2016年10月3日月曜日

ベスラン学校占拠事件から10年、生き残った人たちは今でも苦難を背負ったままだ



ロシアの学校の新学年は91日に始まる。長い夏休みが終わって、その日、学童たちは先生に贈呈する花束を抱えて、待ちに待った学校へ行く。もっとも人気がある花は赤いグラジオラス。

北オセチアはロシア連邦の南西部に位置する。今から12年前の91日、北オセチアにあるベスラン第1中学校はとんでもない事件に巻き込まれた。

30人からなる武装ゲリラがこの中学校を襲った。生徒や親、親戚および先生たちを含めて、1000人以上もの人たちを人質にして、彼らは政治的要求を突き付けてきたのである。武装ゲリラ集団は3日間学校を占拠した。この武装集団はチェチンの独立を標榜する多国籍集団であった。

政府側は説得に当たったが奏効せず、結局、武力衝突となり、386人が死亡した。その中には186人もの子供たちが含まれていた。犠牲者の半数以上は銃撃ではなく、むしろ爆発物の爆発やそれに続いて起こった火災によって犠牲になったと言われている。

あの事件からちょうど10年となった201491日、多くのメディアがその後の状況を伝えた。英国のガーディアン紙もそのひとつである [1]。これは2年前の記事だ。

今さらなぜベスラン学校占拠事件を振り返るのかというと、たまたまひとつ前のブログで引用した記事の中にベスラン学校占拠事件が言及されていた。その記事の文脈では、911テロの後、米ロ間では雪解けがあったものの、それは短期間で終わった。短期間で終わったひとつの理由はベスラン学校占拠事件であった・・・と記述されている。記憶を新たにするために、投稿の原稿を書く代わりに、私はしばらく道草を食うことにした。その際、この記事にも遭遇したのだ。二人の子供を失った女教師の言葉にはすっかり泣かされてしまった。

しかし、この記事を皆さんにご紹介しようと思った理由は私が泣かされたからではない。テロ事件が一国の政治に与える影響の大きさについて改めて考えさせられたからだ。ヨーロッパ中が、今、イスラム系ゲリラによるテロ行為の多発や難民問題に翻弄されている。シリアではイスラム国の武装ゲリラに対して米ロ共同作戦が始まったものの、同床異夢で、破綻の瀬戸際にある。

世界は混迷を深めるばかりだ。そのような状況を受けて、私はテロ行為が一国の政治やわれわれ一般市民の生活にもたらす衝撃をあらためて認識してみたいと思った。

日本では多くの人にとっては、中東におけるイスラム武装ゲリラは遠い国の話として聞こえることだろう。しかし、時代は今急速に変化している。

たとえば、日本の武装ゲリラに対抗するための準備は非常にお粗末であると指摘されている。その例証として、西側のジャーナリストは六ヶ所村の使用済み核燃料再処理工場の警護が余りにも手薄であることに驚かされると言う。何と言っても、核物質を取り扱う工場の警護要員が丸腰であることには不審の念さえも覚えるらしい。これでは、武装ゲリラによって核物質が奪われる可能性は否応もなく高まってしまうのではないか、と彼らは苦言を呈する始末だ。

もっともな話だと思う。事が起こってしまった後では遅すぎる。本当にこのままでもいいのかと言いたい。

前置きが長くなってしまったが、本日はこのガーディアン紙の記事を仮訳して、読者の皆さんと共有してみたい。


<引用開始>

ナジェジダ・グリエヴァの子供たち三人のうちの二人は学校を襲った武装ゲリラによって殺害された334人の犠牲者に含まれていた。彼女は生き延びた子供たちを教え続けることが如何に彼女自身の助けになったかについて自由ヨーロッパ・ラジオ(RFE/ラジオ自由RLに喋ってくれた。



Photo-1: 第一中学校を訪れ、2004年のベスラン学校占拠事件の犠牲者たちの記憶を新たにする哀悼者たち。写真: Krasilnikov Stanislav/ Krasilnikov Stanislav/ITAR-TASS Photo/Corbis

ナジェジダ・グリエヴァがうだるように暑い学校の体育館の床上で自分の子供たちと身を寄せ合っていた時、爆発物が不運にも数フィートしか離れていない場所に落下した。グリエヴァのふたりの子供、ボリスとヴェラは新学年の最初の日を祝うべく計画されていた舞踊のために着飾っていた。しかし、その祝賀行事は始まることがなかった。

北オセチアのベスランで起こった学校占拠事件では、二日間も人質の身となった後、爆発物や弾丸の雨にさらされて334人が殺害された。これらの犠牲者の間にはボリスとヴェラも含まれていた。186人もの子供たちが犠牲となったのだ。グリエヴァの末っ子の娘、イリナは難を逃れた。

あの実に異常な恐怖の後、彼女が今まで何とか生きてこられたのはイリナがそばにいてくれたからであった。「選択肢は他にはなかったわ」と、グリエヴァは言う。「末の娘がいてくれたのよ。彼女は私が泣き悲しんでいるのではないかと、しょっちゅう私の様子を確かめていたわ。だから、私は泣くことさえもできなかった・・・」

武装集団が200491日に学校を襲い、体育館で1100人もの子供や親ならびに先生を人質にした。この厳しい試練は52時間後に終わりを告げた。しかし、生き残った人たちや遺族にとっては、すべてが変わってしまった。

「何人かはこの地を離れて、まったく新しい生活を始めたわ」と、グリエヴァは言う。彼女は第一中学校で26年も教えてきた。あの悲劇の2か月後、彼女は教壇に戻った。「ある人はいったい何が起こったのかを調べることに一生懸命だった。また、ある人は私に支援の手を差し伸べてくれたわ。たとえば、この悲劇を記憶に留めるための博物館の建設。ある人は今でも墓地で泣き悲しんでいるわよ。まるで墓地で子供たちを育て上げようとしているみたいに・・・」

自分の悲しみを内に抑え込むことによって、今54歳のグリエヴァは息子と娘の死を目の当たりに見せつけられたことに何とか耐えている。「この悲しみがいかに厳しいものであっても、他の人には見せてはならないと決心したの」と、彼女は言う。「たった昨日起こったばかりのようだわ。」 

あの日の朝、学校を占拠してから、何十人ものイングーシ人やチェチェン人の武装ゲリラは人質の群れを校庭から小さな体育館の中へ送り込み、爆発物を仕掛けた。彼らは自分たちの要求事項を宣言した。ロシア軍は戦争で疲弊したチェチェン共和国から撤退するようにと。

グリエヴァはこの学校ですでに28年間も教えていたが、体育館へ送り込まれた最後のグループの中の一人だった。その時始めて、彼女の3人の子供たちがそこにいることに気付いた。

ある人は今でも墓地で泣き悲しんでいるわよ。まるで墓地で子供たちを育て上げようとしているみたいに・・・: 

「もう10年も経ったわ」と、彼女は言う。「いったいどうして私たちが生き残ったのか私には分からない。爆発物で死ぬこともなく、あそこで52時間も過ごして生き残ったの。言葉にはならないような恐怖だったわ。」 



Photo-2 93日、燃える校舎を背景に佇む兵士たちや治安部隊の隊員。写真: Yuri Tutov/AFP/Getty Images

人質が静かにならなかったことから、武装ゲリラは体育館の前でひとりの男を処刑し、自分たちの主張を見せつけようとした。

最初の頃は、子供たちは洗面所へ行き、水を飲むことが許され、夏の終り頃によく見られるひどい暑さの中を何とか凌いでいた。10年も経った今でさえも、死者に対する捧げ物として体育館へ水を持参する人たちがいる。14歳のボリスは、あの日、熱を出していて、体が弱っていた。

「われわれが水を飲めないようにと、武装ゲリラは流し台や水道管を壊してしまった」と、グリエヴァは言う。「子供たちは自分のシャツに水がひたたるようになるまで水を含ませて、体育館内へ水を運ぼうとしたり、何人かの子供は水を口いっぱいに含んで体育館へ戻り、母親に呑ませようとしていたわ。」 

交渉は進展しなかった。そして、二日目にはほとんどの子供たちは外へ出してさえ貰えなかった。

93日の正午過ぎだった。たとえどんな結果が待ち受けていようとも、この占拠はもう終わって欲しいとするほとんど狂乱状態に近い雰囲気が立ち込めていたことをグリエヴァは、今、思い起こす。間もなく、それが実際に起こった。死のような沈黙が繰り返して体育館内を支配していた。

人質を静まらせるためには武装ゲリラは天井に向けて銃を放った。しかし、すでに、何百人もの人質たちは抑えきれなくなっていた。

小さな女の子がそこから何とか抜け出して、まっすぐに水飲み場へ走った。グリエヴァはその時の様子を今も思い出す。「水飲み場から離れているなんてもうあの子にはできなかったのよ」と、彼女は言う。「彼女は狙撃されて、その場で死んだわ。」 

午後1時ちょっと過ぎに強力な爆発が起こって、体育館を震わせた。

「余力が残っている人たちは立ち上がり、走った。しかし、多くの人たちは逃げまどう中を銃撃された」と、グリエヴァは言う。「二階の屋根裏から武装ゲリラは逃げようとする子供たちの背中を撃った。」 

その直後、二回目の爆発が起こり、屋根が崩落し、火の手があがった。「私が正気に戻った時、私の娘のヴェーロチカはもう絶命していた・・・」と、グリエヴァは言う。

彼女は写真の中のヴェラを指さした。あの襲撃があった年、ヴェラは11歳だった。

「彼女はこの写真のような微笑みを浮かべていたわ。これとそっくりの微笑みだった。ただ違うのは目をつぶっていたことと彼女の頬には何滴かの血痕があったの」と、グリエヴァは言う。

グリエヴァは今でも思い起こす。ヴェラは十字架を握っていた。そして、両方の腕を胸の上に組んでいた。彼女はシュラップネルによって後頭部に傷を受けたのだ。

ボリスは血にまみれていたが、そのほとんどはグルエヴァからのものだった。シュラップネルが彼の腹を直撃し、背中へ抜けていた。

イリナはかすり傷を負っただけですんだ。そして、グリエヴァは彼女に逃げ出すようにと指示した。ボリスはまだ息をしていたので、グリエヴァは彼と一緒に残ることにした。彼女の腕はひどい怪我をしていたので、彼を運び出すことはままならなかった。彼を引っ張って、怪我をして身動きをすることが出来ない多くの人たちがいる方へと移動した。近くには、引き裂かれた体の破片が散らばっていた。

武装ゲリラはグリエヴァに体育館から出て、食堂の方へ行けと命令した。末っ子の娘の手をつかんで、彼女は隣の台所に辿りついた。喉がからからに干上がっていたふたりは台所で武装ゲリラが鳥肉を解凍する際に使ったと思われる汚れた水を飲んだ。娘にここで待っているように告げて、彼女はボリスを連れて来ようとした。しかし、武装ゲリラが彼女を止めて、立ち退かせた。中のひとりがライフルで彼女を殴りつけ、彼女は何本かの歯を失った。

ロシア軍の特殊部隊が入ってきた時、グリエヴァは窓から脱出した。イリナもだ。

ボリスとヴェラの遺体は体育館を舐めつくした火災で焼けてしまった。しかしながら、ヴェラの遺体は民族舞踊のための衣装によってかろうじて確認することができた。

「あのむごたらしい状況の後、誰もが人生の意味を見い出さなければならなかったわ。何のために生きているのかと。あるいは、単にこの世から消え去って、墓地に葬り去られるのかと。男たちの間では自殺が増えたわよ。かなりの数の男性が自分の命を絶ってしまったわ」と、グリエヴァは言う。



Photo-3: 学校占拠事件の犠牲者たちの写真の前で泣き崩れる女性。ベスラン第一中学校の記念博物館にて。写真: Krasilnikov Stanislav/ Krasilnikov Stanislav/ITAR-TASS Photo/Corbis

最後の銃撃戦の引き金を引いたのは武装ゲリラだったのか、それとも、ロシア軍の特殊部隊だったのかという疑問を含めて、この危機がかくもむごたらしい結果に終わったのはいったい誰の責任なのかという疑念が執拗に起こってきた。人々はこれらの疑問を忘れることはできない。

グリエヴァの夫、スタニスラフは復讐の念や責任のある人物を特定することは不可能であり、無分別な暴力はさらなる暴力を産み出すという思いに苛まれていた、とグリエヴァは説明する。 

1年半前、スタニスラフは46歳で亡くなった。彼はアルコールに依存するようになっていた。「彼は自分の思いを整理することができなかったのよ。すべてを忘れるためにアルコールに手を出し、そのアルコールが彼を終わらせてしまったのだわ」と、グリエヴァは言う。

 

新しい生活: 

悲劇の2か月後、グリエヴァはふたたび教壇に立った。

新しい校舎が鉄道を挟んで、牛や羊が草を食むような場所、第一中学校とは反対側に建てられた。その入り口の上には何色も使って書かれた「新しい生活の始まり」という標語が掲げられていた。

「私の最初の授業は私の息子がいたクラスだったわ」と、彼女は言う。『私が玄関ホールを歩いて行くと、ひとりの女の子が私に近づいてきて、「ナジェジダ、お会いできて素敵だわ。ボーリャはどこ?」って、聞いてきたの。誰が亡くなって、誰が生き残っているのかについては誰もまだ正確には知らなかったのよ。最初のクラスでは、私たちはただもう皆で一緒に泣いていたわ。』

グリエヴァにとっては教壇に立つことが力の源泉となった。「あれは演技をしているみたいなものだったわ」と、彼女は言う。

「好むと好まざるとにかかわらず、痛みがあろうとなかろうと、自分の気持ちが乱れようが乱れまいが、教壇に立って子供たちに教えなければならなかった」と、彼女は言う。「学校での授業の他にも、子供たちの自宅へ出かけて在宅授業をしなければならない子供が10人いたのよ。彼らの家へ入る前にはこうするの。深呼吸をして、笑顔を作る。家へ入る。授業を終えて、その家から出る。そして、次の家へ到着するまでの間はもう泣き続けていたわ。これらの子供たちの間には、相手にするのがとても難しい子が何人かいたわよ。」 

しかし、グリエヴァにとっては、それは過去から逃れるためのものではなかった。

「第一中学校の物語は私たち自身の物語なのよ」と、彼女は言う。「武装ゲリラの攻撃は私たちの物語なの。とても辛いことだわ。恐ろしいことだし、血なまぐさい物語だわ。でも、これは私たち自身の物語なの。私たちはあの事件をずっと記憶していく。私たちは新しい校舎へなんか移ってはいないわ。新しい生活なんて始めてはいないわよ。出直してなんかいない。私たちは以前の自分たちの生活を続けているのよ。」 

<引用終了>


これで仮訳は終了した。

ここにはグリエヴァの心境が見事に描かれている。テロ行為がもたらした恐ろしい結末は今でも当時のまま残っている。しかしながら、最近の10年間余りについての世界を見回してみると、これは何百万人もの人たちが経験してきたことのほんの一例に過ぎない。つまり、グリエヴァの物語以外にも何百万もの別の物語が存在しているということだ。

テロ事件では政府の公式の説明が流布される。しかし、多くの場合、真相をつかむことは非常に難しい。なぜかと言うと、テロ行為を実行した張本人は最終的には治安部隊の手によって殺害されてしまうからだ。このベスラン学校占拠事件ではゲリラ集団のうちの一人だけが生き残って、彼は終身刑を宣告され、服役しているという。一人が生き残ったからと言って、すべての真相を掘り出せるわけではない。他にも生き残ったテロリストが存在するという情報もある。要するに、12年経った今でさえも多くの疑問点の真相は明らかにされてはいないのだ。

それだけに、子供を失った遺族の心中は整理のつけようがない。まさに想像を超えたものとなる。ナジェジダ・グリエヴァがしっかりとした考えを持ち続け、事件後のもっとも困難な時期を残された末の娘と一緒に無事乗り越えてきたことや、彼女が自分の気持ちをこれほど多く喋ってくれたことは奇跡的にさえ思える。まさに彼女の夫がそうであったように、このような状況においては自分の気持ちを整理し切れない人の方がむしろ普通なのではないだろうか。まさに、生活は一変してしまう。個人のレベルではそれほどに大きな影響を与えるのだ。

さまざまな状況を反映して、武装ゲリラ集団と銃撃戦を交わした治安部隊の対応に関して政府にとっては他に選択肢がなかったのかという追求が遺族の間では強まるばかりとなる。政府は間違いなく矢面に立たされる。遺族たちからの鋭い批判は尽きることがない。非常に厄介な場面となる。

当時の国際社会の反応はどんなだったのだろうか?

米国の保守的なシンクタンクであるMiddle East Forumによって発行されているMiddle East Quarterly2005年夏号の記事 [2] の分析によると、

「チェチェン共和国のテロリストや彼らを支援する外国からの聖戦士たちはイデオロギーや資金および作戦の面でアルカエダのようなイスラム系テロ組織と関係を築いていた。ウラジミール・プーチン大統領やロシアの治安部隊の高官らはチェチェンの武装勢力とアルカエダとの関係に関して証拠を提示したが、ヨーロッパの政治家や西側の大手メディアはこれを無視し、その代わりに、ロシア軍の残虐行為に焦点を合わせようとして、プーチンの主張は西側の同情を呼び込もうとするものであり、民族主義的な蜂起に対するロシア政府の取り扱いから注意を逸らそうとするものであるとして取り合わなかった。

(当時)プーチンは日和見的であったかも知れないが、プーチンは正しかった。チェチェン国内の動きを詳しく調べてみると、イスラム主義者やアルカエダの信奉者たちの間ではチェチェンの動きを自分たちのものにしようとする傾向が高まっていた・・・

と、報告している。

昨年の9月末、ロシア政府はシリア政府からの要請を受けて、シリア政府軍を支援するためにシリア国内の反政府ゲリラに対して空爆を始めた。あの当時、プーチン大統領はシリアへやってきたロシア系武装ゲリラをシリア国内で殲滅し、ロシアへは帰国させないと述べた。

2002年のモスクワ劇場占拠事件、2004年のベスラン学校占拠事件や2機の旅客機に対する自爆テロ、2010年の地下鉄爆破事件、等を彷彿とさせるようなテロ行為に対して国内では不安が高まり、それを払しょくすることがロシア政府にとっては最重要課題となった。

思うに、戦闘経験を十分に持ったゲリラ30人がひとつの集団を形成し、そういった集団が20組も30組も組織され、ロシア国内でテロ活動を始めたとしたら、とんでもない混乱となる。

昨年9月の報道 [3] によると、ロシア連邦保安庁の推算によれば、ロシア連邦および旧ソ連邦に属していた中央アジア諸国からイラクやシリアへやってきて、イスラム国や他の武装集団に兵士として参加した人数は5000人を超すと言われている。その内、2400人はロシア連邦からやってきたという。

逆の発想をすると、それだけの脅威を発揮することができるとするならば、米国としてはアルカイダにせよ、イスラム国にせよ、米国の対外政策のために活用するには彼らを潰さずに、温存しておこうと考えても不思議ではない。

最近、シリアでは米ロの主導の下にシリア軍と反政府軍との間で停戦合意が成立したばかりだった。それにもかかわらず、ペンタゴンはこの停戦を潰しにかかった。ほぼ成功したとも言われている。

色の革命を組織し、政権の転覆を実行するNGOと並んで、武装ゲリラ集団は今や米国の代理戦争を実行する貴重な資産となっている。新冷戦に入ってからもう2年になる。米国にとっては、ロシアに対するハイブリッド戦争では何でもありという段階に入ったかのようだ。

事実、929日の報道 [4] によると、米国務省のジョン・カービー報道官は次のように述べ、物議を醸している。

「過激派はシリアにおける政治的真空をさらに助長し、自分たちの活動を拡大するだろう。これにはロシアの拠点に対する攻撃も含まれるだろう。多分、ロシアの都市も対象となるかも知れない。ロシアは死体が入った袋を本国へ輸送し、さまざまな資源を失い続けるだろう。恐らくは、航空機もだ。」

シリアにおける「過激派」は米国や湾岸諸国のパートナーによって支援されていることから、このコメントは米国務省からのロシアに対する脅しであるとしか考えられない。
ロシア側はそう述べた。

ロシア外務省のマリア・ザハロヴァ報道官は「これらの文言はゲリラ行動を起こすようにとの指令であって、それ以外のものとはとても受け取れない」と、言った。

つまり、米国の本音がここに現れているということだ。


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これらの引用記事を読んでみて、プーチン大統領がちょうど1年前に述べていたことの意味が少しは分かったような気がする。

西側の大手メディアはそこまで明確に報道してはくれない。対ロ戦略として徹底した情報操作が行われているのだ。そのような現状にあることからも、代替メデイアが提供してくれる情報を読み解くことが今やますます重要となってきていると私は実感する。

ありそうもない素人の空想に過ぎないとして一笑されるかも知れないが、ひとつだけ敢えてここに記述しておこう。

2004年の当時に遡ってみる。ベスラン学校占拠事件が起こった時、プーチン大統領は西側の潤沢な資金によって支えられた武装ゲリラが市民に与える脅威のすさまじさや一国に与える影響の大きさをすでに正確に、かつ、十分に感じ取っていたのではないか。9/11テロ事件以降に米国が始めた対テロ作戦における米国との協調体制はワシントン政府がABM条約(弾道弾仰撃ミサイル制限条約)から一方的に撤退することを宣言したことからだけではなく、ロシア側も冷却して行ったのかも知れない。このまま米国を相手にしてはいられないという冷徹な判断がロシア側にあったとしても不思議ではないと私には思える。



参照:

1Ten years after Beslan school siege, survivors struggle to make a new life: By Tom Balmforth, The Guardian, Sep/01/2014

2How Chechnya Became a Breeding Ground for Terror: By Lorenzo Vidino, Middle East Quarterly, Summer 2005 issue, pp. 57-66

3New FSB Estimate Over 5,000 ex-Soviet Nationals Fighting for ISIS: By Interfax, Sep/22/2015

4U.S. State Department Threatens to Send Islamic Terrorists into Russia: By Kurt Nimmo, Another Day in the Empire, Sep/30/29016 / Global Research, Oct/01/2016






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