2018年1月3日水曜日

古代ダキア帝国の遺跡から盗掘された黄金の装飾品がルーマニアへ戻って来た



古代ルーマニアの実態はわれわれが通常知っている歴史にはそれほど登場しない。この地域を統治し、自分の名前を歴史に書き残そうとする野心的な統治者は現れなかったのであろうか。何と言っても、古代ローマ帝国の存在が余りにも大きく、その影に隠されていたという側面もある。

建造物とか金属工芸品は長くその形を留める。そのような事例は各国に数多くの物件が遺跡として、あるいは、博物館の収蔵品として残されている。日本における事例としては正倉院に収蔵されている古代ペルシャの工芸品はわれわれ現代人を遠い過去に誘い、絹の道を通じて東西間で行われていた人や物の交流を生き生きと伝えてくれる。

古代ローマ時代のルーマニアは「ダキア」と呼ばれていた。そして、非常に大きかった。今日、ルーマニアの国産車の名称は「ダチア」と名付けられているが、両者は同一の言葉であって、発音上の違いがあるだけだ。

ダキアの人々がどのような活動をしていたのかを示す貴重な情報がある。これはナショナル・ジオグラフィック誌によって2015320日に刊行された記事だ [1]

本日はこの記事を仮訳して、読者の皆さんと2千年前のルーマニアを訪れてみよう。


<引用開始>


















Photo-1: 現代のルーマニアの地にあった古代ダキア帝国の金の加工職人は蛇の形状をした金製の腕輪を作った。現代の研究者らによると、これらは神へ捧げられた物であるという。写真提供: Kenneth Garrett, National Geographic Creative

考古学者のバーバラ・デッパート=リッピツが「先の20世紀に発見された中ではもっとも大きな驚きであった」と述べた物件は、まず、博物館ではなくて、ニューヨークのクリスティーズの競売場で表に出て来た。1999128日に販売された何百点もの古代の宝物の中に「29番目の物件」が含まれていた。これは螺旋状に巻く、蛇の形をした黄金の腕輪であって、この競売の専門企業は「ギリシャまたはトラキア産の金の腕輪」との説明をしていた [訳注: トラキアは現在のブルガリア、ギリシャ、トルコのボスポラス海峡の西側部分を指す。当時、地理的にはトラキア人はダニューブ川の南側に、ダキア人は北側に住んでいた]

クリスティーズはこれは10万ドルで売れると見込んでいた。競売が65千ドルで勢いを失った時、この競売は中断され、この腕輪と所有者は古代装飾品を扱う闇の世界へと消えてしまった。


























Photo-2: サルミゼゲトーサ

ルーマニアの考古学者や警察がこの腕輪とルーマニア中央部の山岳地帯で起こった盗掘とを結びつける迄には何年もかかった。この「26番目の物件」は結局回収できなかったけれども、かっては古代ローマ帝国とはライバルの関係でさえもあったダキアの失われた宝物を回収するために国際的な捜査が開始されたのである。 


宝探し:

FBIの工作員から始まって、国際刑事機構の捜査官やルーマニアの検事局職員までも含めて、10年間もの捜査が行われ、10個以上の同様な腕輪が見つかった。それと同時に、何百個もの金貨や銀貨も見つかったのである。これらの発見はダキア人の社会や宗教に関して新たな知見をもたらした。  

地球の反対側では、競売報告書、ならびに、光沢紙を使った豪華な競売カタログに印刷された腕輪の写真はエルネスト・オーベルレンデル=トルノヴェアヌの関心を引いた。彼はルーマニア国立歴史博物館の館長を務めており、サルミゼゲトウーサと呼ばれる古代都市の周辺では10年もの間宝探しが行われているという噂があって、それを追跡していたのである。彼にとっては、「26番目の物件」が国内の盗掘現場と盗掘者に莫大な利益をもたらしたという噂とに関心を寄せることになった。

サルミゼゲトウーサはルーマニア中央の山岳地帯にあって、かってはダキア人の首都であり、聖地でもあった。ダキア帝国は、約1,900年前、ローマ帝国のトラヤヌス帝との間で2回もの戦争を起こし、征服された。ローマ帝国はこの勝利によって50万ポンドの金と百万ポンドの銀を獲得し、古代世界が見たこともないような莫大な富を入手したとローマ帝国の記録官が自慢気に記述している。


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Photo-3

勝利の後、トラヤヌス帝は略奪品をローマに持ち帰った。ローマでは、これらの戦利品は彼の有名な公共広場の建設費用を支払ってくれた。この広場には、元老院がトラヤヌス帝を記念する柱を建立し、ダキア戦争を物語るレリーフをその表面に刻んだ。サルミゼゲトウーサは更地にされて、何世紀にもわたって顧みられることはなかった。しかしながら、ダキアの黄金にまつわる物語は生き残り、近隣に住む農民は何代にもわたって急峻な谷間の地面を掘り返した。

金持ちになろうという彼らの夢が本物と化したのは1989年に社会主義独裁政権が崩壊した後のことである。宝物を掘りあてようとする連中は金属探知機(社会主義政権時代には入手できなかった)を用いて、険しい現場であちこちと工芸品を探し回った。

ルーマニア当局は彼らの盗掘について隠さなければならないものは何もないと言う。つまり、1990年代には盗人らは隠れ蓑として汚職官僚から森林伐採権を買い取り、暇を見てはダキア人のかっての首都であった地域で金属探知機を活用した。

盗掘者らは古代人が住んでいた地域に繋がる曲がりくねった、未舗装の道路を頼りにオートバイやオフロード車、小型のバックホーを持ち込み、石ころだらけで木の根が絡んでいる土地を掘り起こし、発見物をかき集めた。「まさに、グールドラッシュだった」と、オーベルレンデル=トルノヴェアヌは言う。「誰かに邪魔されることもなく、連中は作業を続けた。」 

何年か後に非合法に発掘を行っていた連中が逮捕され、警察で自供したことことから、盗掘の全貌は白日の下に曝されることになった。「26番目の物件」は千個もの金貨と一緒に1998年に見つけた、と彼らは警察で喋った。お祝いのしるしに近くの木の幹に「見つけた!」と刻み込んで、彼らは発掘作業を続けた。自分たちが捕らえられるなんて予想もしなかった。もう一本の木には矢印が刻まれ、「穴まで40メートル」との道案内さえもがあった。

「まさにゴールドラッシュだった。連中はまったく何の制約もなく作業を続けた。」
ルーマニア国立歴史博物館のエルネスト・オーベルレンデル=トルノヴェアヌ館長

ルーマニア警察によると、小さな盗掘グループが2000年に主要な鉱脈を発見した。彼らが使っている金属探知機が険しい山腹に埋まっていた岩の上でピーンと音を立てた。その下には平らな石で互いに支えるようにして作られた小さな空洞があって、彼らはそこで10個の螺旋状の形状を持ち、ダキア時代の装飾が施されている金の腕輪を発見したのである。1個の重さは2.5ポンド(1.2キロ)もあった。

その後10年以上もの間に盗掘者らはサルミゼゲトーサで少なくとも14個の腕輪をさらに発見したとルーマニア警察は言う。「連中は型にはまらない考えを持っていた」とオーベルレンデル=トルノヴェアヌは言う。「どの考古学者にとっても、75度の傾斜地なんて考えも及ばなかった。」
宝物を祖国へ呼び戻す: 

サルミゼゲトーサの盗掘された黄金はほとんど完全に失ってしまうところだった。それを回収するにはヨーロッパや米国の当局を巻き込まなければならなかったし、ルーマニアの検事局や博物館の職員らによる10年間にも及ぶ、辛抱強い捜査を必要とした。

結局、ルーマニア当局は全部で13個の腕輪を回収した。合計で27.5ポンド(12.5キロ)で、黄金色に光輝いている。回収された腕輪は現在首都のブカレストで展示されており、これらはルーマニア国内で発見された物件である。例の「26番目の物件」を含めて、これら以外に10個以上の腕輪の行方が依然として不明のままだ。 


















Photo-4: ダキア人は黄金の装飾品だけではなく金貨も作った。これらの金貨もまた、腕輪と同様に、ダキアの首都であったサルミゼゲトウーサの現場で盗掘されたが、近年回収された。写真提供:Kenneth Garrett, National Geographic Creative

サルミゼゲトーサで発見された黄金は考古学者たちにすでに消え失せてしまっているダキアの宗教や文化について再評価を行うことを促した。そのひとつは、これらの発見はローマ帝国がかってダキアで膨大な量の黄金を発見したという自慢話を今まで以上に信頼できるものとしたのである。このような宝物が1,900年後の現在においても発見することが出来るならば、サルミゼゲトーサが破壊される直前には果たしてどれ程多くの財宝を持っていたのであろうか? 

「これらの財宝は先の世紀におけるもっとも驚くべき発見物であった」とデッパート=リッピツは言う。彼女はフランクフルトのドイツ商工会議所から骨董品の評価を行うライセンスを受け、古代の金製品を専門に扱い、企業組織には属さない専門家である。

まずは、その黄金を追跡しなければならなかった。腕輪や一緒に見つかった何千個もの粗雑に鋳造された金貨や銀貨は、1990年代の終り頃、それらがサルミゼゲトウーサで発見されるやいなや国際市場に現れ始め、収集家に対して個人的な申し出でを行ったり、ニューヨークやパリ、チューリッヒで競売に付された。

「これらは先の世紀に発見された物件の中ではもっとも驚くべきものであった。」
バーバラ・デッパート=リッピツ

シカゴの貨幣収集家であり、貨幣の売買業者でもあるハーラン・バークは当初これらの金貨には当惑させられたことを覚えている。「最初にこれらの金貨が現れた時、連中は1個当たり1万ドルを要求して来た」と彼は言う。「私は偽物ではないかと思った。しばらくして、大量の金貨が現れ、値段は1個当たり300ドルまで下がった。」 バークは何十個かを購入し、自分の販売カタログに掲載し、顧客に売り捌いた。


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Photo-5

コインは追跡が困難であり、多くの場合何十年間も、時には何世紀にもわたって個人収集家の手に収蔵されることから、バークはこれらのコインの来歴(出処や所有歴)については究明しなかった。「多くのコインが何時でも市場に現れ、それらに問題があることなんて非常に稀だ」とバークは言う。「コインの出処については売り手は何も言わなかった。」 

そして、ルーマニア当局は「26番目の物件」やその他のサルミゼゲトーサの工芸品が盗品であること、さらには、それらはサルミゼゲトーサから持ち出された物だということさえも特定してはいなかったことから、売買業者や競売の主催者はこれらの腕輪や金貨は合法的な物件であるという売り手の言葉を真に受けていた。「当時、この物件に関するルーマニア当局からの申し立ては何も無かったので、われわれは文化的所有権の問題には思いも及ばなかった」と、クリスティーズの女性広報担当者であるスング・ヒー・キムが電子メールに書いている。


ダキアと繋がりがある工芸品: 

この間に、ルーマニア当局はこれらの工芸品や金貨がサルミゼゲトーサとの繋がりを持っていることを示す証拠を探していた。ダキアの黄金がこれまでに発見されたことはほとんどなかったので、いく人かの専門家はこれらの腕輪は偽物ではないかと論じた。(デッパート=リッピツはこれらが本物であることについてはまったく疑わなかった。偽造者が2ポンド(1キロ)もの金を使って、偽物の腕輪を作るなんてあり得ないことだ、と彼女は指摘する。)

考古学者らが議論をしている頃、サルミゼゲトーサの近くに住む男が隠し持っていた金貨を直接オーベルレンデル=トルノヴェアヌの元へ持ち込んだ。これらの何百個もの金貨は親戚の家の煙突の中で見つけたと彼は言った。「この地域で何かが起こっていることは確かだった」と彼は言う。「しかし、金貨には掘り出したばかりの新しい土がついていた。」 

2001年、博物館の職員は初めて大きな進展を見た。若いルーマ二ア人の男がデッパート=リッピツと接触し、2個の螺旋状の腕輪を鑑定し、評価してくれと依頼して来たのだ。彼女はフランクフルトにある自分のオフィスでこの黄金の輝きを見た時、ル―マニアの同僚から聞いていたダキアの聖なる都市で起こった盗掘のことや例の謎めいた「26番目の物件」を思い起こしていた。

26番目の物件」のように、これらの2個の腕輪もずっしりとしていた。1個当たり2ポンドを超すような無垢の金である。そして、その出来栄えは並みではなかった。つまり、形状や装飾の施し方は古代の典型的な金職人が扱うものとは違っていた。腕輪を作った者が誰であったとしても、その金職人は鉄を扱うことに習熟していた。まさに、ダキア人特有の技巧である。

デッパート=リッピツはもっと情報を得ようとして、騙される振りをしていた。その男はルーマニアに住んでいる彼の兄弟がどこかを掘り起こして、これらの腕輪を発見したのだと言った。男が去ると、直ちに彼女はルーマニアで知り合いとなった検事と博物館職員に知らせた。その後5年間にわたって、デッパート=リッピツはルーマニア当局がヨーロッパの所有者らから一連の腕輪を買い戻すことが出来るようにひっそりと仲介役をした。買戻しを首尾よく行って、売り手が誰であるかを見極めることができたのだ。こうして、当局は盗掘者に対する訴訟の準備を進めた。


















Photo-6: ルーマニア中部の高地にあるサルミゼゲトーサの廃墟に盗掘者が押し寄せ、険しい山の斜面で彼らは地下に隠されている金製品を見つけようとして金属探知機を駆使した。写真提供: Kenneth Garrett, National Geographic Creative

金貨は米国でも回収された。FBIがバークと連絡を取って、金貨の購入者を突き止めた。ここでも、ルーマニア当局は金貨を買い戻した。結局、数多くの盗掘者がルーマニアの裁判所で有罪と判決され、100万ドル近くの費用を支払うように命じられた。

これらの金製品が盗掘されたことから、考古学者らにとっては重要な情報が欠けている。どのようにして、そして、なぜダキアの人々はそれらを地下に埋めたのだろうかという点だ。それでもなお、この宝物はダキア人の社会や宗教を理解する上では大きな手助けとなった。


ダキア文化を再評価: 

金貨や宝石といった宝物は、多くの場合、紛争の際に何処かへ隠される。もしもその所有者が殺害されると、その宝物の所在は不明となってしまう。ダキアの黄金はそれとは異なっている。今回出現した金貨を手に取って、よく観察してみよう。これらはギリシャやローマのデザインを模倣した粗雑な金貨であり、見栄えが均一であることが特徴的だ、とデッパート=リッピツは言う。ご自分のポケットに持っている貨幣を眺めていただきたい。それぞれの金貨は、新品を除けば、摩耗していたり、疵がついていたりして、見栄えは互いに異なる。ところが、これらの金貨はどれもが明るく輝いている。

ダキアの金貨は新品のままである。今やルーマニア国立博物館のガラス製ケースの中に収蔵され、ずっしりとした黄金の腕輪も今までに一度も摩耗を受けたことがないことを示している。「そのような状況は実際の生活では起こり得ない」とデッパート=リッピツは言う。「これらは地下へ埋設するために製作されたのだ。」 腕輪の化学分析の結果によると、これらはこの地方で産出する金で製作されたものである。人々は、恐らく、サルミゼゲトウーサの周囲の山々の間を流れる川で砂金を集めたのだろう。

これ程たくさんの新品同様のダキアの金貨や工芸品が存在している事実に基づいて、ダキア人は貨幣という概念を持ってはいなかったのではないかとデッパート=リッピツは推論している。それに代わって、金製品は宗教的な側面を示す証拠であって、犠牲のためだけに使用された。「金は神聖であった」と彼女は言う。「金は神あるいは魂に属するものであった。」 

ローマ人はダキア人の慣習を理解することは出来なかったとデッパート=リッピツは言う。戦争についてのカッシウス・デオの説明によると、ダキア王のデチェバル(またはデケバルス)は川の流れを変えて、水気があっても持ちこたえるたくさんの金製や銀製並びにその他の工芸品を川底へ隠したと言う。デチェバルの敗退後、ダキアの捕虜のひとりが宝物の所在場所を暴いた。

カッシウス・デオの記述は恐らく事実であったのであろうが、彼の説明は正しくはない。デチェバルがたくさんの財宝を川底に埋めたことについてはデッパート=リッピツは何の疑いも持ってはいない。しかし、デチェバルは黄金をローマ人の目から隠そうとしたわけではない。彼は黄金を犠牲として神に捧げ、トラヤヌス皇帝との生か死かの闘いにおいて自分を助けてくれるように求めたのである。「水と洞窟は別世界へ通じる登竜門だ」と彼女は言う。「これらは宝物ではなく、神に捧げた犠牲である。」 

アンドリュー・カリーはベルリンに本拠を置き、科学や考古学の分野について執筆する。彼のツイッターはこちらを追跡し、andrewcurry.comを閲覧ください。  

<引用終了>


これで全文の仮訳が終了した。

ウィキぺデイアによると、ダキア王国は紀元前168年に建国され、その版図は紀元前82年には現在のルーマニアを中心にハンガリー西部、セルビア、モンテネグロからモルドバ、ブルガリア北部にまで広がっていたと言う。その首都はサルミゼゲトーサ。ダキアのデチェバル王がローマ帝国のトラヤヌス帝と戦争を行ったのは紀元101年から106年にかけてであった。その結果、ローマに敗れ、ローマ帝国のダキア属州となった。属州という地位は165年間続いた。

ルーマニアの古代住民であるダキア人が残した黄金の腕輪や金貨はたくさんの事実をわれわれに伝えている。もちろん、今後もさらなる情報が書き加えられることであろう。注目して行きたい。




参照:

1Gold Looted From Ancient Empire Returned to Romania: By Andrew Curry, NATIONAL GEOGRAPHIC, Mar/20/2015






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