2019年11月29日金曜日

米国は民主主義を失うことはない。民主主義はとうの昔に失われてしまったからだ - プリンストン大学の研究


今日の平均的な日本人は、戦後70数年間、民主主義がもっとも重要な政治制度であると教えられて育ってきた。そのことについてわれわれ一般大衆が疑問を挟む余地はまったくないものとして、言わば、盲目的に信じるように教育されてきた。

そして、それをわれわれ日本人にお説教して来たのは日本の政治家ではなく、米国の政治家である。もっと正確に言うと、英国やイスラエルの政治家もその一部であったのかも知れない。

具体的に言って、民主主義とはいったい何か?

いくつもの側面があるが、一番ピンとくるのは選挙制度であろう。一国の指導者や国会議員を選挙によって選出する制度だ。その投票は公明正大に実施され、透明性を保たなければならない。通常、投票者の大多数によって選ばれた候補者あるいは政党の指導者が首相や大統領の座に就任する。したがって、クーデターによって現政権を倒し、反政府運動の指導者を首相や大統領に就任させる行為は非民主的であるとされる。

たとえば、2014年、ウクライナでは選挙を通じて選出されていた親ロ派のヤヌコヴィッチ大統領が追い出された。ジェフリー・パイアット駐ウクライナ米国大使とヴィクトリア・ヌーランド国務次官補の二人は電話会談で暫定的な首相としてアルセニー・ヤツニュクを推薦することに合意した。奇しくも、この電話の内容は暴露され、米国がこの反政府デモの主導者であったことが判明した。

米国は民主主義国家の旗手として発展途上国に対して何十年にもあたって民主主義の重要性を説いてきた。そして、今となっては歴史の皮肉とでも言おうか、ここに「米国は民主主義を失うことはない。民主主義はとうの昔に失われてしまったからだ - プリンストン大学の研究」と皮肉を込めて題された記事がある(注1)。これは米国内の政治議論としては潜在的にもっとも重要なテーマのひとつであろう。

本日はこの記事を仮訳して、読者の皆さんと共有したいと思う。今、米国はどんな問題を抱えているのかをここでおさらいしておこう。この記事に書かれていることは、日本を含めて、世界中の国々に対して直接的あるいは間接的に影響を与えるものであろうと考えられるからだ。

<引用開始>

事実関係:プリンストン大学の研究は米国は民主国家であるというよりも、むしろ、寡頭(少数独裁)政治を行っていることを見い出した。

検討事項: 現行の政治システムを正常化することは可能か?それとも、われわれは現行の体制にはおさらばをして、われわれが実際に必要とする体制を敷かなければならないのか?

米国の市民は実際には民主主義体制の下に住んでいる訳ではいないとする見方がここ何十年間かにわたって勢いをつけて来ている。経済や社会ならびに政治的な崩壊が与える脅威は市民を苦しめ、それは歳月が過ぎるにつれてますますわれわれの精神の奥深くへと浸透する。

科学技術の進歩に伴ってわれわれはより以上に裕福な社会を築き上げることが出来た筈だとお思いであろう。ところが、生活水準が大きく後退するのをわれわれは目の当たりにしている。今まで以上に長時間労働を強いられ、いたる所で単調で、より困難な労働やむなしい仕事に追いやられている。われわれはコントールに飢えた巨大企業の変化に曝され、これらの企業は米国の起業家精神や繁栄している個人企業を呑み込んでしまう。

われわれ個人個人が国中で自分自身を失敗に導き、貧弱な意思決定や愚かさの故に、増大し続ける膨大な政府の借金をもたらしたのだという見方は、個人の大部分が直接的に政策作りに関与するような民主主義体制の下に暮らしている限りにおいては実に正しいと言えるであろう。もしも実際に米国がそのような形で運営されて来たとするならば、われわれの今の民主主義はもはや破綻してしまっている。

もしもあなたが経済のエリートで構成された小グループのトップに位置しているならば、もちろん、あなたは何かが破綻しているなんて到底気付かないだろう。実際には、重要な会議のすべてが行われる背後の部屋であなた方は物事が計画に沿って順調に進行していることをお互いに祝福し合うための時間を過ごしているに相違ない。

プリンストン大学の研究: 

プリンストン大学とノースウェスタン大学の二人の研究者、マーチン・ギレンスとベンジャミン・ページは最近制定された1779件の政策に関しては「経済のエリートや組織化された団体が米政府の政策に極めて大きな影響力を行使した」ことを突き止めた。その一方、平均的な市民は影響力をほとんど持ってはいない、あるいは、ゼロである。

本研究は二つの部分からなっている。まず、研究者らはさまざまな団体が米国において有している政治的影響力の大きさを測定した。さらには、民主主義や寡頭政治および他の政府形態に関する定義に関しても確認を行った。

CETVでわれわれが行っている「集団進化ショウ」(Collective Evolution Show)の最近の番組において、ジョー・マーティノと私は本研究に関してだけではなく、われわれのシステムそのものが破綻しているのか、それを修復することはできるのか、あるいは、現行のシステムから離脱する方法論の検討はどのように始めるべきか、といったより幅の広い見方についても論じている。最初の動画を下記に示す。このTVショウの全体や他の数多くのショウやインタビューはCETVで7日間無料で視聴することが可能である。

富裕者らはより多くの影響力を有している:

下記に示す図表はそれぞれ異なる集団が米国でどれだけ多くの政治的影響力を有しているのかを示す。富裕者が影響力のほとんどを有しており、一般庶民の有権者の影響力は実質的にゼロである。

Photo-1

ここではあなたが「政治的影響力」を有するということは議会があなたが好むような法律や政策を通過させることによってあなたの意向に応じることを指す。そして、影響力が小さいということはあなたは無視されていることを示す。つまり、その場合、議会はあなたが望む事柄とは何の関係もない法律を通過させる。

特別利益団体もまた公共政策に影響を与える。研究者らはこれらをふたつのグループに分けた。組織化された市民団体を代表する「大衆」は小さな影響力を有するだけだ。業界団体のようなビジネス・グループは中程度の影響力を有する。これらの業界団体はロビー活動や政治献金に供する財源を持っているからである。

これは必ずしも一般庶民は自分たちが希望することを議会に求めることはできないという意味ではない。時には、一般大衆の意見が議会の動きと一致することも起こった。しかしながら、圧倒的に多くの者は富裕者やビジネス界の利益団体が推進する政策に好意を示した。統計的に言うと、米政府は米国人の90%が考えていることについては関心を示さない。

米国は寡頭政治体制だ:

われわれが持ち得る政治体制として著者は四つの体制を定義した。それらは (1)民主主義、(2)寡頭政治、または、 (3)一般的には特別利益団体によって、あるいは、(4)特にビジネス団体によって寡占化された半民主的な体制とに大別される。

皆さんは下記の図表をみて、判断して欲しい。2014年の米国は寡頭政治のモデルに一致する。つまり、富裕者による寡頭政治である。事実、一般大衆の影響力は典型的な寡頭政治モデルに比べてさえもさらに小さい。

Photo-2

ここで、富の存在が問題だという訳ではないし、裕福な米国人が政治的意見を持っているということでもない。

問題は政府が米国市民のたった10%を代表しているだけであるという点だ。つまり、その他の大多数の市民は民主主義以下の政治環境で暮らしているという点だ。

著者の見方は次のようなものだ。つまり、組織化された団体は定常的にロビー活動を行い、政府職員と交流し、彼らは回転ドアを介して公職と民間の職場との間を行き来し、法案を作成し、選挙運動には莫大な資金を使う。

本質的には、これはわれわれの政治システムにおいて金が巻き起こす贈収賄の問題なのである。このような腐敗は基本的に我が民主国家の理想には反するものだ。なぜならば、「公共社会こそが、他の如何なる代替物と比べても、社会全体の関心事の守護者であると見られるからだ。」 

結論:

選挙運動資金に関しては贈収賄を追放するための法律を新たに導入することが解決策だとする意見があるけれども、それはキツネが鶏小屋の中におさまっているようなものであって、議員たちは自分たちのパワーを削ぎ、腐敗し切った手法によって政治的なパワーを手にしたことで有罪となる可能性を持った法律を導入し、施行し、それを実行することについては最終的に抵抗を示すことをわれわれは念頭に置かなければならない。この問題を解決することができるのはわれわれがこのシステムから離脱し、われわれが持つ価値観や願望に沿った新しいシステムを作り出すという集団的な意思を示す時だけであろう。

注:この記事は「Collective Evolution」に初めて掲載された。


<引用終了>

これで全文の仮訳が終了した。

「米国の民主主義はまがい物である」とか「米国には民主主義はもはや見当たらない」とする一般大衆が皮膚感覚で感じていたことは、こうして見ると、学術的な解析の結果からも正しかったのである。

著者は一般大衆は現行の政治体制では政策を決定する影響力を持ってはいない、影響力を実現するには集団的な意思表示をすることが必要だと言っている。

今後の米国社会はいったいどこへ行くのであろうか?選挙を通じて政治体制を米国人の90%の手に平和裏に移行させることはできるのだろうか?

1992年にはロサンゼルスで大規模な暴動が起きた。この暴動は人種差別が大きな要因となっていた。長年にわたって人種差別に不満を感じていたロサンゼルス南部に住む黒人住民は暴徒と化して、ロサンゼルス市警と韓国人経営の商店を襲撃目標とした。仮に持てる者と持たざる者に二分された米国社会でこの種の暴動が起こったとしたら、それは予想し得る筋書きの中では最悪の事態となろう。略奪と暴力の街と化してしまう。そして、お互いに譲歩をしない場合は、一般大衆対米軍の戦いとなってしまうのではないか。

30年近く前の当時の米国と現在の米国との間には大きな違いがある。それは、今や、米国の警察は軍隊のように武装化しているという点だ。米国は警察国家と化したと指摘されてすでに久しい。しかも、その警察が軍隊並みの武装をしているのだ。要するに、上記の引用記事の論調に沿って言えば、新たな政策を導入することでは圧倒的な政治的影響力を有する富裕者層は自分たちを守るために新法を導入し、警察を軍隊並みに武装することで不測の事態に備えるべく準備をして来たのだ。

もしも米国の一般大衆が現行の政治・経済システムを捨てて、新たなシステムへ移行することを選択したら、米国社会は非常に大きな混乱に陥るであろう。米国は銃がいたる所でふんだんに見い出される社会である。一度騒乱状態に陥った暁には一気に狂乱状態にまで突き進んでしまうのではないか。民主主義の理想と現実との間のギャップは大きくなるばかりであることから、起こり得る筋書きについてはまったく楽観視できない。極めて不気味である。

私がここで感じていることはとんでもない間違いであったと断定できる日が早く来て欲しいものだ。



参照:

1Princeton Study: The U.S. Is Not Losing Its Democracy. It’s Already Long Gone: By Richard Enos, Information Clearing House, Nov/22-23/2019







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