ワイン通は「ジェファーソン・ボトル」という言葉をもう御存知だろうと思う。私もワインには目がない方だと自認してはいたのだが、今頃になってこの言葉を知った。
米国の第3代大統領であったトーマス・ジェファーソンはボルドー・ワインに魅せられ、大量にフランスからワインを輸入していた。その当時ジェファーソンが調達していたワインは今「古ワイン」としてロンドンのオークションで高価な値段が付けられている。金に糸目をつけない蒐集家にとっては垂涎の的であるらしい。
しかしながら、実際に言われているように本当に200年もの古いワインであるのかどうかの鑑定は結構困難な作業であるようだ。素人の私らにとっても想像は難くない。
古ワインの鑑定はどのように行うのだろうか?これが今日のブログの本題である。
放射性同位元素のセシウム137(137Cs)は人工的な元素である。つまり、原爆の実験が世界で初めて行われた1944年以前には137Csは世の中に存在してはいなかった。このことが「古ワイン」の鑑定に役立つのだ。少なくとも、鑑定の対象であるワインが1944年よりも前に生産されたものであるのか、それとも1944年以降のものであるのかを識別することが可能となる。
先ずは、オークションの様子を覗いてみたいと思う。ここに非常に長い2007年の記事 [注1]
があるが、その前半の仮訳から始めてみよう。
舞台は30年前のロンドンのオークション会場から始まる。なぜ目の玉が飛び出るような値段が付けられるのかを前もって学んでおこう。
<引用開始>
オークションの歴史でもっとも高価なワインは、1985年12月5日、ロンドンのクリスティーズで値段が付けられた。そのボトルは濃い緑色をした手吹きのガラス瓶で、黒ワックスでシールされていた。ラベルはなく、ガラス瓶には「1787」との年号がきゃしゃな書体で刻まれており、「Lafitte」という単語と「Th.J.」という文字が刻まれていた。
このボトルは一連のワイン・コレクションの一部として登場した。何でも、パリの古いビルにあるレンガの壁で囲まれたワインセラーの中で見つかったのだそうだ。これらのワインにはラフィット(かってはLafitteと綴られていたが、今はLafiteと綴る)だけではなく、シャトー・ディケム、ムートンおよびマルゴー、等の名門ブドウ園の名称が付けられている。さらには、「Th.J.」のイニシャルだ。カタログによると、これらのワインがトーマス・ジェファーソンのものであったことは証拠が示しており、オークションに持ち込まれたワインは「世界でももっとも稀なワインのひとつである」としている。ワインの液面はこの種の古ワインにしては「例外的に高く」、コルクの半インチ下にまで達し、「古さのせいで非常に深い色合い」をしている。そして、このワインの「値段を付けることは不可能だ」とも記している。
ワインのオークションを開始する前に、ワイン部門を率いるマイケル・ブロードベントは社内のガラスの専門家たちに意見を求めた。専門家たちはこれらのボトルそのものや刻まれている文字が18世紀のフランスのスタイルを示していることを確認した。ジェファーソンは1785年からフランス革命が始まる年までフランス駐在の米国公使を務め、その間にフランス・ワインの素晴らしさに魅了されていた。米国への帰国後、彼は自分のため、あるいは、ジョージ・ワシントンのために大量のボルドー・ワインを注文し続けた。たとえば、1790年の手紙では注文したワインをそれぞれの発注者宛に船積みする際、ボトルには注文者のイニシャルを刻み込むようにとの指示を出している。大統領としての第一回目の任期中に、ジェファーソンは7,500ドル、現在のドル価値では12万ドルに相当する金額をワインのために使った。一般に、彼は米国ではワイン史上では最初の偉大な「ワイン通」であったと見られている。(また、彼は米国では初の「ワインおたく」でもあったらしい。「例によって、ワインに関する論文さえも書いた」と、ジョン・クインシー・アダムスは1807年にジェファーソンと食事をした後で自分の日記へ記載している。「すごく啓発的な内容だという言うわけではないけれども…」)
オークション材料の歴史的な関連性について調査を行うだけではなく、ブロードベントはコレクションの中から2本のボトルをサンプルとして抜き取った。19世紀のワインは、保存状態さえ良ければ、その味は依然として素晴らしい。そういう事例はいくらでもある。しかし、18世紀のワインは非常に稀で、「Th.J.」のボトルがその味を持ちこたえているかどうかは不明であった。ブロードベントは「マスター・オブ・ワイン」の称号を持っている。これはワインについて著作をする人やワインを取引する人、ならびに、ソムリエに与えられる職業的な証明書である。この証明書は高級なワインについて非常に広い経験を有し、しっかりした鑑識眼に基づいた判断をすることができるということを示唆するものである。彼は、1784年ものの「Th.J.」ディケムは「色合いや香りならびに味のどれをとっても完璧だ」と宣言した。
あの当日、12月の午後2時半、ブロードベントは1万ポンドから入札を開始した。2分もしない内に応札を促す彼の小槌の音は止んだ。落札者はクリストファー・フォーブスであった。彼はフォーブス誌のマルコルム・フォーブスの息子で、同誌の副社長を務めている。最終的な値段は10万5千ポンドで、これは約15万7千ドルに相当する。「これはリンカーンが撃たれた時にリンカーンが手にしていたオペラグラスよりも面白い逸品だ」とフォーブスは言った。また、すかさずこうも付け加えた。「これで、どちらもが我々の手に入った。」
このオークションの後、他の真剣な蒐集家たちもジェファーソン・ボトルを探し始めた。「ワイン・スペクテイター」誌の出版者はクリスティーズを通じて1本入手した。謎に包まれた中欧のビジネスマンも別の1本を手に入れた。1988年の末、アメリカの億万長者であるビル・コークは4本も調達した。彼はコーク・インダストリーズを設立したフレッド・コークの息子で、マサチューセッツ州のドーバーに住み、オックスボウ・コーポレーションという高利益を生み出すエネルギー企業を所有していた。コークは、1988年の11月、シカゴ・ワイン・カンパニーを通じて1787年もののブランヌ・ムートンを調達した。その翌月、彼は1784年もののブランヌ・ムートン、1784年のラフィットおよび1787年のラフィットの各1本を英国の小売業者から購入した。これら全部のボトルのためにコークは50万ドルを支払った。彼はこれらのボトルを広々とした空調が効いているワインセラーに収めたが、時にはこれらのボトルを持ち出しては友人たちに見せびらかしたものだ。
コークの美術品や骨とう品のコレクションは時価で何億ドルにも達し、2005年にはボストン美術館が数多くの彼の所有物について展示会を開催した。コークのスタッフは4本のジェファーソン・ボトルの詳細な来歴について調査を始めた。ところが、フォーブスが購入したボトルについてはブロードベントによる鑑定を除いては何も見つからないことが判明した。歴史的な裏付けとなる証拠を求めて、彼らはバージニア州シャーロットヴィルのモンティチェロにある「トーマス・ジェファーソン基金」に話を持ち掛けた。数日後、モンティチェロの館長を務めるスーザン・シュタインから電話があった。「これらのボトルはトーマス・ジェファーソンの所有物であったとは考えられません」と、彼女は言った。
コークは3番目の妻であるブリジット・ルーニーならびに前の結婚や彼女との結婚で生まれた6人の子供たちと一緒にパームビーチにある3万5千平方フィートもあるアングロ・カリビアン風の邸宅に住んでいる。それほど昔のことではないが、私が彼を訪問した時、前庭は掘り返されており、邸宅の地下室を拡張している最中だった。もっと保管用の空間が必要だと、コークが説明してくれた。「私は脅迫的とも言えるような蒐集家なんだ」と、彼は言った。モジリアニの1917年の作品である「横たわる裸婦」やピカソの青の時代の作品「ナイトクラブの歌手」、あるいは、ルノワールやロダン、ドガやシャガール、セザンヌ、モネ、ミロ、ダリ、レジェ、ボテロ、等々を我々は見てまわった。黒いガラスの球状のケースに入った幾つかの監視用カメラが天井から突き出ていた。
「私の父はあれこれと蒐集をしていた」とコークは言った。「私も彼の取集癖を受け継いだものらしい。父は印象派の絵画を蒐集していた。また、猟銃も蒐集していた。それから、放牧場もだ。」 我々はコークの「カウボーイ・ルーム」でチャールズ・マリオン・ラッセルの絵やフレデリック・レミントンの馬に跨った男たちのブロンズ像、古めかしいカウボーイ・ハット、猟で使う鞘付き刀、ガラスの蓋で覆われたケースの中に陳列された何十丁もの銃、等に囲まれて座っていた。中には、ジェシー・ジェームズの銃とかジェシー・ジェームズを殺した男が使っていた銃、シッティング・ブルが使ったピストル、カスター将軍愛用のライフル、等も含まれている。
コークは67歳で、手足が長く、長身で、白髪は乱れ、丸いメガネをかけ、子供のような甲高い声を出して笑う。マサチュウセッツ工科大学で化学工学を学び、博士業を取得しているが、その当時肝炎を患ったことから、それ以降彼は強いアルコールは飲めない。しかし、ワインは飲めるのだそうだ。レストランでは、彼はワインリストに掲載されている中でもっとも高価なワインを注文し、いくつかの銘柄は彼のお気に入りとなった。そうこうしているうちに、彼はオークションでワインを調達し始めた。たとえば、ラフィットやラトウールあるいはロマネ・コンティの有名なバーガンディーといった類いだ。「私はすっかり夢中になった時があるけれども、あれはコーク・インダストリーの自分が持っていた株式を売却した時だった」と、彼は言った。1983年のことだ。すでに報じられているように、5億5千万ドルを手にした。あの時点で、彼は世界でも最高クラスのワイン・コレクションを築いてみようと心に決めた。「どうしてですか?」と私が訊ねると、非常に明白なことを私はまったく理解してはいないんだとでも言わんばかりに彼は私を見つめて、こう言った。「世界中のアルコールの中で最高のものを味わえるから」と彼は言った。「それだけさ。」
コークは蒐集癖で見せたのと同じくらいに訴訟においても執拗であった。コーク家のファミリー・ビジネスでは二人の兄弟に対して20年も続く法廷闘争を展開した。(この訴訟は2001年に決着した。)彼は株式の売買に関して不当な課税があったとしてマサチューセッツ州を訴え、4千6百万ドルもの減税を勝ち取った。フォーシーズンズ・ホテルのコンドミニアムへ前のガールフレンドを住まわせていたが、彼女がそのコンドミニアムから退去することを拒んだ時には、彼女を住居問題を扱う法廷へ訴えて彼女を強制退去させた。彼は誰かに召喚状を送りつけたことについて語る時にはあたかも手榴弾を投げるかのような話し振りをする。
コークが4本の「Th.J.」ボルドーを購入した頃は、高級ワインの偽物の話などはほとんど聞いたこともなく、彼が求めた保証は単にブロードベントがすでに鑑定している例のワイン・コレクションの中から購入せよということだけだった。彼が所有しているボトルは偽物だとするモンティチェロからの報告を聞いて、彼は怒った。「私は数多くの美術品を買い、数多くの歴史的な銃を購入している。もしも誰かが私を騙したとするならば、そのような人物には高い代償を償って貰わなければならない」と、彼は私に言ったものだ。彼の顔色は赤く気色ばんだ。「それから」と、彼は続けた。「これは面白い探偵小説みたいなもんだよ。」
入手することが非常に稀な古ワインの価格は近年ひどいインフレ状態にあった。ジェファーソン・ボトルはもっとも人目を惹く事例だった。そんな背景から、ワイン業界では偽物が横行し始めたのである。2000年には、イタリア当局は人気が非常に高いトスカーナの赤ワイン、「サッシカイア」の偽物を2万本も差し押さえた。中国の偽物作りたちはラフィットの偽物を流通させ始めた。1970年代や1980年代にはオークションで見つけることは非常に難しかった所謂「トロフィー物」と言われ、世紀を超えて最高の逸品とされるボルドー・ワインが数多く市場に現れたのである。サザビーズの国際ワイン部門を率いるセリーナ・サットクリフはこんなジョークをとばした。「1945年産のムートンはその50年祭では実際に生産された量よりも遥かに多くが消費された…」 この種の問題は裕福な連中が大きなコレクションを速やかに築こうとする米国やアジアで顕著になっていると、サットクリフは私に教えてくれた。「名の通ったワインセラーへ入って見ると、5百万ドルとか6百万ドルもする素晴らしいコレクションに混じって、百万ドルにも達するような偽物のボトルの山を目にすることがある」と、彼女は言った。
高級ワイン・ビジネスの多くは帳簿外で売買され、所謂「グレー・マーケット」で売り手と買い手との間で取引される。ワインを生産するシャトーとは無関係であって、いったい誰が特定のワイン銘柄を流通させているのかを突き止めるのは決して易しくはない。しかし、コークはシカゴ・ワイン・カンパニーとファー・ヴィントナーズへ密使を送り込み、例の4本の古ワインは何れもクリスティーズで開催されたワイン・オークションへワインを供給をした人物に由来するものであることを突き止めた。それはドイツの派手なワイン蒐集家であるハーディー・ローデンストックであった。
ローデンストックは以前、70年代にはドイツのポップ・ミュージックの出版者だった。彼は住居をミュンヘンからボルドーへ、そしてモンテ・カルロへと移し、富豪のローデンストック家の一員であるとの噂が流れた。ローデンストック家は高級なメガネを商っていた。彼は周りの人たちには自分はもともとは先生であったが株式市場で大儲けをしたとほのめかしていた。
ローデンストックは70年代にワインに興味を抱き、シャトー・ディケムの甘い白ワインに情熱を注ぎ込んだ。彼は特に19世紀の終わり頃に起こったフィロキセラが大流行する以前に遡るワインを特に好んだ。当時、ヨーロッパのブドウ園は壊滅状態に陥り、北アメリカから輸入されたフィロキセラ害虫への耐性が強い品種に植え替えざるを得なかった。「フィロキセラ害虫の大流行以前のイケム・ワインには豊富な芳香や味わいがあって、より多くのカラメル成分を含み、独自性あるいは個性、力強さ、上品さ、等を感じることでしょう」と、彼は何処かのインタビューで語っていた。彼はイケムの古ワインをそのシャトーの所有者よりも遥かに多く味わっており、シャトーのオーナーもそれを認めている、と彼は「ワイン・スペクテイター」誌上で自慢した。
1980年から、ローデンストックは毎年豪華なワインの試飲会を開催し、この週末の催しにはワインの批評家や販売業者、ドイツのさまざまな賓客や著名人たちが集まって来た。彼は多くの古ワインや希少なワインの栓を抜いて、彼の友人やグラス・メーカーであるゲオルグ・リーデルが前もって準備しておいた特製の「ローデンストック」グラスへ注ぎ、お客さんをもてなした。費用のすべては彼が持った。完璧に着飾って、格好のいいローデンストック製のメガネをかけ、ピンと張った白い襟が目立つシャツを着こんで、彼は客人たちと気さくに話をした。特に上等なワインについては「これは驚きだ!100点満点!」と、大声をあげたりした。時間には几帳面なところがあって、遅刻することを戒めた。また、古ワインを試飲する際には味わった後で吐き出すことを禁じた。客人たちの中には痰壺を両足で挟んで隠し、これに反抗する者もいた。「歴史を吐き出したりしないで下さい」と言って、ローデンストックは客人たちに要請した。「飲み干してください。」
ローデンストックはジェファーソン・ボトルを発見したいきさつを隠そうとはしなかった。それどころか、フォーブスへ古ワインを売ったという記録が彼をワイン業界のセレブに仕立て上げた。後に、彼はこう説明した。1985年の春、パリで興味深いものが発見されたとの電話を受けた。誰かが偶然に埃を被っている古ワインを見つけ、個々のボトルには「Th.J.」の文字が彫り付けてあるという。ローデンストックはこれらのボトルを誰から購入したのかに関しては語ろうとはしなかった。しかし、明らかに、売った人物はこのイニシアルが何を意味するのかについてはまったく無頓着であった。「宝くじみたいだった」と、ローデンストックはその時の経験を語っている。「あれはただ単に幸運に恵まれただけですよ。」 何本の古ワインがあったのかに関しても何も喋らなかった。ある筋は「1ダース位だった」と言い、他の事情通は「30本程だ」と言った。これらのボトルを購入した場所がパリの何処なのかについて彼は何も開示しなかった。
驚きを禁じ得ない発見というのは幾つかあるが、ジェファーソン・ボトルは最初の事例となった。ローデンストックはもっとも稀少なワインを果敢に探しまわる人物として知られるようになった。1980年から1990年代にかけてローデンストックの友人であった蒐集家のひとりが私にこう喋ってくれた。1989年のことだったが、彼はさまざまなシャトーから取り寄せた1929年もののワインを飲み比べる試飲会を準備していた。しかし、どうしても見つけ出すことができないボトルがひとつだけあった。それは1929年産のシャトー・オーゾンヌだった。試飲会の数日前、彼はローデンストックから電話を受け取った。「今、スコットランドにいるよ」と、ローデンストックは言った。「オーゾンヌの29年ものを見つけた!」と彼は言う。メディアの報告によると、ローデンストックはベネズエラへ旅行し、そこで100箱ものボルドーを発見した。ロシアでは、彼は19世紀ワインが保管された「ロシア皇帝の失われたセラー」を掘り出した。1998年、ミュンヘンのケーニヒス・ホテルで彼は125年にもまたがる期間に生産されたイケム・ワインについての垂直試飲会を開催した。これにはジェファーソン・コレクションの中から取り出した2本のボトルも含まれていた。「驚いたことには、これらのボトルは旬をとうに過ぎてしまったとか、酸化されているような味などはまったく感じられなかった」と、「ワイン・スペクテイター」誌のリポーターが伝えている。「むしろ、この1784年ものは何十年も若いような味がした。」
ワイン関連のメディアに属する人たちの間では幾人かはこうした催し物は避けようとしている。批評家のロバート・パーカーは試飲会に一回だけ参加した。彼は私に「試飲会に特有なあの贅沢な雰囲気が気に入らない」と言った。蒐集品の評価番付は彼の読者のほとんどにとってはまったく無用の長物であると彼は言う。読者はこのようなワインを見つけることはできないし、そんなことに金を注ぎ込む余裕なんてない。吐き出すことを禁じる彼のやり方や、一番興味深い銘柄についてはローデンストックは試飲会の最後の段階にならないと提供しない傾向を示す、等々。これらのすべてのことを考えると、ワインを客観的に評価する目的はひどく害されてしまうのではないか。「彼は何時も皆がかなりいい気分になってからようやく最高の銘柄を提供しようとする」と、パーカーは彼が1995年にミュンヘンで参加した試飲会を引用して言った。「皆さんはもう出来上がってしまったような顔つきだった。」
たとえそうではあっても、パーカーはローデンストックのワインの幾つかには驚きを禁じ得なかった。「この世のものとは思えない!」と、彼はローデンストックが提供した1921年物のペトリュスについて書いた。「この偉大な、信じられない程に濃厚なワインは1950年物あるいは1947年物と間違われたかも知れない。」 彼が執筆する雑誌「ワイン・アドヴォケート」においてパーカーはこの3日間も続いた試飲会を「私の生涯ではもっとも記念碑的な試飲会だった」と形容している。「私には速やかに学んだことがあった。ローデンストックが59年物あるいは47年物と言う時、私はそれが19世紀のことなのか、あるいは、20世紀のことなのかを確認する必要を感じた!」
マイケル・ブロードベントはローデンストックの催しには決まって参加していた。「高級ワイン: 50年を費やして3世紀にまたがるワインを試飲」と題した自分の本の中で、彼は非常に稀少なワインを試飲することができたのはひとえにローデンストックの「寛大さ」によるものであると認めている。18世紀のワインについて彼が書いた章のほとんどの記述はローデンストックの試飲会に関するものである。
ビル・コークはこれらの試飲会にはついぞ招待されなかったが、ローデンストックのことについては聞いていた。これら二人に2000年に初めて会う機会がやってきた。それはクリスティーズがニューヨークでラトウールを試飲する集まりを開催した時だった。コークによれば、ローデンストックは遅れて到着し、コークの方から彼に近づいていった。「やあ、こんにちは。私はビル・コークです」と、彼は言った。「あなたからワインを購入したことがありますよ。」
ローデンストックはコークの手を握った。彼は何だかきまりが悪そうな感じだった、とコークはその時の印象を語った。その場から離れる前に、「あなたは有名な蒐集家ですよね」とローデンストックは言った。
法廷争いにおいては、コークは時々ジム・エルロイという名の、獲物をつかんだら放そうとはしないFBIの元職員から受けるサービスを享受していた。エルロイが法の執行に従事していた頃、彼は数多くの詐欺事件を捜査した。ジェファーソン・ボトルについて疑義が生じた時、「もしご自分の金を取り戻したいのであれば、取り戻して差し上げますよ」と彼はコークに伝えた。
コークにとってはそれだけでは不十分だった。「彼を収監してやりたいんだ」と、彼はエルロイに言った。「馬に鞍をつけてくれ。」 (このように、コークが熱中するカウボーイ文化の影響はエルロイにまで及ぶことになった。エルロイは自分のボスのことを「街にやって来た新保安官」と形容している。彼のボスの携帯電話の着メロは映画「続・夕日のガンマン」の口笛によるテーマだという。)
[訳注:「馬に鞍をつける」とは「仕事にかかる」とか「物事を開始する」いった意味で使っています。これもカウボーイ文化のひとつ。]
エルロイは60歳代で、顔はすっかり日に焼けており、彼の微笑はいわくありげな感じだ。彼は結構話上手で、彼と初めて会って昼食をとっていた時、誰かがすでに話した内容に慎重にリズムを付けているかのような調子で彼は調査活動の詳細を説明してくれた。「事件はだんだんいい方へ展開するか、だんだん悪い方へと展開して行くかのどちらかですよ」と、彼は私に言った。コークは、最初から、ローデンストックを訴えることに興味を抱いていた、とエルロイは説明したが、コークはローデンストックについては刑事訴訟の用意をし、最終的には連邦当局へ引き渡すように、とエルロイには指示をしていた。コークのこの熱意にエルロイも応えようとした。「この調査はFBIによる捜査で典型的に見られるすべての特徴を備えていた」と、彼は言った。「即座に入手可能な、世界でも最高レベルの要員だけで捜査を行う。お役所仕事はまったく何にも絡めないで。」 彼の推算によると、2005年以降、ローデンストック事件にコークは百万ドル以上を使った。これは例の古ワインに費やした金額の2倍にも相当する。
エルロイとそのチーム(英国のロンドン警視庁の元検査官、ドイツで勤務していた元MI5エージェント、何人かのヨーロッパや米国からのワインの専門家たちで構成)が2005年に調査を開始した際、彼らはモンティチェロの職員からはオリジナルのボトルがオークションにかけられた時点からすでにジェファーソン・ワインが本物であるかどうかについての疑義が指摘されていたという事実を知ることになった。ブロードベントは1985年の秋にモンティチェロに近づき、ジェファーソンが残した手紙の中にワインに言及する事実があるかどうかを訊ねていた。シンダー・グッドウィンと言う名の研究者は15年間もかけてジェファーソンが残した山のように大量の文書を研究していた。彼女はその年の11月にブロードベントにこう返事をした。「ジェファーソンの会計日報から始まって、実質的にはすべての手紙、銀行からの取引明細書、フランス税関のさまざまな内部書類に至るまで、すべての書類が現在まで完璧に保管されていますが、1787年もののワインに関する記述は何もありません」と、彼女は述べた。オークションの前に、タイムズのリポーターが何らかの関連性を確かめたいとしてグッドウィンと連絡を取ったことがあるが、その際、彼女はローデンストックのボトルには「Th.J.」とイニシアルが刻まれているが、ジェファーソンは自分の手紙では、通常、コーロンを使い、「Th:J.」と自分のイニシアルをしたためていたという事実を伝えた。
これらの疑いに関しては、ブロードベントはカタログでは何も記述しなかったし、タイムズに掲載された記事も応札者には何の説得力も示さなかった。(あの当時、このニューヨーカー誌に掲載された記事の中で、ブロードベントはリポーターにこう言った。ジェファーソンがこのボトルを所有していたとする「証拠は何もないが、状況証拠は山ほどある。」) オークションの直後、グッドウィンはこれらのボトルに関する調査報告書を作成した。その中で彼女は、これらのボトルは間違いなく18世紀のものであるのかも知れないが、歴史的な記録を見る限りではこれらのボトルはジェファーソンが所有していたものであるとは言い切れない、と結論した。ローデンストックやブロードベントの誠意について疑義をはさむことについては彼女はいささか痛みを感じたようで、彼女は『「Th.」はトーマス、セオドアー、あるいは、セオファイロスかも知れないし、「J.」はジャクソン、ジョーンズ、あるいは、ジュリアンを示すのものかも知れない。この人たちもボルドー・ワインが大好きであったのかも知れないし、パリの住人であったのかも知れない』と述べた。歴史的記録によると、同一の住人がパリで何個所もの住所を持つことはよくあることだ、と彼女は指摘している。もしもローデンストックがこのワインが発見された場所の住所を明かしてくれさえすれば、「適切な関係性を確立することができるだろうに」と彼女は述べている。
間もなく、ローデンストックからの手紙が相次いでモンティチェロに配達されるようになった。彼は無難な英語をしゃべることができるのだが、彼の手紙はドイツ語で書かれており、モンティチェロでツアーガイドを務める職員が手紙を翻訳した。1985年12月28日、グッドウィンに宛ててローデンストックはこう書いた。「自分が抱く怪しげな、根拠があいまいなコメントは誰でもそれらは控えておくべきだし、メディアの前で自分を過剰に重要視するべきではない」と述べた。モンティチェロの副館長を務めるダン・ジョーダンは、返信の中で、グッドウィンはジェファーソンの研究者として高名であること、ならびに、ローデンストックやクリスティーズとは違って、彼女は古ワインが本物であるかどうかを鑑定する上で金銭的な利害関係はまったく持ってはいない、と指摘した。
「大学でジェファーソンを研究することが出来るんですか?」とローデンストックが返事を送ってきた。「ジェファーソンと関わるワインについては彼女は何も知らないし、1780年代から1800年代のボトルがどのようなものであったのかについても何も知らない。どんな味わいがするのかについても何もご存知ない。」
ローデンストックやこれらのボトルを応援する形で、ブロードベントもモンティチェロに宛てて手紙を書いた。このように、バージニア州の歴史家とヨーロッパのワイン通との間には橋を架けることなんてとても出来そうもない、ある種の哲学的なギャップが横たわっていた。ブロードベントは、ローデンストックと同様、ワインを賞味する官能試験に基づいた豊富な経験は歴史家が示す証拠にも勝るんだとの自信を表明した。1986年6月には、彼はローデンストックの1787年のTh.J.ブランヌ・ムートンの1本を試飲した体験を書いている。このワインは「素晴らしくうまい」とブロードベントは評価した。「この素晴らしい古ワインが本物であるかどうかといった疑いを誰かが抱いているとしても、そんな疑いはこれで完全におさらばだ。確かに、これらのボトルがジェファーソンの所有物であったという証拠は書き物ではないけれども、これはジェファーソンが注文したものであるに違いないと、今、私は確信する。」
このワインについて疑問を投げかけたのはモンティチェロの研究者たちだけだったというわけではない。
クリスティーズのオークションで例のボトルがフォーブスによって落札される前に、ローデンストックはハンス・ピーター・フレリックスという名のドイツの蒐集家に1本の「Th.J.ラフィット」を約1万ドイツ・マルクで提供していた。フォーブスがその価格の40倍にもなる金額を費やしたことを知って、フレリックスは自分が持っているボトルをオークションにかけてみようと決心して、ブロードベントに連絡した。しかし、そこへローデンストックが介入してきた。フレリックスは転売しないという条件であのボトルをフレリックスに売ったと彼は言う。(フレリックスはそんな条件は存在していないと主張。)フレリックスはサザビーズへ申し入れをしてみたが、このオークションの専門業者は、証拠を精査した後、ボトルの来歴が不確かであるとの理由でこの申し入れには応じなかった。
サザビーズが疑いを持っていることと並んで、ローデンストックが再販を妨げようとした事実はフレリックスに疑惑の念を生ぜしめた。1991年、彼はミュンヘンのある研究所へそのボトルを持ち込んで、放射性炭素による年代測定を行った。すべての有機物は放射性の炭素14を含んでおり、特定の崩壊速度を示す。ワインがどれほどの年数を経ているかを概算するために、専門家はボトルに含まれている放射性同位元素の量を分析することができる。炭素14の半減期は長い。それ故、数世紀程度の古さを評価するには放射性炭素による年代測定は不正確である。しかし、1950年代から1960年代に大気中で行われた原爆実験は貴重な基準点を提供するのである。つまり、その期間は炭素14のレベルが急上昇する。この古ワインの場合、炭素14ともうひとつの放射性同位元素であるトリチウムの量が200年前のワインに期待される量よりも格段に高いレベルを示したことから、科学者たちはこのワインには1962年以降のワインが約半分は混入されているとの結論を導いた。フレリックスはローデンストックを訴えた。1992年の12月、ドイツ法廷は、ローデンストックは「ワインに混ぜ物をした、あるいは、混ぜ物がされたワインであることを知りながらそのワインを売却した」として、フレリックスに有利な判決を下した。(ローデンストックは不服申し立てをして、フレリックスを名誉棄損で訴えた。しかし、この訴訟は最終的には法廷外で決着となった。)
元MI5のエージェントに加えて、疲れを知らないエルロイはドイツで民間調査員をもうふたり雇い入れた。彼らはハーディー・ローデンストックは架空の名前であることを見い出した。調査員たちはローデンストックの生まれ故郷で、今はポーランド領内のマリエンヴェルダーを訪問した。彼らはコークにこう報告している。ローデンストックは地方鉄道の職員の息子として生まれ、マインハード・ゲルケという名前だった。彼らはローデンストックの母親をインタビューし、彼が学んだ小学校を訪れた。ローデンストックは機関士としての教育訓練を経て、ドイツ連邦鉄道にて職を得た。これらの調査員たちは彼が主張するような先生であったという事実は見出すことができなかった。かって、70年代から80年代にかけて、ローデンストックの恋愛相手であったドイツのポップ歌手、ティナ・ヨークにもインタビューをした。ヨークは彼らにこう喋ってくれた。彼女とローデンストックとの関係が続いていた約10年間、彼は以前の結婚で二人の子供がいることを隠していたという。「彼はしょっちゅう二人の甥のことを話していたわ」と彼女は言った。
ローデンストックはヨークと出逢った頃には自分の名前を新しい名前に変えていた、と調査員は言い、彼は有名なローデンストック家の出身であると彼女に告げた。ローデンストックがワインに興味を示し始めたのはちょうど彼がヨークと一緒にいた頃であった。彼女自身は彼の趣味には関心がなかった。彼女はジャガイモのサラダを彼の空調が効いたワインセラーへ入れた時のことを良く覚えている。彼女はサラダを冷やしておきたいと思っただけであった。「ローデンストックはカッとなって、理性を失ったかのようだったわ」と、彼女は言う。
ローデンストックは素晴らしい嗅覚を持っていて、目隠しで行う試飲会ではワインの識別において鋭い能力を発揮した。エルロイは彼がワインを混入する技を駆使しているのではないかと睨んだ。ワインの混入そのものは何種類かのブドウをブレンドして特定の味わいを持った銘柄を作り上げるためにワイン農場が採用するごく普通の技術である。ワイン・ボトルの中に詰め込まれたブドウの種類を特定することができるような科学的な試験方法は存在しない。エルロイの推測は続く。ローデンストックは様々なワインを混ぜ合わせて偽物をでっち上げたのではないだろうか? 本物そっくりに見えるようにカクテルを作るために偽物作りがよくそうすると言われているように、たとえほんの少量のポートワインであってさえもだ。これらの疑念を晴らそうとして、エルロイの調査チームは何人かをインタビューして、ローデンストックが偽物作りを行ったかも知れないような作業所あるいは実験室を持っていたかどうかについて調査を行った。すると、昨年の10月、アンドレアス・クラインという名のドイツ人が現れ、コークのチームに接近して来た。彼は、ローデンストックは彼の家族が所有するアパートに何年間か住んでいたことがあるという話をした。クラインがローデンストックのアパートの上にもうひとつのアパートを増設しようとした際に彼ら二人の間では口論となり、裁判所で争うまでに発展した。2004年、ローデンストックがこのアパートを放り出した時、クラインは以前の入居者の地下室へ入ってみた。そこには、一山の空き瓶や見ただけでも分かる真新しいワインのラベルが見つかった。これらの主張に反応して、ローデンストックはクラインに対して訴訟を開始した。
ワインの偽物作りにはふたつの方法がある。つまり、ボトルの内部にあるワインにはまったく手をつけない方法とワインそのものに手を加える方法である。最高級のワインの値段は多くの場合関係のないワインの値段とは比べようもないほど高価であるから、多くの偽物作りたちは中身には手を付けない。1980年もののペトリュスを1982年物のラベルに貼りかえる。(82年ものは誰もが欲しがり、高価である。)精巧なスキャナーとプリンターさえあれば、ラベルの張り替えは容易い。私が話をしていた競売の専門家はこれを「デスクトップ・パブリッシング」と呼んでいた。 ボトルに詰められているコルクには年号が付されているが、偽物作りの連中は、消費者はこんなものには気が付かないと言わんばかりに、時には年号の最後の数字を消してしまう。さらには、コルクはボトル内に何十年間も詰められていることから変質を起こし易いので、コルクの詰め替えサービスを提供するブドウ園もある。ということで、ボトルに新しいコルクが詰めてあったとしても、そのこと自体が直接的に疑惑につながるわけではない。何れにせよ、ワインの買手がボトルを開栓するまではコルクはフォイルによって覆われている。
偽物作り側が持つ最大の利点は、多くの買手はその偽物ワインを開栓しようとはせず、ボトルを開けるのは何年も先のことだ。ビル・コークはワインを所有してはいるが、それを飲もうとは思わないと私に言った。彼は特定のブドウ園で生産されたワインをベースボール・カードを一式集めるかのような調子で蒐集している。「私はラフィットの150年の歴史をこの壁に陳列してみたいだけなんだ」と言った。彼は手に入りにくい年代のワインを消費しようとはしないだろう。そんなことをすれば、その一連のセットを台無しにしてしまいかねないし、希少価値のある古ワインは作が良かった年のものではなく、むしろ不作だった年に由来することが多い。歴史的に見ると、極上のワインが生産された時は、蒐集家たちはこれらのワインがどのように熟成して行くのかを見極めようとする、とコークが説明してくれた。しかし、著名なブドウ園がそこそこのワインを生産した時には、ワインが瓶詰されると皆がすぐに飲んでしまう傾向にあることから、結果として、その年の製品は品薄となる。彼はどうして古ワインを飲もうとはしないんだろうと不思議に思うと私が言った時、「カスター将軍愛用のライフルは決して撃ってみようなんて思わないよ」と、コークは肩をすぼめて言ったものだ。
偽物作りにとっての二番目の利点は、収集家がワインのボトルを開栓する時、多くの場合、彼らは経験を欠いており、これらのボトルが騙そうとしていることを感知するだけの味覚や嗅覚を備えてはいない点だ。何と言っても、混ぜ物がされてはいない純粋な古ワインであっても、瓶が変わる度にその味わいが大きく異なることがある。「ワインは生き物だわ」と、サザビーズのセリーナ・サットクリフが私に言った。「ワインは動き、変化し、進化しています。40年、50年、60年と蓄えられたワインの場合、それらのボトルが同一の条件下で肩を並べて貯蔵されていたとしても、個々のボトル間でさえも大きな差が現れることがあるんです。」
複数の研究によると、ワインの香りを嗅ぎ、ワインを味わう行為は脳の知的領域からの外乱によって著しく影響を受けるということが知られている。数年前、ボルドー大学で醸造学の博士課程の学生であるフレデリック・ブロシェがある研究を行った。彼は75人の参加者にラベルを見るとテーブル・ワインとしてはまずまずのものであることが一目で分かる中程度のボルドーの赤ワインを提供した。その1週間後、彼は同じワインをもう一度提供した。今度はそのワインがグラン・クリュであることを示しているボトルから注いだのである。一回目には参加者たちはそのワインを「単純だ」とか、「バランスに欠けている」、あるいは、「コクがない」と評したものだが、二回目には彼らは同一のワインを「奥が深い」とか、「バランスがいい」、あるいは、「コクがある」と評した。ブロシェは、ラベルを見た時に生じる我々の「知覚的な期待感」がワインで感じたことを統制してしまい、ボトル内にあるワインに対して実際に知覚した反応を無効にしてしまうのではないかと述べている。
<引用終了>
この記事はえんえんと続く。
競売の様子から始まって、競売の背景、売る側と買手側とのやりとり、学問的な情報、等々。また、なぜ偽物が横行するのかについても、心理学や脳の認識の分野も含めて、さまざまなことを学ぶことができた。超高級ワインの世界の表と裏をちょっと垣間見た感じである。
この続きは次号のブログで扱おうと思う。
2015年も残り僅かとなった。忘年会のシーズンでもある。白だ、赤だ、と言ってワインを味わう機会が多いと思うが、我々庶民にとっては、この記事で扱われているような超高級ワインは、間違いなく、現実離れした世界だ。1本の古ワインの価格が一軒の家とほとんど同じ価格であることを受け入れるには、安酒をかなり飲んでからでないと無理だと思ってしまうのは私だけであろうか?
参照:
注1:The Jefferson Bottles: By Patrick
Radden Keefe, The New Yorker, Sep/03/2007
0 件のコメント:
コメントを投稿