最近のある記事 [注1] を読むと、ロシアとウクライナの国境地帯では相手国民に対するそれぞれの国民感情は史上最悪の水準に低下していることが手に取るように分かる。これは、民主的に選出されていたヤヌコヴィッチ政権を追い出して、ネオナチや極右派に迎合する傀儡政権を発足させたワシントンのネオコン政治家や軍産複合体ならびにそれに追従する西側諸国が意図し、招いた結果である。
そして、米国のウクライナに対する関与は最近始まったものではなく、10年前のオレンジ革命以前から関与していた。時間の許す方は小生の2014年3月7日付けの「ウクライナでのNGO活動」をご一覧願えればその詳細を知ることができると思う。
隣国同士であり、文化や歴史の多くを共有しながらも、ウクライナ・ロシア間の関係は不安定極まりないものになっている。
ここに引用するルポ記事はロシアとウクライナ間の国境沿いに2000キロ超を6日間をかけて車で走り、多数の草の根的な人たちと話をした内容を纏めたものだ。ウクライナ紛争に関心を抱く人にとっては一読に値する情報であると思う。
さっそく、同記事を仮訳して、読者の皆さんと共有したいと思う。
<引用開始>
タマラ・ネクラソヴァはウクライナ人を憎むなんて実際問題として一度もなかった。ウクライナ政府軍の領域から飛んできた砲弾がロシアとウクライナの国境から歩いて直ぐそばにある彼女の家を打ちのめした時でさえもそうだった。彼女は病院へ運ばれ、隣人の一人が死亡した。ロシアのテレビ番組が反ウクライナの放送を絶え間なく流し続けていた数か月の後、怒りや嫌悪感が55歳の彼女を消耗し始めた。しばらく前までは彼女は鉱山で働いていた。
「今はもうそう思えて仕方がない」と、木枠だけが残った家から出ていくために荷物を準備しながら、ネクラソヴァは言う。彼女の家は何か所も穴が開いて、壁にはシュラップネルが残した傷跡が見える。「テレビで放映されているさまざまな報道からもあの特有の嫌悪感をはっきりと感じさせられるわ。」
ネクラソヴァに会ったのはロシア・ウクライナの国境を6日間をかけて旅行していた時だった。国境沿いに2,164キロも車で走った。二車線の道路であったが、未舗装の部分もあった。それほど昔に遡らなくても、この国境はほとんどの場合小麦畑の間やカバノキの森を通る一本の想像上の線でしかなかった。しかし、そのような曖昧な国境線はロシアのプーチン大統領がクリミアを併合し、ウクライナとの対立を明確に打ち出した時に終わった。
それ以来、両者は畑を耕し、森を切り開き、防衛的な土塁を構築し、地域住民は自分たちの意識の中にもそれらに匹敵するような防衛線を築き上げつつある。ソ連邦が崩壊した時には私はたった8歳のモスクワっ子だった。ウクライナに対して憎しみを感じたり、彼らから嫌悪感を示されるようなことは生涯を通じて一度もなかった。自国のほとんどの国民と同様、私はウクライナを兄弟国と見なしてきた。たとえ多少の違いがあったとしても、まったくの赤の他人ではない。ごく普通のロシア人のように、国境を超えた友情や家族ならびに婚姻関係についても、それは常軌を逸しているとか、それは間違いだと感じるようなことは決してなかった。
古い習慣:
友人のニコライと私は国境の近くに住む地域住民の意識がどれだけ変化したのかを確かめるために旅行に出た。われわれは立ち入りが制限されている国境地帯で何十人もの人たちと話をしたが、そこにはすっかり内向きになった国家を発見して私は狼狽した。緊張を引き起こしたのは誰かに責任を押し付けることができるような内外の敵を、官民を挙げて、探し求めており、古くさいソ連邦時代への回帰を見ている様な思いがした。何人かの話し相手は、われわれがウクライナのエージェントではないかと疑心暗鬼になって、われわれにパスポートを提示するよう求めて来た。多くの人たちは姓を名乗ることを嫌がった。これはロシア軍やプーチンがかって務めていたKGBの後身であるロシア連邦保安庁(FSB)との間で何らかの厄介な問題を引き起こしてはまずいという配慮からだった。
われわれは3匹の兎を見逃したが、1羽のヤマウズラをし止めた。ソビエト製の4輪駆動のラダ・ニヴァに乗っていた地元の人の助けを借りて泥濘から何とか脱出した。さらには、国境地帯を旅行する通過証を所持してはいなかったことから、ロシアの国境警備隊に拘束されもした。
「これまでの20年間、ウクライナ人はわれわれを憎むように教えられてきた」と、国境沿いではごく普通の見識でもあり、さらにはロシアのメデイアによっても強調されているこの見方を引用して警備員のひとりが言った。
スラブ系の同胞:
モスクワやザンクト・ペテルブルクあるいは他の内陸の場所以上に国境地帯においては、人々はこの紛争を容赦のない現実として眺めている。つまり、キエフ政府は、米国やEUの支援を受けて西ヨーロッパへ加わるために、自分たちのスラブ系の同胞と別れることを拒んだ一部の自国民に対して犯罪を犯している、と彼らは言う。この戦闘はロシア的なものついては何でもかんでも憎もうとするウクライナ人の証拠を示すものとして見なされ、ロシア側ではウクライナに対する強い嫌悪感となっている。
「われわれは彼らが俺たちを処遇しているように彼らを処遇しているに過ぎない」と、ヴェイジェレフカの町で自動車修理業を営むヴァレリーは言う。
ウオッカ:
この夏ロシアのタンクや兵隊がこの国境地帯を埋めていた頃(ヴァレリーは装甲兵員輸送車のぺちゃんこになったタイヤを修理した後で兵隊たちと一緒に飲んだウオッカを思い出していた)、ウクライナ人に対する不信感や恐れはごく標準的なものとなった。兵隊たちの大部分は、9月5日の不安定極まりない停戦の後、帰還してしまった(今は数台のタンクを目にすることができるだけで、国境からは20キロ以上もの距離を保っている)が、両国間に現れた相手からは分離し、距離を保とうとする意識を拭い去ろうとしても、それはもう非常に困難である。プーチン大統領は10月14日にこう言った。「最大の不幸はウクライナ人とロシア人とが互いに疎遠になったことだ。」
店員を務める40歳のエレナはバス停で友達とお喋りをしていたが、彼女はウクライナ政府からの独立を主張し、紛争地帯に住んでいる人たちは「自分たちの仲間」であり、それ以外のウクライナ人は「赤の他人」だと言う。
ネクラソヴァはロシアの国境にに近いドネツクの静かな近郊に住んでいる。このロシア側のドネツクは200キロも西に位置するウクライナの遥かに大きな都市であるドネツクと同じ名称である。7月のある日曜日、午前9時頃、ネクラソヴァは爆発音を聞き、ドアに駆け寄った。そこで、庭先に煙をあげている大きな穴を目にした。屋外へ跳びだすところであったが、今思うと本能的にそれは控えていた。
これは戦争!
彼女が玄関先から離れた時、二個目の砲弾が家から5メートル程の場所へ落下し、彼女の足に切り傷を与え、たくさんの破片が部屋の中へ飛び込んできた。自分の傷の様子を眺め、周囲の様子を語りながら、ネクラソヴァが今考え付くのは「これは何だ?これはいったい何?これは戦争!」といったあの時の混乱した思いだった。
ネクラソヴァは、彼女が16歳の時、1,500キロも東にあるウラル山脈地帯からここへやってきた。ここへ到着した時、お祖母ちゃんは私たちに警告して、こう言った。「敵がウラルにまでやって来ることはないけれど、この国境地帯へは楽々とやって来るよ。」 そして、「もう敵はやってきたわ」と、彼女は言う。
われわれの取材旅行は6日前に「三人姉妹」という場所から始まった。三人姉妹とはロシアとウクライナおよびべラルースの国境が互いに交差している場所で、モスクワからは約500キロ程の地点だ。近くの集落の名称はノーヴィエ・ユルコヴィッチと言い、窓の周りに配された白や灰色の建材が目立つ数十戸の丸太小屋が散らばっていた。
その場所でわれわれはニコライ・イヴァノヴィッチと会った。76歳で、元はトラクターの運転手だったという。彼はキューバのミサイル危機の時には赤軍のロケット部隊の一員だった。彼は正面入り口の脇にあるベンチに座っていた。
ロシアのニュース:
町の自家製テレビ・アンテナは周囲の樹木よりも高々と設置されており、地元の住民はロシア語とウクライナ語の両方のチャンネルを受信することができる。ニコライによると、皆はロシア語のニュースだけを信用している。彼は自分の姓を名乗ろうとはしなかった。ニュースの解説者は、多くの場合、現ウクライナ政権をナチスになぞらえる。これは、実際問題としては、ほとんどの住民の祖父や曾祖父が赤軍に従軍していたこれらの地域においては、この見方は肥沃な土壌に根を下ろすような感じで定着した。
ニコライはウクライナ軍がこの地域の住居や工場ならびに農家を破壊していることに我慢がならなかった。ある意味で1941年にこの地域を通り抜けて行ったドイツ軍よりも性質が悪い、と彼は言う。
「ヒットラーの軍隊はこの集落で一晩を過ごしたが、ガラスを1枚割っただけだった」と、スルジク語で喋った。これはこの地域の多くの住民が喋る言語であって、ロシア語とウクライナ語が混合していて、非常に抑揚に富んだ言葉である。ウクライナ政府に関しては、彼は「ファシストたちの睾丸を縛って、奴らをカバノキに吊り下げてやる!」と言った。
見知らぬ男たち:
ノーヴィエ・ユルコヴィッチからは舗装された道路を現代自動車製の黒塗りのゲッツで順調に走った。でも、カボチャがたくさん裏庭に積んでいる集落や山羊や牛が草を食んでいる地域に入ると、泥濘が続いた。この地域の他の多くの集落と同様、若者は皆が職を求めて都市部へ出て行ってしまって、人気がまるでない。
40歳代の半ばと思われるナタリアと会った。自転車に乗って泥だらけのプードルの背後から手を振ってくれた。数週間前には軍用ヘリがしょっちゅう飛び回っていて、この地域をパトロールする国境警備兵たちが「水をくれ」とドアを叩いたものだ、とナタリアは言う。9月の初旬になると、そういう光景もぴたりと見られなくなった。
ナタリアは想い出すようにして喋った。タンクの砲手をしている息子に「反政府派を支援するためにウクライナへ行ったことはあるの?」と聞いてみた。息子の返事はこうだった:「母さん、そんなことは知る必要はない筈だけど…」。強まってきた雨の中で、彼女は声を張り上げて話してくれた。
彼女は姓を名乗ることは拒んだ。ジャーナリストと話をした彼女の隣人が「二人の見知らぬ男たち」と対決するはめに陥ったことを知っていたからだ。その二人組はメデイアの連中とは二度と話をしないようにと忠告したという。そして、二人組は、うっかりと口を滑らせて、隣人には4人の子供がいるということを知っているとほのめかした。
物理的なギャップ:
土壁がむき出しで、マットレスにはしみが付いたままのソビエト時代の来客用宿泊施設で一夜を過ごした後、われわれは主力道路から外れて、マリツアという名前の小さな集落へ向かった。霧が漂う牧草地を抜けてから、われわれは黄色とブルーの標識が地面に立っているのを発見した。そこで、車を止め、丘を降りて、小さな流れの浅瀬を渡った。われわれは世界でもっとも大きな国の国境線の真ん前に立っていた。
その日遅くなってから、1943年に歴史上もっとも大規模なタンク同士の戦闘が行われたクルスクでは、ロシアとウクライナとの間で巨大化する一方の文化的、あるいは、意識上のギャップが物理的なギャップへと変わったことに気が付いた。オレシニャという集落の近くで、われわれは国境線と並行してウクライナ人たちが2メートル程の深さの塹壕を掘っているのを目撃した。本日現在ですでに100キロ以上の長さになっており、これは遅かれ早かれ2000キロもの距離になる。しかし、予定の距離の約1/3はウクライナ政府の影響力が及ばない地域となっている…
塹壕はオレシニャとウクライナとの間の境界線となっている浅い谷を過ぎた辺りから始まっている。国境警備が強化されたことから、地元の人たちは緑の牧草地を横切った向こう側に位置しているユナコフカという隣町に住む親戚を訪問することさえも止めるようになった。何人かの人たちの話によると、彼らはもう電話さえもしなくなったという。ウクライナの友人や親戚との電話の後で、住民たちは「向こう側」と連絡をとることは控えるようにというテキスト・メッセージを受けとったのだ。
修道院からの素晴らしい眺望:
オレシニャからわれわれはスビャート・二コラエフスキーへ向かった。これは17世紀の修道院であって、10何人かの修道僧や聖職志願者が住んでいた。スビャート・二コラエフスキー(「聖ニコラス」の意)への道路は畑の間を右へ左へと曲り、石灰岩の山の頂へと登って行く。プショール川
[訳注:ドニエプル川の支流のひとつ]
が緩やかに曲がっている流れの向こうにはウクライナの景色が大きく開けていた。この眺めは宗教的な隠遁生活者ばかりではなく、兵士たちにとってもおおいに魅力的に感じられたらしく、この夏、陸軍は数週間にわたってここで野営をした。国境を見下ろす丘の近くには迷彩色の大きなテントが今も残されている。
ピロシキとジャム:
野菜スープとクロスグリのジャムを詰めたピロシキを食べた後、無精ひげを数日間伸ばしっ放しにしていたイリアという名前の若者が、修道僧は毎日のようにウクライナ人が彼らの間で和平を実現するように祈っていると話してくれた。でも、修道僧らはウクライナとロシアとの間の和平を祈っているわけではない。なぜかと言うと、両国は「公式に戦争状態に陥っている」わけではないからだ。
30歳のゲオルギュウはこれらの宗教的な兄弟たちに加わる前はクルスクでは技術者として働いていた。彼は今でもノキア製の古い携帯電話を持っている。でも、誰かと連絡をとるということではないようで(「誰も電話をかけてくることはない」と彼は言う)、メモリー・カードに収録した正教派の祈りや歌を聴くためだった。録音された内容には人気のあるアレクセイ・オシポフの説教も含まれている。オシポフは、ウクライナ危機は西側の堕落の結果であり、正教の世界を腐敗させつつあると言う。ウクライナを救済するには、説教の視聴者らは友人や親戚の人たちにバラク・オバマは「悪魔」であると伝えるべきだと助言している。
朝の儀式の後、赤茶けた頬ひげを生やしたままで、コサック服と黒い革ベルトを身に着けたゲオルギュウは丘の頂上にある十字架へと登って行く。
「馬鹿げたことはほとんどが西側からやって来る。」 でも、「西側の考えが魅力的だと判断しているのはロシア人の方なんだ…」と、祈りのために十字架の前に跪いてから、彼は言った。「問題はそれを喜んで受け入れている点にある。」
アメリカの野望:
修道院を後にして、われわれはその地方の大金持ちが建設してくれた新道を走って、そこから40キロほど離れたスジャへ向かった。この町の人口は6000人で、1919年には1ヶ月間だけではあったがソビエト・ウクライナの首都であった。二階建ての市役所で、われわれは65歳のワシーリー・シュマトコフ市長と面会した。市長さんは黒の革ジャケットを着て、赤とグレーの格子縞のネクタイをしていた。机の背後の壁には棚があって、正教派のイコンが5個も並んでいる。その上にはウラジミール・プーチンの写真がある。
われわれにお茶を勧めてから、「われわれの大統領は世界中で一番立派な男だ」と、シュマトコフ市長が言った。「クリミアに関しては、われわれは賢い行動をとったと思う」と、彼は言う。「われわれは戦争に向けて突っ走るようなことはせずに、自分たちの武力や決然とした意志を示した。」
シュマトコフ市長の意見はこの地域では典型的なものだと言える。プーチン大統領に対しては彼は「ダイ・ハード」的な支持をしているにもかかわらず、彼はウクライナとは緊密な関係を持っている。彼の母親はオデッサの出身であり、彼の兄弟がキエフに、また、姉妹がクラコフに住んでいる。彼の娘は国境を超して直ぐの位置にあるスームイに住んでいるが、彼女は彼の世界観には同意できなくて、電話ではしばしば口論となってしまう。彼はウクライナ人に対して共感を覚えると言う。昨年の冬ウクライナ紛争を巻き起こした反政府運動の動機はよく理解することができると言った。
冷戦時のような言い回し:
「ウクライナ当局は国を破滅させようとしている。これには国民はもう飽き飽きしている」と、シュマトコフ市長が言った。あの大衆運動は「ロシアとの国境にはもっと近寄りたいと思っていた」アメリカ人にハイジャックされたのだ、と彼は主張する。
ロシアにおける冷戦当時のような言い回しを反映して、彼は米国の野望に王手をかけておくには旧ソ連邦が残してくれた核抑止力が功を奏していると主張する。「核均衡がなかったとしたら、ロシアは今頃はもう存在してはいないかも」と言った。
南へ3時間走った。われわれはコレシャトフカの集落へ到着した。ここはルガンスク人民共和国、つまり、ウクライナ政府から分離して独立しようとしているふたつの州のひとつと接している。親しみのある笑顔をした若い女性、ナターシャが平屋建ての丸太小屋の窓を掃除していた。国境の直ぐ側に位置していた。
さまざまな武器:
今夏ロシア軍のタンクが目の前に現れた時には地面が揺れて、眠りにつくのに一苦労した、とナターシャは言う。家の南側にある丘を見上げると、その丘はさまざまな武器や車でいっぱいになっていた。「ブロンズのように光っていたわ」と彼女は言った。兵隊たちはもう引き揚げてしまったが、彼らの塹壕は今もそこに残っている。この塹壕は国境に沿って曲がりくねって伸びている道路に対して格好の最前線となりそうであった。
これらの塹壕にもっと近寄ってみようとして、われわれはコレシャトフカの外へ出て木立の中に車を止めた。20分間程写真を撮っていただろうか。国境警備兵が現れ、われわれに書類を提示するよう要求して来た。私のカメラを検査した後に、塹壕を撮影した写真はすべて削除するようにと私に指示を下した。彼はわれわれのパスポートを取り上げた。ニコライには警察の車に乗り込むように指示し、私には自分の車に乗って後からついてくるようにと命令した。
国境警備隊:
10分後、われわれはソ連邦時代を思わせるような建物に到着した。国境警備隊の部屋に入ると、机の上には防弾チョッキやヘルメットがいくつも散らばっていた。壁際にある書棚には「国境戦争」とか「興奮に包まれた国境」あるいは「ソビエト連邦に尽くす」といったタイトルが付いたファイルが並んでいた。
40歳代のロマンという名の気の小さそうな隊長がピンクの色をしたカーボン紙の書類に記入して、通行証もなしに制限地帯に入ったかどでわれわれに300ルーブル(約7ドル強)の罰金を課した。後で銀行から払い込むようにとの指示があった。
平服の若い男が入って来て、彼はわれわれを3個の椅子と1個の机だけでいっぱいになってしまうような小さな部屋へ招じ入れた。ブロンドの髪で無色の目をしたユーリは黒と白の縞模様のシャツを着ていた。FSBの尋問用マニュアルを取り上げて、チェックリストに沿って指を走らせ、次の項目から質問を始めた: 個人情報、親戚、資金関係、ならびに、米国とウクライナにおける知人。細かい字体で2枚の書類に記入をし終わって、彼の物腰はひどく親切な感じだった。
「ウクライナ人はまったく別人だと思うかい」と、私は質問をしてみた。
「われわれとウクライナ人との間には違うところなんて何にもないよ」と、彼は言った。
「仮に俺がウクライナ人だったとしたら、こんなに親切になれるかい」と、突っ込んでみた。
「いや、とてもなれないと思う」と、彼は言った。
詩人で作曲家:
2時間後、ユーリとロマンはわれわれに町を出ていくにはどの方向へ出たらいいかを示し、昼食のために地元の食堂を教えてくれた。「ごきげんよう」と言いながら、握手をした。ドネツクに到着した時はもう日が暮れていた。われわれは地図を調べるために暗い脇道で車を止めた。暗闇の中から年配の男が現れた。車輪付きの大きなスーツケースを引っ張って、呪いの言葉を口にしていた。
「あんたらは自動車学校ではこんなことをするように教わったのか?」と怒鳴った。「ヘッドライトを消せ!」
私がヘッドライトを消してから、その男は身を屈めて、窓を通して中を覗き込んだ。
「ヴィクトル・ヤコブレヴィッチ・ゴンチャロフという名前で、詩人であり作曲家だよ」と、彼は名乗った。そして、韻を踏んだ言葉でプーチンを賞賛して、われわれを喜ばせてくれた。国境地域では特に珍しくもない説を繰り広げた:つまり、ウクライナ危機はロシアがヨーロッパへ供給しているエネルギーを自分たちのシェールガスで置き換えるために米国が仕組んだ策略だ、と彼は言った。
「アメリカ人のことは良く知っているかも知れんが、アメリカ人が100ドルを投資したら、彼らは200ドルを回収しようとするんだ」と、彼は言った。
赤軍のロケット技師:
ゴンチャロフは1時間以上も車の窓の側に座り込んでいた。彼は70歳。赤軍ではロケット技師だった。今は、街中を引っ張りまわすスーツケースにイコンや第二次大戦時代の骨董品ならびに楽器を入れて、それらを売りながら生計を立てている。われわれは大きなブレジネフ時代のバイヤンを買った。アコーデオンみたいな楽器で、2,000ルーブルだった。
「われわれに近しいあの連中はわれわれ自身が取り扱って欲しいと思うやり方で処遇するべきだ」と、ゴンチャロフは言った。彼がわれわれの車から遠ざかって行く間中、ヘッドライトを点灯してやったが、彼はわれわれと話をしていた間中バールを手にしていたことがこの時判った。
翌日の晩、11時頃、われわれはマクシモフに到着した。人口は300人程度のアゾフ海に臨む集落である。ウクライナとの国境から直ぐそばだった。暗闇の中ではほとんど何も見えなかった。強烈な雷雨で辺りは停電していた。しかし、国境の検閲所だけは電灯がついていた。
小さな見張り小屋の側に車を止めた。われわれの行く手には関門があり、ほっそりとした優美な感じの赤毛の女性が自動小銃を持って小屋から出て来た。私は車から降りて、「ウクライナとの国境は閉ざされていると聞いたけど…」と、彼女に言った。
「ウクライナは遠いわよ」と、笑みを浮かべて彼女は言った。「あちらはドネツク人民共和国で、国境は何時でも開いているわよ。」
Article ©2014 Bloomberg L.P. All Rights
Reserved. Article also appeared at bloomberg.com/news/2014-10-21/mud-and-loathing-on-russia-ukraine-border.html
Photo-1: ウクライナの地図
<引用終了>
このルポ記事はウクライナとの国境地帯に住んでいる普通のロシア人がどのようにウクライナ紛争を感じているのかをよく描写してくれていると思う。また、一般のロシア人が米国をどのように理解しているのかもはっきりと読み取れて、興味深い。
多くのひとたちはこの紛争の前はウクライナ人とロシア人との違いをそれ程意識してはいなかったが、今では嫌悪感や敵対心が明確に存在している。基本的には、10年前のオレンジ革命以降に形成されたこの意識の違いこそが、米国のネオコン政治家らが意図したことだと言えるのではないだろうか。そして、この1年間、その意識の違いはさらに強固なものとなった。ウクライナとロシアとの間に楔が打ち込まれたのである。
今年の8月24日付けのブログ「ウクライナ紛争の本質は石油利権だ - ブレジンスキー戦略の背景」ではネオコン政治家の理論的背景としてブレジンスキーを紹介した。同ブログをまだご覧になってはいない方には、ウクライナ紛争の本質を理解するために是非一読することをお勧めしたい。
ところで、ブレジンスキーのかの有名な書籍「The
Grand Chessboard」は1997年に発刊された。つまり、東西の冷戦が崩壊する前だ。中国の経済的な躍進はまだ気にもならなかった頃のことだ。
今年、その中国は購買力ベースでの国民総生産が米国を超すと報告されている。ウクライナ危機を背景にして、ロシアは中国との戦略的関係を深化・発展させている。今夏、ロシアは中国への天然ガス輸出契約に署名し、両国の同盟関係は大きく前進した。その決済では「米ドル」を止めて、「中国元」と「ルーブル」を使用するという。
米国が一歩踏み出してこのウクライナ紛争に火をつけたことによって、皮肉にも、ロシアと中国との急速な接近という、米国としては避けたかった結果を生み出したようだ。素人の私には知る由もないが、このような展開はブレジンスキーの「偉大なチェスゲーム」はこれを予見していたのだろうか?それとも、まったく想定外の展開だったのだろうか?
しかし、冷静に考えてみると、仮にそれが想定外であったとしても、驚くには当たらないのかも知れない。
その方面の専門家に言わせると、米国の軍事作戦はその歴史を見ると失敗に次ぐ失敗である。ベトナム戦争に失敗し、イラク戦争にも失敗し、10年以上の軍事作戦を展開したきたアフガニスタンからは、今、撤退を開始した。米国の戦争屋の思考や論理には決定的な欠陥があるのではないか。軍産複合体に振り回されている米国の外交政策もその例外ではない…
参照:
注1:
Mud and Loathing on Russia-Ukraine Border: By Stepan Kravchenko, bloomberg.com, Oct/21/2014
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