2020年2月13日木曜日

新型コロナウィルスを巡るヒステリックな大騒ぎには人種偏見が潜んでいる - スラヴォイ・ジジェク

新型コロナウィルスを巡っては重要な視点が幾つかあるが、多分、最大級の重要性はヒステリックな騒ぎを引き起こし、それを続けようとする動機にあるのではないだろうか。

中国の環球時報はコロナウィルスに関する情報を、毎日、時系列的に更新している。その日に確認された新規患者数や死者数、ならびに、累積患者数と死者数を始めとして、退院した患者数、一般市民の挙動や地方自治体の職員の不正、あるいは、ワクチンの開発、病院の超迅速な建設、物資の不足を緩和する動き、等が報じられている。もっとも最近の報道を読むと、僅かながらも収束の兆候が感じられる。しかしながら、そんな楽観的な印象も翌日にはあっさりと打ち消されてしまう。コロナウィルス感染の大流行は目下そんな感じで推移している。

ここに、哲学者であるスラヴォイ・ジジェクの見解を示す記事がある(注1)。「新型コロナウィルスを巡るヒステリックな大騒ぎには人種偏見が潜んでいる - スラヴォイ・ジジェク」と題されている。

コロナウィルス感染の大流行そのものの挙動、つまり、患者数や死者数、ならびに、退院者数の推移、あるいは、病院の建設やワクチンの開発についてだけではなく、西側の大手メディアが煽り立てる危機的状況の背景に潜むイデオロギーや動機を明快に論じている点に私は凄く新鮮な印象を受けた。まさに盲点を突かれた感じだ。

本日はこの記事を仮訳して、読者の皆さんと共有しよう。

<引用開始>


Photo-1:中国の武漢にある橋を下から眺める  © Getty Images / Gregor Sawatzki

われわれの中の誰かは、私自身も含めて、まさに昨今の武漢の街を訪れ、文明が死に絶えた後を示す映画のセットのような街の雰囲気を味わってみたいと密かに思っているのではないだろうか。武漢の人気のない通りはそれ自身が非大量消費社会のイメージを容易く感じさせてくれる。

コロナウィルスはいたるところでニュースとなっている。私は医療関係の専門家を装う積りは毛頭ないが、ひとつだけ問題提起をしておきたい:事実はいったい何処で終わり、イデオロギーはいったい何処から始まるのか?

まず最初の不可思議な点はこうだ。このコロナウィルスの大騒ぎよりも遥かに悲惨な大流行がいくつも起こっており、まったく別の感染症によって毎日のように何千人もが死亡しているにも関わらず、いったいどうして本件にはこれ程執着するのだろうか?

もちろん、もっとも極端なケースは19181920年に起こった「スペイン風邪」と称されるインフルエンザの大流行であろう。当時の死者数は5千万人に達したと推定されている。現在はどうかと言うと、米国では今シーズンだけでも千5百万人の米国人が感染し、少なくとも14万人が入院し、8,200人が死亡した。

今回の大流行では明らかに人種差別的な妄想が絡んでいる。生きている蛇の皮を剥いているとか、コウモリのスープをズルズルと飲んでいる中国人女性に関する幻想のすべてを思い起して欲しい。その一方で、現実には、中国の大都市は恐らくは世界でももっとも安全な場所のひとつである。

しかしながら、より深遠で、しかも、矛盾した側面が存在する。つまり、われわれの世界がより緊密に連結されればされる程、地方で起こった惨事は世界的規模の恐怖を引き起こし、遅かれ早かれ地球規模の大惨事となり得ることだ。


2010年の春、アイスランドの小さな火山から放出された噴煙がヨーロッパのほとんど全域で航空機の発着を中断させた。これは人類が持つ自然を変え得る能力のすべてとは無関係に、人類は依然として地球上に生息する生物のひとつに過ぎないことを悟らせるものだ。

そのような取るに足りないほどに小さな出来事が社会的・経済的に与える壊滅的影響はわれわれが実現した技術的発展(空の旅)のせいで引き起こされている。1世紀前であったならば、このような火山の噴火はやり過ごされていたことであろう。

技術的発展はわれわれを自然からますます独立させるが、それと同時に、それとは違ったレベルにおいてはわれわれは自然の気まぐれさによって必要以上に振り回される。そして、まったく同じことがコロナウィルス感染の拡大についても言えるのだ。もしもこれが鄧小平の改革以前に起こっていたとすれば、われわれは多分これについては聞くこともなかったであろう。

コロナウィルス感染の拡大に関する憶測やこの世の終わりといったシナリオによって煽り立てられている恐怖は世界経済に対しては感染の拡大以上に大きな脅威となる。

闘う準備をする


ウィルスは得たいの知れない、目には見えない寄生虫のような生命体としてその個体数を増やし、詳細な機構は基本的には何も分かっていないにもかかわらず、いったいどうやってウィルスと闘うのか?この知識の欠如こそがパニックを引き起こす源泉である。もしもウィルスが予期もしない突然変異を起こし、世界規模の大惨事を起こすとしたら・・・?

これは私の個人的な被害妄想ではあるのだが、当局がパニックを大っぴらに見せている理由は、一般大衆の混乱や騒動を避けるために、公表したくはないような突然変異について政府自身が何かを知っている(あるいは、少なくともそういった疑いを持っている)からなのだろうか?何故かと言うと、今までに分かった実際の影響はどちらかと言うと比較的控えめなレベルで推移しているからだ。一つだけ確かなことがある。つまり、封じ込めや隔離は解決にはならない。

完全に無条件な連帯意識や世界レベルで調整された対応策が必要なのだ。これはかっては共産主義と称されたものの現代版である。われわれがこのような方向での取り組みに着手しないならば、今日の武漢の姿は、恐らく、われわれの都市の将来のイメージとなるのではないか。

数多くの暗黒郷小説がすでにこれと同じような運命をはっきりと描いている。われわれはほとんどが在宅し、コンピュータに向かって仕事をし、ビデオコンフェレンスを介して連絡しあう。ホームオフィスの片隅に置いたマシーンで汗を流す。食べ物は配達されてくる。

rt.comでの関連記事:All US has done could only spread fear’: China slams Washington for ‘stoking panic’ against Beijing over coronavirus

武漢での休日

しかしながら、この悪夢とも言うべき見方にはまったく予期し得なかった解放論者的な展望が秘められている。この数日間というもの私は武漢を訪れるという夢に耽溺していたことを認めなければならない。

大都市における半ば見捨てられた通りは、通常ならば活気に満ちた大都市の中心部がゴーストタウンになってしまったかのように見え、店舗が開いているにもかかわらず客の人影は見られず、一人の歩行者または一台の車がそこここに認められ、一人一人が白いマスクをしている・・・、まさにこれは非消費者世界のイメージを端的に示しているのではないだろうか?

上海または香港の人っ子一人もいない空っぽになった目抜き通りの憂鬱な美しさは私に古い映画を思い出させる。たとえば、「渚にて」だ。あの映画では息を呑むような巨大な破壊ではなく、ほとんどの住民が消えてしまった都市が映し出される。あの映画では世界はもはや手に届く所にはなく、誰かがわれわれを待っている訳でもなく、われわれを見て、われわれを求めている訳でもない。

何人かの歩き回っている人たちが身に着けている白いマスクはまさに格好の匿名性を与え、社会による認識のための圧力からは開放してくれる。

われわれの多くは1966年に学生たちが辿りついた、かの有名な状況主義的な結論を今も記憶している。つまり、「無為な時間なしに生きること、そして制約なしに楽しむこと」。

フロイドとラカンがわれわれに何かを教えてくれたとするならば、それは超自我の禁止令の最高の例は、ラカンが適切に証明しているように、超自我はもっとも基本的なものであることから積極的に禁止令を楽しむことであって、何かを禁止する否定的な行為ではない。この公式は惨事の領収証である。われわれに与えられている時間の中ですべての瞬間に強烈に関与したいという衝動は息が詰まるような退屈感に終わる。

無為の時間は自分の身を引き下げることであって、これは昔の神秘主義論者が「平静さ」、「開放」と称したものであって、われわれの生活体験を再活性化する上では非常に重要なものだ。多分、次のようなことを期待することが可能ではないか。中国の都市で進められているコロナウィルス患者の隔離がもたらす予期せぬ影響としては少なくとも何人かは無為の時間を活用して、気忙しい活動からわが身を解放し、この窮状が意味するもの(あるいは、そのナンセンス振り)を考えることであろう。

これらの私的な考えを公表しようとすることは危険であるということを私は十分に承知している。つまり、私は自分が部外者であり安全な場所にいるからこそ、より掘り下げた、ある種の権威的な洞察を犠牲者の苦痛のせいにするという新たな解釈を提示しようとしているのではないか?こうして、皮肉にも私は彼らの苦痛を正当化しようとしているのではないか?

「これはわれわれに共通した惨事だ」:ストロー級のチャンピオンがコロナウィルスの流行を恐れて北京を離れるので、UFC(総合格闘競技の団体)はジャン・ウェイリーの身柄を中国から引き取ることに。

人種差別主義的な底意

武漢のマスクをした市民が医薬品や食料を求めて歩いている姿を見る時、彼や彼女の意識には反消費主義的な考えは毛頭ない。あるのはパニックや怒りならびに恐怖である。私が弁解したい点は恐怖に満ちた出来事であってさえも、それは予測ができないような前向きな結果をもたらし得るということだ。

カルロ・ギンツバーグは自国を愛するのではなく、自国を恥ずかしく思うことはその国に属していることを示す本物の徴であるのかもしれないという考えを提案した。

多分、イスラエルの誰かは勇気を絞り出して、ネタニヤフとトランプが自分たちのために提案した政策に関して恥を感じていることだろう。もちろん、これはユダヤ人であることが恥だという意味ではない。それとは違って、ウェストバンクにおける行動がもっとも貴重なユダヤ主義の遺産に与える影響に関して恥じるという意味である。

多分、英国人の誰かは十分に正直者であって、ブレクジットをもたらしたイデオロギーの夢を恥ずかしく思っているに違いない。しかし、武漢の人たちにとっては恥ずかしく思ったり、疑問に駆られている時ではなく、勇気を絞り出して辛抱強く闘いを続ける時なのだ。

もしも中国にコロナウィルスの大流行を過少評価する人がいるならば、チェルノブイリ原発事故で自分の家族を速やかに避難しておきながら、危険はないと公言した政府職員が恥じなければならないのと同様に、そういう人たちは自らを恥じるべきである。あるいは、地球の温暖化はないと公言しながらも、ニュージーランドで家を買ったり、ロッキー山脈で生き残り用のバンカーを建設する高級職員が自らを恥じなければならないのと同様に・・・

多分、このような二重行動に対する一般大衆の怒り(すでに、当局者には透明性を約束させるところまで来ている)は中国に予期しなかったもうひとつの建設的な政治的展開をもたらすであろう。

しかし、真の意味で恥じなければならないのは中国人を如何にして隔離するべきかを考えているわれわれ自身なのである。

注:この記事に表明されている文言や見解および意見は全面的に著者のものであって、必ずしもRTの見解や意見を代表するものではありません。

著者のプロフィール:スラヴォイ・ジジェクは文化哲学を専門とする哲学者。リュブリャーナ大学の社会学哲学研究所で上級研究員を、ニューヨーク大学ではドイツ語の特別栄誉教授を、そして、ロンドン大学のバークベック人文学研究所では国際部長を務める。彼の生活に関するドキュメンタリーは彼を「文化理論のエルヴィス」と描写した。ウェブサイトの「Vice」は書評で彼を「西側でもっとも危険な哲学者」と称した。スラヴォイはガーディアン紙やニューステーツマン、インデペンデント、他で執筆している。

<引用終了>

これで全文の仮訳が終了した。

スラヴォイ・ジジェクの記事を仮訳するのは私には初めてのことだ。哲学の分野にはまったくの門外漢である私にとっては大きな挑戦となった。正直に言うと、この仮訳よりも上質な訳がいくらでもあると認めざるを得ない。その点はご容赦願いたい。

とは言え、著者が指摘したい点は明瞭だ。「コロナウィルスはいたるところでニュースとなっている。私は医療関係の専門家を装う積りは毛頭ないが、ひとつだけ問題提起をしておきたい:事実はいったい何処で終わり、イデオロギーはいったい何処から始まるのか?」という部分は哲学者らしい思索の過程を示す格好の文言であると私には思えた。

「技術的発展はわれわれを自然からますます独立させるが、それと同時に、それとは違ったレベルにおいてはわれわれは自然の気まぐれさによって必要以上に振り回される。そして、まったく同じことがコロナウィルス感染の拡大についても言えるのだ。もしもこれが鄧小平の改革以前に起こっていたとすれば、われわれは多分これについては聞くこともなかったであろう。コロナウィルス感染の拡大に関する憶測やこの世の終わりといったシナリオによって煽り立てられている恐怖は世界経済に対しては感染の拡大以上に大きな脅威となる」という指摘は言われてみれば当然だとういう感じがするけれども、この記事の文脈からは実に重要な意味合いをもっている。

ところで、環球時報は毎日新型コロナウィルスによる新たな感染者や死者の数、さらには、特効薬の臨床試験、ワクチンの開発予定、等を時系列的に報じ、更新を行っている。

たとえば、

21210:25 pm:中日友好病院は新型コロナウィルス用の薬剤「Remdesivir」について臨床試験を実施中であると公表した。

21203:27 pm:中国におけるコロナウィルス感染からの回復の率は127日の1.3%から火曜日(211日)には10.6%へ上昇した。これによって退院者が増加している。中国は依然として新型コロナウィルスとの厳しい闘いに直面しているが、好ましい兆候も現れている。新規の患者数は24日に3,887人を記録しピークを示したが、火曜日(211日)には2,015人に低下した。48.2%の減少である。国家厚生当局の言。

212日の10:55 am:火曜日(211日)の真夜中現在、新型コロナウィルスの震源地である湖北省の外での新規患者数は8日間連続して減少した。湖北省でも新規患者数は二日間続けて減少し、過去の10日間で初めて2,000人を割った。

大局的にみると、中国における総患者数の曲線上ではようやく変曲点が観察されているようだ。これからは山を下ることになる。山を登るのに要した2か月と同程度の時間が必要だと想定すると、中国が勝利宣言を発する時期は4月中旬か。

その頃、シンガポールや日本での感染の拡大はピークに達しているのかも。あるいは、すべての策が奏功して、すでに沈静化しているかも知れない。


参照:

1: Clear racist element to hysteria over new coronavirus – Slavoj Zizek: By Slavoj Zizek, Feb/03/2020, https://on.rt.com/aaci






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