2016年7月11日月曜日

日本のメディアが誰にも喋って欲しくはないこと



メディアは新聞の読者やテレビの視聴者に対して特定の情報を流すべきか、それとも、差し控えるべきかについての選択を常時行っている。

実際問題として、日本国内だけではなく外国でも起こっている出来事も含めて、世の中の事象のすべてを報道することは物理的に不可能だ。素人であっても、そのような実情は容易に推察することができる。また、大手メディアの場合は商業主義を無視することはできないことから、娯楽性の高い出来事や関心を引きやすい報道内容に傾くという現実も容易に想像できる。

個々の情報や出来事を報道するべきかどうかの判断はそれぞれのメディアの編集者が毎日行っているわけであるが、そこには編集者個人の好みや主義・主張、そのメディアの企業としての理念、価値観、さらにはメディアが所在する国の政治的な方向性、等が色濃く反映されているとしても不思議ではない。時には、暴走してしまうこともある。

ドイツでは、2年前、一般読者にとっては聞きたくもないような非常に極端な状況が発覚した。著名な記者が米国の諜報機関(CIA)やドイツの諜報機関(BND)からの要求に応じて自分の名前を貸して、彼らの言いたいことをそのまま自分の記事であるかのように流していたと告白したのである。201410月、編集者であり記者でもあるウド・ウルフコッテという人物が自らの行為を喋ったのである。しかも、これは彼一人だけの事例ではなく、数多くのジャーナリストが多かれ少なかれ同様のことをやっていたとも報じられている。

このジャーナリストの倫理観に関して興味深い報道がある。これは彼が告白した言葉だ。「過去において私が仕出かしたことは正当ではない。人々の理解を操作しようとして、私はプロパガンダを行った。私の同僚たちがやってきたことも正当ではない。ドイツにおいてだけではなく、世界中で一般市民の期待を裏切りながらも、報酬を得ているからだ。私はジャーナリストとして25年間を過ごしてきたが、嘘をつき、市民の期待を裏切り、真実を伝えないように教育されたのだ。」 [出典: German journo: European media writing pro-US stories under CIA pressure (VIDEO), By RT, Oct/18/2014, http://on.rt.com/mk2nxhGet short URL]
洋の東西を問わず、これが今日のメディアの現実の姿である。日本のジャーナリストはこんなことはしないと誰が言い切れるのだろうか?

ただ、素人の我々にとっては具体的な事例を想像することはかなり難しい。正直言って、現実にはほとんど不可能だ。

ここに日本のメディアの一面を伝えようとする非常に興味深い記事 [1] がある。最近の記事である。あるジャーナリストが体験した具体的な事例を伝えようとしている。著者は米国籍のアンドレ・ヴルチェック。作家、哲学者、ドキュメンタリー映画の製作者、調査報道ジャーナリスト、写真家、劇作家と幅広く活動している人物である。

本日はその記事を仮訳して、読者の皆さんと共有してみたいと思う。


<引用開始>

「日本は新植民地主義者の集団に属している」とでも書いてみたまえ。すると、日本の主流メディアはあなたを公開討論の場に招待するなんてもう絶対しないだろう。

それこそが数か月前に私自身が書いた内容だ。沖縄に本拠を置く、有力な出版企業からの要請を受けた際の出来事だった。

沖縄における米軍基地に関して私が作成したドキュメンタリー・フィルムがTeleSUR という南米のテレビ網を通じて英語とスペイン語を用いて放映された当時、私の意見を日本の公衆にも伝えたいとする気持ちは少なくともあったようだ。ある時、私は1200ワード程度の文章を書いてみて欲しいという依頼を受けた。世界の文脈から見えて来る日本のことや沖縄の怒りについても焦点を当てて欲しいという要請であった。

まったくその通りのことを私は書いた。原稿を書いている最中にさえも私には分かっていた。この投稿は陽の目を見ることはないだろうと・・・ なぜかと言うと、日本の新聞社やテレビ局は西側の関心事については非常に従順であるからだ(私は以前日本で何社かの大手メディアのために働いていたことがある)。彼らは臆病で、権限はまったく持ってはいない。しかし、私は沖縄の住民のために書き終えた。そして、私の投稿が果たして「没」になるのかどうかを見守ることにした。 

数か月後に一通の返事が届いた。編集者を悩ましている「問題」が3点あった。ひとつ目としては、沖縄の住民は「北朝鮮の犠牲者」と同等には見られたくはないという点。ふたつ目は、日本の自動車メーカーがインドネシア政府を買収し、公的輸送網の建設を阻止し、大都市を自家用車やスクーターで埋め尽くそうとしているという私の見解は果たして確かなのか?みっつ目は、語数が何ワードか多すぎるということだった。

私は日本の文化には精通していたから、私自身がするべきことは完全に分かっていた。

しかしながら、私はそれとはまったく逆のことを仕出かしてしまった。私はその編集者を罵倒し、投稿を取り下げた。そして、その原稿をNew Eastern Outlook (NEO)へ投稿することにした [訳注: NEOには622日に掲載されている]。下記にその全文を示す:  

*****

小林正樹監督の最高傑作であり、9時間にも及ぶ映画「人間の条件」を敢えて観たいと思うならば、その人は世界における日本の立ち位置に関して何らかの幻想を抱くことはもはやないだろう。中国や韓国、その他のアジアの国々は占領され、略奪され、住民は虐殺され、拷問され、強姦された。

日本を「弁護」するために言えるだろう唯一の事柄は、西側の同盟国とは異なり、日本が体験した植民地主義の混乱は短期間であったと言う点だ。ヨーロッパ各国は何百年あるいは千年にもわたって地球上のあらゆる場所で残虐さや恐怖による非人道的な行為を行って来た。

日本は常にドイツを感服して来た。日本は西洋の医術、芸術および技術に触発された。日本の「エリート」たちはドイツ人が持つ優越感や例外主義といった概念に深い影響を受けた。

ドイツがアフリカの南西部で最初のホロコーストを犯した際、日本はつぶさに観察をしていた。現在のナミビアに相当する地域において、ドイツ軍はヘロロ族の住民の90パーセント近くや他にも少数派民族を虐殺した。ドイツ人の医師らは地域住民に対して大っぴらにさまざまな実験を行った。多くの住民が斬首され、アフリカの住民が劣等であることを証明するために彼らの頭部がフライブルグ大学やベルリンのいくつかの病院へ送付された。これらの医師は後のメンゲレ博士やその他の殺戮者らに教え込んだ。後継者らは、第二次世界大戦中、ユダヤ人やジプシー、その他の「劣等民族」を使ってさまざまな実験を行った。

日本はますますドイツに感服し、アジアに関して独自の計画を抱くようになった。しばらくして、日本は中国人を相手に医学実験を行い始めたのである。 

言うまでもなく、西側だけではなく日本国内においても公けに表明されることはないが、アジアにおける日本の植民地主義的な虐殺行為は西側が行っていた植民地主義や人種差別によって直接的な影響を受け、鼓舞されたものである。

日本は優秀な生徒である。外国から来たもの、もっと正確に言えば西欧から来たものは何でも好んだ。多くの場合、日本は自分たちがが学び取ろうとした主人と同じようになって行った。南アや日本の植民地において人種差別が華やかに行われていた時代には、日本人は「名誉白人」の地位に「昇格」された。日本人は少数派の白人のためだけに留保されていた役割を演じることが許された唯一の非白人であった。日本人は支配者のために用意された住居に住むことを歓迎され、ついに「受け入れられた」のである。

日本はファシスト系の同盟国の側に立って戦争をした。そして、人道に対する犯罪を犯した。この戦争に敗れると、日本は、ドイツ人と同じように主として白人でありヨーロッパ系の子孫である戦勝国に対して速やかに屈服した。

ドイツ人やイタリア人に代わって、日本は今や英国人やフランス人、オーストラリア人を尊敬しているが、結局のところ北米人をもっとも尊敬している。

日本の極右翼の財閥や政府機構は戦勝国によってほとんどすべてが温存された。極悪の戦争犯罪人さえもがこの機構へ復帰することが許された。東京裁判は単なる茶番に過ぎない。

たとえ日本が何を行おうとも、日本は実に素晴らしい成果を挙げ、伝説的な精密さをもって実行する。朝鮮戦争中の西側に対する日本の協力は完璧だったことから、このことを有難く思った植民地主義者らは日本に報酬を与えた。略奪され、屈辱を味わった他の植民地のほとんどの国とは違って、日本は格上げされ、豊かになることを許された。 

日本は有頂天になって、資本主義的な工業力を築き始めた。日本の立ち位置がどこにあるのかについては何の疑いもない。日本は西側の帝国主義に加わった。最初は準会員として、後には同クラブの正会員となった。日本は西側の一員となるためや自分の調教師を超えてより立派な資本主義者になるためにはやるべきことは何でもやった。思想面について言えば、より教義的で原理主義的となっていったのである。

日本はインドネシアの進歩的なアフメド・スカルノ大統領やもっとも大きな影響力を持ち、日本に対しては「アジアへ帰還する」ことを要請していたマレーシアのマハティール・ビン・モハマド首相(1981年から2003年まで首相の座にあった)らには失望感を抱かせていたものだ。

日本は何処へも帰還しようとはしなかった。「エリートクラブ」の一員として見られることは実に気持ちが良かった。日本は、ヨーロッパ人から学んだように、自国の利益を倫理観や連帯感、あるいは、人間中心主義よりも上位に据えたのである。

政治的につま先旋回をやってのけることや過去や現在と関連する情報をマキャベリのように操作することは西側で実施されている情報コントロールやプロパガンダとほとんど同等のものとなって行った。

経済テロは突然その境界線を失った。その状況を描写してみよう。日本の自動車産業界は直接的にインドネシア政府を買収し、地球上で4番目に人口が多いこの国で公的輸送機関を建設しない様にと要求している。その結果、何億人もが交通渋滞によって麻痺状態に陥り、大気汚染に関連した疾病で死亡している。ジャワ島の交通インフラはほとんどすべてが崩壊状態である。しかしながら、住民が日本製の自動車やスクーターを買い続けている限り、日本政府は眉のひとつも動かさない。 

日本はアジアのあらゆる地からやって来る若くて、野心に富んだ留学生を洗脳する重要な拠点ともなっている。無数の日本の大学は「奨学金」を提供して、貧しくて反旗を翻す可能性を持った国々からやって来る有能な若者を効果的に洗脳し、中立化している。殆んどの留学生は「情報のやりとり」や「教育」および「開発」を教えられる。基本的には、如何にして何も言わないままでいるか、何事についても反対などをしないでいるかに関して教え込まれるのである。彼らは帝国や残忍な資本主義に対して立ち上がるようなまねをしないことを辛抱強く叩き込まれる。もっと具体的に言えば、まさに日本が振舞っているように振舞うことを教えられる。「エリートの仲間に入りなさい。快適な生活を楽しみ、哲学や倫理観なんて忘れてしまいなさい!」 と。

日本は世界でももっとも破壊的な軍事基地を擁している。それは沖縄の米軍基地だ。

南米諸国のテレビ網であるTeleSUR のために沖縄で撮影を行っていた時、私は日本の帝国主義が見事に機能している様子を目の当たりにした。つまり、偉大な沖縄文化は抑圧され、住民の従順さと引き換えに社会保障が整備され、軍事基地に関わる倫理的ならびに国際的なメッセージはすべてがその調子を弱められていた。

しかしながら、沖縄の住民には分かっていたし、多くの人たちは実際に起こっていることに恐怖を感じていた。しかし、何も変えることはできないでいた。

この地から第三次世界大戦が始まるのかも!この地こそが中国(歴史的に見ると、中国は沖縄の同盟国であった)や北朝鮮(今や、犠牲者という意味合いでは沖縄にとっては自分たちの仲間みたいなものだ)に対して西側が軍事的挑発行為を行っている場所だからだ。

何年か前、私は中国人の外交官からこんな話を聞いたことがある。「西側が我々を攻撃して来たとしても、我々はワシントンやロンドンを反撃しようとは思わない。多分、我々は間違いなく日本に対して反撃することだろう。何と言っても、我が国に対する攻撃は日本の領土から来るからだ。」 逆説的ではあるが、十中八九、反撃は米軍基地を擁している沖縄に対して行われるだろう。

多くの沖縄住民はこの危険性を理解している。もちろんのこと、彼らは戦争には完全に反対する立場だ。しかし、東京の政府は米軍基地の閉鎖要求を無視している。現政権はますます好戦的になって、反中国、反北朝鮮となり、呆れるほどに親欧米的である。

日本の首相は愛国者としてのポーズをとっているが、安倍晋三首相は愛国者ではなく、実際には協力者である。でも、それは彼が「右翼」であるからということではない。(三島由紀夫の遺産がいかに議論を呼ぶとしても、彼は右翼ではあったが、正真正銘の愛国者だった)。安倍は日本の利益のために仕えるのではなく、70数年前に自国を爆撃し、日本を占領した西側の利益のために仕えている。アジア各国で命を失った数千万の犠牲者に関して責任を持っている筈の帝国のためにである。

「自衛隊」から日本人兵士を海外へ派兵することを許すべく法律が変更されたが、これは決して新しいことではない。日本はすでに幾つかの戦争に対してその費用を賄い、帝国のために軍事技術を開発し、隣国を挑発している。すでに何年、何十年にもわたってそうしているのだ。

第二次世界大戦中のように、日本はファッシストとの同盟においては、今や、再度非常に信頼され、尊敬を集めるメンバーとなっている。日本は寸分の隙もなく武装し、自国の平和憲法を変更しようとさえしている。役者の顔ぶれが変わっても、本質は同一のまま変わってはいない。常に西側の帝国主義同盟の一部でいるために、日本は強力で自然発生的な気質を持っているかのように感じられる。

もちろん、すべては自衛という名の下に行われ、十分に検討された「自由」とか「民主主義」あるいは「平和」といった高尚なスローガンが用いられる。これらの行為の背後にある誘発要因は遥かに邪悪である。つまり、アジアの同胞である国々に対する人種差別、過激なまでの「例外主義」(これはヨーロッパや北米から学び、導入したものだ)を採用しており、西側に対しては従順に服従する態度をとる。これが我々が今住んでいる世界なのである。インドの偉大な思索家であるアルンダティ・ロイの言葉を引用すると、「今や黒は白と称され、戦争は平和と称される」。少なくとも西側においてはその通りであり、日本においても然りである!

著者アンドレ・ヴルチャックのプロフィール: 哲学者であり、小説家、映画製作者、調査報道ジャーナリストでもある。彼は数多くの国に起こった戦争や紛争を取り扱っている。最近の著書としては、 Exposing Lies Of The EmpireFighting Against Western Imperialism、ならびに、ノーム・チョムスキーとの討論を収録したOn Western Terrorismが挙げられる。 Point of No Returnは好評を博した政治小説である。Oceania は南太平洋における西側の帝国主義に関する著作である。インドネシアに関してもIndonesia – The Archipelago of Fearと題した挑戦的な本を著している。アンドレ・ヴルチャックはteleSURPress TVのために映画の制作も行っている。南米やオセアニア地域にて何年も生活した後、現在は東アジアや中東に居住し、仕事を続けている。彼はウェブサイトではこちらから、ツイッターではこちらから連絡をとることが可能。 

<引用終了>


これで仮訳は終了した。

この著者は単刀直入に自分の考えを述べることが出来る稀な存在であることが直ぐに分かった。どうしてそんなことが可能となるのかと言うと、彼はひとつの国あるいはひとつの文化には属さずに、真の意味で国際人として物事を考え、行動しているからだ。彼の判断基準は我々俗人とはまったく違う。

本稿は鋭い文明批判である。特に、西側文明特有の偽善性に関しては嫌悪感みたいなものさえも感じ取られる。西側文明を学び取り、西側と並んだ日本についても著者の鋭い批判は衰えることがない。人間中心主義から見るこの著者の批判はノーム・チョムスキーの思想とどこかで繋がっているように感じられた。

彼に沖縄の現状について論評を書いてくれと頼んだ沖縄の新聞社は彼の原稿を受け取った際、歯に衣を着せない彼の率直さに面食らったに違いない。本当のことを余りにも直接的に指摘されると、言われた当人がやたらと反論して来ることがある。そのような様子が目に浮かぶようだ。また、このように指摘されてみると、確かに日本人は著者が描写したような特質を持っているのかも知れない。我々日本人が気がつかないことから、あるいは、我々が本能的に受け入れようともしないことから、とことん考えたり、議論することさえもないというのが現状ではないか。この際真剣に考えてみなければならない。

この論評を真摯に受け取って、自分の態度や集団としての日本人の行動を検証し、間違いがあったらそれを正す。それは我々一人一人の課題でもあり、使命でもある。そして、この議論はさらに先へと進めなければならない。賛成論や反対論を十分に吟味することが重要だと思う。

さまざまな考え方がある中で文化や歴史、宗教、民族、等が異なる国々の間においてさえもひとつだけ共通の価値観があると思う。それは人間性だ。そして、それは資本主義や共産主義、あるいは、民主主義といった思想の範ちゅうを超えた所に位置している。人間中心主義を判断基準として採用し、二国間で検討し、交渉する意欲さえあれば、主義・思想が日本とは異なる国を相手にしてさえも、二国間の問題、たとえば、領土問題についても解決策が見い出せるのではないだろうか。

また、日本人の集団が耳に痛いような指摘をも受け入れるだけの度量や見識を持っているのかどうかが試されているような気がする。



参照:

1What Japanese Media Doesn’t Want You To Say! Japan is Part of the Neo-Colonialist Clique: By Andre Vltchek, Information Clearing Center, Jun/27/2016







0 件のコメント:

コメントを投稿