2019年10月28日月曜日

シリアへの道 - シリアはどのようにしてシリア戦争に勝ったのか


トランプ大統領はシリアからの米軍の撤退を宣言し、実際に米軍の撤退作業が始まって、誰の目にもシリア政府軍の勝利は決定的なものとなった。シリアの北東部から撤退する米軍兵士らはこの地域に住むクルド系住民らによって腐った果物や野菜を投げつけられたという。
 ここに「シリアへの道 - シリアはどのようにしてシリア戦争に勝ったのか」と題された最近の記事がある(注1)。歴史的な背景が詳述されており、21世紀の今シリアを巡って起こっている地政学的な紛争の深層を理解するには打ってつけの記事だ。
 本日はこの記事を仮訳して読者の皆さんと共有しようと思う。

<引用開始>
 またもやロシアの仲裁によりシリアで何かが起こっているが、これはまさに地政学的に形勢を一変させるような巨大な出来事である。私はこの出来事を下記のように総括してみた:  
 「この動きによって4者がそれぞれ勝利を収める。米国は面子を保って軍を撤退させ、トランプはNATO参加国のトルコとの一戦を避けたことをアピールすることができる。トルコは、ロシアの保証によって、シリア軍がトルコ・シリア国境をコントロール下に置くことを受け入れる。ロシアは戦争が拡大することを防ぎ、ロシア・イラン・トルコ間の和平プロセスを維持する。そして、シリアはやがて北東部全域をふたたびコントロール下に治めることであろう。」 
 シリアはCIAにとってはベトナム戦争以来で最大級の敗戦であるかも知れない。
 しかしながら、そのことがすべてを物語ってくれる訳ではない。
 ここで、このような結末をもたらした歴史的な動きを簡単に振り返ってみようと思う。
 それは先月レバノンとシリアならびに被占領下にあるパレスチナとの三カ国の国境に立った時感じた第六感から始まり、ベイルートでレバノンやシリア、イラン、ロシア、フランス、および、イタリアからの第一級の分析専門家と交わした一連の会話へとつながって行ったが、すべては1990年代に始まった私のシリアへの旅に基礎が置かれ、ベイルートのアントワーヌ書店でフランス語で入手できる何冊かの書誌学ともつながっていた。

ヴィライエト(州):
シリアがオットマン帝国の下で六つのヴィライェト(州)に区分されていた19世紀の頃から始めてみよう。ただし、1861年から特別自治区として認められ、マロン派キリスト教徒が集中していたレバノン山地やイスタンブール直轄のサンジャク(県)であったエルサレムは含めない。

ヴィライェトはシリアが持つ極めて複雑な独自性を定義する訳ではなかった。たとえば、マラス州ではアルメニア人が多数派であり、ディヤルバク州ではクルド人が多数派であった。これらの地区は今は両者ともトルコの南アナトリア地域の一部であり、アレッポとダマスカスの両州は共にスンニ派である。 

19世紀のオットマン帝国の下でのシリアはまさに世界主義の縮図であった。内部には国境や壁はなかった。お互いにすべてについて依存し合っていた。


Photo-1

その後、第一次世界大戦で利益を得たヨーロッパ人が介入して来た。フランスはシリアからレバノンにかけて沿岸地帯を入手し、後にマラス州やモスール(現在はイラク)も手中に収めた。パレスチナはシャム(いわゆる、「レヴァント」地域。訳注:シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルおよびパレスチナ自治区を含む地域を指す)から分離され、国際化された。ダマスカス州は二分され、フランスが北部を、英国が南部を治めた。シリアとほとんどがキリスト教徒であるレバノンとが分離されたのはそれよりも後になってからのことである。
シリアとイラクとの国境には常に込み入った問題があった。大昔から、ユーフラテス川はひとつの障害として機能していた。たとえば、ウマイヤドのシャムと川の向こう側に位置し、手強い競争相手であるメソポタミアのアッバース朝との間の天然の障害であった。

ジェームズ・バーは彼の「砂の中の1本の線」(原題:A Line in the Sand)と題された書物でサイクス・ピコ協定は中東にヨーロッパ人の領土に関する概念を押し付けたと述べている。つまり、彼らの「砂の中の1本の線」は国民国家間の境界を成文化するものであった。しかし、問題は20世紀初頭のこの地域には国民国家はなかった。 

シリアの誕生は、われわれが知っているように、進行中の作業であり、ヨーロッパ人やハシェミット王朝、ならびに、レバノンやレバノン山中のマロン派キリスト教徒を統一しようとする大シリア国家を構築することに打ち込んでいる国家主義者のシリア人に関わるものであった。そこには重要な要素がある。それはハシェミットのメディナに対する依存性を失うことや第一次世界大戦後にイラク領に含められたモスール州を失うことについて不満を述べる者は、トルコ人を除けば、この地域にはほとんど誰もいないことであった。

1925年、シリアでは、フランスがアレッポとダマスカスを統合したことによって、スンニ派が事実上の優勢な勢力となった。1920年代には、フランスがシリア東部の国境線を確立した。1923年に締結されたローザンヌ条約はオットマン帝国にすべての所領を放棄するよう強く求めたが、彼らをこのゲームから放り出しはしなかった。


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間もなく、トルコ人はフランスの委任統治領に侵入し、クルド人の自治の夢を壊し始めた。ついにフランスが折れた。つまり、トルコ・シリア間の国境は伝説的なバグダッドバーン(ベルリン・バグダッド鉄道)のルートと平行に走ることになった。

1930年代には、フランスはさらに折れた。アレクサンドレッタ県(今日のトルコのハタイ県の都市・地区であるイスケンデルン)は最終的に当時トルコ人が占める割合は40%だけであったが、1939年にトルコに併合された。

この併合は何万人ものアルメニア人の亡命をもたらした。これはシリアの国家主義者にとっては大きな痛手であった。アレッポは東地中海への回廊を失い、大きな損害を被った。

東部の草原地帯にかけてはシリアはベドウィン族がすべてであった。北部はトルコ人とクルド人との衝突がすべてであった。そして、南部では国境は砂漠の中の蜃気楼のような存在であって、トランスジョーダン(訳注:現在のヨルダン)の建国によって始めて国境線が引かれた。西部においてのみレバノンとの間で国境が確立され、それは第二次世界大戦後に確固たるものとなった。

この新興国家シリアは、利害が一致しないトルコ、フランス、英国ならびにこの地域の無数の当事者らに囲まれて、明らかに如何なる当事者をも喜ばすことはできず、決して喜ばすことはなかった。それでもなお、国家の中心は「有用なシリア」として形容される物事によって構成される。国家の60%以上は実際に何もなかったし、今でもそのままである。しかしながら、地政学的に見ると、それは「戦略的な奥行き」として解され、現行の戦争においても中核的な要素となっている。 

ハフェズからバシャールへ:

1963年から 宗教色がない国家主義者であるバース党がシリアを支配し、1970年にはハフェズ・アル・アサドによる権力が確立された。彼は、少数党である彼のアラワイト派の党には頼らず、警察国家の特性を交えた巨大で極度に中央集権化された国家を作り上げた。このゲームを演じることを拒んだ主要な当事者はムスリム同胞団であって、1982年のハマの弾圧では死者を出すまでになった。

世俗主義と警察国家: 脆弱なシリアのモザイクを維持し得たのは世俗主義と警察国家であった。しかし、すでに1970年には大都市と地方の極貧層との間には大きな亀裂が現れてきた。「有用な」西部とベドウィンが住む東部との間、アラブ人とクルド人との間に現れたのである。しかしながら、都市部のエリートはダマスカス政府の鉄のような意思を拒絶することはなかった。結局のところ、縁故主義が彼らに大きな利益をもたらしていたのである。

ダマスカス政府はアラブ連合から平和維持軍として招待されたことから、1976年以降、レバノン内戦に深く関与した。ハフェズ・アル・アサドの論理においては、レバノンにアラブ的な独自性を残すことは大シリア構想を復活させるためには基本的に重要なことであった。しかし、レバノンの首相でありサウジアラビアに近かったラフィーク・ハリリが殺害された後、シリアによるレバノンのコントロールは2005年に崩壊し始めた。シリア・アラブ軍(SAA)は最終的にレバノンから撤退した。

バシャール・アル・アサドは2000年に権力の座に就いた。父親とは異なり、彼はクーデターの危険性を避けるためにアラワイト派に賭けて、国の行政に当たらせた。しかしながら、貧困層や通りを往来する一般シリア人からは隔絶されていた。  

西側が「アラブの春」で定義した動きはシリアでは2011年の春に始まった。つまり、それはアラワイト派に対する反乱であり、ダマスカス政府に対する反乱でもあった。外国勢力に完全に利用されて、この反乱は地方に住む極貧で落胆しているスンニ派から起こった。南部ではダラーアの町で、人っ気の少ない東部で、そして、ダマスカスやアレッポの郊外で起こった。

西側では決して理解されなかったこととしてはこの「貧者の饗宴」はシリアという国家に対するものではなく、「政府」に対するものであるという点であった。ジャブハット・アル・ヌスラはそのPRの中でアルカエダとの公の連携を断ち切り、その名称をファタフ・アル・シャムと改称し、その後さらにハヤット・タハリール・アル・シャム(「Organization for the Liberation of the Levant」の意)と変更した。ISIS/ダーイッシュが単に言いたかったことは彼らはサイクス・ピコ条約の終焉のために戦うということだ。

永遠に続くかと思われた戦線の移動は2014年までに大なり小なり確定した。ダマスカス政府はジャブハド・アル・ヌスラやISIS/ダーイッシュと戦い、北東部のクルド人のために覚束のない役割を演じたが、これは何よりもアフリンやコバネ、カミシリの各県を維持したいがためのものであった。

しかし、重要な点はそれぞれの戦闘集団やその近隣、集落、ならびに、個々の戦闘員は絶え間なく忠誠を誓ったり、約束から脱したりすることであった。それは聖戦戦士や犯罪者あるいは雇用兵といった星雲のようにうやむやな状況を見せ、ある者はダーイッシュに走り、ある者は米軍の訓練を受け、また、ある者は単に現金を素早く掴み取ることだけに動いた。

たとえば、サウジアラビアやクウェートからの潤沢な資金を得ているサラフィ、特にジャイシュ・アル・イスラムはシリアのPYDクルドやハイアット・タフリール・アル・シャム(シリアにおけるアルカエダで3万人の陣容)とさえも同盟関係を結んだ。その一方で、PYDクルド(トルコ内のクルド人組織PKKからの流出で、トルコはこの組織をテロリストと位置づけた)はこのあきれるほどの混乱状態、ならびに、ダマスカス政府の態度の不明瞭さを利して、自治区「ロジャヴァ」を作ろうとした。 

トルコの戦略的な奥の深さ:

トルコは全力を注入した。前外相のアフメト・ダヴトグルが示したネオ・オットマン政策のターボチャージャーを全開にして、論理のすべてはオットマン帝国のかっての版図を再び征服することであり、トルコ国内のPKKクルド勢力を支援したアサドを葬り去ることにあった。

ダヴトグルが2001年に唱えた「戦略的な奥の深さ」は、フランスとケマル・アタチュルク主義者との間で締結された911キロの国境線と比較して、広大に広がるオットマン帝国の8世紀間におよぶ栄光を今改めて主張するものであり、トルコでは大ヒットとなった。ビラド・シャムはオットマン帝国時の州であったが、それはレバノンや歴史的なパレスチナ、ヨルダン、および、シリアを集合したもので、シリア人およびトルコ人の無意識の中に強力な磁石として残っている。    

トルコのレジェップ・エルドアンは2012年に燃え上がり、もちろん、これはダマスカス政府が崩壊してからの話しとなるのだが、ダマスカスのウマイアッド時代のモスクでお祈りをしたいと彼が自慢げに言ったのもそれほど不思議ではない。2014年以降、彼はシリアとの国境線のシリア側に安全地帯を設けることを追い求めていた。実際には、これはトルコの飛び地となる。それを実現するためには、彼はムスリム同胞団から始まってトルクメン人の無法者に至るまで、狡猾な可能性のすべてを試した。 

自由シリア軍(FSA)の確立に伴って、トルコは自国領土内で外国の武装集団が活動することを初めて許した。2011年には訓練キャンプがアレクサンドレッタに設置された。また、「シリア国民評議会」が何十年にもわたってシリアの地を踏んだことがないシリア難民の手によってイスタンブールに設立された。

アンカラ政府は事実上「聖戦戦士ハイウェー」を設け、中央アジアやコーカサス、マグレブ、パキスタン、新疆、ヨーロッパ北部、等のあらゆる地点から自由に流入・流出することを可能にした。2015年には、アンカラ、リヤドおよびドーハの政府はジャイシュ・アル・ファス(“Army of Conquest”)を設立した。これにはジャブハド・アル・ヌスラ(アルカエダ)が含まれている。

それと同時に、アンカラ政府はISIS/ダーイッシュとの間に非常に曖昧な関係を維持し、密輸された原油を買い取り、聖戦戦士をトルコの病院で治療し、トルコ領土内で聖戦戦士が行う諜報活動には何の関心をも寄せなかった。少なくとも5年間、トルコの諜報組織(MIT)は政治および兵站に関わる背景情報をシリアの反政府派に流し、その一方で、サラフィスの大集団を武装化した。結局のところ、アンカラ政府はISIS/ダーイッシュの存在はひとえにアサド政権が採用した「不道徳性」の賜であると信じ込んでいた。

ロシアの要素:

形勢を一変させる最初の大きな出来事は2015年の夏の日に起こった目を見張るようなロシアの登場であった。ウラジミール・プーチンは、これはロシアがかっての帝国としての栄光を取り戻すためのものだとする米国内の考えを否定して、ヒットラーとの戦いでソ連が同盟を組んだ時のようにイスラム国との戦いに米国も参加するようにと誘ったしかし、バラク・オバマ政権下の米国の考えはひたすらにクルド人とスンニ派アラブ人の寄せ集めであるシリア民主軍(SDF)に賭けることであって、空軍と米特殊部隊による支援を行い、ユーフラテス川の北側でISIS/ダーイッシュを壊滅し、ラッカやデリゾールにまで迫ることであった。

ペンタゴンによって爆撃され、がらくたの山と化したラッカはSDFが奪回することができたかもしれないが、デリゾールはダマスカス政府のシリア・アラブ軍の手に落ちた。米国側の最終的な目標はユーフラテス川の北側をSDFやクルドPYD/YPGといった代理勢力を使って一貫して米軍のコントロール下に置くことであった。しかし、この米国の夢は今や崩れ去り、帝国主義的な民主党員や共和党員に失望を招いている。 

CIAはトランプの頭の皮を剥ごうとして、いつまでもトランプを追い回すであろう。 

クルド人の夢は消え去った: 

文化的な誤解についても記述しておこう。シリアのクルド人は米国による保護が彼らの独立の夢を支えてくれるだろうと信じていたのとまったく同じように、米国側は「大中東」においては何処であっても部族を買収することはできないということを決して理解してはいなかった。せいぜい、彼らを一時的に借用することは可能だ。彼らは彼ら自身の関心に基づいてあんた方を利用する。私はアフガニスタンからイラクのアンバー州に至るまでこのような状況を何度も観察している。

カミシリからマンビジに至る連続的な自治区に関するクルド人の夢は消えた。この辺境の地に住むスンニ派のアラブ人はクルド人が優位性を保とうとする試みについては如何なるものであっても抵抗するであろう。 

シリアのPYD2005年にPKKの民兵によって設立された。2011年、PKKのシリア人はPYDのためにYPG民兵組織を作るべくカンディル(イラク北部のPKKの本拠)からやって来た。アラブ人が優勢な地域でシリアのクルド人が行政の任に当たった。と言うのは、クルド人にはアラブ人は野蛮で、自分たちのために「民主的で、社会主義的で、生態学的で、多重共同体主義的な」社会を作ることなんてとてもできないと見えた。

保守的なスンニ派アラブ人の指導者は如何に彼らを憎んでいたかを誰であっても想像することができるだろう。これらの部族の指導者がSAAやトルコ軍に逆らってクルド人を支援することなんてあり得ない。結局、これらのアラブ人の部族の指導者らは全員がダマスカスで多くの時間を過ごし、バシャール・アル・アサドの支援を求めた。そして、今や、トランプが青信号を出したトルコによる侵攻を目の前にして、クルド人自身もアサドの支援を受け入れた。

デリゾールの東では、PYD/YPGはシリアの原油生産の50%を占める地域に対してお別れの挨拶をしなければならなかった。ダマスカス政府とSAAは今や有利な立場となった。PYD/YPG にとって残されていることはトルコの攻撃に対してダマスカス政府とロシアの庇護の下に身を退けることであり、クルド人だけの領土で主権を行使する機会は失われた。  

西側の無知:

典型的に東洋風な傲慢さを持つ西側はシリアのアラワイト、キリスト教徒、イスマイル、ドルーズの各派は、強硬派のイスラム過激派によって占有されている「反政府派」と比べ、何時も決まってダマスカス政府に庇護を求めることを決して理解しなかった。また、西側はダマスカス政府が生き延びるためにはバース党のネットワークや諜報サービスに何時でも依存することが可能であるということを理解しなかった。

シリアの再興: 

シリアの再興には2000億ドルを要するかも知れない。ダマスカス政府は米国やEUを歓迎しないことをすでに言明している。中国がロシアやイランと並んで筆頭を飾ることであろう。これはユーラシア統合の教科書に厳密に則ったプロジェクトであって、中国は古代のシルクロードにおけるシリアの戦略的位置付けに目標を置くことになろう。  

実質的に誰からも信頼を置かれてはおらず、最近の過去に比べてわずかながらもネオ・オットマン的ではなくなってきたエルドアンについては、彼は今やバシャール・アル・アサドは「下野しない」ことをついに理解し、彼と共存しなければならない。アンカラ政府はテヘラン政府とモスクワ政府との関係を維持し、シリアの悲劇については後にアンカラでさらに手が加えられることになった「アスターナ・プロセス」を通じて包括的で、かつ、憲法に則った解決策を見い出さなければならない。

もちろん、シリアがこの戦争に完全に勝利したということではないかも知れない。しかし、あらゆる予想を覆して、統合された主権国家シリアは腹黒いNATO/GCCのラボで調合された地政学的なモロトフ・カクテルの倒錯したらせん構造を制することができるに違いない。結局のところ、これは物事を一変させるような出来事であることを歴史が、たとえば、南の発展途上国に告げてくれるであろう。

著者のプロフィール: ぺぺ・ エスコバーアジア・タイムズの特派員である。彼の最新の書籍は2030と題されている。フェースブックにて彼を追跡して貰いたい。

<引用終了>

これで全文の仮訳が終了した。

まずは、大量の背景情報を提供してくれたジャーナリスト、ぺぺ・エスコバーに感謝したい。

この引用記事は2013102日に掲載した「シリア革命 - 我々はどうして失敗したのか」と題した投稿をさまざまな形で補完してくれる。ある部分についてはひとつの答えを指し示しているようにも思える。9年間にも及んだシリア紛争を振り返る今、2013102日の投稿を読み返してみるとアレッポに住んでいたシリア人の著者が記述した個人的な感慨や疑問は非常に的を得たものであることに気が付く。今思うに、少なくとも、シリア紛争の背景は実に見事に描写されていた。アレッポの住民であった著者の記述に付け加えて、当時イタリアのテレビ局が行ったアサド大統領とのインタビューの内容は今われわれの目の前で展開されているシリア紛争の最終段階をもたらすことに大きな役割を果たしたアサド大統領の見識と度量とを正確に浮き彫りにしていたと言える。

最近の報道を読むと、シリア紛争が100%収束したわけではないことは明白だ。シリアの原油を略奪するために米国は一部の米軍を今でも撤退させてはいない。ダーイッシュの手から取り戻し、今はクルド人勢力のコントロール下にある油田を守るために米軍の一部を駐留させておくと彼らは説明している。また、シリアの北東部から撤退させた反政府派武装勢力を隣のイラクへ送り込み、彼らを温存しようとしている。

思うに、トランプ大統領が宣言した米軍のシリアからの撤退は2020年の大統領選に向けた票集めのための短期的な戦術であって、米選挙民に対する単なるリップサービスでしかないのかも・・・と疑いたくなる。エネルギー源の略奪には豊富で長い歴史を持つ米国のことだ。大統領選後の2021年にはとんでもないことを引き起こすのかも知れない。

最後にひとつだけ書いておきたい。この引用記事が発行されたのは1018日、つまり、今から10日足らず前のことであった。しかし、この短い期間に米国がシリアについて隠し持っていた思惑が急速に表面化して来たことに私は驚いた。巧妙に股間を隠していたイチジクの葉は秋風に吹かれて何処かへ飛び去ってしまい、米軍のシリアへの派遣の本当の理由が公衆の面前に曝されたのである。

 
参照:

1The Road to Damascus: How the Syria War was Won: By Pepe Escobar, Information Clearing House, Oct/18/2019

 

 

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