2017年4月2日日曜日

アンナ・トウフの物語(続編)



2015105日、「アンナ・トフの物語」と題した投稿を当ブログに掲載した。

ウクライナの東部の街、ゴルロフカ [訳注:これはロシア語表記での発音の場合。ウクライナ語表記では「ホウリウカ」となる] に住んでいたアンナ・トフはウクライナ政府軍の砲撃にあって、夫と11歳の娘を失い、彼女自身も左腕を失った。二人の幼児は奇跡的にも助かった。家屋は大破。爆撃された場所は軍事的には攻撃目標となるようなものは何もない純然たる居住地域であるのだが・・・

ウクライナ政府軍から爆撃を受けたのは2015526日のこと。疑いようもなく、アンナの生活は完全に破壊されてしまった。あれから、2年になろうとしている。彼女は今どのような生活をしているのだろうか。

今年の2月、彼女のその後の生活を伝える記事が現れた [1]。本日は同記事を仮訳して、読者の皆さんと共有したいと思う。


<引用開始>

ウクライナの爆弾が彼女の家族を奪ってしまったが、ロシアとイタリア両国が彼女に再び希望をもたらしてくれた。



Photo-1: ミラノでのアンナ・ト

2015526日、若い母親であるアンナ・トフの生活は完全に破壊されてしまった。ウクライナ東部のゴルロフカに向けて放たれたウクライナ政府軍の爆弾が彼女の夫と11歳の娘を奪い、彼女は家と左腕を失った。ウクライナ政府は彼女に背を向けたが、彼女に支援の手を差し伸べてくれたのはイタリアだった。

ドネツク地方のゴルロフカに対するウクライナ軍の砲撃はアンナ・トフの夫と11歳の娘の命を奪ってしまった。彼女の左腕はひどい損傷を受け、切断しなければならなかった。
ウクライナ当局は彼女が助けを必要としている時にアンナに背を向けた。しかしながら、支援の手は思いがけなくもイタリアから差しのべられた。この若い母親が生体工学的な筋電義手を入手するためにイタリアへやって来た際に、彼女はスプートニク・イタリアに自分の話をしてくれた。彼女のスト-リーは下記のような具合だ。

「イタリアへ来ることができてすごく幸せだわ。1年間の苦悩の後に私の一番大きな夢がかなったんですもの!」と彼女は言った。



Photo-2: アンナ・トフ、 © Photo: fornita da Eliseo Bertolasi

書類の準備が困難を極めていたのでウクライナから出国することができなかったとアンナはスプートニク・ニュースに説明した。 彼女は政治的動機に翻弄されて、ウクライナへの帰還のための書類を入手することができなかった。旅行のための種類を準備するためにストラスブールにある「欧州人権裁判所」へ申請をするしかなかった。ウクライナ政府は非合法な行為を行っており、禁止された武器を使用し、彼女の家族を殺害し、彼女をも殺害しようとしていると訴えた。殺害された娘に加えて、政府軍の爆撃のせいで他の二人の幼児も傷を負った。

彼女はイタリアに本拠を置く団体、「子供たちに支援を」(Aiutateci a salvare i bambini)の理事長を務めるエンニオ・ボルダトからの支援を得た。彼は何度も国際団体宛てに申請をしたが、成果は得らえなかった。結局、在ローマ・ロシア大使館がアンナに亡命者の身分を与え、新たな旅行書類を準備してくれた。

ウクライナ当局は彼女に一本の電話もしなかったし、弔意さえも表明しなかった。彼女の義手に関してはウクライナ政府は何もしなかったのである。

義手を調達するためのお金は全額がイタリアの篤志家によって賄われ、アンナはイタリアのボドリオの町にあるボドリオ人工装具センター(Centro Protesi Vigorso di BudrioINAIL)へ旅行することが可能となった。



Photo-3: 義手を装着したアンナ・トフ。ブドリオのINAILセンターにて。© Photo: fornita da Anna Tuv

「母とふたりの子供たちと一緒に私はイタリアへやって来ました」とアンナはスプートニクに話した。 

「私たちは今とっても幸せです。私の生活は間もなく改善し、ようやく両手で子供たちを抱きしめてあげることができるわ。再び仕事に就き、自分の家族を養うことができるでしょう」と彼女は言う。 

彼女の家族を支えるのは彼女ひとりだけであることから、生体工学的な筋電義手を入手することは彼女にとってはこの上なく重要なことだったと彼女は説明する。彼女はイタリアでの滞在費、病院での治療代、義手の装着、等のために支援をしてくれた市民たち全員に心から感謝の気持ちを表明した。




また、彼女は自分の悲劇について啓蒙してくれた人たちや彼女の苦労話を聞いて支援の手をを差し伸べてくれた個人に対しても感謝の気持ちを伝えた。

しかしながら、自分の夫と娘を失ったことは決して埋め合わせることは出来ない、と彼女は苦々しく指摘する。彼女が常に感じている苦痛について記述する言葉を見つけるなんてまったく不可能なことだ。そうとは言え、彼女の魂が完全に打ちのめされてしまったわけではない。自分と同じような経験をした人たちを元気づけるために彼女は全力を尽くしているのだ。 

互いに絆を保つことによって、皆が戦争の恐怖に打ち勝ち、平和を模索することが可能となるのだ。ドンバスの住民は誰だって戦争なんか望んではいないし、誰もが平和を夢見ていると彼女は言う。

ウクライナ政府の側には平和を望む人が一人もいないっいぇ認めることは大変な苦痛だわ、と彼女は付け加えた。ドンバス地方の住民は停戦を待ち望んでいるけれども、ウクライナ側は「私たち皆を排除しよう」としている。

彼女の夫、娘、家屋、左腕を失った後、ソーシャル・メディア上では自分に対する支援の声を見い出すことができなかったことを彼女は今も思い起こす。彼女や死亡した娘に対する侮辱の言葉が何度も繰り返して現れた。

売国奴となり、自国の住民に対して破壊命令を出すことによって自国民を裏切ったウクライナ政府の意のままにゾンビ―と化したり、操り人形として振舞うことはもう止めよう、皆は政府に利用されてしまっているのだという事実を理解し始めようではないか、とアンナは人々に呼びかけている。

「われわれは皆が平和に、互いに調和しながら生活をしていたものです。お互いを殺し合うなんてことはなかったわ」と、平和だった頃のことを思い出しながら彼女は言う。




彼女の家はすっかり破壊されてしまって、修理もおぼつかなかったので、アンナは今ロシアに住んでいると彼女は言った。昨年中は彼女は二人の子供たちと一緒にドネツクに住んでいたが、彼らは砲撃に曝されていた。

それでもなお、彼女はゴルロフカからの最新のニュースを追っかけている。ゴルロフカに住む人たちは四六時中パニック状態の中で生活している。銃撃は日夜を問わずに起こる。普通の生活や仕事をすること自体が大きな恐怖となるのだ。多くの人たちは地下室や地下の貯蔵室で時間を過ごす。彼らの日常は地獄の生活と化してしまった。

彼女が今イタリアにいることを知って、ヨーロッパ中の人たちにドネツクで起こっていることを伝えて欲しい、と人々は彼女に伝えてくる。ドネツクでは家屋は毎日のように砲撃に曝され、ウクライナ軍の戦車がアブディーイフカの町に陣取っている。炭鉱夫たちは地上に戻ることができなくて、地下に潜ったままだ。 

アンナは34人を個人的に知っている。その中には11人の6歳以下の子供たちも含まれており、マリンカの町では人々は地下生活を続けている。猫や犬を連れて皆が自宅を離れた。戦禍の下ではもう生活ができないからだ、と彼女は最後に言った。

<引用終了>


これで仮訳が終了した。

アンナ・トフの続編には彼女が待ち望んでいた筋電義手を手に入れることができたいきさつが余すところなく伝えられている。「ようやく両手で子供たちを抱きしめてあげることができるわ」という彼女の言葉には残された二人の幼児を持つ母親の率直な気持ちが十二分に込められている。

しかしながら、夫と11歳の娘を失ったことは彼女にとってこれ程大きな苦痛はない。言うまでもなく、それはもう言葉では言い表すことができないことなのだ。

計り知れない苦痛を乗り越えて一歩前へ踏み出そうとしている彼女には励ましの言葉を送りたいと思う。


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戦争の恐ろしさや悲惨さについて云々する時われわれ日本人がどうしても反芻しなければならない歴史的事実がある。それは日露戦争のことであり、太平洋戦争のことだ。

広島・長崎における原爆の悲惨さだけではなく、焼夷弾を雨あられのように浴びせられた東京大空襲、沖縄での米軍による焦土作戦、等、太平洋戦争では非戦闘員である一般市民はまさに地獄のような経験をした。太平洋戦争は何処から始まったのかと言うと、日本の軍国主義や植民地主義に辿りつく。そして、その源流は日露戦争にまで遡る。

その詳細に関しては、「【借金に追われて】日本が太平洋戦争に突入した理由が悲しすぎた【原発・靖国まで】」と題されたウェブサイトを是非とも覗いてみていただきたい。参考のために、一部を下記に転載してみよう。

・・・日露戦争を美談に仕立てたい日本人が多いのは分かりますが、それが後の世代に膨大な負債と太平洋戦争という膨大な損失を残したことも、紛れもない事実です。

日露戦争当時の日本経済は、名目GNP約30億円、国の一般会計予算約3億円、日銀券発行残高約3億円、全国預金残高7億6千万円というサイズでしかなかった。日本は当時のGNP2.5倍、国家予算の60年分の負債を積み上げて日露戦争に挑んだ。

・・・日露戦争は、そもそもイギリスによる清の植民地政策の失敗によって許してしまったロシアの南下に対して日英同盟を名目に日本が動いた戦争でした。

日本は膨大な借金を負わされ、戦争にけしかけられ、最終的に賠償金さえ得ませんでした。その原因は日本政府の無策にもあるかもしれません。しかし、世界経済はもっとずっと大きく動いていたのです。

そして、「戦争がマネーゲームになっていた」という指摘がある。この指摘は実に興味深い。日露戦争当時は一銀行家が大舞台でその主役を演じていたが、今は周知の通り軍産複合体である。

・・・30年戦争は、ボヘミアにおけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争でした。

この戦争ではオーストリア・ハプスブルク家の宮廷ユダヤ人ヤコブ・ハセヴィが、資金を動かしていたことが知られています。

・・・30年戦争以後のすべての戦争の資金はユダヤ人が供給したとも言われています。戦争資金の供給源となっていたため、ドイツだけでなくヨーロッパ全域で「ユダヤ人問題」として議論されていたという一面もあるのです。日本の歴史の教科書から、「なぜユダヤ人問題が議論されていたのか」という点が完全に欠落していることは興味深いことです。

30年戦争(1618-1648年)以降、太平洋戦争まで全ての国際戦争はユダヤ系資金によって行われた。

もちろん、日露戦争や太平洋戦争へと進んで行った当時の日本を理解しようとすると、他にもさまざまな国内・国外の要因を論じなければならない。しかしながら、ここに引用するウェブサイトが取り上げているユダヤ人銀行家(ジェイコブ・シフ)が如何にして日露戦争のために日本への融資を行ったかという歴史的背景は誰もが知っておかなければならないことだと思う。

そもそも、同ウェブサイトの表題は「【借金に追われて】日本が太平洋戦争に突入した理由が悲しすぎた【原発・靖国まで】」 としているが、これをもっと正確に言い直すとすれば、「【日露戦争で借金に追われて】日本が太平洋戦争に突入した理由が悲しすぎた【原発・靖国まで】」とするべきだろう。「日露戦争では日本が勝ったが、太平洋戦争では日本が完敗した」との通説はあまりにも単純すぎることは明らかである。日本が関与したふたつの戦争の間には密接な関係があったのだ。それは日露戦争のための借金の返済だった。1904年当時の国家予算の60年分にも相当する借金を返済するのに80年もかかった。つまり、子供や孫の世代に至るまで尾を引いたのである。そして、中でももっとも大きな負担は太平洋戦争であった。



Photo-6: ポンド建て日本国債の金利の推移

アンナ・トフの物語から大きく脱線してしまったが、彼女が21世紀の今味わってる戦争の悲惨さ、あるいは、日本人が経験した太平洋戦争での大敗とその後に続いている米国への隷属状態の不条理を考える時、それらの根源的理由がはっきりと見えてきたような気がする。それはマネーゲームであり、マネーゲームによって戦争で得をする連中が常に存在するのだ。

そのマネーゲームは現在に至るまで300年以上も続いていることを思うと、小生のブログが何回も取り上げているシリア紛争やウクライナ内戦の背景にあるもっともっと大きな構図は実はマネーゲームにあることに気付かされる。こうして、自国民を相手にテロリスト作戦と称して、東部のロシア語住民を殲滅しようとして住宅地域に砲弾を撃ち込んでいるウクライナ政府に対して融資を続けるIMFの姿がダブって見えて来る。

・・・日露戦争は、そもそもイギリスによる清の植民地政策の失敗によって許してしまったロシアの南下に対して日英同盟を名目に日本が動いた戦争でしたという日露戦争の描写は、日米同盟を名目に今の日本政府が米国の対中包囲網の一環として向かおうとしている(むしろ、「そうさせられている」と言った方がより正確かも・・・)軍国化と重なって見えてしまう。

愚かな判断の結果、不条理な歴史を繰り返してはならない。




参照:

1Ukraine’s Bombs Took Away Her Family, Russia and Italy Gave Her Hope Again: By Sputnik, Feb/12/2017, http://sptnkne.ws/d6tH





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