校に詰めている必要はない。たとえば、木曜日の午後には授業がないとすると、先生も生徒も下校することができる。

あるいは、水曜日には11時に授業が始まるとすると、先生も生徒もその時間までに学校へ来ればいいのだ。つまり、この制度はフィンランドの先生が各授業について計画を練ったり、授業の事をあれこれと考えたりするのにより多くの時間を提供してくれる。これは立派な、思考力を刺激するような授業をもたらすことに貢献する。

4. 先生の数をより少なくする = 一貫性を高め、生徒の世話をする 

フィンランドの小学生は多くの場合小学校の6年間を同一の先生の下で過ごす。そう、6年間!同じ先生が一群の小学生を6年間継続して面倒を見、彼らを育み、教育するのだ。6年間を一貫して15人から20人程の生徒と一緒に過ごし、先生は個々の生徒が必要とする授業内容や個々の生徒の学習様式を詳しく見定めることができる。先生方は個々の生徒がどのような履歴を辿って来たのか、そして、今後は何処へ向かって行くのかについても良く分かっている。子供たちが辿って来た進歩の跡を追跡し、彼らが成功を収め、目標を達成する様子を確かめることに先生方は個人的な関心を注ぎこむ。自分自身が次の年も同じ子供たちの面倒を見ることになるので、次の先生に「責任を転嫁する」ことなんて不可能だ。もしも躾や行動様式に問題があれば、先生はそれが小さな芽のうちにそれを摘み取ってしまうのがいい。さもなければ、これからの6年間をかけてその問題点と向き合うことになる。(フィンランドではいくつかの学校は6年間ではなく3年間で先生が変わる場合があるが、フィンランド方式の利点は依然として同じだ。)

この制度は一貫性をもたらし、個々の子供が必要とする世話や個別の心遣いを可能とすることから子供たちにとって有用であるばかりではなく、先生は子供の履修科目を歴史的に、途切れもなく理解することができるので先生側にとっても極めて有用である。先生は子供たちを次のレベルへ導くためには何を必要としているのかを良く知ることができる。その一方、先生には個々の生徒たちのペースで授業を進める自由も与えられる。先生たちは翌年の別の先生のために「準備する」べく授業の進度を早めてみたり、遅くしてみるといった圧力は感じないで済むのだ。もう一度繰り返して言うが、先生は翌年も同じ子供たちの面倒を見ることから、自分が教える教科については全面的に自分のコントロール下に置くことができる!先生たちは子供らが今どの辺りに居るのか、子供たちがすでに学んだ内容は良く分かっており、生徒たちのニーズにしたがって将来の計画を立てることができるのだ!これはフィンランド式教育が成功を収めている理由の中でも非常に大きなものだと私は考える。しかしながら、この成功物語はそれに相応しいだけの関心を受けているわけではない。

5. 先生を志望する申請者のうちで受理される数はより少なくする = 先生に対する信頼をより高める

ところで、子供たちは3年間あるいは6年間継続して同一の先生から指導を受ける。もしもあなたの子供が「できの悪い先生」にぶつかったとしたらどうするか?フィンランド政府は「できの悪い先生」を根絶することに真剣に注力している。小学校の教師になるのはフィンランドではもっとも競争が激しい分野である。フィンランドの小学校教育部門は全申請者の10パーセントだけを採用し、何千人もの残りの学生は却下される。小学校の教師になるためには、申請者はクラスでトップの成績を収め、特に優れた頭脳を持っている必要はない。採用となるには彼らは一連の面接や人格に関する適正審査に合格しなければならない。つまり、クラスで一番であることだけでは必ずしも十分ではなく、小学校教師として合格するには持って生まれた才能や子供を教えることに執着心を持っていなければならない。

フィンランド人は教える能力は勉強することによって獲得することができるとは思ってはいない。それは持って生まれた才能と情熱である。ある人は持ってはいるが、ある人は持ってはいない。フィンランドでは教員養成課程をもった大学は多くはなく、これらの大学はそのような才能を持った学生だけを受け入れる。優秀な成績や先生になれる持って生まれた資質に加えて、先生は誰もが修士論文を書き、修士号を取得しなければならない。これがフィンランドの先生に対する信頼や自信を高めるているのだ。親たちは先生が高い資格を有しており、十分な教育訓練を受け、それぞれが極めて有能であると信じている。彼らは先生の権威や決断を干渉したり、侵害しようとはしない。私は「皆さんは生徒の親御さんから電子メールを何回位受け取りますか?」と数学の先生に聞いてみた。彼らは肩をすぼめて、返答してくれた。「5回か6回程度」と。「おや、私も一日にそれと同じ位の電子メールを受け取っていますよ」と私は言った。すると、彼らはさらにこう付け加えた。「いや、そうじゃなくて、一学期あたりに5通か6通!」 ここでも言っておきたいのだが、信頼と尊敬の念に根ざした社会で生活することっていったいどんな感じだろうか?

6. より少ない授業 = より多くの休息

前にも言ったように、生徒たちは一日に三つか四つの授業を受けるだけだ(稀には、五つの授業があることも)。外では雨が降っていようが晴れていようが、何回かの休憩や軽食の時間もある。これらの15分から20分の休憩時間は彼らに勉強したばかりの内容を消化する余裕を与え、筋肉を動かし、足を伸ばし、新鮮な空気を吸い込み、「何かもぞもぞしたもの」を吐き出してしまうのには実に有効だ。これらの休憩時間には神経学的な利点がいくつかある。次々と提出された研究結果によると、子供たちが有効に学習を継続するには身体的な活動をすることが必要である。身体の活動が停滞すると、脳の停滞を招き、活発な子供たちを注意散漫にする。

先生方にも休憩時間がある。フィンランドの学校での初日、一人の先生が「職員室」の現状に関して私に詫びた。そして、職員室って何処でもこんな状況にあるに違いないと言って、彼女は言葉を続けた。私は笑って、気前よく同意したが、頭の中では「職員室って何?」と自問自答していた。米国では職員室は今はもう消えてしまったが、かっては教師のための部屋があった。フィンランドではこれらの部屋には何時も先生たちがたむろしている。仕事をしたり、準備に没頭したり、コーヒーを飲んだり、ひと休みしたり、同僚と雑談をしたり、次の授業のために精神的に備えたりとさまざまだ。

中学校の先生は、通常、授業の間に10分から20分の休憩があり、授業がない時間帯も時にはある。これらの職員室は学校によっては大きく異なるけれども、基本的な形式としては23個の机があって、23個のソファーがあり、コーヒーポットがあり、台所があって、何らかの果物や軽食が用意されている。先生たちは話をしたり、協力し合ったりする。時には、マッサージ用の椅子さえも備えている!

ところで、どうして米国ではこの種の協力し合い、支援し合い、慰め合うのに適した場所がないのだろうか?実は、われわれにはそんな時間が全然ないのだ!毎日、われわれはたて続けに六つも七つもの授業をしており、休憩する時間はない。われわれが手にする3分から5分の時間は、多くの場合、親たちからの電子メールに返事を書いたり、黒板を消したり、次の授業の準備をしたり、コピーを作成したり、生徒の質問に答えたり、生徒たちが残して行ったゴミ屑を拾ったり、そして、トイレへ行ったりするのに使う。暇な時間がある場合は、われわれは廊下を監視することになる。何故かと言うと、何らの監督もなしに生徒たちが教室へやって来るとは思えないからだ。実際に10分間も腰を下ろして、同僚と一緒にコーヒーを飲む、そして、一日にたった3回だけの授業を行うという贅沢は完璧な夢でしかない。それはもう幻想みたいなものだ!

7. 試験はより少なくする = より多くを学ぶ

毎年頭上に現れる巨大な全国レベルの試験がもうないとしたら、生徒たちと一緒になってどんなに素晴らしいことをすることができるだろうか?あれこれと想像してみて欲しい。あなたの給料が試験の成績と連結してはいないとしたら、あなたはどれだけ自由な気分を味わうことができるだろうか?想像してみて欲しい。あなたの授業がどれほど楽しくなるか、どれほど興味をそそってくれることか、想像してみて欲しい!

依然として存在してはいるようだが、フィンランドでは授業科目を完全に終わらせることに関しては、全体として、先生に対する心理的圧力がより少ない。率直に言って、先生はいい仕事をするものと信頼されており、それ故に先生は教室での出来事や授業内容についてはより多くの影響力を持っている。先生はより多くのリスクを取ることができ、新しいことを試み、楽しくて興味をそそるような授業編成を試してみることが可能だ。こうして、生徒たちは個人として現実社会のために十分な準備をすることができ、必要な技能を身につける。先生たちにとっては生徒たちが個人として成長し、プロジェクトをどのように開始させるか、ならびに、目標を達成するにはどのように組織だった学習をするのかに関して必要な術や技能を教えてやる時間がある。先生たちには手工芸を教える時間もある。ここでは、生徒たちは裁縫や料理、掃除、木工、その他の実生活に直結した技能を学ぶ。これらの素晴らしい技能を学びながら、生徒たちは数学を学び、問題解決の仕方やどのようにして指示に従うのかを学んでいく。

8. 授業の課題はより少なくする = より深くする

私はフィンランドで5年生から9年生までのクラスをいくつか観察した。私はこれらの5年間にわたる教育によって網羅される授業内容に注目してみた。その結果、フィンランドでは5年をかけて教えている数学の内容を私は実は1年間で教えようとしていることに気が付いた。フィンランドにおいて各学年で行われている数学の授業の課題はすべてが私が米国で教えている7年生の授業に含まれているのだ。

「多ければ多い程いい」という米国式の考え方は、率直に言って、うまくは行かない。もしも私が1年間で教えなければならないことのすべてを教えようとするならば、一日おきに新しい課題あるいは授業内容を導入しなければならず、それでも私は何時も「遅れている」と感じることだろう。いったい何に対して遅れているのか?私には分からない。しかし、そこには心理的圧力が間違いなくあって、私を追い立て、生徒も一緒に追い立てられるのだ。フィンランドでは、先生は自分の時間をたっぷりと取る。特定の課題を奥深く研究する。そして、たとえ多少の遅れがあったり、その一年間に数学の課題のすべてをカバーし切れなかったとしても、パニックには陥らない。

また、生徒たちは週に何回か数学の授業を受けるだけである。事実、復活祭の休暇の後には私の7年生の生徒たちは週に一回数学の授業を受けていただけだ!このことを聞かされると、私のハートはいささか苦痛を感じてしまう!それだけで数学の授業が足りるとは私にはとても思えない!いったいどうやって試験のための準備をするのだろうか?!いや、待てよ!ここでは試験なんてないんだ!試験のためにスパートを掛ける必要はまったくない。生徒は次の新しい課題に移行する前にその数学的な材料を実際に理解し始める。ある先生が私に教科書を見せて、5週間の評価期間では課題が余りにも多すぎると言った。その本を始めから最後まで目を通した際、私は忍び笑いを押さえるのに苦労した。その本は私が使う教科書の中のたったひとつの章に収められている内容とほぼ同じだった。われわれはどうして米国の生徒たちにこんなにも多くのことを短期間で学ぶように強制しているのだろうか?彼らが疲労困憊するのも無理はない!彼らが途中で放り出すのも不思議ではない! 

9.  宿題を少なくする = もっと多くの事に参加させる 

OECDによると、フィンランドの生徒たちは世界でもっとも宿題が少ない 。宿題は平均で一晩に30分未満である。フィンランドの生徒は学校外では家庭教師の世話にはならず、熟へも通わない。何時間もの熟通いや学校外での追加授業を受けて好成績を収めているアジア各国の生徒たちよりもフィンランドの生徒の方が立派な成績を残していることを考えると、これは特に大きな驚きである。私が観察するところによれば、フィンランドの生徒は教室内ですべてを済ませてしまい、学校内で先生たちがしてやれることですべては事足りると考えている。ここでもまた、生徒たちが能力を磨くために必要なこと以外に先生たちに何かをさせる、あるいは、何かをして貰うような圧力は無いのである。多くの場合、宿題は変更が可能で、実際には採点もしないのだ。しかしながら、生徒たちは教室で熱心に学ぶ。生徒たちに何らかの課題を与えた時に彼らがどのように反応するのかを観察するのは実に興味深い。授業を何も聞こうとはしなかった生徒も自分の携帯電話を脇に置いて、自分たちに与えられた課題に取り組み始める。たとえそれが今教えられたばかりの課題ではあっても、彼らはその授業時間の最後まで全力をあげて取り組む。そこには何らかの不文律が存在しているみたいだ。たとえば、「君たちが教室に居る間にこれをしっかり勉強しさえすれば宿題は出さないよ」と・・・ 私は毎日のように宿題を出していた。このフィンランド方式を見て、私は自分が課していた宿題の量について改めて考えさせられてしまった。

10.  生徒数をより少なくする = 個々の生徒により多くの関心を

これは明白そのものだ。あなたが受け持つ生徒数が少なければ、生徒たちが学ぶ際に必要となる注意事項や指示を十分に与えることが可能となる。フィンランドの先生は20人で編成されたクラスの授業を毎日三つか四つ担当する。つまり、一日当たり60人から80人の生徒を受け持つ。私は毎日180人の生徒を受け持つ。一クラス30人から35人の編成で、私は六つのクラスをたて続けに受け持つのだ。毎週5日間、これが続く。

11.  組織化をより少なくする = より多くの信頼を

この方式でもっとも重要な点は信頼だ。組織化ではない。不信の目でお互いを眺めたり、そのシステムがうまく稼働しているのかどうかを確認するために組織化し、膨大な量の規則を設け、テストを行う代わりに、フィンランドでは単に自分たちのやり方に全面的な信頼を寄せる。学校が立派な先生を雇い入れることに関して社会は信頼している。学校は個々の先生が高度な訓練を受けた個人として信頼を置き、先生には自由を与える。その結果、先生は個々の生徒にとって最良の授業環境を構築することができる。親たちは子供たちが良く学び、立派に成長していくように支援をしてくれる先生方に信頼を置く。先生たちは勉強をし、学習の利益のために学ぶ生徒たちを信頼する。生徒は自分たちが成功裏に勉学を続けるのに必要となるあらゆる術を与えてくれる先生を信頼する。社会はこの方式を信頼し、この教育方式が享受して然るべき尊敬の念を持ってこれを受け入れる。これはうまく機能し、決して複雑ではない。フィンランドの人たちはそれを巧みに見出したのである。

少ない方がいい。 

<引用終了>


フィンランドの生徒たちが他国の同年代の子供たちに比べて定常的に好成績を収めているという事実を知っている読者は結構多いのではないか。データで見る限りにおいては、日本もトップグループの一員であるという。

しかしながら、フィンランド式教育の実態や現地の学校の生の様子を詳しく知る機会は極めて少ない。多くの場合、文科省や大手メディアが伝える無味乾燥な報告を読むことで終わってしまう。

それに比べて、ここにご紹介した引用記事では米国で実際に教壇に立って生徒たちを教えている数学の教師が、米国での学校教育と比較しながら、フィンランドにおける教育システムを観察している。

この著者が「詰め込まない方がいい」と総括した時、私は拍手喝采したい気分になった。

もうひとつ個人的な感想ではあるが、「フィンランド人は教える能力は勉強することによって獲得することができるとは思ってはいない。それは持って生まれた才能と情熱である。ある人は持ってはいるが、ある人は持ってはいない・・・」という記述には驚かされた。これは教育の真髄を突いた言葉ではないだろうか。教える能力をこのように見ること自体が素晴らしい。また、それが社会通念として広く受け入れられている事実にひどく驚かされた。何よりも、PISAの調査結果がフィンランドの成果を客観的に伝えている。

また、先生と社会、先生と生徒、生徒の親たちと先生との間に最大限の信頼関係を築くことに成功したフィンランドの非凡さには敬服したいと思う。

子供たちが子供でいられる時間を少しでも多くしてあげることが現実に可能なのだ。自分たちの特権を大声を張り上げて主張することもない子供たちに対して、彼らの根源的なニーズを満たしてやれる方法が現実に存在するのである。それをフィンランドが証明してくれた。



参照:

111 Ways Finland’s Education System Shows Us that “Less is More”: By Kelly Day, Apr/15/2015, fillingmymap.com/.../11-ways-finlands-education-syste...