2013年8月10日土曜日

日本人の行動パターンはこのままでいいのか

日本国内における政治の動きに関するニュースに接し、日本の近代史に関する本を読んでいると、「日本人の行動パターンはこのままでいいのか」という疑問がいや増しに募ってくる。

「何を根拠にそんなことを言うのか」といった反応が周りから聞こえてきそうである。しかし、この個人的な懸念は大方の日本人が今抱いている心情をほぼ代弁しているのではないか。
このブログを投稿するきっかけは最近読んだ一冊の本にあった。「昭和168月の日本敗戦」である[1]
毎年、8月になると日本が経験した敗戦のことをあれこれと考えさせられる。われわれ素人にとっては考えが及ぶ範囲はたかが知れたものではあるのだが、自己啓発という意味では8月は貴重な季節である。8月になると日本の近代史について知らないことが余りにも多いことに気づかされる。
本書の著者はさまざまな資料や当事者の切れ切れとなった記憶の断片を集めて、ひとつの歴史的事実を再現することに見事に成功したのではないかと思う。本書のプロローグによると、「昭和16128日の開戦よりわずか四ヶ月前の816日、平均年齢33歳の内閣総力戦研究所研究生で組織された模擬内閣は、日米戦争日本必敗の結論に至り、総辞職を目前にしていた....」
33人の研究生たちは政府機関、軍部、民間からそれぞれの部署における気鋭の若い人材として選りすぐられ、緊急に東京へと召集された。この総力戦研究所はその年の41日にスタートした。日米開戦に向けて戦雲急を告げる中を日本は突き進んでいた頃の話である。
昭和16827日のことであった。(私が生まれた年の二年前だった。)
本書の一部を下記に引用してみる。引用部分は段下げをして示す。
首相官邸大広間、午前9時。二つの内閣が対峙した。いっぽうは第三次近衛内閣、もうひとつは平均年齢33歳の総力戦研究所研究生で組織する<窪田角一内閣>である。
総力戦研究所研究生らで組織された模擬内閣は、対米英戦について<閣議>を続けていた。この日その結論に至る経過報告を第三次近衛内閣の閣僚たちに研究発表という形で明らかにしなければならない。
長い一日が始まりそうである。昭和16年の夏、彼らが到達した彼らの内閣の結論は次のようなものだった。
12月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、終局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから日米開戦はなんとしてでも避けなければならない。
ウィキペデイアで「総力戦研究所」の項目を検索してみると、次のような記述がある。
この結論は現実の日米戦争における(真珠湾攻撃と原爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致するものであった。この机上演習の研究結果と講評は8月27・28日両日に首相官邸で開催された「第一回総力戦机上演習総合研究会」において当時の近衛文麿首相や東条英機陸相以下、政府・統帥部関係者の前で報告された。
 
研究会の最後に東條陸相は、参列者の意見として以下のように述べたという。

「諸君の研究の勞を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、實際の戰争といふものは、君達が考へているやうな物では無いのであります。日露戰争で、わが大日本帝國は勝てるとは思はなかつた。然し勝つたのであります。あの當時も列による三國干渉で、やむにやまれず帝國は立ち上がつたのでありまして、勝てる戰争だからと思つてやつたのではなかつた。戰といふものは、計畫通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がつていく。したがつて、諸君の考へている事は机上の空論とまでは言はないとしても、あくまでも、その意外裡の要素といふものをば、考慮したものではないのであります。なほ、この机上演習の經緯を、諸君は輕はずみに口外してはならぬといふことであります。」
戦略研究所研究生が出した結論にもあるように、日本がオランダ領インドネシアの石油を確保しようとして南進し、オランダ、英国、米国および中国を相手にして長期戦に陥った場合、航空機や戦艦の燃料が枯渇してしまって、戦争を維持することができなくなることは疑いようもなかった。
実際の歴史は総力戦研究所の研究生が提示した内容とほぼ同じ軌跡を示した。この事実は非常に重いと言わなければならない。これとの対極の位置にあったのは、当時の東条陸軍大臣が官界、軍部および民間の各方面でエリートとして活躍していた研究生たちが研究し、到達した論理的な結論をあっさりと一蹴してしまったという事実だ。
私たちは歴史的な結末を知っている。その上で当時の研究生が出した結論を「そうだ、その通りだ」と言い切ってしまうことは余りに安易であるかも知れない。論理的な思考の産物として彼らが辿り着いた結論を一蹴した、あるいは、一蹴せざるを得なかった東条英機の脳裏には、たとえ僅かながらではあっても、何らかの逡巡があったに違いないと思いたい。何といっても、一国の首相を務めた人物のことである。
この後、東条英機は昭和天皇によって首相に指名された。本書によると、東条は天皇に日米開戦の阻止の役割を負わされた。しかし、それには成功しなかった。結局、軍部の圧力に抵抗することはできず、この米英戦争でも日本は強硬な軍部の思いのままの路線を突っ走ることになった。 

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「国民の命を大事にする」という国家の究極的な使命に基づいて日本の近代史を振り返って見れば、昭和20年の敗戦までに日本が辿った10年間は失敗に次ぐ失敗だったと言えるのではないか。失敗の要因は何だったのか、その歴史的背景を知りたいと思う。
20076月号の文芸春秋には「昭和の陸軍、日本的組織の失敗」と題した特集記事[2]が収録されている。これを論じるのは半藤一利、保坂正康、福田和也、戸部良一、黒野耐の面々だ。この記事は7章で構成されている。
各章の表題を列記してみよう。この記事を読んではいない人たちにとっては大雑把な輪郭を知る上で役立つのではないだろうか。なお括弧内には論評の対象となった当時の主だった軍人の氏名を示す。

1.   派閥抗争が改革をつぶした (宇垣一成と荒木貞夫)
2.   エリート教育システムの欠陥 (東条英機と永田鉄山)
3.   天才戦略家の光と影 (石原莞爾と武藤章)
4.   良識派は出世できない (栗林忠道、今村均、本間雅晴)
5.   暴走する参謀コンビの無責任 (阿部卓四郎と辻正信)
6.   凡庸なリーダーと下克上の論理 (杉山元と瀬島龍三)
7.   「空気」に支配された集団 (阿南惟幾と梅津美治朗)
いずれの章も興味が尽きない内容ではあるが、第2章の「エリート教育システムの欠陥」に注目してみたい。なんといっても東条英機についての関心はダントツである。この章では東条英機の対照として永山鉄山が豊富に論じられている。永山鉄山(陸大23期)は先を読める、抜群に優秀な人物だったらしい。下記のような具合だ。
福田:永田は昭和9年の時点で、「朝鮮は今のままでは絶対に収まらないから、なるべくはやく日本人に悪感情を持たれない形で独立させるべきだ」と発言しています。石原莞爾が同じことを言い出したのは昭和1516年ぐらいですから、随分と先を行っている。
戸部:永田は軍の中でも上下を問わず評価されたのみならず、おそらく政治家や実業家とも対等に付き合うことができるだけの知性と見識を持っていたと思います。また、実際に彼らと付き合うことで、経済界や政界をまきこんで総力戦体制を作っていこうと画策してもいました。
福田:たしかに交友関係は広かったですね。信州出身で、同郷の岩波重雄をはじめとする文化人人脈もあったし、団琢磨のやっていた日本工業倶楽部などで講演したりして、財界とのつながりもあった。
しかし、ひとつの時代に一人か二人しか現れないようなこの逸材も陸軍内部の統制派と皇道派との派閥抗争の中、とうとう永田は陸軍省内で皇道派の相沢三郎中佐に斬殺されてしまう。昭和10年(1935年)のことだ。当時、永田は陸軍省軍務局長だった。
もしも永田が生きていたら:
黒野:もしも永田が生きていたら、昭和史の流れが変わっていた可能性があります。純粋培養で社会的経験にとぼしい他の軍人たちとちがって、視野が抜群に広かった。たとえば盧溝橋事件の時点で生きていたら、石原莞爾とともに、武藤章や田中新一を抑えて、戦火の拡大を防ぐことができたかも知れない。永田は石原よりもはるかに人望がありましたから、少なくともあれほど下克上が陸軍組織内にはびこることはなかったはずです。
半藤:企画院総裁だった鈴木貞一が戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起こさなかった」と話したのを直接に聞きましたよ。
さまざまな軍人に関する人物論が続く。論評する論者の中には「一人の軍人が非常に優秀であったとしても、途方もなく巨大な日本帝国陸軍を統治することはできなかったのではないか」との意見も出ている。これは軍の指導者を育成するために創設された陸軍大学校に関して、明治15年以降の教育方法そのものを批判したものだ。具体的には下記のような内容だ。 
半藤:東京裁判の時に東条や畑俊六(陸軍大臣)が、自らの罪状の中で出てきた九カ国条約や不戦条約の詳細について何も知らなかったという話があります。畑は陸大を主席で出ています。それなのに国際法などの知識がほとんどないままに軍首脳になれたわけです。
終戦時に大本営参謀を務めていた朝枝繁春(45期)に「陸大の教育というのはなってなかったんじゃないですか」と聞いたら、朝枝はあっさり「うん、なってない」と答えていました。何しろすべてが他律主義で、上から言われたことだけをするように教育され、本来柔らかかったはずの自分の頭がどんどん固くなって、融通がきかなくなっていく、前の時代のやり方を踏襲するような思考法しか教わらなかった、というのです。 
朝枝は他にも、「対米、対英戦略は何一つ教わらなかった。対ソ戦略一辺倒。憲法についても丁寧に教わらなかったし、開戦や停戦、終戦の手続きなども一切学んだことがない」と言っていました。                          
ここに掲載されている内容は驚くばかりである。巨大な日本帝国陸軍という組織の中で純粋培養されてきた東条英機に、総力戦研究所の研究生たちが提出した研究結果に少しでも知的興味を覚えるだけの柔軟な想像力を期待することは、やはり、無意味だったようだ。
外部の財界や政界あるいは文化人にも人脈を持っていたとされ、陸軍の中ではたぐい稀な広い見識を備えていた永山鉄山が昭和16827・28日に総力戦研究所研究生の机上演習の結果報告を聞く機会を持ったとしたらどのような反応をしたのだろうか。 

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暑い夏、8月の一夜、歴史を紐解く時、きまって新しい事実が眼に飛び込んでくる。
21世紀の今を生きるわれわれにとって最も大切なことは、この大破局が、戦後半世紀以上も経過した今になっても、日米関係に暗い影を落としているという厳しい現実である。対等な日米関係はなかなか実現されない。敗者としての日本は、東西冷戦の構図がはっきりとした頃、米国陣営に組み込まれた。それ以来半世紀以上にもなった。そして、その冷戦構造さえもが崩壊してしまった。あれから20年以上も経過している。
勝者としての米国と敗者としての日本との相互関係は今も連綿と続いている。それは外交、通商、地政学的な日本の動きを見れば明らかだ。日本の国益にならないような決断がいたる分野で行われている。現状維持だけが日本政府の一番大切な方針であるかのように。日本は今もこの古い国際政治の殻から脱却できないままでいる。もっと正確に言えば、米国従属から脱却しようとしないままでいる。この現状は米国にとっては非常に都合の良い状況かもしれない。しかしながら、日本にとってこの現状は真に都合がいいと言えるのだろうか...
今年の64日、自民党は「新防衛計画の大綱」を提言した。副題には「防衛を取り戻す」とある。
この自民党の提言の中で最も注目しなければならない点は、西日本新聞[3]が述べているように、「専守の枠を超してしまうのではないか」という懸念である。日本の自衛隊の存在理由は専守防衛であるとして、東アジア圏内では過去何十年にもわたって日本とその隣国との間にバランスを保ってきた。自民党の提言はこの専守防衛から一歩外へ踏み出そうとしている。

新防衛計画の大綱が目指す新たな展開は専守防衛から他国の基地を叩く能力を確保しようという点にある。具体的には北朝鮮のミサイル基地を先制攻撃することができるような軍事的能力を備えることを目標としている。最悪の場合、米国に軍事的な脅威を与えるかも知れない北朝鮮に対して、いよいよ米国に代わって自衛隊を派遣し、血を流すということになりそうだ。経済的にも、国内法的にも今までのようには軍事費をつぎ込めなくなった米国にとって、日本の軍事国家への展開は非常に好都合なのではないか。自民党の政策はそのような米国の意向を汲んでいるようだ。
北朝鮮のミサイルの開発や核実験の脅威にさらされている日本にとっては理解できる側面を持っているかも知れない。北朝鮮からの脅威を日本の軍事国家化の理由として使うことは容易だろう。しかしながら、先制攻撃の正当な理由を見つけることは非常に困難な仕事になるのではないか。
米国がここまで戦争国家になった理由のひとつとして、戦争遂行能力の面で他国には類を見ないようなダントツの存在になったからだ、とある識者が述べている。ハイテックの武器を手にした人間の心理とはそういうもののようだ。仮に、この新防衛計画の大綱に沿って、日本が北朝鮮のミサイル発射基地を叩けるだけの軍事的能力を確保したとしよう。そうした場合、自衛隊の幹部は日本政府に対して「先制攻撃をして、ミサイル基地を叩く」ことを進言することになるのではないか。
また、新防衛計画の大綱が目指すもうひとつの新たな展開は集団的自衛権の行使にある。米国は国連の決議案もなしにイラクへ侵攻した。当時、米国政府も大手メデアもイラクへの侵攻一色となった。しかしながら、軍事的侵攻の中心的な理由であった大量破壊兵器の存在はついに確認できなかった。

2007年、英国の次期首相に決まったゴードン・ブラウンはBBCの番組に出演し、イラク戦争開戦前における諜報活動の過ちを国民に謝罪した[4]。一方、米国では、米国の間違った判断の末に数十万人のイラク市民が殺戮されたにもかかわらず、米国政府の謝罪は無かった。かって、ジョージ・ブッシュ元大統領は当時のアルゼンチンのキルチネル大統領との会話で、「経済を活性化させる最善の方法は戦争、米国は戦争をすることによって経済を成長させて来たんだ」と言った。これはジョージ・ブッシュ元大統領が口を滑らせたという状況ではなく、彼がまったくそのように信じていたということのようだ。この逸話は小生のブログにも掲載した(20121011日付け「ふたりの大統領」)。良くも悪くも、米国とはそういう国家なのだ。
そのような米国と共に集団的自衛権を行使することに日本にとってはどのような意義があるのだろうか。私には「政治的な健全さ」を感じとることができない。
これらの先制攻撃や集団的自衛権の行使の延長線上には、米国の海外での紛争地点への自衛隊の派遣がおおっぴらに喧伝されることになるのかも知れない。
つい最近のニュースであるが、進行中の「対テロ戦争」は効を奏さず、米国政府は中東や北アフリカ一帯で25箇所もの大使館や領事館の一時閉鎖を余儀なくされた。まともな外交もできなくなってきたということだ。このような最近の米国の現状を見ていると、集団的自衛権の行使を日本の公的な政策とした場合、好むと好まざるとを問わず、日本は対テロ戦争の最前線に放り込まれる可能性があるということだ。現に、米国の対テロ戦争にかなり首を突っ込んできた英国やフランスも在イエメンの大使館を一時閉鎖せざるを得なくなった程だ。米国が現在の対外政策を大幅に変更しない限り、米国の「対テロ戦争」は新たなテロリストを生み出すばかりで、完全な悪循環となっている。しかも、武装したテロリストの勢いは増すばかりである。
また、米国の小規模のメデアを覗いてみると、戦争国家、警察国家になってしまった米国を憂える声がいや増しに高まっていることがよく分かる。大手メデアとは違って、決して大きな声になることがない団体や個人からの投稿を見ると、それらの多くはもう悲鳴そのものだ。
日本の憲法は海外での武力行使を禁じている。この憲法の存在が日本の国家としての節度を保ってきたのだと言えよう。しかしながら、今や、憲法改正が声高に唱えられている。
日頃は国際政治の場では話の種にもならない日本ではあるのだが、最近は海外でも急速に「日本」が話題の種になっている。そのキーワードは「日本の右傾化」だ。その状況をまとめて紹介しているサイトがある。その内容を見ると、外から見た日本の姿が浮き彫りにされている。興味のある方は同サイトの表題、「日本の右傾化を憂う海外報道をメモ」で検索していただきたい。
余談になるが、このサイトの冒頭にはナチス・ドイツ軍の最高責任者だったヘルマン・ゲーリングの言葉が紹介されている。それをここに転載してみたい。
「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」
これを読むと、プロパガンダの恐ろしさがよく理解できると思う。
上記のプロパガンダ理論に基づいて尖閣諸島問題を見てみよう。さまざまな局面を経て、最終的には、中国政府の方針は「棚上げ」路線のようだ。両当事者による棚上げということになると、中国によって尖閣諸島が攻撃されつつあると日本政府が喧伝し続けることには無理があるのではないか。
また、私の理解するところでは、北朝鮮の最大の外交目標はあくまでも米国である。決して日本ではない。核開発や長距離ミサイルの実験はすべてが米国を意識した動きである。
日本では、今、政府による「雰囲気作り」がどんどんと進められている感じがする。いわゆる「空気」の醸成だ。ある時点になると、周りの空気を読めない者はつまはじきにされるような状況がまたも繰り返されるのではないだろうか。
政治が混乱した時、悪影響を一番大きく受けるのは決まって一般市民だ。過去の日本の歴史を庶民の立場から正しく認識したいと思う。

昭和20年以前の日本に逆戻りするようなことがあってはならない!!
 

参照:
1: 昭和16年夏の終戦: 猪瀬直樹著、単行本として世界文化社から1983年に発刊、文春文庫から1986年に発刊、そして、中公文書から2010年に発刊。
2: 文芸春秋: 20076月号、P94144

3: 新防衛大綱 「専守」の枠を越えないか: 西日本新聞朝刊、2013727

4: 英次期首相、イラク戦争に向けた諜報活動の過ちを謝罪: AFP20070623

 

 

 

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