ウクライナ内戦によるドネツクおよびルガンスク両州における犠牲者の数はすでに5,400人を超したと言われている。たくさんんの子供たちが含まれている。自分の家を離れざるを得なかった市民の数は優に百万人を超している。その多くはロシアでの安全な生活を希望してロシアへ避難し、亡命先で市民権を要請している。
また、ウクライナ政府による徴兵(徴兵年齢は20歳から60歳まで)を逃れるために集落全体が空っぽになってしまった地域がウクライナ西部では何か所も出現しているらしい。集落の住民全員がバスをチャーターして、ウクライナ西部からはるばるロシアへ移動してしまったためだ。市民たちは自分たちの政府の敵である筈のロシアへ避難し、ウクライナの内戦が終わるのを待っているのだそうだ。何と言う皮肉だろうか。
2月12日、ノルマンデイー・フォー(ロシア、ウクライナ、フランスおよびドイツ)の首脳によるウクライナ停戦が合意となった旨が報道された。キエフ時間の2月15日の早朝零時(このブログを書いている現時点から数時間後)から停戦が発動する。
今度こそは本物の停戦だと期待したい。重火器は最前線から撤退し、捕虜の交換が行われ、欧州安全保障協力機構が停戦の監視をし、ウクライナ政府は今年末までにはドネツク・ルガンスク両州について特別な自治権を規定する、ドネツク・ルガンスク両州の反政府派活動家に対しては恩赦が与えられる、等といった内容だ。
私はこの1年間ウクライナ情勢を追っかけてきた。英語圏では夥しい量の情報が毎日インターネットに掲載される。ニュースもあれば、解説や論評もある。ウクライナ危機の姿を日本語でお伝えし、少しでも多くの情報を読者の皆さんと共有したいと思い、ブログへの掲載を続けてきた。「これは是非とも掲載したいなあ」と思う記事の数は増えるばかりであった。でも、それらすべてを私一人の力で処理することは所詮とても無理…
一個人としての最大の願いは和平が成立し、ウクライナの一般市民が銃弾や榴弾砲によって命を落とすこともなく、一日でも早く平穏な生活を取り戻して欲しいという点にある。
米国のロシアに対する経済制裁に追従してEU各国も経済制裁に加わった。ロシアは、それを受けて、向こう1年間という期限付きで、米国、EU各国およびノルウェーからの食糧品の輸入を禁止した。やがて、対ロ経済制裁ならびにロシアの対抗措置がブーメラン効果を示し始めた。つまり、EU各国は自国経済への影響を感じ始めたのである。そして、今や、EU経済のけん引役を演じているドイツ経済が2015年にはリセッションに突入するかも知れないと予測されている。
しかし、現代文明をリードし、EUという国境を超した連合体を樹立して久しいヨーロッパで何故このような戦争が起こるのだろうか?
歴史的に見るとその答えを握っているのは米国主導のNATOにあるようだ。最近の記事のひとつ [注1] がそのことをうまく要約していた。記事の一部を下記に引用する。
…NATOの目に映るプーチンは許しがたい程に罪深い。彼は西側の要求に対抗して自国の利益を守ろうとする。ロシアはNATOのシリアへの軍事介入に対して国連の安保理事会で拒否権を発動したし、同国に対して軍事的支援を与えている。しかし、NATOの意図に関するプーチンの猜疑心は十分な裏付けに基づいたものだ。NATOは、20年以上にわたって、NATOへの加盟国を東欧には拡張しないと言っていたミカエル・ゴルバチョフとの約束を破ってしまった。クリントン、ブッシュならびにオバマ政権の下で、東欧12カ国がNATOに加えられたのである…
今回のノルマンデイー・フォーによる停戦合意は、フランスのオランド大統領に言わせると、「これは最後のチャンスだ。この機会を逸するとヨーロッパは戦場と化すかも知れない」との切羽詰まった状況判断の下、十数時間をかけて、何とか合意に達した。
このようなマラソン交渉を経て合意に達した理由は何か?
それは西側が支援して来たウクライナ政府軍が敗北を重ねて、今や、ウクライナ軍は崩壊の瀬戸際に達したからであると、上述の記事の著者、マーガレット・キンバリーは言う。昨年の9月の停戦と同様に、ウクライナ政府軍は態勢の立て直しのために時間が必要なのだ。態勢の立て直しの一部には、米国の共和党が声高に要求している米国からの武器の供給やウクライナ軍の訓練も含まれているのであろう。
要するに、今回の停戦合意も米国の戦争屋にとっては時間を稼ぐ格好の機会であるに違いない。
そう思わせる根拠は「ウクライナ停戦はそれが成立する前からすでに絶望的」と題された別の記事
[注2] に見ることができる。著者は、このウクライナ紛争は20数年前に米国の主導の下にボスニア紛争が辿った道を彷彿とさせると述べている。
本日はこの記事に注目してみたい。
<引用開始>
Photo-1: The B-team [訳注:B-teamとは補欠選手だけで構成されたチームを指す。つまり、B-teamによって何とか合意に漕ぎつけたウクライナ停戦は、A-teamである米国が表に出てくるとすべてが覆されてしまう可能性が大きいのだ!]
本記事は当初はChronicles Magazineに掲載された [訳注:Chronicles Magazineは米国の月刊誌。読者の多くは知識階級に属する]。
ドイツのアンゲラ・メルケル首相とフランスのフランソワ・オランド大統領は、先週の金曜日、ウクライナのための和平案として歓迎されるべき計画について概略説明を行うために、モスクワを訪問した。
しかし、二人はウラジミール・プーチン大統領と5時間にもわたって話をしたが、突破口を見つけることができないまま、土曜日の早朝、ミュンヘンでの安全保障会議に出席するためにモスクワを後にした。
彼らの努力はポロシェンコを加えた3人組の間では次の数日中にはミンスクにおいて会議を実現することになるだろうが、三つの理由からそれは絶望的だと言える。
まずは、米国政府はヨーロッパが自分たちの手で何らかの取り決めをすることを決して許しはしないからだ。1992年3月、(ボスニア紛争では)米国はポルトガルのホセ・クテイレイロ外相の仲介によって提案されたEUの和平案を頓挫させた。この和平案は三つの民族国家からなる緩い連邦制を目指したものだった。
ベルグラードに駐在していたウオレン・ツインマーマン米国大使は急遽サラエヴォへ向かい、アリヤ・イゼトベゴヴィッチに対して「この提案から手を引いて、中央集権的な体制を要求するならば、米国はムスリム側を支援する」と伝えた。ムスリムが多数を占めることから、ムスリムが中心になるような国家を形成することができるとして扇動した。このムスリムの老人はことのほかに喜んで、自分の署名を速やかに撤回したのである。
その結果は民族と宗教とが絡んだ三つ巴の戦争となった。この戦争は3年半後にデイトン合意によって終わった。この合意によって、同じ大きさのふたつの領域、つまり、セルビア人の共和国(スルプスカ共和国)とムスリム・クロアチア人の国家との連邦制である。
この合意は実質的にはクテイレイロ外相が示した枠組みと異なるものではなかった。しかし、これはEUではなくて米国による仲介である。この提案の中心的な立案者は故リチャード・ホールブルックである。この仕事はすべての点においてヴィクトリア・ヌーランドが(ウクライナで)行った仕事に負けず劣らず卑劣そのものである。ホールブルックは言った。「ヨーロッパはワシントン無しでは物事を解決することができないので、アメリカが面倒を見る」と誇らしげに宣言した。「われわれは再び全世界に関与する。ボスニアは試験的な試みだ。」
マデレーン・オールブライトの言葉を引用すると、その代価は支払うに値する。つまり、10万人のセルビア系、クロアチア系およびムスリム系の人命、ひどく破壊された経済やインフラ、長く続くコミュニテイ間の悪感情や嫌悪感、まん延するイスラム聖戦士の活動…これらは何時も繰り返して見られる米国の力づくの平和の産物なのだ。
二番目には、メルケルとオランドはプーチンに対して「政治的な決着に向けて何らかの進展を実現することができれば、ふたりは米国がキエフ政権に武器を供与することを今でも阻止することができる」と言ったと理解されている。
問題は彼らはそんなことは実現することはできそうにはなく、プーチンはそれをよくわきまえている(しかし、メルケルは明らかにそのようには理解していない)。バルカンに戻ろう。ボスニア戦争の当時、1993年の春からクリントン政権は当時のユーゴスラビアに対する国連の武器禁輸政策を組織的に破っていた。
米国政府は人目につかないようにムスリム側にあらゆる種類の武器を送り込んだ。直接的に(米空軍のC130輸送機からトウスラ地域へ投下)、あるいは、イラン革命警備軍の厚意の下で(ザグレブ空港を経由して)行われた。
ジョン・メージャー首相やフランソワ・ミッテラン大統領はCIAと国防省との共同作業は戦争を長引かせ、戦争を終わらせようとする自分たちの努力を台無しにしてしまうかも知れないと気付いていた。しかし、クリントンや彼のチームの気持ちを変えるには二人は無力であった。
これとまったく同様に、キエフ政権に武器を送り込んでウクライナ紛争を拡大するという決意はすでにワシントンでは決定されている。
武器の供給の流れはポーランド経由ですでに始まっている。ベルリンとパリは、ミンスクで開催される会合で何が起こるかには関わりなく、これをストップさせることはできない。
三番目には、メルケルと(特に)オランドは、彼らの和平案はドネツク・ルガンスク両州のロシア語系住民の「かなり強力な自治」をも含んでいると言っている。
しかし、彼らは「自治」の程度や性格に関しては曖昧なままである。何故かと言うと、何らかの意味のある自治に関してポロシェンコ(すなわち、ワシントン)の了解をとっているわけではないからだ。
自治を許容する地域の大きさに関しても定義が成されているわけではない。これらは専門的事項ではないが、非常に中核的な課題である。私がモスクワの情報源から得た情報によると、プーチンはふたりがが自分たちの行動を起こす前にメルケルとオランドに明快な説明を何度も求めていたという。
最終的に、プーチンはミンスクへ来ることに同意した。これは彼らがポロシェンコに対して何かを実現するかも知れないと言うことではなく、プーチンはこの和平案が失敗した時に失敗の責任をとらされることを嫌ったからに過ぎない。
東部地域の自治の性格や範囲は、戦争なしには、何らの合意も得られないのではないかと思われる。
東部地域の自治の性格や範囲は、戦争なしには、何らの合意も得られないのではないかと思われる。
ポロシェンコが敗北を認めようとする内容は、今や米国からの武器の供与を増やすことができるかも知れないという希望があることから、東部の住民が直ぐにでも受け入れる用意のある内容からは程遠いのが現状だ。
昨年、あらゆることが過ぎ去った後、彼ら(東部の住民)はウクライナ的なものは何でもひどく嫌っている。しかし、プーチンの圧力を受けて、完全な独立とはならないだろうが、彼らは多分意味のある自治を獲得して決着を見るのではないだろうか。換言すると、中央政府の権限が完全に弱められたウクライナでの自治共和国の連合体である。
しかしながら、今日のキエフ政権、ならびに、(もっと重要なことには)ワシントン政府は、限定された空疎な自治以上のものを彼らに与える気は毛頭なく、主として言語や文化的な分野に属する事項ではそれなりに自治を与えるだろう。でも、それさえもが限定された期間に限られるであろう。
ふたつの自称共和国に住む7百万の居住者は右翼(別名、ウクライナ国家警備隊)の連中がルガンスクの通りをパトロールすることを受け入れ、何とかやってみたらどうかといった現時点での期待は1992年当時のセルビア人にボスニアとの統合を受け入れるよう要求することは非常にばからしい考えだったのと同程度にばからしく感じられるのではないか。
不幸なことには、また、予測されることでもあるが、ペトロ・ポロシェンコは、今、23年前のアリヤ・イゼトベゴヴィッチと同じような行動をとっている。どちらの場合においても、米国が政治的ならびに軍事的な支援をするという甘い約束が理性や常識を凌駕してしまったのである。
結果もまったく同様なものとなりそうだ。さらなる流血沙汰が起こり、多分、1年後あるいは2年後にはデイトン合意的なウクライナ連邦が姿を現すのではないだろうか。
他の唯一あり得る状況としては、混成国家がさらに崩壊することが予想され、この崩壊は現在の前線だけにはとどまらないであろう。大多数のウクライナ人はこのことを十分に理解している。
ガリツイア地域の過激派グループを除いては、バンデラ派の世の終末を思わせる理想郷のために死にたいと願う者は誰もいない。何千人もの徴兵逃れがロシアやベラルーシへ流れ込んでいる。モルドバへさえもだ。
ドネツク空港で死体となって置き去りにされている同胞たちが辿ったリスクを避けるために、多くの兵士たちは、たとえそれが最新式の米国製の武器であっても、武器を捨てるのではないだろうか。
<引用終了>
この記事の全文の仮訳はここで終わる。
これは短文ながらも、非常に中身の濃い論評だ。この著者は歴史を覚めた目で眺め、ボスニアで起こった状況をウクライナで二重写しにし、その相似性を浮き彫りにしてくれた。そこには将来の展開さえもがはっきりと描かれている。歴史は繰り返すのかも知れない。非常に秀逸である。
軍事力に頼る米国の覇権の論理が持つ非情さを目の前に突き付けられて、私はあらためて無力感を覚える次第だ。ヨーロッパ人の英知はいったいどこへ行ってしまったのだろうか?
この記事が言っていることは間違いであったと言えるような日が来て欲しいものだ。
参照:
注1:War is Peace in Ukraine: By Margaret Kimberley, Information
Clearing House – BAR, Feb/12/2015
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