2016年6月9日木曜日

西側がコソボの前例を作ったことから、ウクライナ分離派の行動を合法化してしまった



米国の他国への軍事介入の歴史については、当ブログでも先に取り上げている。「法的帝国主義と国際法」と題した20121225日のブログでは、1890年から2011年までの121年間で146件の軍事介入があったという事実をご紹介した。

それらの成功事例に基づいて、米国のネオコン派の戦争計画者や政治家は今も気に入らない政権の排除には武力介入や「色の革命」を繰り返している。

ウクライナのマイダン革命(2014年)ではデモ参加者を教育し、動員する際に、エジプトで30年間もの長期政権を維持してきたホスニ・ムバラク大統領を退陣に追い込んだエジプト革命(2011年)の際に用いたパンフレットのひとつがウクライナ語に翻訳され、使用された。これはセルビアのベオグラードに本拠を置くNGOが提供したものだ。セルビアのNGOの名称はCANVASという。

このNGOは、それよりも何年も前(2000年)に、ユーゴスラビア連邦のスロボダン・ミロセヴィッチ大統領に反対する「色の革命」を演出し、初の成功を収めていた。その際、米国務省からは大量の資金援助を受けた。それ以降、このNGO組織は、見かけは「民主主義」を支える草の根運動的な組織として存在してはいたが、実際には米国のために「革命コンサルタント」の役割を果たすことに専従していたのである。セルビアに本拠を置いたNGOが実は米国政府の後押しを受け、さまざまな国で政権転覆の最前線の役割を担っているとは一体誰が想像できただろうか。(注: さらなる関連情報については、2014310日に掲載した「ウクライナでのNGO活動」を参照されたい。)

最近の政権交代のひとつにブラジルがある。ルセフ大統領を罷免するかどうかを決める弾劾裁判が行われることになった。これを受けて、同大統領は180日間の職務停止となった。それに代わって、テメル副大統領が代行業務を行うことになる。同国の経済運営ははかばかしくなく、最近は失業率が上昇して市民生活を圧迫していると報道されている。しかし、この政権交代は単なる政権交代ではなく、クーデターであったとも言われている。大統領代行となるテメル氏は米国寄りであると言われている [1]BRICsの一角であるブラジルが米国による政権転覆の対象となったということだろうか?明らかに、そういうシナリオはあり得ることだ。



そして、もうひとつの典型的な米国による他国への介入の手法は国連安保理の委任を受けずにNATOによって行われる軍事介入である。

これは完全に国際法に違反した行為である。米国が他国を非難する時には国際法の存在を言及するが、自分たちが行う軍事介入では、多くの場合、国際法はまったく無視してしまう。事例を挙げようとすると、長いリストとなる。これが米国が唱導する国際法の現実の姿である。

コソボ共和国の歴史を辿ってみよう。インターネットで入手できる外務省の纏めを拝借して、下記にその概要を列挙してみる(斜体で示す):

1314世紀: 中世セルビア王国及びセルビア正教会の中心地となった。多数のセルビア正教の教会や修道院が建立された

1389年: コソボの戦いでセルビアがオスマン・トルコに敗退。以後、イスラム教に改宗したアルバニア人がコソボに入植を開始した

1913年: バルカン戦争でトルコに勝利したセルビアがコソボを奪回。

1918年: ユーゴスラビア王国の一部となる。

1945年: ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(6共和国で構成)が建国され。セルビア共和国の一部として「コソボ・メトヒヤ自治区」が設立された。1963年、「コソボ自治州」に改称。

1981年: コソボ自治州の共和国昇格を求めるアルバニア系住民による暴動が発生。ユーゴ政府は治安部隊の投入により暴動を抑える一方、コソボ向けの開発援助資金を増大してこれに対処。

1989年: アルバニア系住民とセルビア系住民の対立が深まる中、セルビアはコソボの自治権を大幅に縮小。

1990年: アルバニア系住民が「コソボ共和国」の樹立とセルビアからの独立を宣言。これに対し、セルビアは自治州議会及び政府の機能を停止し、直接統治を開始。アルバニア系住民は武装組織「コソボ解放軍」(KLA)を組織化し、武力闘争を開始。

1998年: セルビアがKLA掃討作戦を展開し、コソボの治安情勢と住民の人道状況が急速に悪化。OSCE(欧州安全保障協力機構)がコソボ検証ミッションを派遣。

19993月: 19992月、ランブイエ(仏)にて国際社会の仲介で和平交渉が開始されたが、セルビアがNATO軍のコソボ展開を受け入れず決裂。同年3 末、NATOはコソボにおける人道的危機が深まったとしてコソボを含むセルビア全域の軍事目標及び経済インフラに対し空爆による攻撃を開始。これに対し、セルビアがKLA掃討作戦を強化し、数十万のアルバニア系住民がコソボから流出し難民化(コソボ紛争)。

19996月: セルビア治安部隊のコソボ撤収によりNATO空爆終了。国連安保理決議1244号が採択され、国連(UNMIK)による暫定行政が開始され、ま た、NATO主体の国際安全保障部隊(KFOR)が展開。アルバニア系難民が帰還する一方、約26万人のセルビア人等非アルバニア系住民がコソボからセル ビアに避難。

以上がコソボ共和国の歴史の主要な部分である。

しかし、上記の歴史はもっともっと注意深く読まなければならない。19993月から6月までの78日間にもおよぶセルビアの首都ベオグラードや軍事拠点に対するNATO軍の空爆は国連の安保理決議もなくして実施されたものであった。しかしながら、上記に示すように、外務省のコソボの歴史にはこの事実は記述されてはいない。さらには、コソボはセルビアの自治州のひとつであり、コソボはNATOの加盟国ではない。このことから、なぜNATO軍がセルビアの内戦に出しゃばって来たのかという基本的な問い掛けに対してNATOは答えられない。

NATO憲章の第5条は集団防衛を次のように規定している(斜体で示す):

締約国は、ヨーロッパまたは北アメリカにおける1以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する。・・そのような武力攻撃が行われたときは、各締約国が、国際連合憲章第51条の規定によって認められている個別または集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安全を回復しかつ維持するためにその必要と認める行動(兵力の使用を含む)を、個別的に及び他の締約国と共同して直ちにとることにより、その攻撃を受けた締約国を援助することに同意する

その種の問い掛けに対しては、NATOは「コソボ市民の人道的な救済」という言葉の綾に頼っている。このような目的だけではセルビアを空爆することを正当化することはできないということは十分に承知の上で、上記のように言明しているのである。要は、米国としてはセルビア国内に自分たちの息のかかった国を新たに作り、軍事基地を構築し、ロシア包囲網の一部にしたいという地政学的な戦略があったのである。

こうして、コソボ共和国が誕生した。その首都プリシュティナを訪れると、「ビル・クリントン大通り」では3メートルもある「ビル・クリントン像」が目の前に現れ、「ブッシュ通り」を歩くことにもなる。

セルビアの意志に反して米国はコソボの独立を可能にした。2008217日、コソボ議会がセルビアからの独立を宣言した。ウィキペディアの記述によると、20158月中旬の時点でコソボの独立を承認しているのは日本を含む国連加盟国193ヶ国のうち111ヶ国と台湾およびマルタ騎士団である。

しかしながら、決していいことばかりではない。米国主導のNATOの政策はさまざまな面で悪例を残し、その後の国際政治に大きな影を落とすことになった。米国がゴリ押しをしてコソボ共和国を作ったこと自体が、後になって、国際政治の舞台で米国に向かって跳ね返ってくるブーメラン現象をもたらしたのである。



ウクライナの一部であったクリミア自治共和国では住民投票が実施され(2014316日)、圧倒的多数の住民がウクライナから分離して、ロシアに編入することに賛成票を投じた(ウィキペデイアによると、投票率は83.1パーセント、賛成票は96.77パーセント。圧倒的な賛成を示した)。こうして、クリミアはかっての母国へ戻った。あれから、もう2年余りとなる。

ウクライナ紛争とシリア紛争は今や米ロ間の代理戦争となっている。両者共に後へは引けない。最新のニュース(66日)によると、米ロ間の対話を呼びかけているロシアのプーチン大統領に対して、オバマ米大統領は対話を拒絶した。このまま放置しておくと、米ロ間の緊張は高まるばかりで、核装備の軍拡競争が間違いなく進行する。偶発的な軍事衝突または単なる人的なミスから米ロ間の核戦争に発展する危険が高まるばかりである。

まさに愚の骨頂だ!

米ロ間で核戦争が始まると、地球上の何処に住んでいようとも、たとえ地下シェルターを準備していたとしても、人類は遅かれ早かれ滅亡することだろう。(詳細については、201475日に投稿した「核戦争による人類の絶滅」、ならびに、2014621日に掲載した「米国の核戦力の優位性は単なる誤謬に過ぎない」を参照されたい。)

このような現状を見ると、国際平和を維持するためにはロシアによるクリミアの併合をどのように理解するべきかが増々重要になってきている。西側の主要メディアが大合唱した「ロシア嫌い」に基づいた論理が果たして妥当であるのか(私には妥当であるとはとても思えない)、あるいは、正当化することができるのかどうかを真剣に検証しなければならない。単純に言って、人類が生き残れるかどうかが掛かっているからだ。これこそがウクライナ紛争の背後に見え隠れするリスクの中でも究極のリスクである。



ここに格好の記事 [2] がある。この記事を仮訳して、読者の皆さんと共有したいと思う。

個人レベルで自分の身のまわりのことをあれこれと考えることも非常に重要なことではあるが、人類の将来についてもそれに劣らず真剣に考えなければならない時がついにやって来たのである。


<引用開始>

下記の文章を読んでみて欲しい。クリミアとドンバスの住民がキエフ政権を支持しようとはしなかったことにいったいどのような過誤があったというのだろうか?このことに関して皆さんにもじっくりと考えてみていただきたい。



Photo-1: 母なるロシアと子熊

著者はリトアニアの首都ビルニウスにあるミコラス・ロメリス大学の政策管理学部の教授である。本紙ロシア・インサイダーのためにこの記事を執筆した。

―――

ウクライナ東部のロシア語を喋る住民たちによる2014年の革命はついにクリミアがウクライナから分離するという結果をもたらした。ロシアへ帰属するという住民投票の結果を受けて、クリミアは独立を宣言した。また、これは1990年にバルト諸国がソ連邦からの独立を宣言した際の民族自決の権利に基づく行動とまったく同様であった。

この合法的な行為は国際法ならびに住民の民族自決権に基づいていることはクリミア半島の独立に関するクリミア最高評議会の公式宣言を見ると明白である。さらには、2008年に西側の手によってでっち上げられたいわゆる「コソボの前例」にも基づいている。つまり、6年後の今、「コソボの前例」がブーメランのごとくウクライナに舞い戻って来たのである。

基本的には、「コソボの前例」は国連憲章やコソボに関する国連決議案1244号を含む国際法の目に余るような侵害であった。この前例は1999年のNATOによる軍事的侵害によって端を発した。国連安保理事会からの委任状もなしに、独立国家であり主権を有するユーゴスラビア連邦がNATOの武力侵攻を受けたのである。これに続いて、2008年の2月、コソボ議会はコソボの独立を一方的に宣言した。この独立宣言は一部の国々よって承認された。これが西側が「前例」を作り出した経緯であり、本質的にはこれは国際関係上での特例として取り扱われなければならない。理論的には、この前例は世界におけるこの種の状況に対してその基盤を提供したり、事例の役目を果たすものではない。

ところが、コソボの独立宣言は民族自決(独立)に関する国際法を侵害することにはならないとする2010年の国際裁判所の見解によって、この「前例」は法的に確立されたのである。それは確かにそうであるが、これは各国の領土の保全に関する国連憲章や各国の国内法を侵害する。国際裁判所の見解は公的にはあくまでもひとつの勧告に過ぎないが、現実には重要な言外の意味を持っており、容易ではない結果をもたらす。クリミア当局ならびにロシア政府の両者が明確に述べているように、その最初の事例が2014年のクリミアの独立である。

疑う余地もなく、「コソボの前例」は主として国連憲章やそれ以降の国連決議に基づいて構築されている国際法の基盤を揺るがしただけではなく、それらを破壊してしまった。こうして、クリミアのウクライナからの分離ならびにロシアへの編入に関しては「ブーメラン現象」を引き起こしたのである。クリミアは2008年の「コソボの前例」でアルバニア人が用いた公式の理由とまったく同じ理由を用いている。我々はこの事実を記憶しておかなければならない。そのような次第ではあるが、西側諸国はセルビアからのコソボの独立は承認したが、クリミアやドネツクおよびルガンスクのウクライナからの分離を承認しなかった。これらの事例のすべてが法的ならびに倫理的な議論においてはまったく同じであるのにもかかわらずである。さらに言えば、「コソボの前例」とは対照的に、ウクライナからの分離は住民投票の結果に基づいているのである。

二重基準を用いる西側の政策は下記に示すコソボの独立に関する2009417日付けの米国の声明文からも明白である。これは国連の国際裁判所へ提出されたものだ:

「独立宣言は国内法に違反するかも知れず、事実、多くの場合国内法に違反する。しかしながら、だからと言って独立宣言が国際法に違反することにはならない。」 

クライナ・セルビア共和国、スルプスカ共和国、沿ドニエスト共和国、アブハジア共和国、南オセチア共和国、ウクライナ東部で分離を求める三つの州およびクリミア、等の独立に関しては、米国からのこれに類するような声明は我々は何ら聞いてはいない。国連の国際裁判所は米国の声明文を受け取り、2010722日に「独立宣言に関する安保理での議論からは一般論的な差し止めを推論することはできない」と述べ、さらには、「一般的に国際法には独立宣言を差し止める条項は含まれてはいない」と述べている。上記に示した声明に従うと、クリミアのウクライナからの分離に関してモスクワ政府がとった行動が正しいことは明白である。しかも、決定的に重要な違いがあるのだ。ロシアはキエフに空爆を加えるようなことはしなかった!     

事実として、西側はセルビアとコソボとを連邦制にすることの可能性についてはベルグラードに対して何の打診もしなかった。つまり、コソボの独立は最適な解決策として唱導されたのである。しかし、モスクワ政府はウクライナ東部のロシア語を喋る州に関するウクライナ危機においては連邦制が最善の策であると唱導している。クリミアについては歴史的な背景や民族自決の論理に基づいてロシアに併合されなければならないとした。クリミア半島はその歴史の殆んどを通じてロシアの一部であった。ウクライナ連邦というシナリオは西側(NATOおよびEU)とロシアや中国およびイランを中心とするブロックとの間の「新冷戦」を緩和してくれる効果があるかも知れない。しかしながら、キエフのユーロマイダン政府に助言を与える西側の指導者がロシアの提案を拒否した場合には、ウクライナは自殺をすることになるのかも・・・ 何故かと言うと、ウクライナ東部の2州だけではなくオデッサ地域についても、西側の二重基準が引き続きブーメラン現象をもたらすだろうからである。

現行のウクライナ危機は1667年の29日にポーランド・リトアニアとロシアとの間で署名されたアンドルッソヴォ条約にしたがって解決することができる。同条約によって今日のウクライナの領土はふたつの国に分割されていた。つまり、ドニエプル川を境にして、ポーランド・リトアニア連合の領土とロシア帝国の領土である。ロシアはポーランド・リトアニア連合からドニエプル川の東側を受け取った。これにはザポロジエ地域(川の両側)も含まれていた。ドニエプル川が「ヨーロッパ」とロシアとの国境となって、ウクライナはふたつの国境地域に分割されていた。「ウクライナ」というスラブ語は英語では「国境地域」に相当する。ウクライナの最終的な宿命は同国の名称からさえも明白である。クライナ・セルビア共和国の事例が1990年代にこのことを証明した。即ち、国境地域は一国の辺境に位置する。たとえそれがどちら側の国であってもそれ自体は問題ではない。   

「ウクライナ問題」の最終的解決策においては人道的介入という側面を忘れてはならない。一般的に言って、「介入」とは攻撃を受ける側の同意も取り付けずにその国家に対して他国が行使する力づくの行為を指す。したがって、「人道的介入」とは(通常は少数派の)人権を保護するために実施される軍事的介入を言う。倫理的な観点から述べると、人道的介入は公的な口実として(間違って)用いられている。そもそも「人道的」という言葉の意味するところは苦痛を和らげることによって人々の関心や利益を追求することにある。 

人道的介入の概念は、特に冷戦後、(間違って)用いられてきた。さまざまな事例がある。たとえば、イラク(1991年、クルド人のために「避難場所」を形成するために飛行禁止区域が設定され、NATO加盟国の米、英、仏3カ国によって監視が行われた)、ソマリア(1992年、保護地域が設定された)、ハイチ(1994年、文官当局による秩序を回復するため)、ルワンダ(1994年、フツ族避難民のための「安全地帯」を設けるため)、コソボ(1999年、セルビアの軍隊や警察の弾圧からアルバニア人を保護するため)、東チモール(1999年、インドネシアの治安部隊によって引き起こされるかも知れない民族洗浄を事前に防止するため)、シエラレオネ(2000年、内戦に巻き込まれた英国人市民を保護するため)、等。 

上記の事例における人道的介入は議論の余地が多い戦争であって、これらの場合は西側の戦力だけが参画し、人道的介入という根拠の下で公に正当化されてきた。しかしながら、多くの場合、コソボやシエラレオネの事例に明白に見られるごとく、これらの介入には政治的あるいは地政学的な背景があった。

コソボの事例においては、民族洗浄の心配があるという口実のもとに介入が実施された。78日間におよぶNATOによる空爆は国連安保理からの要請もなしに行われ、最終的にはセルビア軍と警察をコソボから追い出した。コソボはNATO軍によって占領され、巨大な米軍基地が建設され、最終的には独立宣言や各国の承認によってセルビアから分離した。実際には、これこそが1999年に開始された「人道的介入」における地政学的な最終目標であったのである。

シエラレオネでは、長く続いた内戦の後、英国政府は公式には英国市民を保護することを目的に同国へ英国軍を派遣することにした。しかし、実際には、民間人に対して流血沙汰をもたらしたと伝えられている反政府軍から選挙で選出されている政府を保護することが最終的な目標であった。

さて、ここで、我々は現行のウクライナ危機や「ウクライナ問題」という難問へ戻ることにしよう。

ロシアのウラジミール・プーチン大統領は1999年のNATOによるコソボへの人道的介入はロシアに重大な屈辱を与えたとしてこの出来事に気を奪われていたことは周知の通りである。キエフのユーロマイダン政権はドンバスで恐ろしい程の戦争犯罪を犯したことも良く知られており、何千人ものドンバスの住民(この中には約200人の子供たちが含まれる)が残虐に殺害されたことからこの行為は民族洗浄として、あるいは、大量虐殺としての分類が可能である。また、約百万人もの住民が難民としてロシアへ逃れた。

モスクワ政府にとっては、キエフ政権がドンバスで犯した戦争犯罪を「証明」することは容易い。これは1999年にNATOの介入を行う前にセルビア軍がコソボで犯した戦争犯罪を公式に「証明」することがワシントン政府にとっては非常に容易かったこととまったく同様である。結果として、ウクライナ東部でモスクワ政府が人道的介入を開始することが可能となるだろう。これは最終的にキエフからの分離をもたらす。「コソボの前例」はここでも依然として有効であるのだと言えよう。     

<引用終了>


これで引用記事の仮訳は終了した。

リトアニアを含むバルト3国とポーランドはロシアとの国境へNATO軍を招じ入れて、7月にポーランドで開催されるNATOサミットに向けて過去最大級の軍事演習を実施している。そのような政治的・軍事的な環境にありながらも、ここに引用した記事の見解はロシアの研究者によって発せられたものではなく、リトアニアの研究者が述べているものであるという点が実に素晴らしい。この著者の旺盛な独立心や研究者としての客観的な観察姿勢に敬意を表したい。真実を探求する研究者の姿勢はポピュリズムに流れやすい政治家や商業主義に走るメデイアとは所詮違うのだとも言えよう。

著者は冒頭から客観的な観察をしている。たとえば、次のようなくだりだ:

「ウクライナ東部のロシア語を喋る住民たちによる2014年の革命はついにクリミアがウクライナから分離するという結果をもたらした。ロシアへ帰属するという住民投票の結果、クリミアは独立を宣言した。また、これは1990年にバルト諸国がソ連邦からの独立を宣言した際の民族自決の権利に基づく行動と同様であった。」

著者は実に率直に述べている。クリミアが2014年にとった行動は自分たちが1990年にとった行動と同じではないかと言っているのである。

そして、コソボへの人道的介入と、もしかするとロシアがウクライナ東部の州に対して行うかも知れない人道的介入との相似性についても詳しく説明している。素人のわれわれにも非常に分かりやすく、説得力がある点が実にいい。

この「コソボの前例」に関してはロシアは研究しつくしているのではないかと推測する。それだけに、クリミアのロシアへの編入のプロセスは非常に迅速であった。あたかもロシア政府にとっては2手も3手もの先がはっきりと見えていたかのようだ。さらには、ロシアの対応を見ると、クリミアとウクライナ東部2州との間にはその取扱い方に明確な違いがある。この違い自体も現行のチェスゲームの重要な作戦であるのかも知れない。

今後はウクライナ東部のドネツクとルガンスクの2州、ならびに、オデッサ地域の行く末がどこに収束するのかが焦点となる。果たして、リトアニアのビルニウスに住む著者が言うように、ウクライナはドニエプル川を境にして分断されるのであろうか?

また、上記のような「ブーメラン現象」に対して西側はどのような反論を用意するのであろうか?興味津々である。ただし、西側の発言は論理を逸脱することが多く、言葉の綾に依存することが多いから、まったく予断を許さない。



参照:

1Wikileaks Confirms: Brazil’s New President Is a US Asset: By Enrico Braun, May/13/2016, http://russia-insider.com/en/node/14332

2The West Made Ukraine Secessionism Legal by Establishing the Kosovo Precedent: By Vladislav Sotirović, May/26/2016, http://russia-insider.com/en/node/14537







0 件のコメント:

コメントを投稿