国際機関のひとつに経済協力開発機構(OECD)という組織がある。その本部はパリに置かれ、現在の参加国は日本も含めて35カ国。いったい何を行う国際機関なのかと聞かれても、われわれ一般庶民には明確に答えることは難しいが、この機関はさまざまな経済統計を行い、報告をしている。それらの活動の中に、「OECD生徒学習到達度調査」(PISA)という調査がある。2000年に始まって、3年毎に調査が行われてきた。このPISA調査では、義務教育修了段階の15歳児が持っている知識や技能が実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用されているかが評価される。
読解力に関して2000年に行われた最初の調査では32カ国(OECD加盟国28カ国、および、非加盟4カ国)が参加した。2003年の数学的な読み書き能力に関する調査には41カ国(OECD加盟国30カ国、および、非加盟11カ国・地域)が参加し、2006年の科学的な読み書き能力に関する調査には57カ国(OECD加盟国30カ国、および、非加盟27カ国・地域)が参加した。最近の調査(2015年)は72カ国・地域で科学的な読み書き能力を中心に実施され、調査結果が文科省によって出版されている。
たとえば、2003年のPISA調査の結果によると、日本の15歳児の数学的な読み書き能力全体の平均得点は534点で、香港、フィンランド、韓国、オランダ、リヒテンシュタインと統計的な有意差がないため、1位グループであるといえる、と要約されている。
しかし、ここで注目したいのは日本の生徒が1位グループにあるかどうかではない。
フィンランドやシンガポール、あるいは、日本やエストニアの生徒は1位グループの常連である。中でも、フィンランドでは授業時間が短かく、宿題は皆無だという。それでも、トップグループにいられるのは何故か?要するに、トップグループの間ではフィンランドは他の国とはまったく違った教育方式を採用しながらも、好成績を実現しているのである。
本日は、そんなフィンランドの教育事情を報告した2015年の記事 [注1] を仮訳して、読者の皆さんと共有したいと思う。
この引用記事の著者は米国の数学教師である。彼はフィンランドの教育現場で自分たちの常識とはまったく異なるさまざまな教育の進め方を体験した。彼にとっては驚きの連続であったようだ。
<引用開始>
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私はフルブライト国際交流プログラムからフィンランドへの研究旅行の機会を与えられた。7年生の数学の教室を去る時、このような貴重な機会に恵まれたことによって、私は生徒たちをより活気づけ、授業内容により多く没頭できるような、それでいて非常に独創的な授業の仕方に関する知識をたくさん手にして帰国することになるだろうと考えていた。私は自分の数学の授業をどう教えるべきかに関してまったく新しい進め方や重要な考え方を身に付けることができるのではないかと期待した。さらに、私はより多くの授業を行い、数学をもっとたくさん教え、生徒たちにはもっともっと考えさせ、たくさんのことを話し合い、たくさんの数学の問題を解くよう指導することができるようになるだろうと期待していた。
米国の教師たちの間では、この「もっと多く、もっと多く」という衝動は、多くの場合、ごく普通のことだ。われわれの間ではこのような状況が第一日目から始まる。われわれ教師には生徒たちを常に鼓舞し、より高いレベルに到達させ、より大きな事柄を達成するようにと圧力がかけられる。授業はもっと面白く、もっと興味をそそり、もっと多くの内容を提供するものでなければならない。この現象はデータによって測定され、親たちや学校の管理者によって、あるいは、単純に言って、我が国の仕事中心の社会によって後押しされ、この社会ではわれわれがその日にどれだけ忙しい思いをしたか、あるいは、その日の終りにどれだけ疲れ切ってしまっているかによって自分たちの人間としての成功を測ろうとする。われわれはやり遂げたことのリストによって自分たちの価値を測ろうとし、無駄に過ごした時間を犯罪視する。われわれはこの「最後までやり遂げる」という心意気を生徒たちに教えるが、生徒たちは時にはどこか途中で放り出したり、時にはわれわれ教師と同様にすっかり疲れ切ってしまう。
私がフィンランドに到着した時、数学の授業に挑戦させるような偉大で、派手で、独創的な考えを自分の目で見ることはなかったし、特に数学に秀でている生徒や数学の内容を奥深くまで理解している生徒を見い出すこともなかった。事実、中学校や高校での数学の授業はインディアナ州で私自身が典型的に経験してきたものとほとんど同じであった。(基礎的な事柄を記憶してはいない生徒のように)苦労させられる課題や内容はほとんど同じである。フィンランドでの数学の授業やその構成の仕方は何世紀にもわたって数学の先輩教師らによって編み出されてきた方式を踏襲している。つまり、教師は宿題を復習し、知恵を与える(何人かの生徒は先生の言うことを良く聞き、何人かの生徒は聞こうともしない)。そして、宿題を課す。いくつかの授業は素晴らしく、立派な先生を何人も見た。その一方で、全体としては、米国の中学校ではもっと興味をそそる授業をし、生徒たちと一緒になって数学の問題を解こうとする先生たちをたくさん見て来た。数学の授業が私の勤務する学区よりも素晴らしく、それを測定することが可能な事例に遭遇することは非常に稀であって、むしろ、実際にはもっと貧弱な例がいくつもあった。
いったい何が違うのか?中学校での数学の授業が米国で見る授業と同じであって、ややもするともっと貧弱でさえあるとするならば、どうしてフィンランドの生徒は高成績を収め、米国の生徒は貧弱な成績に終わるのであろうか?授業そのものにはそれ程の違いはない。上手な教え方はどこの国でもほぼ同じだ。上手な教え方はフィンランドでも米国でも見い出すことができる。(悪い教え方についても同様なことが言える。)その違いは形としては現れにくく、より根源的だ。フィンランドの人たちは「少ない方がいい」と本当に信じている。この国家的な合言葉はフィンランド人の信念に深く刻み込まれており、フィンランドの教育哲学の指針となっている。
少ない方がいい。
これを彼らは信じている。彼らはこの信念に従って行動している。彼らの家屋は快適に生活するのに必要な面積よりもはるかに大きいわけではない。彼らは決して多くを買わず、浪費はしない。彼らは単純で謙虚な生活を送る。10種類ものシリアルがあれば事足りる時、300種類ものシリアルを持つ必要性はまったく感じないのである。女性は化粧を少ししかしない。男性は巨大なトラックを所有しようとはしない(あるいは、車を持とうとさえも思わない)。何百点もの安物の衣料を購入する代わりに、フィンランド人はたった数か月ではなく何年も持つような高級品を何点か購入する。彼らは「少ない方がいい」という考え方を本当に信じており、それに従って行動する。
それとは反対に、米国ではわれわれは本当に「多い方がいい」と信じて、自分の生活においてもわれわれは常にあらゆる面でより多くの物を求め、より多くの物を購入する。自分たちの生活の質を高めるために、われわれは新しい物や輝かしい物、あるいは、刺戟的な物に憑りつかれている。古いものは捨て、新しいものを取り込む!この「多い方がいい」という考えはわれわれの生活のすべての面に忍び込み、それはわれわれの教育制度をも混乱させ、窒息させる。
ひとつの教育哲学が実際に役立つのかどうかを見極めるために十分に長い期間その哲学をしっかりと守ることさえもわれわれにはできない。われわれは常に新しい手法や考え方、あるいは、構想を試そうとする。当面、われわれは「もっと多く」がわれわれの教育課題のすべてに対する答えであると信じている。より多くのクラスを編成し、毎日の学科編成を長時間にわたって埋め尽くし、より多くの宿題を与え、生徒に対してはより多くの圧力をかけ、盛りだくさんの授業を行い、より多くの会合に参加し、より多くの課外個別指導を行い、そして、もちろん、より多くの試験を行う!その結果、すっかり疲れ切った先生が多くなり、疲労困憊した生徒が増え、欲求不満は高まるばかりだ。
ところが、フィンランドでは「少ない方がいい」と皆が信じている。これは先生方や生徒たちの両者に対して幾つかの例証を挙げることができる。
詰め込まないことが結果としてはより多くの成果をもたらす!
1.
公式の義務教育はより少なく - より多くの選択肢を
フィンランドでは義務教育は7歳から始まる。7歳だ!フィンランドでは子供たちは子供でいることが許されるのだ。つまり、教室に押し込められることはなく、むしろ、遊ぶことや冒険をすることから何かを学び取ることができる。しかし、彼らが遅れを取るようなことはないのだろうか?それはないのだ!発育の段階から見ると、子供たちは実際に学校で学び、何かに重点的に集中する用意ができた年齢になってから学校へ通い始める。この最初の年から9年間の義務教育が始まる。9学年が終了した後は選択次第だ。16歳の時、生徒らは下記の三つの選択肢の中からひとつを選ぶこととなる:
• 高等学校: この3年間のプログラムで大学への進学を決める大学入学許可試験のための準備をする。生徒たちは、通常、高校の専門性を考慮してひとつの高校を選び、その高校への入学を出願する。私の理解するところでは、これは高校とカレッジの中間みたいなものだ。(近年は40パーセント近くがこの選択肢を選ぶ。)
• 職業教育: この3年間のプログラムは生徒たちにさまざまな職業のための訓練を施し、もしも大学への進学を希望するならば彼らに大学入学許可試験を受ける選択肢が提供される。しかしながら、通常、このコースにある生徒たちは自分たちの技能に満足しており、就職するか、あるいは、さらなる教育訓練を求めて技術系大学へ進学するかのどちらかを選ぶ。(60パーセント弱がこのコースを選ぶ。)
(でも、ちょっと待ってくれ!誰もが微積分や経済学、応用化学を履修するべきではないのか?!
いや、皆が大学へ進学するべきだとは言えない!フーム・・・、これは興味深い議論だ・・・。立派な(そして、いい稼ぎをする)溶接士や電気工になろうと望んでいる生徒たちに選択肢を与えてはどうだろうか?自分の有能な分野は高校の3年間に学問的な教育を受けることではなく、実際にはそれ以外の分野に才能があることをすでに知っており、高校の授業が退屈で、何の役にも立たないと思っている生徒たちに無駄な学習を強要しているとしたらどうだろうか?彼らには自分たちが興味を感じ、優れた才能を持っている分野について教育訓練を受け、適切な職業を見い出せるようにしたらどうだろうか?これらの生徒たちには自分自身の価値を感じ取り、教育の領域でも自分の立ち位置が大好きだと思えるようにしてやったらどうだろうか?)
• 職に就く。 (5パーセント弱がこのコースを選ぶ。)
2.
学校での時間はより少なくする = より多く休ませる
学校は多くの場合9時から9時45分の間に始業する。実際に、フィンランド政府は学校は午前9時前に始業してはならないと法律で制定する考えだ。何故かと言うと、研究結果によると、青少年は質の高い朝の睡眠を必要とすることが一貫して証明されているからだ。学校は午後の2時から2時45分には終業する。ある時は学校は朝早く始業し、ある時は遅く始業する。
フィンランドの生徒の日課は常に異なり、変化するが、典型的な日課の場合は75分間の授業が毎日三つか四つある。そして各授業の間には休憩時間がある。この制度は、全体としては、生徒や先生らが十分に休息を取り、授業を行う側や受ける側がそれぞれ必要とする準備をするのには打って付けだ。
3. 授業時間をより短くする = 計画を練る時間をより多くする
先生方にとっても一日当たりの勤務時間が短くなる。OECDによると、フィンランドの先生は平均で年間600時間、あるいは、一日当たり約4回以下の授業を受け持つ。米国の平均的な先生はその約2倍となる、年間1,080時間以上の授業をする。これは毎日6回以上の授業に相当する。また、フィンランドの先生や生徒は授業がない時間には学校に詰めている必要はない。たとえば、木曜日の午後には授業がないとすると、先生も生徒も下校することができる。
あるいは、水曜日には11時に授業が始まるとすると、先生も生徒もその時間までに学校へ来ればいいのだ。つまり、この制度はフィンランドの先生が各授業について計画を練ったり、授業の事をあれこれと考えたりするのにより多くの時間を提供してくれる。これは立派な、思考力を刺激するような授業をもたらすことに貢献する。
4. 先生の数をより少なくする = 一貫性を高め、生徒の世話をする
フィンランドの小学生は多くの場合小学校の6年間を同一の先生の下で過ごす。そう、6年間!同じ先生が一群の小学生を6年間継続して面倒を見、彼らを育み、教育するのだ。6年間を一貫して15人から20人程の生徒と一緒に過ごし、先生は個々の生徒が必要とする授業内容や個々の生徒の学習様式を詳しく見定めることができる。先生方は個々の生徒がどのような履歴を辿って来たのか、そして、今後は何処へ向かって行くのかについても良く分かっている。子供たちが辿って来た進歩の跡を追跡し、彼らが成功を収め、目標を達成する様子を確かめることに先生方は個人的な関心を注ぎこむ。自分自身が次の年も同じ子供たちの面倒を見ることになるので、次の先生に「責任を転嫁する」ことなんて不可能だ。もしも躾や行動様式に問題があれば、先生はそれが小さな芽のうちにそれを摘み取ってしまうのがいい。さもなければ、これからの6年間をかけてその問題点と向き合うことになる。(フィンランドではいくつかの学校は6年間ではなく3年間で先生が変わる場合があるが、フィンランド方式の利点は依然として同じだ。)
この制度は一貫性をもたらし、個々の子供が必要とする世話や個別の心遣いを可能とすることから子供たちにとって有用であるばかりではなく、先生は子供の履修科目を歴史的に、途切れもなく理解することができるので先生側にとっても極めて有用である。先生は子供たちを次のレベルへ導くためには何を必要としているのかを良く知ることができる。その一方、先生には個々の生徒たちのペースで授業を進める自由も与えられる。先生たちは翌年の別の先生のために「準備する」べく授業の進度を早めてみたり、遅くしてみるといった圧力は感じないで済むのだ。もう一度繰り返して言うが、先生は翌年も同じ子供たちの面倒を見ることから、自分が教える教科については全面的に自分のコントロール下に置くことができる!先生たちは子供らが今どの辺りに居るのか、子供たちがすでに学んだ内容は良く分かっており、生徒たちのニーズにしたがって将来の計画を立てることができるのだ!これはフィンランド式教育が成功を収めている理由の中でも非常に大きなものだと私は考える。しかしながら、この成功物語はそれに相応しいだけの関心を受けているわけではない。
5. 先生を志望する申請者のうちで受理される数はより少なくする = 先生に対する信頼をより高める
ところで、子供たちは3年間あるいは6年間継続して同一の先生から指導を受ける。もしもあなたの子供が「できの悪い先生」にぶつかったとしたらどうするか?フィンランド政府は「できの悪い先生」を根絶することに真剣に注力している。小学校の教師になるのはフィンランドではもっとも競争が激しい分野である。フィンランドの小学校教育部門は全申請者の10パーセントだけを採用し、何千人もの残りの学生は却下される。小学校の教師になるためには、申請者はクラスでトップの成績を収め、特に優れた頭脳を持っている必要はない。採用となるには彼らは一連の面接や人格に関する適正審査に合格しなければならない。つまり、クラスで一番であることだけでは必ずしも十分ではなく、小学校教師として合格するには持って生まれた才能や子供を教えることに執着心を持っていなければならない。
フィンランド人は教える能力は勉強することによって獲得することができるとは思ってはいない。それは持って生まれた才能と情熱である。ある人は持ってはいるが、ある人は持ってはいない。フィンランドでは教員養成課程をもった大学は多くはなく、これらの大学はそのような才能を持った学生だけを受け入れる。優秀な成績や先生になれる持って生まれた資質に加えて、先生は誰もが修士論文を書き、修士号を取得しなければならない。これがフィンランドの先生に対する信頼や自信を高めるているのだ。親たちは先生が高い資格を有しており、十分な教育訓練を受け、それぞれが極めて有能であると信じている。彼らは先生の権威や決断を干渉したり、侵害しようとはしない。私は「皆さんは生徒の親御さんから電子メールを何回位受け取りますか?」と数学の先生に聞いてみた。彼らは肩をすぼめて、返答してくれた。「5回か6回程度」と。「おや、私も一日にそれと同じ位の電子メールを受け取っていますよ」と私は言った。すると、彼らはさらにこう付け加えた。「いや、そうじゃなくて、一学期あたりに5通か6通!」 ここでも言っておきたいのだが、信頼と尊敬の念に根ざした社会で生活することっていったいどんな感じだろうか?
6. より少ない授業 = より多くの休息
前にも言ったように、生徒たちは一日に三つか四つの授業を受けるだけだ(稀には、五つの授業があることも)。外では雨が降っていようが晴れていようが、何回かの休憩や軽食の時間もある。これらの15分から20分の休憩時間は彼らに勉強したばかりの内容を消化する余裕を与え、筋肉を動かし、足を伸ばし、新鮮な空気を吸い込み、「何かもぞもぞしたもの」を吐き出してしまうのには実に有効だ。これらの休憩時間には神経学的な利点がいくつかある。次々と提出された研究結果によると、子供たちが有効に学習を継続するには身体的な活動をすることが必要である。身体の活動が停滞すると、脳の停滞を招き、活発な子供たちを注意散漫にする。
先生方にも休憩時間がある。フィンランドの学校での初日、一人の先生が「職員室」の現状に関して私に詫びた。そして、職員室って何処でもこんな状況にあるに違いないと言って、彼女は言葉を続けた。私は笑って、気前よく同意したが、頭の中では「職員室って何?」と自問自答していた。米国では職員室は今はもう消えてしまったが、かっては教師のための部屋があった。フィンランドではこれらの部屋には何時も先生たちがたむろしている。仕事をしたり、準備に没頭したり、コーヒーを飲んだり、ひと休みしたり、同僚と雑談をしたり、次の授業のために精神的に備えたりとさまざまだ。
中学校の先生は、通常、授業の間に10分から20分の休憩があり、授業がない時間帯も時にはある。これらの職員室は学校によっては大きく異なるけれども、基本的な形式としては2~3個の机があって、2~3個のソファーがあり、コーヒーポットがあり、台所があって、何らかの果物や軽食が用意されている。先生たちは話をしたり、協力し合ったりする。時には、マッサージ用の椅子さえも備えている!
ところで、どうして米国ではこの種の協力し合い、支援し合い、慰め合うのに適した場所がないのだろうか?実は、われわれにはそんな時間が全然ないのだ!毎日、われわれはたて続けに六つも七つもの授業をしており、休憩する時間はない。われわれが手にする3分から5分の時間は、多くの場合、親たちからの電子メールに返事を書いたり、黒板を消したり、次の授業の準備をしたり、コピーを作成したり、生徒の質問に答えたり、生徒たちが残して行ったゴミ屑を拾ったり、そして、トイレへ行ったりするのに使う。暇な時間がある場合は、われわれは廊下を監視することになる。何故かと言うと、何らの監督もなしに生徒たちが教室へやって来るとは思えないからだ。実際に10分間も腰を下ろして、同僚と一緒にコーヒーを飲む、そして、一日にたった3回だけの授業を行うという贅沢は完璧な夢でしかない。それはもう幻想みたいなものだ!
7. 試験はより少なくする = より多くを学ぶ
毎年頭上に現れる巨大な全国レベルの試験がもうないとしたら、生徒たちと一緒になってどんなに素晴らしいことをすることができるだろうか?あれこれと想像してみて欲しい。あなたの給料が試験の成績と連結してはいないとしたら、あなたはどれだけ自由な気分を味わうことができるだろうか?想像してみて欲しい。あなたの授業がどれほど楽しくなるか、どれほど興味をそそってくれることか、想像してみて欲しい!
依然として存在してはいるようだが、フィンランドでは授業科目を完全に終わらせることに関しては、全体として、先生に対する心理的圧力がより少ない。率直に言って、先生はいい仕事をするものと信頼されており、それ故に先生は教室での出来事や授業内容についてはより多くの影響力を持っている。先生はより多くのリスクを取ることができ、新しいことを試み、楽しくて興味をそそるような授業編成を試してみることが可能だ。こうして、生徒たちは個人として現実社会のために十分な準備をすることができ、必要な技能を身につける。先生たちにとっては生徒たちが個人として成長し、プロジェクトをどのように開始させるか、ならびに、目標を達成するにはどのように組織だった学習をするのかに関して必要な術や技能を教えてやる時間がある。先生たちには手工芸を教える時間もある。ここでは、生徒たちは裁縫や料理、掃除、木工、その他の実生活に直結した技能を学ぶ。これらの素晴らしい技能を学びながら、生徒たちは数学を学び、問題解決の仕方やどのようにして指示に従うのかを学んでいく。
8. 授業の課題はより少なくする = より深くする
私はフィンランドで5年生から9年生までのクラスをいくつか観察した。私はこれらの5年間にわたる教育によって網羅される授業内容に注目してみた。その結果、フィンランドでは5年をかけて教えている数学の内容を私は実は1年間で教えようとしていることに気が付いた。フィンランドにおいて各学年で行われている数学の授業の課題はすべてが私が米国で教えている7年生の授業に含まれているのだ。
「多ければ多い程いい」という米国式の考え方は、率直に言って、うまくは行かない。もしも私が1年間で教えなければならないことのすべてを教えようとするならば、一日おきに新しい課題あるいは授業内容を導入しなければならず、それでも私は何時も「遅れている」と感じることだろう。いったい何に対して遅れているのか?私には分からない。しかし、そこには心理的圧力が間違いなくあって、私を追い立て、生徒も一緒に追い立てられるのだ。フィンランドでは、先生は自分の時間をたっぷりと取る。特定の課題を奥深く研究する。そして、たとえ多少の遅れがあったり、その一年間に数学の課題のすべてをカバーし切れなかったとしても、パニックには陥らない。
また、生徒たちは週に何回か数学の授業を受けるだけである。事実、復活祭の休暇の後には私の7年生の生徒たちは週に一回数学の授業を受けていただけだ!このことを聞かされると、私のハートはいささか苦痛を感じてしまう!それだけで数学の授業が足りるとは私にはとても思えない!いったいどうやって試験のための準備をするのだろうか?!いや、待てよ!ここでは試験なんてないんだ!試験のためにスパートを掛ける必要はまったくない。生徒は次の新しい課題に移行する前にその数学的な材料を実際に理解し始める。ある先生が私に教科書を見せて、5週間の評価期間では課題が余りにも多すぎると言った。その本を始めから最後まで目を通した際、私は忍び笑いを押さえるのに苦労した。その本は私が使う教科書の中のたったひとつの章に収められている内容とほぼ同じだった。われわれはどうして米国の生徒たちにこんなにも多くのことを短期間で学ぶように強制しているのだろうか?彼らが疲労困憊するのも無理はない!彼らが途中で放り出すのも不思議ではない!
9.
宿題を少なくする = もっと多くの事に参加させる
OECDによると、フィンランドの生徒たちは世界でもっとも宿題が少ない
。宿題は平均で一晩に30分未満である。フィンランドの生徒は学校外では家庭教師の世話にはならず、熟へも通わない。何時間もの熟通いや学校外での追加授業を受けて好成績を収めているアジア各国の生徒たちよりもフィンランドの生徒の方が立派な成績を残していることを考えると、これは特に大きな驚きである。私が観察するところによれば、フィンランドの生徒は教室内ですべてを済ませてしまい、学校内で先生たちがしてやれることですべては事足りると考えている。ここでもまた、生徒たちが能力を磨くために必要なこと以外に先生たちに何かをさせる、あるいは、何かをして貰うような圧力は無いのである。多くの場合、宿題は変更が可能で、実際には採点もしないのだ。しかしながら、生徒たちは教室で熱心に学ぶ。生徒たちに何らかの課題を与えた時に彼らがどのように反応するのかを観察するのは実に興味深い。授業を何も聞こうとはしなかった生徒も自分の携帯電話を脇に置いて、自分たちに与えられた課題に取り組み始める。たとえそれが今教えられたばかりの課題ではあっても、彼らはその授業時間の最後まで全力をあげて取り組む。そこには何らかの不文律が存在しているみたいだ。たとえば、「君たちが教室に居る間にこれをしっかり勉強しさえすれば宿題は出さないよ」と・・・ 私は毎日のように宿題を出していた。このフィンランド方式を見て、私は自分が課していた宿題の量について改めて考えさせられてしまった。
10.
生徒数をより少なくする = 個々の生徒により多くの関心を
これは明白そのものだ。あなたが受け持つ生徒数が少なければ、生徒たちが学ぶ際に必要となる注意事項や指示を十分に与えることが可能となる。フィンランドの先生は20人で編成されたクラスの授業を毎日三つか四つ担当する。つまり、一日当たり60人から80人の生徒を受け持つ。私は毎日180人の生徒を受け持つ。一クラス30人から35人の編成で、私は六つのクラスをたて続けに受け持つのだ。毎週5日間、これが続く。
11.
組織化をより少なくする = より多くの信頼を
この方式でもっとも重要な点は信頼だ。組織化ではない。不信の目でお互いを眺めたり、そのシステムがうまく稼働しているのかどうかを確認するために組織化し、膨大な量の規則を設け、テストを行う代わりに、フィンランドでは単に自分たちのやり方に全面的な信頼を寄せる。学校が立派な先生を雇い入れることに関して社会は信頼している。学校は個々の先生が高度な訓練を受けた個人として信頼を置き、先生には自由を与える。その結果、先生は個々の生徒にとって最良の授業環境を構築することができる。親たちは子供たちが良く学び、立派に成長していくように支援をしてくれる先生方に信頼を置く。先生たちは勉強をし、学習の利益のために学ぶ生徒たちを信頼する。生徒は自分たちが成功裏に勉学を続けるのに必要となるあらゆる術を与えてくれる先生を信頼する。社会はこの方式を信頼し、この教育方式が享受して然るべき尊敬の念を持ってこれを受け入れる。これはうまく機能し、決して複雑ではない。フィンランドの人たちはそれを巧みに見出したのである。
少ない方がいい。
<引用終了>
フィンランドの生徒たちが他国の同年代の子供たちに比べて定常的に好成績を収めているという事実を知っている読者は結構多いのではないか。データで見る限りにおいては、日本もトップグループの一員であるという。
しかしながら、フィンランド式教育の実態や現地の学校の生の様子を詳しく知る機会は極めて少ない。多くの場合、文科省や大手メディアが伝える無味乾燥な報告を読むことで終わってしまう。
それに比べて、ここにご紹介した引用記事では米国で実際に教壇に立って生徒たちを教えている数学の教師が、米国での学校教育と比較しながら、フィンランドにおける教育システムを観察している。
この著者が「詰め込まない方がいい」と総括した時、私は拍手喝采したい気分になった。
もうひとつ個人的な感想ではあるが、「フィンランド人は教える能力は勉強することによって獲得することができるとは思ってはいない。それは持って生まれた才能と情熱である。ある人は持ってはいるが、ある人は持ってはいない・・・」という記述には驚かされた。これは教育の真髄を突いた言葉ではないだろうか。教える能力をこのように見ること自体が素晴らしい。また、それが社会通念として広く受け入れられている事実にひどく驚かされた。何よりも、PISAの調査結果がフィンランドの成果を客観的に伝えている。
また、先生と社会、先生と生徒、生徒の親たちと先生との間に最大限の信頼関係を築くことに成功したフィンランドの非凡さには敬服したいと思う。
子供たちが子供でいられる時間を少しでも多くしてあげることが現実に可能なのだ。自分たちの特権を大声を張り上げて主張することもない子供たちに対して、彼らの根源的なニーズを満たしてやれる方法が現実に存在するのである。それをフィンランドが証明してくれた。
参照:
注1: 11
Ways Finland’s Education System Shows Us that “Less is More”: By Kelly
Day, Apr/15/2015, fillingmymap.com/.../11-ways-finlands-education-syste...
北欧三国の言葉はドイツ語というより英語に近いという。もしそうなら,漢字圏の日本の子どもより学習量が少なくて済むのではないだろうか。言語体系の異なる言語を改めて学び始める,日本の英語教育は,漢字を覚える手間を加えるから,負担を重くする。
返信削除また,歴史が長い中国はもちろん,日本は文学が盛んであったから,その勉強にとられる時間は,フィンランドやアメリカ合衆国より長くなる。また,日本は和算の伝統もあり,中国はマテオリッチの翻訳本『ユ-クリド幾何学』を備えているが,狩猟民族フィンランドにはそういう学習伝統はない。
翻訳文にある教員が数学の先生であるので,米国の教育事情をよく知った上でフィランドと米国とを比較する必要があろう。例えば,叙事詩『カレワラ』は有名だが,これに匹敵する叙事詩は米国にない。『白鯨』はあるがフィンランドにはない。
いくらか米国の方が大統領の数は圧倒的に多いだろうから,歴史・文学の面で学習量に差が出てくるのは仕方ない。この数学の先生はこの観点を理解しているようには思われない。
また,知能指数の問題もある。民族的に知能が高いのかも知れない。また落ち零れ(し)の子どもには手厚い補習があるとも聞いている。現在小生は南洋の海辺の町を転々としているが,数学が出来る国とそうでない国の差を感じることが多い。シンガポ-ル,台湾などは計算機を使わなくても計算が早くできる子ども(店員さん)をたくさん見かけるが,計算機がなくては代金が出せない子どもも他の国では見かける。
仲の良くなった店員さんに「2時間は何分か」と質問されたことがある。年と共に能力が落ちた小生はいくらか戸惑ったが10秒もしないうちに答えを出したら,「天才!」といわれた。その程度なら,韓国,台湾,上海,シンガポ-ルそして日本の11-12歳児なら,咄嗟に答えが出せるよと教えたらたまげていた。
しかし計算が遅いといえども,筋道の通った会話は出来るので,論理訓練は,算数・数学を必要としないのかも知れない。JICAの青年は「小数点以下の数字」を教えるのに苦労していると話してくれた方もあった。
フィンランドは例えば円周率を3.14でなくて「3」で計算しているのかも知れない。マレ-シアでは四捨五入があるのかしら。買い物をしたことがあるが,1円の玉や紙幣がないから,例えば,8円のモノを買えば,10円。2つ買えば16円だが,15円。3つ買えば,25円という具合であった。
日本の小学生なら一人の担任から,日本語,社会,理科から始まって音楽や図画を通って習字まで教わるにちがいない。フィンランドや米国の先生とはかなり異なることは経験からして明らかである。また中学校の教員は部活指導があるが,フィンランドにはない。
以上のように考えると,その国の文化的伝統と学力とを比較しないと「少なく教えることは,実りが多い」とは,限らないような気がしてくる。
最近東京新聞で見かけたのだが,アメリカ合衆国はG25にも入っていない。科学的,数学的,読解力の3分野で米国がG25位に入っていないのは,ゆとり教育の失敗に懲りて教育内容をガラクタをはじめ多くの雑多な知識を教えるようになった。その反動として多くを教えるようになったからか。
また,メキシコの壁が問題になっているように,中南米からの移民が増えればスペイン語が流行る。しかしテストは英語であろうから,学力が低下するだろう。しかしまた時がたてば,「スパングリッシュ」と2つの言語が混在した状態が教育を左右し始めるだろう。故に例えば,カリフォルニア州ではアメリカ合衆国から独立しようなどという話も出てくる。
しかしゆとり教育,総合的学習が残っているのは,加州だけだと聞いている。フィンランドはロシア語が第二言語であったから,その子どもたちはロシア語の素地があるといえる。日本は英語の素地がない。旧植民地は英語やフランス語やオランダ語の素地が伝統として残っている。
よって欧米語がかなり容易に教育可能といえば言えよう。
最後に考えるべきは,教員と授業時数であろう。米国の教育は新自由主義あるいはグロ-バリズム主義によって民営化された。この先生は,公営学校なのか,私立学校かハッキリしないが,これまでの公立学校の伝統を破って造られたチャ-タ・スク-ルなどは,教える内容や教える時間を多くすればすれば,子どもは多くを得るといった,一般化できない教育方法に依っているらしい。
周知のように,日本の子どもは6歳入学で能力がまだ十分に発達している子とそうでない子を一食単にして教え始める。算数が小学校高学年出来なくなるのは,論理的思考が十分に発達していない子どもに論理的に考える問題を与えるからだともいわれている。
論理的に考える事ができる子には,多くを与えてもそれらをこなすだろう。しかし考えられない子は難儀するにちがいない。故に宿題やさらなる課題を与えられれば,消化不良を起こすにちがいない。これは制度の問題である。
さらに言語の問題もある。漢字圏は表意文字の国である。アルファベット圏つまり表音文字の研究結果と,表意文字圏の違いを説明する理由があるのか,ないのか。
しかし何より文部省廃止が先であろう。文部省の指導方針が詰め込みに走ると,どの教科も詰め込む。ゆとり教育になれば,どの教科も授業内容や授業数を3割り減らす。これでは先生方も,右往左往するばかり。これではいけない。英国の哲学者にして数学者のホワイトヘッドが言ったように,教えるべきは徹底して教えるべきである。
最近,フィンランドは順位を下げてきている気がする。知り合いの教員に聞けば,国際学力テストには2つあって,一方のPISAでは上位にあるが,順位を下げてきている(他国が追い上げてきている)が,TIMSSでは上位に入ったことがない,そうだ。
PISAとTIMSSの区別は門外漢の小生にはよく分からないが,まずは文科省が甘利,教育に口を出さないことが望ましい教育結果が生まれるのではないだろうか。
箒川兵庫助様
削除コメントを寄せていただき、有難うございます。広範囲にわたるコメントですので、とても私一人ではカバー出来そうにはありません。この場で何とかご返事できる点を拾いながら、議論を進めてみたいと思います。
◆「北欧三国の言葉はドイツ語というより英語に近い・・・」: 今回の投稿はフィンランドの教育事情について米国の数学教師が感じたことを綴った記事を仮訳し、ご紹介したものです。しかしながら、この報告記事はあくまでも数学教育が中心であって、文学とか歴史とかは論じてはいません。フィンランドは北欧4カ国(デンマーク、スウェーデン、ノルウェーおよびフィンランド)として10把ひとからげにして扱われることが多いですが、使用言語の話になると、フィンランド語はインド・ヨーロッパ語族に属する他の3カ国とはまったく違った系統の言語であると言われています。つまり、言語形態学的にはフィンランド語はウラル・アルタイ語系を中心とした膠着語と分類され、日本語もこのグループに入ります。北欧4カ国の残りの3カ国の言語はヨーロッパ諸言語が属する屈折語に分類されます。そして、中国語は孤立語と分類されます。確かに、スウェーデン語はドイツ語に近いと言われていますが、フィンランド語についても同じことが言えるとは考えられません。ですから、フィンランドの生徒に関して「漢字圏の日本の子どもより学習量が少なくて済むのではないだろうか・・・」とは必ずしも言えないと推測します。
余談になりますが、バルト3国の中のエストニアの言語はフィンランド語と同系統。また、ハンガリー語も然り。つまり、フィンランド、エストニア、および、ハンガリーの3カ国はヨーロッパではインド・ヨーロッパ語族の国々に囲まれた言語的な島国です。
◆「知能指数の問題・・・」:各国の平均知能指数は、ウィキペディアから引用すると下記のように報告されています。2006年11月10日に出版された書籍IQ and Global Inequalityが原典となっています。上位50位までを転記してみましょう。香港とシンガポールが108で1位、日本は105で5位、フィンランドは99で17位にランクされています。なお、知能指数で100となる国は12位にランクされ、英国が入っています。著者らは英国の平均知能指数を100としてランク付けをしたと説明しています。そして、標準偏差を15としています。したがって、英国では約68パーセントの人たちは知能指数が85から115の範囲内に分布していることになります。日本の場合は英国に比して値の分布が5だけ上方へ移動していることになります。フィンランドの場合は英国に比して値の分布が1だけ下方へ移動していることになります。しかし分布の大部分はお互いに重なっています。
1位 108 香港・シンガポール
3位 106 北朝鮮・韓国
5位 105 日本・台湾・中国
8位 102 イタリア(伊)
9位 101 モンゴル・アイスランド・スイス
さらには、
12位 100 英国・オーストリア・ノルウェイ・オランダ
17位 99 ドイツ(独)・カナダ・フィンランド・スウェーデン・ベルギー・ニュージーランド
25位 98 米国・フランス(仏)・スペイン・オーストラリア(豪)
34位 97 ロシア(露)
41位 95 イスラエル・ポルトガル
43位 94 ベトナム
48位 93 アルゼンチン
50位 92 ギリシャ・アイルランド・マレーシア
著者のRichard LynnとTatu Vanhanenの主張:知能指数テストによって測定された知性は国家の富を示すばかりではなく、社会福祉のさまざまな物差しとしても活用することが可能である。知能指数はさまざまな要因とも強い相関関係を持っている。たとえば、成人の識字率(0.64)、高等教育(0.75)、寿命(0.77)、民主主義(0.57)、等。また、知能指数と数学や科学における学習の達成度との相関関係が高い(0.79から0.89)とも述べています。
もちろん、専門家の間ではさまざまな意見や批判もあるようです。
◆「フィンランドは例えば円周率を3.14ではなくて「3」で計算しているのかも知れない・・・」:これはフィンランドでの授業の仕方やそれを支える理念が日本の「ゆとり教育」と重なるように見えることからの連想ではないかと推測します。断言することは難しいですが、私にはそんふうに感じられます。
古代ギリシャを代表する学者の一人、アルキメデスは円に内接、外接するする正96角形での計算を行った結果、円周率は3.14084と3.14286との間にあると結論しました。つまり、π=3.14という3桁の数値を得たのです。紀元前3世紀のことです。中国では、7世紀に、隋で編纂された書「律暦志」によると、天文学者の祖沖之は円周率として3.14159 26 < π < 3.14159 27を示しました。ヨーロッパではこれほど正確な数値を得るには16世紀まで待たなければなりませんでした。
幾何学による円周率の計算は級数を活用した近似値の計算へと移っていきました。この移行はインドでは1400年頃から1500年代に起こり、ヨーロッパでは1600年代、日本では1700年代に起こりました。
正多角形を用いた円周率の計算の煩雑さは先人が残した史実を見ると明らかです。たとえば、ルドルフ・ファン・コーレンは円周率の小数点以下20桁を決定しました(1596年)。彼はまず正5X225(約2億)角形、正4X228(約10億)角形、正3X231(約60憶)角形を用いて、円周率を12桁、16桁、18桁まで求めました。最終的に彼は20桁を決定しています。
他国では円に内・外接する正多角形を活用していた頃、インドのケララ学派は級数を使い始めていました。非常に先進的でした。
和算の歴史についても触れてみます。村松茂清は、1663年、日本で初めて円周率を数学的に計算しました。円に内接する正4角形、正8角形、正64角形の周の長さを計算していくと、正32768角形に辿りつき、円周率として少数第21桁まで算出しました。しかし、正しかった数値は少数第7桁まででした。1681年、関孝和は極限の考えを利用し、正131072角形を使って少数第11桁までを算出しています。江戸時代中期の数学者、建部賢弘は関孝和の門人でしたが、連分数展開を用いて極めて精度が高い円周率の近似分数を見い出しています。
上記の引用はウィキぺディアからですが、近世に近づくにつれてますます多くの数学者の業績が記録されています。そして、円周率の計算はコンピュータを活用する時代へと突入しました。今や、2013年には12.1兆桁に達したと言われています。
しかし、実用の面ではこれ程多くの桁数はまったく必要ありません。NASAのジェット推進研究所のマーク・レイマンの説明によると、NASAが必要とするもっとも桁数が多い円周率は小数点以下15桁であって、これは惑星間飛行を続けているヴォイエジャー1号のために必要だとのこと。地球から125憶マイル(200憶キロ)離れた位置を飛行しているので、小数点16桁目以降を切り捨てても、その軌道上での円周長さにおいては1.5インチ(38ミリ)の誤差にしかならないと言うのです。
円周率は無理数ですから、どこかで不要な部分を切り捨てる必要があります。何桁まで必要かを判断できることが大切です。ゆとり教育で円周率を3とする場面はどのような場合かを適切に判断できることこそが求められます。単に円周率は「3」、あるいは、「3.14」だと暗記するだけでは実際の生活の場面では問題の解決にはなりません。
日本では公立学校制度が始まってから百数十年となります。その結果、初・中等教育が普及しました。その間、何時頃から円周率が学校で教えられるようになったのかについては明確には言えませんが、古今東西の数学者の業績は古くから学校教育を通じて広く教えられてきたのではないかと推察します。私らが小学生、中学生だった当時からすでに60年以上の歳月が経過しています。フィンランドについて言えば、義務教育制度は1898年から始まっています。日本でもフィンランドでも、我々と同一の世代が持つ円周率に関する知識にはそれ程の大差はないと思います。要するに、3.14が広く使われているだろうと思います。
◆「しかし何より文部省廃止が先であろう・・・」: 日本にとってもっとも大切な課題は制度上の問題、つまり、箒川さんが指摘されているように文科省の介入が余りにも多過ぎるという現実にあると思います。この点は引用記事の著者が報告している点と重なってきます。教育現場の自由度を大きくしてやることが根源的に重要ではないかと思えてなりません。
◆総括: 教師に対する信頼感を制度的に形作ったフィンランドの教育行政に私は脱帽です。このレベルに到達するまでには数多くの困難な場面があった筈です。それらの困難な場面を乗り越えて、世界でも広く評価されている教育制度を樹立した指導者の卓見や親たちの理解、先生方の忍耐心を多いに評価したいと思います。
日本ではゆとり教育を批判する立場があります。その一方、ゆとり教育が誤解されていると指摘する声もたくさんあります。素人の私には甲乙付けがたい議論です。また、「フィンランドの教育制度を日本のゆとり教育と同一視することができるのか」という基本的な問い掛けにも真剣に答えることが必要ではないでしょうか。
読者の皆さんの忌憚のないご意見をお待ちしています。
拙文に対していろいろご教示くださってありがとうございます。
返信削除1.まず小生の誤りについて反省させていただきます。
甲.フィランド語は北欧三国の言語と同様英語に近いと書きましたが,加藤周一著『山中人閒話』に「フィンランドをのぞく北欧三国」とあったのを誤って記憶しておりました。済みませんでした。
ここでは,ロシア語の下地が,つまり,祖父の代からあるだろうからロシア語学習は容易だろうし,普段からビザなしで交流しているようだから,共通語としての英語やドイツ語を習得しやすい下地が整っているだろうと推測したのです。
乙.知能指数云々について
娘たちに「あれは何だったかな」と尋ねると,彼女たちは直ぐにインタ-ネットで調べたらといって,哀れにも老人を突き放します。つまり,ウィキペディアで検索する習慣がないので,ついつい短人間に聞くという安直な方法をとってしまうのですが,知能指数について多国間の調査があるとは知りませんでした。
南洋のボルネオ島をよく知る方の話によれば,イヴァン族は頭がいいというのです。調査したわけではないのでそうですかとうなずくだけでしたが,ひょっとしたらフィンランド民族も知能が高いのではと連想したのです。人種のるつぼ米国とフィンランドとでは知能条件が異なり過ぎるのではと考えた次第です。
ただフィンランドでは1980年代にはかなり学力が落ちたので,教育改革を行い現在に至っているという記事も読んだことを思い出し,知能指数と学力とはあまり関係ないことを見落としていました。やはり教育制度,それを支持する親や地域の態度如何で学力が決まるのではと改めて考え直した次第です。
丙.円周率3.14と3について
孫たちの受けた文科省版学力テストをこっそり知り合いの先生に見せてもらったのですが,3.14を使わず,3で解くことが出来る問題がありました。文科省版はPISA対策のための「似た問」になっていると聞いておりますので,「深く考える」ためには,3.14倍よりはおよそ3倍の方が好都合であろうと思います。
しかし遠山啓元東工大教授(数学)によれば,こつこつ計算することで数学がよく出来るようになるというのです。
フランスには大数学者が多いのですが,大数学者ほど計算が苦手だという説もあります。しかし,フランス語の数詞を覚えるのは大変で,フランス人でさえよく間違えるそうです。
ただ小生の小学生経験から言わせれば,なぜ3.14になるかの説明は理解しがたいモノでした。しかし「3」で教わった場合,正確さを好む小学生に「丸め」を理解することはもっと困難なような気がするのです(中学校で習った「近似値」なる概念も難しかったように記憶しております)。
能力がさらに発達する大人になれば,3.14を3と見なすことは容易ですが,小学生の学齢期には難しいと考えております。しかし『中小企業の底力』によれば,3.141つまり小数第3位あたりで製品に差がつくそうです。全てがそうであるとは言えませんが,また誰もが中小企業の製造業に携わるわけではありませんが,最低3.14の感覚は必要だと考えています。(残りの99%は関係ないと言われればそれまでですが,その1%によって日本は製造業が世界一になって99%が多くの恩恵を受けたわけですから,実生活に関係なくても,「教えるべきは教えるべき」知識だと考えております。
NASAの小数点第16桁の例は例外だと思います。むしろ,1930年代にゆとり教育の前身である生活単元学習を廃して系統学習を導入したソ連を思い出す必要があると思います。スプ-トニク打ち上げは米国より先でした。国際数学オリンピックIMOを最初に行ったのは,COMECONの一員ハンガリ-においてだったと記憶しておりますが,系統学習が奏を功したと推測されています。ゆとり教育はデュ-イ(生活単元学習の総帥)のヴァ-モント州でさえ,失敗に気付きゆとり教育を廃止しました。米国では日本の教科書を翻訳して使っている州もあるようです。)
(続き)
返信削除フィンランドの学力が高いということで各国の教授や政治家,先生方が沢山訪問しました。しかし,ゆとり教育との関連話は,なかったように記憶しております。したがって「3」だけをもってゆとり教育と結びつける積もりはありませんでした。
むしろ授業内容3割削減,授業時間2~3削減とフィンランド式「少なく教える」とが何となく似ているという点で,日欧米の,教育の流れが同じ方向なのかと推測しておりました。その点,説明不足であったと反省しております。
補足しますと,
現在の日本は10教科14領域(小学校)を教えています。音楽とか体育を交代で受け持つ場合もありますが,一人の教員が受け持つ科目種数は,フィンランドの教員より多いと思われたのです。この米国の先生は数学と2,3の領域だと思います。また南洋の教員も主教科一つに加えることの2,3の教科と聞いております。またご承知のように,そろばん(アバカス)・書道などありません。南洋の,あるいは北欧の気候的条件により体育の授業もないようです。
また表音文字と表意文字とでは学習量・質ともに異なるはずだと思います。例えば,英語で文章を読み書きできる日本人は少なからずいますが,外国人で漢字まで含めて流暢な日本語を綴る方は少ないと思います。ウィキペディアで調べるつもりはありませんが,言語獲得難易度というものがあれば,日本語は難しい部類に入ると思います。
両親,祖父母の英語を話す下地がほとんどない日本で,英語教育必修化は不可能でないとしても,3世代を経ないと無理かと思います。しかし英語文化と漢字文化を両立させることは難しいので,文系学部廃止という意見が出てくるのでしょう。予算的な面だけでなく,日本の歴史や古典文学,その背後にある中国文献等の多くをなかったモノとすることなしに,英語教育を行うことは難しいと考えます。
南洋でも同じです。学生たちに文学部はあるのかと聞いても反応が鈍いのです。文字がなかったのですから仕方ありませんし,あっても文学作品はほとんど残っていないので,土佐日記や万葉集を学ぶ日本とは大いに教育条件,下地が異なると思います。しかし英語(やオランダ語やフランス語)は祖父母の時代から使われていたので,現地の方は宗主国の言葉をよく使います。
基礎/基本+総合的学習=ゆとり教育と考えていますが,欧米で失敗したゆとり教育を20年遅れで日本に導入したと聞いております。先生方に素地のないところに米国に学んだ官僚寺脇研,学者などが持ち込んだのがゆとり教育です。寺脇氏などは,総合学習を日本の先生方が指導できるかどうか心配だったという新聞記事(日経)を読んだことがありますが,自分が「うまくいった」から日本の先生方も出来るだろうと考えたことが失敗の始まりだったと考えます。
教員免許状がない寺脇氏は,日常の教員の文書処理を経験していません。膨大な文書処理をしながら総合学習を指導して成功したなら,日本の教員も見習ってもいいでしょうが,NYがどこにあるか分からない高校生,分数の計算も出来ない大学生を生んだ張本人が寺脇氏です。もちろん,実生活で分数を使うことは少ないでしょうが,日本人全員がNYへ行くわけではないでしょうが,中小企業の,製造業の現場で「丸め」及び小数点第3位以下を知らなければ,役に立たないことは明かでしょう。
小学校の恩師が一部作成に携わった「46答申」と「ゆとり教育(中曾根臨教審に始まるが実際には1989年に始まる)」とは真逆の教育方針です。世界に冠たる日本の初等中等教育は前者です。それがいいかどうかは分かりませんが,教える量が必然的に多い日本は,後者よりどうしても前者にならなければ,製造業さえ存立が危うくなると考えます。その意味で,フィンランドの「少なく教える」教育法が日本の「ゆとり教育」と同じに映ったのです。
2.分数と小数について
さて,分数と小数についていくらか補足させていただきます。「0」の発見はインドのバラモン階級ですが,インドでは科学が発達しませんでした。歴史的に見れば,小数の発見より分数の発見が早かったと思います。16世紀に小数の発見はイギリスのネイピアによってなされました。また他方中国伝来の『九章算術』は分数で書かれていると思います。神社の掛け図にあると言われている算術の問題には小数はでてこないと思います。
中学校の先生が「せきこうわ」と仰ったとき,最初の頃は誰か分からなかったのですが,「関孝和(たかかず)」の時代も小数は日本に伝わっていなかったと思います。しかし近代医学及び近代科学が,アラビアやインドでもなく,高度の文明を備えた中国でもなく,西洋においてのみ発達したのであったとすれば,小数の発見と無関係であったはずがありません。
もちろん帰納的思考や演繹的思考を自由に操る知識人がいて,小数の発見が加わって18Cに産業革命がイギリスで起こったと推測できます。18Cまでに、つまり,200年間に小数の利用は広まり定着したと考えて良いと思います。
しかし教育的には分数より小数の方が学習しやすいそうです。小生もそう思います。また分数の割り算で除数の分母と分子とを逆にして掛けるのかを説明できる教員も少ないそうです。ゆえに『分数のできない大学生』がでてくるのだと思いますが,「実生活で役に立たない」といって分数分母が10以下までにして他の分数を切り捨てていいモノなのでしょうか。
大げさなことを言うつもりはありませんが,分数にしても小数にしても人類の遺産,思考の産物を習わずして生涯を終えてもいいのでしょうか。例えばピタラスの定理。これなど日常生活で使うことはほとんどないでしょうが,人類の知的遺産として,爆撃で今日にも明日にも殺されそうなシリアや南ス-ダンの子供たちにでさえ,ピタゴラスの定理を教えることは,人類の役目であると思うのです。ゆえに戦争に反対するのです。(ピタゴラスの定理を子どもの自発性に任せていたら,いつまでたっても出てこないでしょう)
3.生活単元学習について
前節でいくらか述べさせていただきましたが,国際基督教大学CIUの附属高校の、総合学習またはゆとり教育を熟知の先生某が日経紙で告白したように,ゆとり教育の由来はデュ-イの生活単元学習です。いわゆる実用主義です。裏を返せば,実用でなければ,教育に値しないのです。
デュ-イは8人の子どもを教育実験の対象としたようです。日本の教室風景とは比べものにならないシカゴ大学附属小学校の話です。それがなぜか,世界的な評判を勝ち取ったわけです。根本的にはプラトンとソクラテスの教育法の違いです。
目標は同じなのでしょうけれど,教育課程が異なると,哲学にも教育にも疎い小生は思うのですが,その異なり方が生活単元学習と系統学習との違いになって現れてくるのだろうと,推測しております。ゆえに国が教育に関与すること少なくして,現場に任せればいいという意見に賛成します。教育内容,教育方法は学校現場教員に任せてあげたいものです。その中から子どもの自発性を重んじる教育が生まれても仕方ないと思います。
(麻生財務大臣や安倍首相のような,漢字の読み書きも怪しい,方程式の意味も分からない子どもの自発性を尊重する教育が学習院大付属や成蹊大学付属では行われてきたモノと推認されます。彼らには遙かに及びませんが,かくいう小生も「席」と「度」を間違えて覚えて以来,悩まされております)。
箒川兵庫助様
削除さらなるインプットをしていただき有難うございます。私は次のブログの作成に追われていたために、返信をするのが大層遅れてしまいました。ご容赦願います。
でも、こうしてインプットしていただいた内容を拝見しますと、日本の教育の在り方を日頃あれこれと考えていらっしゃるのだなと痛感させられます。
◆円周率で3を取るか、それとも3.14を取るか、それとも小数点以下15桁まで取るのかは計算の精度をどの程度にするのかを問うのと同義だと思います。
3を使って計算し、大雑把な答えを迅速に得たい場合もあるでしょうし、NASAの説明にもありますように小数点以下15桁までを必要とする場合もあります。ですから、円周率は3で計算してもいい場合がありますが、3では困る場合もあるという説明が教育の現場ではどうしても必要になると考えます。これは無理数としての円周率の宿命です。その説明がないまま小学生が学校から帰って来た場合、親御さんたちは不審にかられるのではないでしょうか。少なくとも私は非常に不審に思うことでしょう。
ゆとり教育では円周率を3とするというのは、多分、どこかで短絡的に捉えられただけのものであって、ゆとり教育の本質を代弁しているものではないと私は思いたいです。私自身は教育の現場も知りませんし、ゆとり教育の詳細を調べたこともないごく普通の素人ですが、製造業に身を置いてきたひとりでもありますので、勝手ながらその立場から議論を進めてみたいと思います。
福島原発では放射能汚染水を貯蔵するタンクが林立しています。敷地内にさらに設置する余地がある限り、東電は貯蔵タンクを増設し、増加する一途の汚染水に対処し続けなければなりません。このタンクの直径は12メートルで高さが11メートルです。容積は1000トン。このタンクの製作を受注したいメーカーは必要材料が何トンになるかを計算し、製造するための人件費を算出して、見積もりを提出する必要があります。このタンクの円周の長さは円周率を3として計算する場合と3.14を使って計算する場合とを比較しますと、必要材料のトン数には5%近い差が出て来ます。つまり、3を使って材料費を算出すると、実際に必要な材料の量よりも5%も少ない数値が出てきてしまいます。これはメーカーにとっては損失を意味します。製造メーカーにとってはこの5%は、通常、無関心ではいられない程に大きな値です。このメーカーは3.14の使用を必須条件とすることでしょう。
ここで言いたいことは円周率を3にするか、3.14にするかは計算の精度がどの程度求められているか次第であるという点です。つまり、何時でも3で対応できると教えることは説明不足であって、実生活では3.14を使わなければならない場合が多くあるということを付け加える必要があります。そして、その延長線上にはNASAの事例でご紹介した小数点以下15桁目までが必要となる場合も職業人の生活場面では出て来るのです。
◆ピタゴラスの定理は製造の現場では頻繁に使われています。私が体験上知っている例をご紹介したいと思います。新工場で機器を据え付ける場合、直角を作図する必要が常時出てきます。その場合はピタゴラスの定理を説明する際に用いられる直角三角形を用います。二辺の長さがそれぞれ3と4、そして、斜辺の長さが5となる直角三角形です。2千年前の知見が今でも現場では毎日の様に用いられています。
◆日本語の特性について一言:私の娘は日本語教育を途中まで受けましたが、途中からアメリカンスクールに転校したこともあり、また私自身が米国で仕事をすることになり、娘は米国で中学校から高校を過ごした結果、自分の第一言語は英語だと言っています。二番目には現在住んでいるルーマニアの言葉であるルーマニア語。それ以外には日本語、韓国語、ドイツ語、フランス語、スウェーデン語、等が続きますが、彼女は日本語の特性に関して興味深い見方を持っています。文学に用いる言語としては日本語が最適ではないだろうかと言うのです。つまり、いろいろな言語を比較してみると、日本語が持つ対応力、柔軟性、あるいは、表現力は他の言語では見られないと言うのです。これはあくまでも一個人の見解であって、学術的な意見ではありませんが、日本語が持つ特異性を語る時、無視できない側面ではないかと思います。
しかしながら、私に理解できないのは日本人は外国語(主として欧米語)を習得するのが不得意であるという一般通念です。これが本当にそうなのか、日本人特有の単なる謙譲を重んじた表現に過ぎないのか、私には断定できません。ひとつ興味深い点があります。何処かで読んだ内容ですが、米国のCIAが外国語の習得の難易度を評価していまして、その中で日本語は「中程度に難しい言語」とランクされているそうです。それに比べて、ラテン語系に属し、欧米語とは親戚関係にあるルーマ二ア語は「難しい言語」とランクされているそうです。詳細な評価基準は分かりませんが、毎日接しているルーマニア語を私なりきに考えてみますと、ルーマニア語には複雑な格変化があって、私には非常に厄介です。ルーマニア人自身でさえも正確にルーマニア語を喋ることができる人は少ないと言います。一方、日本語を習得しようとする外国人にとっては日本語の「テニオハ」は非常に厄介ですし、漢字を覚える段階になるとすべてを放り出してしまう人が多くなるようです。当然ながら、それぞれの言語には特有の難しさがついて回ります。私は一時韓国語を勉強してみようと思いました。韓流ドラマの歴史物を楽しみたいと思ったからです。韓国語は日本語にもっとも近い言語である筈でした・・・ しかしながら、私はハングル文字でギブアップしてしまいました。ですから、「かわいい」文化やマンガを楽しむために日本語を始めたけれども漢字の段階になって日本語を諦める人がいるとしても、私自身はまったく驚きません。
雑談になってしまいましたが、とりあえず以上にしたいと思います。