副題: 2014年にはブルガリアやルーマニアからの移民が大挙して英国へなだれ込んでくるという予測は杞憂に終わった
昨年の末、英国のタブロイド紙は「2014年になるとEUへ加盟してから7年を過ぎたブルガリアとルーマニアからの移民に対してビザなし、あるいは、雇用者からの雇用の意図を示す手紙もなしに、自由に英国へ入国することができるように入国条件が緩和されることから、2014年の元旦には両国の移民が大挙して英国へやってくるだろう」として大騒ぎをしていた。大きな広場が群衆で埋め尽くされた写真を掲載し、それがすべて移民であると言わんばかりの筋書きで危機感を煽り、1月1日のブルガリアからの飛行機はどれも満席になっているとの報道がまことしやかに流されていた。インターネット上でも、こういったタブロイド紙の典型的な興味本位の記事を垣間見ることができた。
そして、2014年の元旦がやってきた。英国の空港がブルガリア人やルーマニア人の移民でごったがえしたというニュースはまったく聞こえてはこなかった。この大騒動は極右派による扇動の賜物であった。そして、まったくの杞憂に終わった。
この英国での大騒動は「Y2K問題」とよく似ている。読者の皆さんは今もご記憶だと思うが、21世紀がやってくる前年、1999年の12月が近づくにしたがって「Y2K問題」がメデイアを賑わしていた。コンピュータのプログラムでは4桁の年号が2桁で表されていることから、2000年は1900年と間違って認識される可能性があるとされ、そのことがそもそもの発端であった。つまり、1999年から2000年へとスムースに移行させるプログラムはなかったので、専門家を総動員して個々のプログラムの修正を余儀なくされた。政府や公共インフラのプログラム、軍のプログラム、あるいは、航空会社のプログラム、金融機関のプログラムを含め、コンピュータ・プログラムは誤作動を起こす危険性があると指摘されていた。特に、旧ソ連邦のシステムにはより大きな危険性が含まれていると一部のメデイアは述べていた。そこには「俺たち自由主義圏の国は準備万端を整えているけれども、旧共産圏では本当に大丈夫なのかい?」といった嫌味たっぷりなニュアンスが含まれていた。あたかもコンピュータの誤作動によってロシアの核弾頭が間違って飛び交うかも知れないといった、非常に極端な出来事さえをも思わせるような調子であった。
そして、いつものように年が替わった。2000年がやってきた。私は、2000年の年明け後数日間は特にこの「Y2K問題」がどこかで実際に起きているのではないだろうかと聞き耳をたてていた。チェルノブイリの原発事故みたいな途方もない事故がどこかで起こっているのではないだろうかと、特にロシアを含めてさまざまな可能性を考え、私の想像は尽きることがなかった。しかし、それらしきニュースは何もなかった。それまでに聞かされていた大停電、交通機能の停止、金融機関の機能停止、ミサイルの誤発射、等、危機的な状況は何も聞こえてはこなかったのだ。関係者が必死になって対処してくれたのですべてがうまく行ったということだろうか。何処の国でも適切に対処することができたということだろうか。実際にはいわゆる「Y2K問題」に起因する事故があったけれども、関係者は公表しなかったのかも知れない。あるいは、ロシアも含めてまったく何も起こらなかったのかも知れない。真相はどうも分からない。
世の中には一般大衆を扇動し政治や商業のために誇大宣伝をする人たちがいる。しかも、その作業を実に巧妙に実現する能力や資源を持っている人たちが世間にはたくさん存在するようだ。そういった能力や資源は建設的な目的に使ってくれれば実に有難いのだが、世の中そんなにうまくは行かない。多くの国で一般大衆が必要以上に惑わされることになる。
2014年の元旦からロンドンの空港がブルガリア人やルーマニア人の移民で足の踏み場もないほどになることを喧伝していた人たちにとって、元旦、2日、3日と時が過ぎて、空港の様子を眺めるにつけ何かが起ることへの期待感みたいなものは急速に消えてしまったのではないだろうか。それに代わって、今は、まったくのナンセンスを振り回していたことへの腹立たしさ、あるいは、自分の洞察が欠けていたことに対する嫌悪感にさいなまれているのではないかとも思う。
♞ ♞ ♞
1月1日のガーデイアン紙の記事[注1]を覗いてみよう。ガーデイアン紙は高級紙のひとつである。ゴシップや扇動的な内容ならびにお色気で販売部数を伸ばしているタブロイド紙とは違って、その内容には定評がある。その一部を仮訳して、下記に段下げして示してみたいと思う。
ルーマニアのトランシルヴァニア地方から英国へ到着しつつあったヴィクトル・スピレスクがどんな夢を持っており、その夢を実現するために英国では何を必要とするのかは別として、到着後数分も経たないうちにテレビカメラやマイクに囲まれて労働党のケイス・ヴァズ議員とコーヒーを共にするという場面も彼の夢のひとつだったというのは非常に疑わしい。
しかし、トウルグ・ムレーシュ発のウィズ・エアW63701 便に乗っていた10人にも満たないルーマニア人の移民の一人として、1月1日に規制が緩和された英国への入国条件の恩恵を享受するべく、イノシシ猟を得意とする友人のジュリアン・バルバットと共に旅をしてきた建設工事の労働者で30歳のスピレスクはえらく仰々しい出迎えを受けていることに気が付いた。
英下院の内務特別委員会の議長を務めるヴァズ議員、ならびに、保守党の委員会のメンバーでもあるマーク・レックレス議員がルートン空港にて早朝から待機し、二人はブルガリアやルーマニアからやってくる移民が自由に英国へ入国できるようになった初日の様子を「自分の目で見たいものだ」と言っていた。
二人が実際に見たのは旅客席の3/4程度が埋まったフライトで、146人乗りの旅客機の乗客のほとんどは英国で仕事をしていて、ルーマニアへ帰省しクリスマス休暇を家族と共に過ごしてから再度英国へやってきた人たちであった。この事実は「大挙してやって来るルーマニア人」という筋書きとは大きな隔たりだ。
到着客用の出口の扉が開き、スピレスクが悠然とした足取りで外へ出た。彼は毛糸編みの帽子を目深に被り、大きな旅行鞄をぶら下げて、英国へは今初めて入国したんだという実感に浸っていた。しかし、息つく暇もなく彼はマイクをかざすレポーターの大群に取り巻かれているのを悟った。
レポーターたちは彼に「英語はしゃべるの?」と質問した。事実、彼は英語を喋っていた。彼は「MTVや映画を観ているし、インターネットを使っている」と答えた。
職は見つけたのかい?「イエス。仕事にでかける。明日にでも仕事を始める。」彼は洗車の仕事を見つけており、もっといい職を得たいとの希望を述べた。見通しは明るく、「ワクワクしている」と言った。
そうこうするうちに誰かが中傷めいた言葉を使って、福祉手当を目当てに英国へやってくる連中に関してあんたはどう思うかと彼の意見を求めてきた。スピレスクは快活に肩をすぼめて、関心がないことを示した。「俺には分からない。俺は働くのが好きだからここへやって来たんだ。ルーマニアでは建設業で一日10ユーロの稼ぎだった。「多分、ここでは時給で10ユーロ位は稼げるかも」と彼は言った。
英国の国民医療サービスについて何かの知識があるのかと聞かれた時、彼はすっかり面食らっていたようだ。彼は「え、それは何のこと?」と答えた。スピレスクの家はトランシルヴァニアのペリショールという小さな集落にあった。そこには妻のカタリーナが住んでおり、彼の出発の当日彼女は手を振って見送りし、「お金をたくさん貯めて」直ぐにでも帰ってきて欲しいと言っていた。
そこが彼が帰っていく場所なのだ。彼は今英国にいる。「自分の家を改造し、ルーマニアで生活をしたい。ルーマニアに住んでいる方が遥かに楽だ。何と言っても物価がそれほど高くはないからね」と言った。
スピレスクは友人の勧めで洗車の仕事を見つけていた。彼のボスは彼の住居を探している。彼はドイツよりもどちらかと言うと英国を選んだ。それはドイツ語が喋れないからだ。以前ドイツに2か月ほど滞在したことがあったものの、「俺は何にも理解できなかった」と。
そして今は自分が置かれているこのもてなし振りにいささか驚いていた。「イエス、当地にはたくさんの政治家がいる。何と言うことだ!皆さん、俺はあんたたちの国へ押し込みに入った訳じゃないんだよ!俺は働くために英国へやって来たんだ。あんたたちの国が国境を開いてくれた。そこで俺は働きに来た。金を貯めて自分の家へ帰るためにだ。」
彼に対するレポーターたちからの質問攻めはこれで終わった。ヴァズ議員と一緒に写真に収まることにも快く対応してから、彼は英国での第1日目に踏み出していった。
ヴァズ議員のルートン空港への朝駆けは英国内務省事務次官のマーク・セドウィルから彼の委員会に向けられた言葉「1月1日のためにはオリンピックの時のような準備を進めている」さらには、これを受けてテレサ・メイ内務相からの「準備は特段変わった物にはならないだろう」という言葉に対応するものだった。
この秘密の視察を終えた時点で、ヴァズ議員とレックレス議員はオリンピック級のセキュリテイーの必要性については何も感じられなかったことを認めた。元旦には大挙して押し寄せてくるという状況を目にすることはできなかった。しかし、ヴァズ議員は元旦に到着した移民は今後何ヶ月もの間にやってくる移民の一端を見せてくれた、と語った。
「我が国へ入国した人たちと話をしたが、多くの人たちは既に我が国で就労しており、休暇を終えて帰ってきた人たちであるから、初めて入国した人たちとは違う」と、ライチェスター・イースト選出の議員は言った。「1月1日になったということで、家を飛び出して航空券を買い求めたという証拠は何も見当たらなかった。しかし、この問題は将来解決しなければならず、欧州連合全体として解決するべき課題でもある。この種のドラマが直ぐにでも終結するとはとても思えない。」
英国への入国者数の推定作業を委託することを政府が拒否したことについて彼は批判した。「英国にすでに住んでいるブルガリア人とルーマニア人は141,000人となる。委員会がかねてから抱いている関心事は我が国へやってくる人の数をしっかりと把握することであり、移民に関する諮問委員会が我が国へやってくる移民の数について調査を実施すべきであると今もなお政府に対して強く要請したい。」
レックレス議員はロチェスターとストルードから選出されたトーリー党の議員であって、彼はこう言った。「今朝私はここに居る。われわれ保守党は年間当たりで何十万にもなる移民の数を数万のレベルに低減することを約束しているからだ。そして、何といっても、私の懸念は、もしルーマニアやブルガリアからの移民が大挙して我が国へやっくるならば、今述べた目標を台無しにしてしまい、選挙民との約束を反故にしてしまうだろうという点だ。」
「あの約束を果たし、移民の数を制御することは決定的に重要だと私は思っているし、それを実現するためには欧州連合から離脱し、我が国の国境を再び我が国の管理下に置くことが必要となるかどうかをしっかりと判断しなければならない。そして、最終的には、わが国の選択肢として、われわれは国民投票と取り組まなければならないと思う。」
このフライトでやってきた人たちの大部分は既に我が国に住んでいる人たちだ、と彼は認めた。続いて、「明日はもっと多くの移民がやってくるだろうと私は思う。最終的には、何ヶ月もするとその総数は大きく膨らんでくる」とも述べた。
彼のこの見解はW63701のフライトに乗っていた他の乗客のひとり、アドリアンという名前の医師と共有するには至らなかった。
2009年に英国で働いていたことがあって、彼はエセックスで救急医療の医師として職場を確保し英国へ戻るところだった。この大騒動に彼は驚いただろうか?
「いいえ、私は驚いてはいない。何人かはやってくるだろうと私も思う。でも、彼らが言うようにあれ程多くの移民がやってくるとはとても思えない」と、彼は言った。
27歳のシルヴィウ・トデアは英国で職に就いて4年になるが、彼は市場開拓の仕事をしている。彼も、それ程大きな数にはとてもならないと思っている。「この国へやってくる人たちは働きにやってくる訳であって、福祉手当を目当てにやってくるのではない。何と言っても、ロンドンで生活するにはすごく経費がかかるんだから。」
他にも何人かはこの過剰な程に熱のこもった論争はひどく不快に思ったようだ。ゲオルゲ・オルメンシアンは汎欧州エラスムス賞の一環として3か月間の研究コースを開始するために英国へやってきたが、彼曰く「皆がわれわれを泥棒のように思っている。このような状況は大嫌いだ。昨晩ニュース番組を見ていたが、内容はこの種の政治的な宣伝だった。ルーマニア人についての完全な誤解だ。不愉快だ。」
数時間後ガトウィック空港ではブルガリアのソフィアから到着したイージー・ジェットの満席のフライトから降りたロンドンのキングズ・カレッジの学生、19歳のプレスラヴ・ペンチェフは同国人に対する雰囲気が敵意を感じさせるほどになっていることを否定しなかった。「英国へ働きにあれほど多くの人たちがやってくるのかどうか私には分からないけれども、福祉手当を貰うだけのためにブルガリア人やルーマニア人が大挙して押しかけてくるとはとても思えない。われわれは英国から何かを得る以上に英国に対して貢献していると思う。」
ロンドンのサウス・バンク大学でITを勉強している二人の学生、19歳のエヴァ・ジョルジエヴァとマヤ・ぺトラノヴァは労働法の変更によって授業料の支払いで恩恵を受けることになるかも知れないと言った。「私たちは英国の福祉手当の恩恵を受けるために英国へ来ているのではなく、しっかり勉強して職を見つけるために来ているんです」と、ジョルジエヴァが意見を述べてくれた。
「そのことこそがこの法律の要点なんです。自分たちの授業料を払うために私たちは働きたいんです。恩恵を受けるためではないわ。しっかり勉強をしたいから、パートタイムの仕事を探そうと思う。ま、様子を見たいけど」と、ぺトラノヴァが続けた。
20歳のナデイア・ジョルジヴェアは規則が変わることを聞いていたので、英国で職を見つけたいと言う。「今回初めて英国へやって来ました。私はボーイフレンドと一緒になるためにこちらへやって来たんです。彼はこちらに住んでいるの。彼はパキスタンから。私は掃除をするような職であっても職に就きたいわ。」
しかし、ブルガリア人やルーマニア人に関して最近は膨大な量の否定的なメデイアの報道があるにも拘わらず、ソフィア出身で現在クイーン・メリー大学で経済学の講師をしているアセン・イヴァノフ博士は、ロンドンの街は依然として非常に快適な場所であると信じている。「ロンドンは外国人にとっては素晴らしい街です。私は自分に向って敵意をみせるような状況には未だかって遭遇したことはありません。」
♞ ♞ ♞
このガーデイアン紙の記事は英国社会の現実を余すことなく伝えてくれているように思われる。たとえば、英国社会は階層がはっきりとした社会であると言われている。このブログと直接的に関係するのはタブロイド紙と高級紙の存在だ。英国の日刊紙の中で発行部数がもっとも多いタブロイド紙「ザ・サン」は2013年の7月には毎日228万部を売り上げた。一方、高級紙ではタイムズが2013年の9月の時点で39万部である。この部数の違いは、大雑把に言えば、一般大衆紙としてのタブロイドと教育があり知識を志向する市民や高額所得者向けの高級紙とが住み分けていることを反映しているようだ。
ガーデイアン紙の記事にもあるように、政治家はありそうもない危機的状況を声高に訴えて票を集めようとしている節があり、そのことが逆に選挙区の支持者との約束となって政治家にとっては余分な負担になっているような感じがする。移民をどの程度受け入れるのかは、英国が今後欧州同盟に残るのか、それとも、離脱するのかという選択とも繋がっている。国民投票の際には国内の失業率の低下策としての重要な論点のひとつになるのかも知れない。英国では来年の総選挙でキャメロン首相が再選されれば、欧州同盟からの離脱を国民投票にかけたいと既に表明している。また、英国独立党の党首は移民労働者の増加でEU離脱を求める声が強まっており、どのような政府も国民の声を無視することはできないと声高に主張している。総選挙を来年に控えて、英国の政治はさらに騒々しいものになりそうだ。
しかしながら、人口の減少によって国力が衰えつつある日本とは違って、英国では人口が着実に増加している。2012年現在で6370万人の人口が2037年には1千万人近く増え、約7330万人に達するだろうとの人口推計が発表されている(英国国家統計局)。そして、この人口増を受けて2030年頃には英国の経済規模はドイツを抜き、欧州最強になるだろうとの推測もある。これを見ると、ひとつの国家にとって人口がいかに強力な資産であるかを思い知らされる。
さて、今後も欧州同盟をさらに進化させ経済力を発展させたい欧州、それに対してメンバー各国には欧州全域の利害とは一致しない国内問題が存在している。この種の問題を解決するにはどのような政治的英知が必要なのであろうか。欧州の巨大な実験は続いていく。
参照:
注1:Welcome to Luton: Romanian
arrival greeted by two MPs and a media scrum: By Caroline Davies and Shiv Malik, The Guardian, 1 January 2014
このコメントはブログの管理者によって削除されました。
返信削除