「米国人が核兵器に関して考える時、人命に甚大な損傷をもたらすこれら兵器の破壊力のすさまじさは、1945年以降、少なくとも今までのところ、米国内ではその威力を示してはいないとの考えが自分たちに一種の安堵感をもたらす。しかしながら、そのような状況が実際に起こっていたのである。しかも、米国の犠牲者の総数を知ると大きなショックを覚える程である」と、最近の記事
[注1] が報じている。
この報告は多くの人にとっては、特に日本では、意外な事実であるかも知れない。その一方、これは核兵器製造工場が立地する米国の地方都市やネバダの核爆発実験場の風下地域では周知の事実であった。この種の報告はこれが初めてということではなく、今までにもさまざまな形で報告されている。
それでは、この記事を仮訳して、読者の皆さんと共有したいと思う。
<引用記事>
Photo-1: 核兵器
米国人が核兵器に関して考える時、人命に甚大な損傷をもたらすこれら兵器の破壊力のすさまじさは、1945年以降、少なくとも今までのところ、米国内ではその威力を示してはいないとする考えが彼らに一種の安堵感をもたらすようだ。しかしながら、実際にはそのような状況が起こっていたのである。しかも、米国の犠牲者の総数を知ると大きなショックを覚える程だ。
この指摘はマックラッチ―・ニュースの調査報道ジャーナリストのチームによって行われた調査の成果であって、最近発表された。膨大な数の政府の記録を調べ、数多くのインタビューを行って、米国の核兵器工場が1945年以降採用した労働者の間では107,394人が癌あるいは他の深刻な疾病に悩まされることになったとこの調査チームは結論付けている。この10万人を超す人たちの内53,000人が仕事場で過剰な放射線被ばくを受けたとして政府による認定を受け、「エネルギー産業従業員に対する職業病補償プログラム」の下で総額120憶ドルの補償金が彼らに支払われた。これらの労働者のうちで33,480人が死亡した。
この状況はいったいどのようにして起こったのであろうか?バイロン・ヴェイグナーの場合はどうであったのかを調べてみよう。彼は、1975年の10月、サウスカロライナ州のサバンナリバーに所在する核兵器工場で茶色の汚泥が自分のオフィスの壁を突き破り、仕事机の側に溜り始めるのを目撃した。この汚泥はプルトニウムを含んでいた。その後、彼は乳癌を発症し、呼吸機能が衰弱する慢性ベリリウム症を併発した。ヴェイグナーは癌を治療するために病巣を切除した。最近は酸素補給を行っており、ほとんどの場合100フィート(30メートル)以上を歩行することは出来ない。自分はもう死ぬ用意ができていると言い、彼は自分の遺体を科学研究のために提供したいと申し出ている。そうすることによって、致命的な放射線被爆に晒されてしまった人たちの命を救えればいいな、という希望を抱いているのである。
核兵器工場の従業員は、実際には、核戦争のための準備をすることによって生命の危険に晒されることになった米国人の中ではほんの一部を占めるに過ぎない。米保健社会福祉省が作成した2002年の報告書によると、1951年から1963年までの期間だけでも、米国がその半分以上に関わっていた大気圏内での核爆発実験が癌の発症をもたらし、11,000人の米国人が死亡した。この推定値は放射性粒子を吸い込んだり、飲み込んだりすることによる内部被ばくによる死者を含んではいないことから、エネルギー環境研究所は核実験に起因する実際の癌による死者数は17,000人に達するとしている。核実験によって癌を患った人たちの数は、もちろん、実際に死亡した人たちの数よりは多い。政府の調査によると、少なくとも80,000人の米国人が癌を発病したと推定されている。
これらの米国人はどういう人たちだったのか?多くの人たちは核実験場の「風下」に位置する市町村に住んでいた。これらの地域は風によって運ばれて来た放射性降下物によって致命的な汚染を受けたのである。1950年代、米国政府はネバダ州の核実験場で100回近くもの大気中核実験を実施した。放射性の微細粒子の約30パーセント近くはこれらの市町村に風に運ばれてやってきた。この地域には約100,000人が住んでいた。ユタ州のセントジョージ市の住民たちは「ピンク色の雲」が彼らの生命を脅かすことになったと今思い起こしている。彼らは降下物が降りしきる中で作業をし、その中を歩き回り、それを呼吸し、その中で洗濯物を乾燥させ、それを食べたのである。「小さな子供たちは雪を食べていた」と住民の一人は当時を回想する。「子供たちは後に命を脅かされることになるなんて知る由もなかった。」
何十年かにわたってネバダの核実験場に隣接する地域では白血病や癌の発症率が急上昇した。また、米国の核兵器の爆発実験に曝された250,000人の米兵にも同じことが起こった。米軍の将官らの立ち場からは、核戦争のための準備を進めるには核爆発現場の近くに将兵たちを配することが不可欠であった。その後、これら米兵の間では多くが発癌し、生まれてきた子供たちには先天異常が発生、あるいは、死産となった。彼らやその家族は自分たちの苦しみに対して政府が医療支援や経済的支援を実施するよう求めて、被爆兵士のための組織を立ち上げた。今日、被爆兵士たちは連邦政府からそれらの二種類の支援を受けている。
ウラニウム鉱山の労働者たちは米国の核兵器製造計画によって被害を受け、死亡していったもうひとつの米国人グループである。核兵器を製造するのに必要なウラニウム鉱石を入手するために、米政府は何千か所もの鉱山を運営した。これらの場所は、多くの場合、アメリカ先住民が居住する地域であり、多くの先住民たちが鉱山で働き、若死にした。米公衆衛生局および国立公衆安全保険研究所はウラニウム鉱山の労働者について調査を実施し、肺癌や他の肺疾患、白血病、肺気腫、血液疾患、および、怪我による死亡率が異常に高いことを発見した。加えるに、ウラニウム鉱山が掘り尽くされた場合、あるいは、何らかの理由で閉山された場合、これらの鉱山は露天掘りのまま放置され、これが周辺の居住地域の大気や土壌および水源を放射能と重金属で汚染した。
この米国における核災害は過去の出来事だけではなく、将来ともずっと継続するものと推察される。米政府は核兵器の「近代化」のために1兆ドルのプログラムを最近開始したばかりだ。これには核兵器や核弾頭の工場および研究所の新設が含まれ、新たな核兵器や核弾頭を量産し、陸海空からの発射実験を行うことも含まれている。もちろん、これらの核兵器が用いられ、海外の敵国の核兵器も用いられた場合には、世界は壊滅する。しかし、たとえ核兵器が戦争で用いられなくても、ここで見て来たように、高い代償を強いられることになる。それは米国においてだけではなく、世界中の国々においても起こるのである。
人々はいったいどれだけ長くこの核による悲劇を許容し続けるのだろうか?
著者のプロフィール: ローレンス・S・ウィッターはニューヨーク州立大学アルバニー校の歴史学の名誉教授。彼の最近の書籍は大学の企業化および反乱を風刺したもので、その書名はWhat’s Going On at UAardvark?
<引用終了>
私だけではなく、読者の皆さんも米国における核兵器製造計画による犠牲者の数が想像を絶する程に大きいことに気付かれたことと思う。
核兵器工場では放射能により33,480人が死亡したという。また、大気中核実験によって17,000人もの一般市民が白血病や他の癌で死亡したと推測されている。これらふたつの数値だけでも、その合計は50,000人を超す。
さらには、ウラニウム鉱山での放射線被爆による犠牲者、ならびに、核戦争時の戦術を練るためにモルモット役を与えられ、核爆発実験場の近くに配備されたという米兵らの犠牲者がこれらの数値に加わってくる。総死者数はいったいどれだけ多くなるのであろうか?
1986年に旧ソ連邦で起こったチェルノブイリ原発事故による犠牲者についてはさまざまな形で多くの情報が入手可能となっている。本ブログでも、2013年6月24日に「低線量地帯からの報告 - チェルノブイリ26年後の健康被害…」と題して、放射線の長期的な影響について記述した。
その一方、ここに引用した米国の原爆製造工場での被爆およびネバダで行われた大気中核実験の影響によって風下の住民が被った被害については、今や、忘却の彼方へ置き忘れてしまったかのような印象を受ける。主要メディアが報告する情報だけに頼っていると、何も知らないまま素通りしてしまいそうだ。
広島や長崎へ投下された原爆によって、日本は悲惨な民族的体験をした。しかし、それだけではなく、我々日本人は2011年の福島原発事故で放射能の恐ろしさを改めて身近に感じる羽目に陥った。しかも、福島原発事故による放射線被爆の健康被害は今その潜伏期間が過ぎて、甲状腺癌が表面化しつつある。日本の苦悩はこれからが本番である。
それに追い打ちをかけるかのように、原発の再稼働によって放射性廃棄物は増加するばかりとなる。これはもうひとつのとてつもなく大きな不確定要素となるのではないか。日本は地震国であるので、日本人にとっての最大の懸念は福島原発事故のような過酷な事故が何処かで再び起こる可能性があり、それを否定し切れないという現実にある。そして、米国での放射線被爆やチェルノブイリ原発事故で観察されているように、健康被害は何十年と、最悪の場合は何世代にもまたがるような長い期間にわたって続くのである。
♞ ♞ ♞
ここで、ネバダの核実験場の「風下」に住んでいた住民たちの証言
[注2]
をもう少し詳細に調べてみよう。
福島原発事故の結果、今、甲状腺癌が表面化しつつある。日本の苦悩はこれからが本番である。つまり、今後何十年という長い年月にわたって日本の社会はさまざまな形で苦難を背負い続けることになると予測される。半世紀以上も前に米国で起こり、今でも尾を引いている大規模な放射能による健康被害がどのように展開したのか、その実態を学んでおくことは、広島や長崎での原爆被爆体験と並んで、非常に大切であると思う。
ここに引用する原典は一冊の書籍であるが、インターネット上でも掲載されており、入手可能となっている。このブログでは、大気中核実験の風下に住んでいて放射性降下物の被害にあった人たちに関する記録の部分を仮訳してみる。
米国政府は原爆実験計画に踏み出した。1950年代から1960年代の初期にかけて200個以上の核兵器が爆発実験に供され、巨大なキノコ雲を太平洋やネバダの上空へ巻きあげた。これらの原爆(水爆を含む)の爆発力の合計は、公式記録によると、9万キロトンにもなり、広島型原爆の約7000個分に相当する。
ここで、ネバダの核爆発実験場の風下にあった地域で実際に原子雲が通過した場所を把握しておこう。下記のマップを見ていただきたい。全米のいたるところで所謂「風下の住民」が発生していたことが分かる。
Photo-2: ATOMIC VETERAN OF AMERICAのウェブサイトから転載。このマップは大気中核実験が行われた1950年代から60年代の初期にかけて少なくとも1回は原子雲が通過した場所をプロットしたもの。
<引用開始>
風下の住民:
ネバダ州での核実験によって生じた大きな原子雲は何時ものようにエンタープライズ [訳注:2010年の国勢調査によると、人口は1,711人] の町を襲った。こういった地方集落は小さいが、生産性の高い農場に囲まれ、乾燥した放牧地にはあちらこちらにヤマヨモギやジュニパーの木が生えている。ユタ州の南西部に位置し、核実験場からは100マイル(160キロ)以上も離れている。
核実験が開始された年、エンタープライズの近くで男の子が生まれた。名前はプレストン・トルーマン。彼の両親は放牧や農業に従事しており、プレストンが歩き始めた頃にはもう乗馬を教えていた。「今も思い出すことができる」と、彼は言う。「何度となく家族の皆と同じ時刻に起き出して、親父の農場へ車で出かけ、112マイル(179キロ)も離れたネバダの核実験場で閃光がひらめき、西の空が明るくなるのを見たもんだ。時にはここまで届くような爆発音も聞いたことがある。少し時間が経って、午前中に雲がやって来るのを何回か見たことがある。でも、子供にとってはそんなことは何も特別な意味を持っているわけではない。当時、核実験はわれわれの生活の一部にさえなっていたんだ。」
[6]
中学生の頃、プレストン・トルーマンは一種の癌であるリンパ腫に罹っていると診断された。その後の13年間に受けた化学療法や他の治療法のために約10万ドルを費やした。他の風下の住民の誰もがそうであったように、政府からは一銭の支援もなかった。しかし、トルーマンは比較的幸運であった。1980年、彼はこの通常は致命的なものとなるリンパ腫から回復したのだ。彼が子供だった頃エンタープライズの近傍に住んでいて彼の友達であった9人の子供たちの間では28歳の誕生日を迎えたのはトルーマンだけだった。皆が白血病や癌で死亡してしまった。[7]
トルーマンや他の人たちにとっては核実験が潜在的に致命的であることは直ちに明らかになったわけではない。特に核実験が開始された直後の何年間かは政府の信頼性には自信があった。「最初の頃はカーニバルのような雰囲気であって、ラジオは実験後は原子雲がどの方向へ流れるかを伝えていた。でも、何時も危険はないと言っていた」と、トルーマンは思い出しながら言う。「しかし、そういう状態がずっと続くことはなかった。」[8] 最初の放射線への被爆から何らかの病気が発症するまでの期間、つまり、潜伏期間はもう終わろうとしていた。
プレストン・トルーマンの脳裏に何時も決まって鮮明に蘇って来るのは彼が5歳の頃のある日の出来事だった。エンタープライズの幼い子供たちにとっては状況はまったく良くないということを彼は耳にした。「ある日の朝、友達と一緒に炭酸飲料の空き瓶を現金化しに出かけた時、俺たちと同じ年頃の子供が白血病で死にそうだと町の人たちが話しているのを聞いたんだ。何でも、鼻血を出したり、さまざまな症状に苦しんでいると耳にした。これは大変なショックだった。友達と話していたことを良く覚えている。もっと知りたかったんだ。子供が死ぬなんてことは俺たちはまったく知らなかった。そんなことって見たことも聞いたこともなかったのだ。」[9]
エンタープライズから東へ40マイル(64キロ)離れたシーダー・シティーでは、ブレインとロアは1965年に12歳の娘を埋葬した。彼女は白血病で亡くなってしまった。このジョンソン夫妻の自宅の周辺では、半径で約200ヤード(180メートル)の地域で12年間に7人も白血病で死亡した。 [10]
さらに隣の大きな町、州間高速道路の15号線に沿って北東へ20マイル(32キロ)程に位置するパローワンの町の辺りには敬虔なモルモン教徒が住んでおり、この町もひどい被害を被った。1978年、フランキー・ロー・ベントリーは自分の母と継父を1年の間に次々と癌で失い、パローワンからパラゴナ、さらには、サミットに達する地域では150人以上もの人たちが癌の犠牲者となった。隣のネバダで核実験が行われていた頃のこの地域の人口は約1,400人だった。地域住民の間では喫煙者は非常に少ないことから、癌による死亡は特に大きな驚きであった。「こんな小さな地域でこのように数多くの癌が発症するなんて驚きだわ」と、地方新聞の紙上で彼女が言った。「今や、この町では親戚の間で一人も失ってはいない人なんて誰もいないわよ。それどころか、何人も癌で亡くしているんです。」[11]
パローワンに所在する「アイアン・カウンティー銀行」のオフィスでフランキー・ロー・ベントリーの同僚であったウィルマ・ラモローは1960年に15歳の息子、ケネスを白血病で失った。[12] 2年間に、パローワンとパラゴナでは4人の若者が白血病で亡くなった。[13] 総人口が約1,000人の小さな地域社会にとって、これは恐ろしいほどの高率である。普通だったら、医療統計の専門家は1人の白血病の発症さえも予測し得ないであろう。[14]
彼女の息子が白血病で亡くなってから18年後、ウィルマ・ラモローはこう言った。「何らかの不正行為があったんだわ。(政府の)過失のせいで息子を亡くしたと思うと、苦痛はもう軽減するどころじゃないわ。」 さらに、彼女はこう付け加えた。「私は扇動家か何かになろうとしているわけじゃないのよ。ただ、子供たちの世代がこのような苦痛を味わうことがないようにと願うだけだわ。癌による死は長い闘病生活を強いるし、苦痛を伴い、長々と続くのよ。」[15]
直ぐ近くのエスカランテ・バレーでは、核爆発実験が始まってからの公式記録によると63例の「自然死」のうちで48例が癌によるものであった。これは異常に高い比率である。[16]
心配事は他にもあった。シーダー・シティーで1950年代から1960年代に高校を卒業した男子生徒の5分の1は無精子症で [17]、大家族を養うことを聖なる指示によるものとして受け止めるモルモン教の文化においてはこれは特に深刻な状況であった。また、子を持つ親となった者たちは遺伝子損傷が心配の種だった。
1950年代にユタ州の南西部で10代を過ごしたエリザベス・カタランは自分の父親を白血病で亡くしたが、彼は当時まだ43歳だった。そして、妹を甲状腺肥大による合併症で亡くした。残された妹の娘の記憶が蘇って来る。「私の美しい姪、つまり、ケイの娘のことですが、その子が先天的な障害と闘っている様子を私は見ているわ。彼女の神経腫は舌の2倍にも腫れ上がって、彼女の首の中側から肩にかけて雑草のように大きくなっていたわ。」 [18] エリザベス・カタランは一緒に大きくなった少女たちのことについても思いを馳せる。今や婦人となっている彼女たちは流産の後遺症や子供たちの先天的障害と闘っているのだ。
べス・カタランが妊娠した時、胎児は子宮の中で溶けてしまった。「私がいつも抱いていた願いのひとつは母親になることだったわ」と、ワシントンで行われた「市民による調査委員会」で彼女は述べた。また、こうも付け加えた。「ガイガー・カウンターを私の体に当てて計測しようとすると、カウントが直ぐに始まる程だわ。」
[19] 彼女はもう子供を産むリスクは避けることにした。
まるで絵に描いたような景色に恵まれた谷合いに抱かれ、べス・カタランの故郷であるセントジョージでは長い間誰もがその土地が惜しみなく与えてくれる恩恵に浴して来た。末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長であったブリガム・ヤングがセントジョージで冬を過ごした頃から、この町はモルモン教徒がユタ地域を「シオンの地」となぞらえる理由を典型的に支えるようになった。冬期間であっても暖かい気候に恵まれ、誇らしげに大学を擁し、20世紀半ばのセントジョージは生活を送るには物静かで牧歌的な地でさえもあった。
まるで絵に描いたような景色に恵まれた谷合いに抱かれ、べス・カタランの故郷であるセントジョージでは長い間誰もがその土地が惜しみなく与えてくれる恩恵に浴して来た。末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長であったブリガム・ヤングがセントジョージで冬を過ごした頃から、この町はモルモン教徒がユタ地域を「シオンの地」となぞらえる理由を典型的に支えるようになった。冬期間であっても暖かい気候に恵まれ、誇らしげに大学を擁し、20世紀半ばのセントジョージは生活を送るには物静かで牧歌的な地でさえもあった。
風上で核実験が始まってから約30年も経ったある快晴の日、イルマ・トーマスという73歳の婦人はセントジョージのイースト・タバナクル通りの小奇麗な家の表の扉を開けてくれた。彼女はメモ帳やテープレコーダ、カメラを携えて州外からやって来る研究者らを迎え入れることにはすっかり慣れている風であった。
イルマ・トーマスは近隣で悲劇の報を聞き、不安でいたたまれなくなり、ろくろを片付けてしまうまでは手製の焼き物を作っていたものだ。出来上がった焼き物を収めている幾つもの棚がある部屋に続く彼女の居間で彼女は客人たちに椅子を勧めた。2-3の質問を受けて、彼女は悲痛な現実について喋り始めた。すっかり打ちのめされてしまった町、この地域全体についての話だ。
「私たちは単なる数字でもなければ、統計の値でもないわ。私たちはこの通り人間よ」と、たくさんの家族の写真で飾られている壁の方へ向かって、彼女は言った。話を進めるにつれて、彼女の言葉は苦痛や怒りと脆弱さとの組み合わせによって織り成されて行くかのようであった。彼女は自分の背中に広がっている皮膚癌については何も言わなかった。時には、彼女は笑った。それは怒りや苦悩の合間に表面へ出てくるものであって、抑えようもない生に対する活力の現れのようなものであった。彼女は身の周りにある苦痛について喋った。癌に冒されている夫、彼女の娘は神経系統を冒され、崩壊寸前であった。娘の子供たちは血液に損傷を受けていた。死産、子宮摘出、流産を経験した。彼女の弟は骨癌でこのインタビューから1年も経たないうちに死亡する運命にあった。[20]
彼女は住宅地帯に点在する隣の住宅に向かって壁の向こう側を指さした。彼女の自宅から半径がひとつのブロック程の地域に住んでいる癌患者を31人もリストアップしていた。[21] モルモン教徒が大多数を占めるこの地域では喫煙者は非常に稀である。
「子供を失ったことに対しては補償なんて誰にも出来ないわよ。彼ら(政府)はそのことをはっきりと認識して欲しいわ」と、両手を膝の上で組んだまま彼女が言った。「私たちの世代はあたかも道端で倒れてしまったようなものだわ。」[22]
時には彼女の特徴のある笑声や沈黙に遮られながも、彼女の目はしょっちゅう涙で一杯となった。イルマ・トーマスは自分の国の政府によって原爆を投下されたに等しいこの町に住むことについて自分が感じるままを喋ってくれた:
私たちはこの現実のすべてを受け入れたわ。相手は自分たちの政府だし、私たちは現実を受け入れたのよ・・・ 最初は皆の癌が核実験と関連しているとは思わなかった。しばらく時間がかかったわ。このことについて私は2年間もあれこれと調査したわ。その前にも私の心配は何年にもわたって続いていたわ。セントジョージの人たちは、1953年の核実験の後、何人かは少し神経質になって・・・ 皆は洗車をしなければならなかったわ・・・ 原子力委員会の人たちが私たちをなだめようとしてやって来たり・・・ でも、結局、核実験のせいで数多くの人たちが亡くなってしまった。そのことに気が付かないままで済ませるにはめくらで、耳も聞こえず、まったくのおバカさんでなければならない程です。背筋が寒くなって来るわ・・・
子供を育てるために働いて来たわ。後になって、こんなことが起こったことに気が付き、私は激怒して、もう耐えられない程だった。ひどく取り乱して、イライラして、耐えられそうもなかった・・・ 犠牲者は誰もが激怒していたわよ・・・ この辺の土地は放射能ですっかり汚染されてしまった。そして、放射能は何処へも行かないで、そのまま残っている・・・
私のお気に入りの格言のひとつは「お喋りが多すぎる。頭へ石を投げておやり」・・・ 私はあちらこちらで、あらゆる場所で、誰かが私のいう事を聞いてくれるまでは相手を叩き続けるわ・・・ 私に出来ることってここで喋ること。この家で喋ることだわ。私に出来ることは私流に行動することだけ・・・ 私たちがどれだけ長く苦しんで来たかを見てくださいな。30年よ!誰も覗きに来ようともしない。昨年、議会の公聴会が開催された時、あれは政治家のために開催された大きなショウのようなものだと皆に向けて言ってやったわ・・・ 公聴会では「核分裂」や「核融合」
[ドワイト・アイゼンハワー大統領からの秘密の指令] によって私たちを混乱させようとする政府が表へ出て来たわ。あの偉大な、年老いた軍人大統領のことだけど、彼を掘り起こして、彼の頭をぶん殴ってやりたい程だわ。[23]
1980年までには、多くの場合、セントジョージとその周辺の町がネバダの核実験場からの放射能を帯びた雲で被害を受けた中心的な場所として全米で知られるようになった。しかし、核実験による降下物はユタ州の南部だけに限られていたわけではない。セントジョージから北東に200マイル(360キロ)以上も離れ、プロヴォとソルトレーク市との間に位置するプレザントグローブの町には数千人が住んでいた。1980年に連邦裁判所に提出された宣誓供述書によると、1960年代、プレザントグローブの町の住民の間で10人が白血病で死亡した。これらの白血病による犠牲者の内で7人は子供だった。[24]
ネバダ州の核実験場からはさらに遠隔の地となるが、ユタ州の北東部に広がるユインタ山地は原爆の地上爆発実験が行われた場所からは400マイル(640キロ)も離れてはいるものの、ここでも深刻な影響が報告されている。ユインタ山地は降下物を「掃き集める効果」をもたらし、降下物をユインタ山地から麓に広がる酪農地帯の牧草地に運んだ。1980年の夏の連邦地方裁判所への告訴状は、政府はこの地域で起こった放射能によるミルクの汚染やその結果起こった癌の発症について責任をとるべきだと主張している。[25]
原告の一人、デビッド・L・ティモシーはユタ州北東部の山地の酪農家で育った。彼が19歳の時、彼の甲状腺に癌が見つかった。甲状腺には降下物の一部である放射性のヨウ素131が蓄積することが知られている。1981年、8回もの甲状腺手術を行った後、ティモシーは「州内でもっとも汚染がひどいホットスポットが当局者ばかりではなくメディアによっても無視されていたとはどういうことなんだ」と、怒気を含めて問うた。[26]
ローズ・マッケルプラングもアリゾナ北部に位置するフレドニアの町に対する関心の欠如を不思議に思っていた。この町は核実験場からは約200マイル(320キロ)の距離に位置している。ユタ州との境の向こう側に位置するセントジョージへやって来る全米のジャーナリストたちは放射性降下物に襲われたフレドニアの住民に起こったことについては関心を払わなかった。このフレドニアでも、決まったように町の上空を原子雲が通過していったのである。
ローズ・マッケルプラングもアリゾナ北部に位置するフレドニアの町に対する関心の欠如を不思議に思っていた。この町は核実験場からは約200マイル(320キロ)の距離に位置している。ユタ州との境の向こう側に位置するセントジョージへやって来る全米のジャーナリストたちは放射性降下物に襲われたフレドニアの住民に起こったことについては関心を払わなかった。このフレドニアでも、決まったように町の上空を原子雲が通過していったのである。
物静かな話しぶりで、控えめで、モルモン教会に献身的なローズ・マッケルプラングは決して忘れることが出来ないことがあり、そのことを喋ってくれた。「夫と私は1948年にフレドニアへ引っ越して来ました。ここは小さな町で、すごく幸せな雰囲気でいっぱいでした。この町が気に入りました。誰もが菜園や果樹園を持ち、牛を育てています。かなり多くの人たちがそうしています。食べ物を瓶に詰めたり、食品を保存します。小さな地域社会における生活そのものという感じでした。」[27]
ローズ・マッケルプラングの夫、ゲイネルドはフレドニアの公立学校の先生になった。フレドニアでは農業や家畜を育てることと並んで林業が経済を支える重要な存在であった。
「当時、ネバダ州で核爆発実験を開始した頃、爆発が行われるのは明け方で、こんなに大きな光を見ることができ、それから地面が揺れたものだわ。大きなキノコ雲が上へ上へと立ち上がるのを見ることが出来て、すごく興奮したことを覚えているわ。でも、健康に対する影響なんてまったく何も知らなかったんです。私たちに分かっていることと言ったら、核実験は本当に私たちのために役立ち、政府が行っていることは何かのためなんだ、私たちのためなんだと思っていました。私たちは政府を信頼していました。結局のところ、政府は私たちの面倒を見ようとしているのだから、あれは必要なことなんだと勝手に理解していました。政府の人たちは市民の上に立っており、あの人たちは健康のために必要なことは何でも面倒を見てくれると。あるいは、まったく別な風に・・・ 私たちは何の心配もしてはいなかったんです。」[28]
1960年、フレドニアの人口は643人だった。1965年までに、4人が白血病で亡くなった。トラックの運転手は48歳で亡くなった。14歳の少女も死亡した。森林伐採用のクレーンを操縦する男は36歳で亡くなった。フレドニア公立学校の管理者でもあったゲイネルド・マッケルプラングは43歳で死亡した。米公衆衛生局の白血病を担当する部長、クラーク・W・ヒース博士による機密のメモによると、「この白血病による死者数は予想される数値よりも20倍も高い。」 [29] 1950年から1960年までの全期間にわたってフレドニアでは白血病による死亡報告はゼロであった。1966年8月4日の日付がついたこのメモには「業務管理用」、「公開厳禁」とのスタンプが押され、連邦当局の伝染病本部長へと送付された。[30]
白血病に冒されていることを知って間もなく、ゲイネルド・マッケルプラングは死亡した。残された彼の妻は思い起こす。「医師たちは病状が想像よりも遥かに進んでしまっていると言っていました。正直なところ、あれは本当にショックでした。私たちは何をしたらいいのかも分からず、何の予定も立てることが出来ずにいました。まったく何も。家には6人の子供たちがいて、7人目が6週間後には生まれてくる予定だったんです。」[31]
フレド二アでは癌はもう日常茶飯事となっていた。ローズ・マッケルプラングはハイウェイ89号線に沿って点在するいくつかの町の名前をスラスラと並べた。カナブ、オーダーヴィル、グレンデール。これらの町では癌や白血病が起こっていた。「何人かが白血病で亡くなり、癌が多発していました。それですべてが終わったというわけではなく、今も続いているんです。」 連邦当局は責任をとる事を拒み続けていた。「私を間違いなく怒らせたことがひとつあるんです」と、彼女は言った。「それは、核実験は危険だと私たちに伝える代わりに、彼らは何時も決まってそのことを否定して来たんです。彼らは自分たちの過失ではないと言うんです。」[32]
6. Citizens'
Hearings, pp. 8-9.
7.
Preston Truman, interviews, February 1980, December 1980, June 1981.
8. Citizens'
Hearings, pp. 8-9.
9.
Ibid.
10.
The Tribune (Salt Lake), Associated Press, November 21, 1978; Loa
Johnson, interview, June 1981.
11.
Color Country Spectrum (Utah), December 22, 1978.
12.
Ibid.
13.
The Tribune (Salt Lake), Associated Press, November 21, 1978.
14.
Clark W. Heath, Jr., M.D., Chief, "Subject: Leukemia in Fredonia,
Arizona," U.S. Public Health Service Memo, Leukemia Unit, Epidemiology
Branch, August 4, 1966.
15.
Color Country Spectrum, December 22, 1978.
16.
Samuel H. Day, Jr., "Rebellion in the Rockies," Progressive,
February 1981, p. 9.
17.
Ibid.
18.
Los Angeles Times, April 11, 1980.
19.
Citizens' Hearings, p. 6.
20.
Irma Thomas, interview, February 1980.
21.
Ibid.
22.
Ibid.
23.
Ibid.
24.
The Tribune (Salt Lake), May 17, 1980.
25.
The Tribune (Salt Lake), August 13, 1980.
26.
David Timothy, interview, January 1981.
27.
Rose Mackelprang, speech to National Conference for a Comprehensive Test Ban,
University of Utah, Salt Lake City, December 12, 1980.
28.
Ibid.
29.
Heath, "Subject: Leukemia," August 4, 1966.
30.
Ibid.
31.
Rose Mackelprang speech.
32. Ibid.
<引用終了>
「子供を失ったことに対しては補償なんて誰にも出来ないわよ。彼ら(政府)はそのことをはっきりと認識して欲しいわ」という母親の言葉は痛烈そのもので、この言葉を聞くことになった政府職員には応答のしようがなかったのではないか。また、米政府に対する盲目的な信頼が完璧な不信感へと変化して行った過程はまさに日本における原発の安全神話の崩壊の時と酷似している。
参考のために、その後の情報を下記に掲載しておこう。(引用部分を斜体で示す。)
1984年5月10日、米連邦地方裁判所のブルース・S・ジェンキンス判事は1950年代の地上核爆発実験による放射性降下物が10人の住民に死をもたらしたが、政府はこの実験を行った際に十分な配慮をすることを怠ったことに関しては責任がある、と裁定した。これはネバダの核実験が住民に癌を引き起こしたことについて政府の法的責任を結論付けた最初の裁定であった。同判事は、政府は核実験の際に風の通り道となるネバダやユタ南部およびアリゾナ北部の住民に対して警告を発することを怠たり、核爆発地点から遠い地点においても放射能測定を行うことや汚染を最低限に抑えるために住民に対して十分な情報を提供することを怠った、と断定した。
1990年、米国では「放射能被爆者に対する補償に関する法律」(「風下住民法」とも称される)が制定された。
2010年7月の時点で、米法務省によると、核兵器の開発過程において、ならびに、核爆発実験の結果放射性降下物に曝され、健康問題を引き起こした22,716人の犠牲者やその家族に対して総額で15億ドルの補償金が支払われた。風下の住民としてはネバダやユタおよびアリゾナの住民が含まれている。補償金の約半分は風下の住民に支払われた。それ以外では地上爆発実験に従事した労働者やウラニウム鉱山の労働者および鉱石の運搬に従事した労働者たちが補償の対象となった。[注3]
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ここまでで分かったことがひとつある。米国においても、日本においても、政府が住民の安全性を議論する時は政府側は多くの場合受け身になり、住民が受けるかも知れない危険性を過小評価し、安全性を強調する傾向にある。ここに引用した記事に見受けられる地域住民に対する米政府の姿勢と福島原発事故で日本政府が「直ちに健康に影響を与えるものではありません」と繰り返して言っていた状況とは驚くほど酷似している。「ああ、ここでもか」という感じである。
政府側が過小評価するということは政府側は実際には危険性が非常に大きいことを知っているからに相違ない。そう理解しない限り、人の行動論理としては説明がつかない。
そして、もうひとつ。ネバダの大気中核爆発実験の際には米軍の兵士らも現地に配備された。はっきり言って、彼らの任務はモルモット役であった。爆発地点から7マイル(11キロ)離れた場所に数千人もの兵が配備され、2週間程の間に実施された一連の核爆発実験に曝されたのである(ふたつ目の部隊、約8千人の場合には、さらに近くなって4マイル(6.4キロ)弱の地点に配備された)。そして、一部の兵隊は、爆発後2時間以内に、爆発地点から半マイル(0.8キロ)以内にまで行進させられたという。こうしたモルモット役に投入された米兵は合計で250,000人に達したという。
参照:
注1: American Casualties of the U.S.
Nuclear Weapons Program: By Lawrence Wittner,
Counterpunch, Jan/04/2016
注2:KILLING OUR OWN: The Disaster of America's Experience with Atomic Radiation: By Harvey Wasserman & Norman Solomon with Robert Alvarez & Eleanor Walters, A Delta Book, 1982 > PART-I: The Bombs > Chapter-3: Bringing the Bombs Home > Section: Downwind Residents
注3: The United States’ Nuclear Testing
Programme: By CTBTO, https://www.ctbto.org/nuclear-testing/...nuclear-testing/...
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