2013年8月24日土曜日

アメリカが消えてしまった!


この記事[1]の表題を初めて見た時、いったい何を言いたいのだろうかと不審に思った。しかし、内容を読んでみてすぐに理解できた。表題の「アメリカ」は「古き良きアメリカ」のことだった。

この記事は、しっかりした観察眼を持つ元ジャーナリストである著者が大きく変貌してしまった米国社会のひとコマを切り取って、米国社会の底辺に生きる3人の黒人たちと交わした会話を紹介したものだ。そこには、途方もなく大きな米国社会の変貌が記録されている。

私たち戦中派や戦後のベビーブーマーたちが育ち盛りだった頃、米国社会はキラキラと輝いていた。米国映画やテレビ番組を飽きることもなく観ていたものだ。もちろん、その頃の米国社会の底辺の人たちがどのような生活を送っていたのかを詳しく知る術はなかった。そこまで気が廻る筈もなかった。しかし、今、ここに引用する記事を読んでみると、貧困の中で底辺に生きる人たちの間においてさえも、現代の米国社会から見れば、当時の社会は何か大切なものをしっかりと持っていたことが分かる。今では、羨むべき社会だったと言えよう。
 
この記事の仮訳を下記に掲載して皆さんと共有したいと思う。引用部分は段下げをして示す。

刑務所で多くの時間を過ごしたビッグ・フランキーとリトル・フランキー、そして、アルの3人の黒人は働く場所もなく、貧困生活と暴力沙汰が絶えない街へ戻ってきていたが、ニュージャージー州のエリザベス市[訳注:ニューヨーク市から西へ24キロほどの距離]で私が支援している第二プレスビテリアン教会における刑務所支援グループには突然顔を見せなくなった。貧困がはびこる界隈ではこのようなことがよく起こる。連中と会う。次回に会う予定を決めて、連中と別れる。そして、何の前ぶれもなく、彼らは消えてしまうのだ。多くの場合、些細なことから彼らは逮捕される。警官たちが通りで、誰といって決まった標的もないまま手当たりしだいに彼らを引き止め、身の回りを調べる。罰金の支払いや裁判所への出頭あるいは保護監察官との会合をすっぽかしたとか、子供の養育費が未払い、保護監察に違反した、あるいは、ほんのちょっぴりマリファナを所持していたとかの理由で逮捕される。巨大な法システムが彼らを呑み込んでしまう。彼らは貧困で、保釈金などはぜんぜん払えないので、結局は刑務所に収容される。つまり、こういったことがビッグ・フランキーとリトル・フランキーおよびアルにも起こったみたいだ。
街の噂によれば、リトル・フランキーの本名はフランク・クラークといって、南米系である。彼は強制送還されることを恐れて、公判の日に出廷しなかったのだ。しかし、彼が恐れていたことを除けば、彼についてはっきりと言える人は誰もいない。エリザベスにあるユニオン郡刑務所によると、ビッグ・フランキーとアルのふたりは「管理下にある危険な物質」を所持していたとかで逮捕された。しかし、これは必ずしも彼らが麻薬を所持していたということにはならない。所持していたかも知れないし、所持していなかったかも知れないのだ。いつだって、警察は薬をこっそりと仕掛けることができるのだから。仮に、ビッグ・フランキーとアルが薬を持っていたとしても、たくさんの量ではなかった筈だ。
アメリカでは、もしあなたが貧乏だったら、このように突然街から消えてしまい、巨大な刑務所組織の地下のウサギ穴の中に放り込まれる。数週間、数ヶ月、あるいは、数年後にあなたはそこから這い出してくる。あなたは自分がかって拘束された場所に戻って、自分の生活を取り戻そうとする。警官を避けて歩く。仕事を探す。仕事なんて見つかりはしない。常に、猫とねずみの追っかけっこだ。国が貧乏人を相手にもてあそぶ。狩りをする側と狩りをされる側。何をしでかそうとも、貧乏人は格好の獲物であって、群がる鮫に翻弄されるメダカのような存在だ。わが国のいわゆる「価値基準」を嫌うのは中東の連中やイスラムの聖戦士だけではない。迫害を受けているおびただしい数の下層階級の連中、われわれの法理を遵守する国家によって無情にも脇へ押しやられてしまった屑のような存在、われわれの破産したメデイアによって見えない存在にされてしまった群集、若者たち、教育もなく職もなく、将来の展望もまったくない街の不良たち。彼らは誰もが自由とか民主主義を唱えるわれわれの権力エリートの空虚な美辞麗句を容易にお見通しだ。
ビッグ・フランキーが逮捕された。彼の本名はジェームズ・ギッブスで、彼の逮捕はエリザベス市の貧困地区の皆に特異な痛みを感じさせた。彼については国が何も知らないことをこの街では皆が知っていた。ビッグ・フランキーは40才代で、善良な人物である。第二プレスビテリアン教会の通りを下った先、貧困者やホームレスのたまり場となる聖ジョセフ社会奉仕センターでは彼は大黒柱の一人だ。通常、彼は毎日のようにそこへやって来て、寄付を受けた衣類の整理をする。彼はお祈りをする人たちを先導してやる。食事の世話をし、図体が大きいので彼は皆に安心感さえも与えるようだ。だが、彼が大きくって力があるからということではなく、彼は辛抱強く、優しく、人を思いやる気持ちがあることから皆に尊敬されているのだ。不法な薬をやったことがあるビッグ・フランキーが初めて刑務所へ入った時、一年は出られないだろうな、と思って出かけた。しかし、彼の話によると、「それほど読み書きができなかった」ので、警察の自供書へ署名をし、その結果、ニュージャージー州のレースバーグ刑務所で10年も服役するという判決を受けてしまった。刑務所にいた頃、イエス・キリストに出遭った。2001年には出所した。「自分の人生での最高の出来事はイエス様と出遭ったことだ」と、彼は私に言った。「イエス様が私を救済してくださった。朝起きると、何時もお祈りをするんだ。最善をつくしているよ。」
「ムショへ入って俺が何を発見したと思う?」と、ビッグ・フランキーが最後に逮捕された2-3日前、彼とコーヒーを飲んでいた時、私に言った。『この通りで住んでいた頃と同じくらいに快適にムショ暮らしをしていたよ。と言うのは、自分がそうしたいと決めていたからだ。彼らにそうしろと言われたからじゃない。でも、ひとつだけはっきりと分かっているのは、たとえまたもや快適であろうとも、もう二度とあそこへは戻らない。こっちの方向へ進むべき時に連中は別の方向へ行こうとするので、連中にはいいチャンスを与えたがらない人がたくさんいる。このことがひどく俺を動揺させるんだ。いいかい。あそこにいた時、世間へ戻って来るのはこれで最後にすると俺は決心したんだ。そして、警官の一人がこう言った。「そうそう、皆そう言うんだよ!」 俺はムショへは戻っていない。もうああいうふうには生きたくはないからな。』
「生涯ずっと薬を売っていた」と彼は言った。「ただ、捕まるまでは結構何年もかかったが。ああいうふうには生きたくはないな。分かるだろう、俺の言いたいことは。俺たちは座り込んで、話をする。また、話をする。そして、またもや、話をする。しかし、誰もあのことについちゃあ何もしないんだよ。この若い連中にこういうことを誰も話してはくれないんだ。俺たちはこういうことをしてきた。でも、君たちはこういうことはするべきじゃない、といった話なんだけど。多くの連中はそういう話を聞こうともしないんだ。」
「このことをよく知っているかどうかは分からんが、ジェネレーションXの連中はえらく深刻だぜ」と、その時われわれの話に加わっていたモーゼという男が言った。「俺は63才だ。こいつらの誰よりも年配だ。有難いことには、俺とかみさんの間には7人の子供がいて、皆まっとうだよ。みんな家庭を持っており、自分たちの車を所有し、家族持ちだ。すべてを手に入れた。一部始終だ。皆がそういう具合なんだ。しかし、一歩外へ出るとジェネレーションXの連中がいる。誰も彼らのためになるようなことを残してはくれなかった。教育も与えず、何の知識も与えてはいない。彼らは手錠と共に暮らしている。これが彼らの生きる場所なんだ。」 彼は自分の手首を指して、「ここだよ! 」と言った。

「手錠も無しに生きているということは連中は物事に反応しているということだ」とモーゼが言った。「そして、連中の問題はとても深刻なんだ。正しく焦点を合わせてやることが必要だ。真剣に面倒を見てあげる必要がある。何かをしてあげる必要がある。連中は何かに反応する準備ができているから、早急に何かをしてあげる必要がある。連中は人の命を奪う。もうそうしてもいる。ことは単純だ。分かりきったことだ。しかし、誰もこのことに焦点を合わせてはいない。これはどうしてなんだろうと、俺はその理由を知りたい程だ。そして、俺たちは延々と黒人に対する黒人の犯罪について話をしているが、本当はそうじゃないんだ。多くの白人もいるし、イタリア系もヒスパニック系も黒人も、みんな同じことだ。いいかい、街にはありとあらゆる連中がいる。事実、自分が今回の選挙、オバマの再選の様子を見ていた時に俺が発見したことを喋ってもいいかい。数多くの白人の学生たちが、白人としてのアメリカ人の伝統に逆らっているのをこの目で見たよ。」
「俺が受けた育て方はどうかというと、俺は結構厳しく育てられたんだ」と、ビッグ・フランキーが言った。「俺のお袋は鉄拳で俺を育ててくれた。俺もこのやり方だよ。幾度でも、自分の子供を厳しく扱うことができる。外へ出かけちゃダメだ、こんなことをしちゃダメだ、と。しかしながら、親たちが何をしようとも、子供たちが一人前になると、自分がしたいことをしようとする。常にそうだと言い張るつもりはない。俺の兄弟よ、あんたの言うことに反対している訳じゃないんだ。何時もそうだという訳じゃない。実に多くの場合、子供たちは間違った選択をするものなんだ。何故って、俺も間違った選択をしたものさ。あれがより楽に生きる方法だったからな。外の世界へ出て、薬を売るのはとても簡単だった。人を脅すのは実に簡単だった。分かるだろう、俺の言いたいことは。」
「俺たちはよく喧嘩をしたもんだ。でも、翌日になればまた友達同士だ」と、モーゼが言った。「俺のお袋は毎週のように葬式へ出かけるなんてことはなかった。あんたのお袋さんだってそんなに頻繁に葬式には出かけなかっただろう。今は、俺は死ぬほど怖い思いをしている。いいかい、俺は古いタイプの人間だよ。おお、怖!普通、7時には家にいる。仕事から帰ったり、教会から戻って来ると、家へ入る。若い連中はあんたの体の中へホットな弾丸をぶち込むことに何の呵責も感じないんだから...」
「自分の知り合いが地べたに転がって、脳天を割られているのを見たことがあるかい?」 アルの本名はアルバート・ゴードンというのだが、あの朝彼はこう言って私に問いかけてきた。「彼の脳みそがあんたにふりかかっている様を想像してみなよ。俺と友達の間の距離はたったこれっぽっち。俺は息子と一緒だった。息子はあの頃はまだ13才かそこらだった。俺たちは話をしていた。一台のトラックが来るのを見た。俺は何時も周囲のことをよく観察してるんだ。車が脇を回って通る。息子は二回もそこいらを歩き回っている。「おい、お前、あの車を用心してなよ。」 まずいぞ、被害妄想だよ、と俺は自分に言った。しかし、何かがどこかでおかしくなっている感じがした。そこで、俺は息子の手を引っ張って、そこを離れようとした。息子を自分の方へ引っ張った。車がやってきた。「おい、身をかがめろ」と、俺は言った。息子を掴んだ。俺が聞いたのは「ブーン」という音だけだった。そして、冷たいものを感じていた。息子の名前を呼んだ。「オヤジ、大丈夫だよ」と、息子が言った。俺は周りをながめてみた。俺の友達がそこに倒れていた。彼の頭が割れていた。俺の顔と体中に彼の脳みそがこびりついていた。「クソめ!」 おっと、失礼!言葉が悪かった。俺たちはバスに乗った。家へ帰る途中で警察がバスを止めた。俺たちは戻らなければならなかった。彼らは何が起こったのかと私に質問した。俺は言った。「何が何だかさっぱり分からねー。」 あの時、俺と息子は足を止めた。俺は友達と話をしていた。俺たちは歩き出し、銃が発射された音を聞いた。俺が前に言ったように、この界隈では、昔は、素手で喧嘩したもんだ。でも、翌日にはもうお互いにいい話し相手だ。俺たちは冷静だった。今、奴らは銃を使い、相手を殺してしまう。相手を殺す。もし銃を取り出したら、それはあんたを撃ち殺すためだ。奴らはあんたを殺す。銃を見せびらかして銃の話をするためじゃあねー。あの殺られた友人のイメージが記憶に残っていて、今でもその話をする時はあの時の光景をはっきりと思い出すよ。恐ろしい話だ。いやー、実に恐ろしい。」
「俺は撃たれたことがあるんだ」と、ビッグ・フランキーが言った。彼はシャツをまくり上げて、自分の胸にある傷跡を見せてくれた。「あの男が銃口を俺に向けた時でさえ、俺は気にもしなかった。いいかい、俺はあんたをよく知っている、俺を襲うわけがないだろう、という感じだった。だが、彼は俺を撃った。」 
「多くの人たちは俺が変わったことは何も知らない」と、アルが言った。彼も、従兄のビッグ・フランキーと同様、以前は薬を売っていた。誰が金を持っているのかを俺は知っていた。相手に向かって真っ直ぐに俺は近づいていく。「今何時だか教えてくれ」と言う。相手が下を見ようとした時...」 アルは片方の拳を他の手の平に打ち当てた。
「彼が変わることができたとしたら、誰だって変わることができるということだよ」と、ビッグ・フランキーがアルのことで補ってくれた。
「俺は自分のことをすっかり嫌悪していた」と、アルが言った。「自分の顔を見たくはなかったので、家中の鏡を外してしまった。俺は自分が嫌いだった。あんたたちが自分の身の回りにいて欲しい人物としては俺は最悪だった。あそこにいて、その辺りをうかがったものだ。そして、何かをおっぱじめる。まったく、周りにとっては晴天のへきれきって感じだ。俺は自分自身を好きになれなかった。今は、頭を真っ直ぐに伸ばして歩きまわることができる。かっては、俺を恐れて皆が俺に向かって挨拶をしたもんだ。ああいう感じこそが、俺が長年馴染んでいたものだった。でも、今は、俺がまったく変わった人物として皆が俺に向かって挨拶をしてくれる。」
しかし、ビッグ・フランキーやリトル・フランキーならびにアルにとって変えることができないことがひとつだけある。彼らは自分たちが黒人であり貧困層であることを変えることはできない。自分の刑務所入りの履歴を変更することもできない。抑圧を前にして無力であることを変えることもできない。資本主義株式会社、あるいは、警察の人種偏見を変えることもできない。アルの話によると、彼が最後に逮捕された時、警察は彼を地面に引き倒して頭を蹴飛ばし、彼を「黒んぼ」と呼んだ。彼らは教育を拒否され、まともな生活をするために必要な職に就くことさえも拒否されるという現実を変えることはできないのだ。この巨大なシステムを変えることはできないのだ。この巨大システムにとって、ビッグ・フランキーやリトル・フランキーおよびアルは、今までもそうであったように、今後もそのまま変わることはないだろう。何事につけても非難され、糾弾される存在だ。
今まで私は米国に関して何本かのブログを掲載した。それらは皆マクロ的に見た米国についての議論だった。ここでは、初めて、米国社会の最も基本的な要素である個人の生活ぶりに焦点を当てた、元ジャーナリストが書いた記事に着目してみた。これは、社会の底辺に生きる人たちの生の声である。米国社会に起こっている大きな変化が登場人物であるビッグ・フランキーやリトル・フランキーおよびアル、そして、飛び入りのモーゼを含めた4人によって語られている。それぞれの話は決して長くはないが、実に多くのことを語っていると思う次第だ。
古き良きアメリカが消えてしまったのだ!
 

        

ここで、米国の巨大な刑務所システムについて考察してみたい。
刑務所が大きな利益を生み出すビジネスとなったことから、米国社会の底辺に生きる無数の貧困生活者たちは民間刑務所事業者のビジネスを支える非常に重要な資源となった。このことを理解すると、10年もの刑務所暮らしを強いられたビッグ・フランキーは利益優先の民間刑務所事業者の犠牲になったのだとも言えるのではないか。そして、ビッグ・フランキーの例に似た犠牲者が他にも何万人もいたのではないか、と容易に想像することもできる。
つい最近のエコノミスト誌の記事[2]は次のような報告をしている。
「余りにも多くのアメリカ人が刑務所へ放り込まれ、非常に長期間刑務所暮らしをしている。しかも、法の執行の観点から見ればそれほど正当な理由があるとは思えないのにだ。」
これはいったい誰の言葉だろうか。被告の弁護士でもなければ、囚人の権利を擁護する人権団体でもない。また、大西洋をはさんで米国の様子を眺めているヨーロッパ人の言葉でもない。実は、これは米国の法の執行をつかさどり、そのトップにあるエリック・ホルダー司法長官の言葉だ。
月曜日に、ホルダー氏は連邦刑務所に関して政策を変更する旨を表明した。そのもっとも重要な点は連邦検察官は、今後、低レベルの犯罪で、暴力には繋がらないような薬物違反者の犯罪には口を出さないことにするという政策だ。今までの政策は、「厳格な」強制的最低限の判決をもたらしてきた。しかし、どうして米国の囚人の数は管理が不可能なレベルにまで到達したのだろうか。
米国の人口は世界人口の約5%を占める。ところが、米国の囚人数は世界中の囚人数の25%にもなる。大雑把に言って、米国の大人107人に1人は刑務所暮らしということだ。この率は英国の5倍、フランスの7倍、インドの24倍に相当する。1980年以降、米国では囚人の数が3倍以上に膨らんだ。連邦刑務所ではその増加率はさらにずっと大きい。連邦刑務所に収容された囚人の数は1940年代から1980年代の前半までは24,000人前後だったのだが、このレベルから現在は219,000人にまで増加している。
多分、最大の要因は麻薬犯罪に対する罰則が強化されたことだ。1980年代、「クラック」と称される麻薬が大流行し、その対策が必要となった。連邦議会や州政府は麻薬関連の犯罪に対して強制的最低限の判決を与えることができる法律を通過させた。これらの法律は大手の麻薬密売人を摘発するためだったが、ほんの僅かな薬を所持していても判決を言い渡されるほどになった。たとえば、5グラムのクラックの所持で最低5年の刑期を喰らうような有様だ。また、陰謀法の存在によって、麻薬の流通に関与した者全員、たとえば、見張り役の子供でさえもその違法行為に対して法的に責任をとらされることになった。
麻薬の存在、特に、1984年から1990年にかけて米国で大流行となった「クラック」という麻薬が米国を対人口比での囚人数を世界一にしたことが最大の要因だったことが分かった。これはひとつの重要な要素だ。
ここで、忘れてはならないのは米国の囚人の90%は州や地方自治体が運営する刑務所に収容されているという点だ。地方刑務所の運営が与える影響が圧倒的に大きいということが分かる。それでは、地方の刑務所はどのように運営されているのだろうか。
ここに今年3月の興味深い記事[3]がある。それを覗いてみよう。もうひとつの重要な要素がはっきりと見えてくる。
米国は全世界で囚人数が最も大きく、これほどの数の自国民を囚人として抱えた国は歴史上皆無だ。わが国は自国の市民をそれほど多く刑務所に送り込まなければならないような悪党や腐敗に満ち溢れた「悪の巣窟」だとでも言うのだろうか。
何と言っても、利益を追求する民間事業者に刑務所の運営を任せたことが問題の一部ということではないだろうか。
2010年の事例を見ると、わが国で最大級の民間刑務所事業者の二社は合わせて30億ドルもの収益をあげ、これらの巨大な民間刑務所事業者は過去10年間に何千万ドルもの金をロビー活動や政治献金として使った。米国国民を格子の向こう側に放り込むことが非常に大きなビジネスとなり、これらの会社にとっては、ビジネスの発展のためにはもっと多くのアメリカ人市民を刑務所へ送り込まなければならないという非常に屈折した動機が与えられている。このような状況は政治的腐敗と切っても切れないようなシステムになることは明らかであり、この現状について誰かが何らかの策を講じない限り、事態は悪化するばかりである....
...何年もの間、この国の政策は民間刑務所事業者により高い囚人収容率に繋がるような政策を追及せしめ、会社がより多くの利潤を手にする貴重な仕掛けとなっていった。特に、民間刑務所事業者は「三回犯罪を繰り返したら、刑務所行き」という"Three-strikes" 法や"Truth-in-sentencing"法の法案の立案時にはしっかりとその影響力を発揮して、手助けさえもするほどだった。これらの二つの法律は刑務所への収容率を高めることに効を奏し、最終的には、さらに収益を伸ばすために新たな契約を得ることができるような機会を増やしてくれた。
これらの巨大な民間刑務所事業者の三社は合わせて45百万ドルもの大金をロビー活動や政治献金につぎ込んだ。つぎ込んだ金が自分たちに利益をもたらすことは決してないと知っていたら、いったい誰がこんなに多くの金を注ぎ込むだろうか。

上記に示すように、ふたつの決定的な要因があったことが分かる。法の執行のあり方と民間刑務所の存在だ。米国では連邦刑務所が法務長官の新たな指示や政策にしたがって収容人員を減少させることができるかも知れないが、州や地方自治体の刑務所をどう運営するかが今後の最大の課題だと言える。利益の確保を最優先する民間刑務所の存在を抜本的に見直さない限り、米国では囚人の数を減らす解決の道はないようだ。
米国社会には機会があれば、法に触れない限り、可能なことは何でもやってみるという伝統みたいなものがある。法に抵触するギリギリのところまで追及できる人を「スマートな人」だと称して賞賛する気風さえある。これに悪乗りしたのがエンロン事件だったのではないだろうか。21000人もの従業員を抱えた巨大企業が粉飾決算や不正取引で破綻したのは10年とちょっとばかり前のことだった。民間の刑務所事業者もこのような非常にスマートな人たちの一部なのかもしれない。 

        

多くの日本人にとってはハワイやロサンゼルス、サンフランシスコ、あるいは、サンデイエゴは休暇を楽しく過ごす観光地として筆頭にあげられるような存在ではないだろうか。確かにさまざまな楽しみを与えてくれる場所であると思う。
楽しい休日を過ごそうとする皆さんや皆さんの知人の足元には、実は、米国社会の負の面が厳然と存在していることを忘れないでいただきたい。個人的な経験から言えば、たとえば、ロサンゼルスのダウンタウンでは通りが2筋か3筋も違えば、周囲の雰囲気がガラっと変わってしまう。そこでは、ゴミが散乱し、ホームレスがたむろしており、交差点では車の窓をロックしていた方がいいと忠告されたほどだ。これは私が米国で仕事をしていた2000年以前の話だが、今でも、それほど改善されてはいないのではないか。あの辺りへ出かけると、直ぐに異様な雰囲気を感じたものだ。
ラスヴェガスへは、ジョシュア・ツリーがあちらこちらに突っ立っているモハヴェ砂漠をドライブして、友人と一緒によく出かけたものだ。あの街では、カジノの内部はまったく別世界ではあるのだが、たとえ真夜中であっても通りで身の危険を感じるようなことは一度も遭遇しないで済んだ。当時、米国のなかでは最も安全な街だと評されていた。多分に観光客を誘致するための宣伝文句のようにも聞こえるが、事実、街の様子を観察すると、私ら外国人にとってさえも、ロサンゼルスのダウンタウンの一角に比べると遥かに安心していられる場所として目に映った。さすがは歓楽の街だ、と妙に感心したものだ。
また、スキーをしにレイクタホーへも出かけてみた。カリフォルニアの最南端から5号線を車で走って、1日半後にようやく到着した。途中で泊まったモーテル、予約しておいた小さなホテル、貸しスキー、スキー場、リフト、売店、レストラン、カジノ、とどれをとっても申し分のないスキー場だった。何と言っても、ネバダ州側へ滑ったり、カリフォルニア州側へ滑ったりすることができるコースの構成が私にとってはえらく奇抜で、面白いと思った。そして、毎日のように抜けるような青空だった。ある時、リフトで乗り合わせた若い男性と話をしていたら、何とオランダから来たという。「オランダ人は山なんて知らないんじゃないの」と言ったら、「その通りだ。オランダではスケートが盛んだけれども、最近は運河には氷が張らないんだ」と言って、不満顔だった。リフトで乗り合わせたのはせいぜい数分だったが、オランダ人との会話が今でも思い出されるのが不思議なくらいだ。これこそが旅の面白さ、あるいは、楽しさということであるのかも....
しばらく前の米国社会がどんなであったかをよく知っている米国人にとっては、たとえ人種偏見とか女性の地位といった感情的になり易い大きな社会問題があったとはいえ、あの頃の社会はそれなりに人と人との絆が濃厚で、住み心地のいい社会であったことだろうと想像する。それは、ここに引用した記事の中で、昔は取っ組み合いの喧嘩をしたとしても、翌日はお互いに話し友達でいられた、という思い出に集約されているような気がする。日本でも古き良き昭和の時代を懐古する気持ちがあるが、これと相通じるものだと言えようか。
しかし、米国を観光の対象として訪れる多くの日本人にとっては、総じて言えば、上記のビッグ・フランキーやアルの話を持ち出すまでもなく、米国ではまかり間違えば拳銃が目の前に飛び出してくる。そういう社会である。くれぐれもご用心のほどを!何れにせよ、用心に越したことはない。

 

参照:
2Why Does America Have Such a Big Prison Population?: By The Economist, August 15, 2013, www.economist.com/blogs/economist.../economist-explains-8
3Private Prisons: The More Americans They Put Behind Bars, The More Money They Make: By Michael Snyder, March 11th, 2013, theeconomiccollapseblog.com/.../private-prisons-the-more-am...

 

 

 

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