米国が警察国家になろうとしている、あるいは、警察国家になってしまったとする指摘はさまざまな形で語られ、報告されている。警察国家とは市民生活にいったいどのような影響を与えるのか、その具体的な例を学んでおきたい。
日本では「共謀罪」が徹夜国会の末、6月15日午前7時45分ごろ、参議院本会議で与党などの賛成多数で新しい法律となった。その狙いは国際テロの防止にあると言われている。しかしながら、この新法は乱用される恐れが多分にあって、そのことがこの新法の制定をえらく不安視させる。何と言っても、歴史が教えてくれているのだ。どう見たって、政府当局が反対勢力に対して睨みを利かすために用いることができる格好の法律となりそうだからだ。「平成の治安維持法」ではないかと揶揄されるのも無理からぬことである。
米国の今日の姿が、多かれ少なかれ、日本が辿る明日の姿を映し出している。
そんなことを念頭に置きながら、本日は歯に衣を着せない率直な洞察を述べることで知られている米国の論客のひとり、ポール・クレイグ・ロバーツとジョン・ホワイトへッド共著の記事
[注1]
を覗いてみようと思う。この記事は「もしも現状が自由であり、民主的であるとするならば、専制政治とはいったいどのようなものを言うのか?」と題されている。この表題はすでに多くを語っている。
<引用開始>
「われわれの問題点は大衆が従順であることだ。われわれの問題点は世界中で非常に多くの市民が政府の指導者たちの暴政に対して従順であって、戦場へ出かけ、この従順さのせいで何百万もの市民が殺害されて来たことだ・・・。われわれの問題点は貧困や飢餓、愚行、戦争、あるいは、残虐行為に接したとしても、世界中の何処でも市民が従順であることだ。われわれの問題点は刑務所が軽微な窃盗犯で満杯になっているけれども、とんでもない盗人が国を運営していることだ。このことこそがわれわれの問題点なのだ・・・。市民は従順で、大きな群れを成している。」 これはハワード・ジンの言葉。
[訳注: ウィキペデイアによると、ハワード・ジン(Howard Zinn, 1922年8月24日 - 2010年1月27日)は、ニューヨーク市ブルックリン生まれのアメリカ合衆国の歴史家で、同国内では『民衆のアメリカ史』(A People's History of the United States:
1492 – Present)の著者として名高い。政治学者、社会評論家、劇作家としても活躍]。
もしも本当の姿を知ることができるとするならば、米国人はゲシュタポの監視下に置かれたドイツの市民よりも自由であるとは言えない。「自由と民主主義の国アメリカ」という言葉は世界でも例を見ない大嘘なのである。
国家はいとも簡単に暴政に走る。今日生まれて来る者たちは過去にあった自由については知る由もなく、いったい何を剥奪されたのかについての自覚はまったくない。米国の幾人かの黒人は長い闘争の結果ついに自由を手にしたと考えるかも知れない。しかし、彼らが入手した公民権は「テロ戦争」によってわれわれ皆の手から剥奪されてしまった。今日、米国の黒人は街路上で警察官によって不当に殺害されてしまう。ジム・クロウ法の時代よりも性質が悪い
。
[訳注: ウィキペディアによると、ジム・クロウ法(ジム・クロウ法、英語: Jim Crow laws)は、1876年から1964年にかけて存在した、人種差別的内容を含むアメリカ合衆国南部諸州の州法の総称。主に黒人の、一般公共施設の利用を禁止制限した法律を総称していう。しかし、この対象となる人種は「アフリカ系黒人」だけでなく、「黒人の血が混じっているものはすべて黒人とみなす」という人種差別法の「一滴規定(One-drop rule)」に基づいており、黒人との混血者に対してだけでなく、インディアン、ブラック・インディアン(インディアンと黒人の混血)、黄色人種などの、白人以外の「有色人種」(Colored)をも含んでいる。]
米国の女性たちはついに平等を勝ち取ったと考えるかも知れない。女性は男たちと同様に、まったく平等に、警察官による虐待に曝されるようになった。ジョン・ホワイトヘッドが報告しているように、女性は警察官によって裸にされてしまう。多くの場合、公衆の面前でだ。「ヤクを隠し持っていないかどうか」を調べる一環として、膣さえを調べ上げる。私が若造だった頃は、女性に向かってそのような侵害行為をすることは社会が決して許容しなかったであろう。当事者の警察官や警察署長は解雇され、たとえ訴追されないにしても、怒った男たちに叩きのめされ、血まみれになったことであろう。
残虐な行為が政府によって米国市民の足下へと持ち込まれた。多分、これは1992年に始まったことである。あれはルビー・リッジに住むアメリカ人家族に対する警察官による暴力であって、説明のしようもないような過剰なものだった。ランディ―・ウィーバーの12~13歳の息子が連邦保安官によって背中を撃たれ、殺害された。それから、赤ちゃんを腕にして自宅の戸口に立っていた彼の妻も喉を撃たれ、殺害された。平和そのもののアメリカ人家族を襲ったこの不当な暴力を正当化するものなんて何もなかったが、殺害に関与した連邦保安官らは責任を問われなかった。「市民の代表者で構成されている」議会は公聴会を開いたが、家族を殺害したことに責任を有する筈の連中は議会で「警察を信頼しなければならない」と言った。
1年後の1993年、クリントン政権はテキサス州のワコーで銃撃や毒ガスを用いて新興宗教の一派である「ブランチ・ダビディアン」のメンバーを100人以上も殺害した。
「自由と民主主義のアメリカ」では犠牲者の大部分は女性や子供たちだった。ブランチ・ダビディアンの信者たちは、いささか皆とは違うことを除けば、何も悪いことはしていなかった。連中は誰にとっても脅威の存在ではなかった。しかし、犯罪者的なクリントン政権はブランチ・ダビディアンに対して非好意的な光を当て、彼らは皆とはまったく違うとする描写を執拗に行ったのである。彼らは非合法な機銃を保持している、ひょっとすると機銃を製造しているのかも・・・と言った。彼らは集団生活をし、未成年の女の子とセックスをしている・・・と。
化学兵器を放射する戦車がブランチ・ダビディアンの建物に向かって攻撃を加え、建物が灰燼に帰した時、無知な米国人たちには子供の虐待に対してついに「正義」が行使されたと伝えられたのである。虐待されていたと報じられていた子供たちに対してもこのような「正義」が行使されたことについて異議を申し立てる者は誰もいなかった。
またしても、「市民の代表者たち」は公聴会を開いた。その結果、犯罪者的なクリントン政権ならびにジャネット・リノ(司法長官)は銃の保持に関する法律を犯した者たちに対して行なわれた効果的な処置に関して世論の承認を得たのである。
ルビー・リッジならびにワコーの事件によって、米政府は何の咎めも受けずに数多くの米国市民を殺害することができるという前例を確立したのである。ワコーでは外国人が何人か巻き添えになった。疑う余地もなく米国の市民に対する重大な犯罪である本件に関して行政府の責任を問わなければならない状況を回避するために、「市民の代表者たち」は行政府の嘘を受け入れたのである。これらの連邦レベルの犯罪者らを裁判にかけ、処罰をするべきであった。
これらふたつの事例は米国の市民を意図的に殺害することができるという前例を確立したのだ。
次に続く段階は市民から権利章典や憲法の修正条項にあって、法の執行に組み入れられている、あるいは、組み入れられていた憲法上ならびに法律的な擁護を剥奪することであった。
2001年9月11日に起こった自作自演のテロ攻撃は公民権を剥奪するための道具だった。
ジョージ・W・ブッシュ政権はわれわれの市民の自由を剥奪することによってわれわれを「安全」にした。憲法が存在するにもかかわらず、大統領は独自の判断で米国市民を、証拠もなしに、裁判所へ出頭させることもなく、法律的な説明が皆無であるにもかかわらず、無期限に拘束することができると行政府が表明したことによって自由の基盤であった人身保護令状は完全に反故となった。
オバマ政権は米国憲法を葬り去ることを支持したばかりではない。「米国では初の黒人大統領」はさらにその先へ行った。オバマは大統領府に座り、殺害するべき米国市民の氏名を、説明責任を伴わずに、自分の判断で記す権限を持っていると宣言した。
議会は反論しなかった。最高裁は反論しなかった。米メディアは反論しなかった。大学の法科や弁護士会は反論しなかった。共和党は反論しなかった。民主党は反論しなかった。米国の市民は反論しなかった。ワシントン政府の欧州の同盟国や日本、オーストラリア、ニュージーランド、カナダは反論しなかった。キリスト教教会は反論しなかった。
私は反論した。そして、私と同じように何人かが反論した。たとえば、ジョン・ホワイトヘッドが反論した。
9/11同時多発テロは、疑う余地もなく、アメリカの自由を破壊してしまった。たとえあなたが完全に洗脳されており、この出来事に関してあからさまに嘘だと分かるストーリーを信じているとしても、何人かのサウジアラビア人が、政府や諜報サービスの支援もなしに、16組織もある米国の諜報関係部門、たとえば、NSC、ならびに、ワシントンの同盟国の諜報部門、たとえば、イスラエルのモサド、ならびに、米国の航空管制組織のすべてを出し抜き、同じ日に、たった1時間の内に4回にもわたって米国の空港治安体制を尻目に、米空軍機を発進させ、コースを外れて飛ぶ航空機を仰撃させることに史上初めて失敗させたのだと信じていようとも、事実そのものは何も変わらずに残るのである。米憲法による自由の保護を完全に破壊するために、米政府は9/11
事件を活用した。
「われわれの」政府が米国の自由を破壊したというこの生のままで、醜くく、しかも、本当の事実は、まさに、われわれの誰もがジョン・ホワイトヘッドが下記に描写するような残虐さを経験させられる理由となることだろう。
次は誰かな?あんたかな?あんたの奥さんかな?あんたの息子?あんたの娘さん?それとも、あんたの年老いたご両親かな?
そんなことが起こった場合、それを許したのはまさに米国市民だ。
[訳注: ここからは二番目の著者の記事となります。念のため。]
逃げろ!米警察国家があんたを捕まえに来るぞ!
ジョン・W・ホワイトヘッド著
「われわれは国の関係者が肛門や膣の中へさえも侵入することが可能な事態に到達してしまった。判事はカテーテル検査を強制的に行使する命令書を発行し、警官や医療当事者は本人の同意もなしにスキャンを行い、浣腸を行い、結腸内視鏡検査を行う。これらの行為は中心人物を逮捕し、カルテルを告発するものではなく、最悪の場合であってもせいぜいある程度の量のヤクを局所に隠し持っている連中を探し出すためのものだ。ほとんどの場合、被害者はヤクの所持や使用を疑われる。多くの者は罪のない連中だ・・・。しかし、これらの捜査の手法は、政治家や法の執行者たちから見れば、彼らの敵と見なされる一群の連中に対するものであって、彼らの評判を落とし、彼らに屈辱を与えようとするものだ。」 ― ラドレー・バルコの言葉
【インフォメーション・クリアリング・ハウス、2017年4月19日】 毎日のように、米国ではどこででも、警察の命令に抵抗を示すと、たとえそれが質問をしようとした場合であってさえも、政府が許可する権力の乱用に見舞われかねない。強制的なカテーテル挿入検査や血液採取が行われ、道路脇で裸にされ、取り調べが行われ、局所の検査やその他の不愉快極まりない、品位を落とすような捜査行為が行われる。これらの行為は被害者の身体的な整合性を犯し、彼らを血だらけにし、あざだらけにしかねないのである。
おとなしくしていなかったという理由で、あるいは、規則正しく行動しなかったとか、子供のように振舞った、つまり、十分に従順ではなかったという理由だけで、米国ではたった4歳の子供でさえもが足枷を嵌められ、手錠をかけられ、銃を突きつけられる。
実際に起こったことであるが、政府のソーシャルワーカーは尿サンプルを取れなかったという理由で3歳の男の子にカテーテル挿入を行った。(この男の子の場合、トイレのしつけさえもがまだ始まってはいなかった。)男の子は押さえつけられ、看護婦が彼の膀胱を空っぽにするためにペニスにカテーテルを挿入している間、その男の子は痛みで悲鳴をあげていた。この子の母親のボーイフレンドがヤクの検査のための尿分析で不合格となったことから、この男の子はこれらのすべての出来事に見舞われたのであった。
米国人は、95歳の高齢者であっても、令状について質問をしたり、令状に対して不服従の様子を見せたり、自分たちの家のドアを破って侵入してきた警官を間違って窃盗犯と見なしたがために、つまりは、十分に従順ではなかったという理由だけで殴られたり、射殺されたりする。
デイビド・ダオの事例を考えてみよう。彼はユナイト航空の乗客であったが、3人の警官が近づいてきて、座席からアームレスト越しに強制的に引き出された。この間、彼の顔は血にまみれ、腕を引っ張られて、彼は通路上を引きずられた。彼は航空会社側がそのフライトから彼を降ろして、彼に代わって航空会社の従業員が接続便に間に合うようにと、勝手に彼の座席を選び、彼の座席をその従業員に与えようとしたのである。自分がお金を払い、チェックインをし、搭乗を済ませた自分の座席を彼は諦めようとはしなかったのだ。
注意欠陥過活動性障害や自閉症、聴力障害、認知症、あるいは、コミュニケーションが少しでも妨げられるような障害を持っている人たちは自分の行動が警官によって誤解され、大きな危険をまねく可能性がある。73歳の認知症を患っていた男性は「警官に近づくのは止めろ」、「上着のポケットから手を出せ」と命令されたが、その命令には服従しなかったと報じられている。この男は武器を所持していなかった。単に、十字架を握っていただけであった。
明らかに、あなたが何処に住んでいるのかは、もはや、ぜんぜん関係がない。
大都市、あるいは、小さな町であっても、まったく同じシナリオで事は進み、それは何回でも繰り返される。政府の職員は自分たちに与えられた権限にすっかり興奮し、自分たちの制服の威力に気を奪われ、彼らの目に映る何の権限も持たない市民とは違って、自分たちはスパイク蹄鉄を装着した馬を乗り回しているのだ。
われわれの自由、特に憲法の修正第4条は、政府の官僚たちの間で見られるもっとも中心的な世界観によって、つまり、誰に対してでも、如何なる時点においてでも、物を探し、押収し、裸にし、スキャンを行い、素行調査を行い、徹底的に調べ上げ、衣服の上からたたいてボディータッチを行って、誰であっても逮捕することができ、ほんの些細な挑発に対してさえもそうすることができるのだという世界観によってすっかりバラバラにされてしまった。
局所におけるブツの検査、直腸内視鏡検査、血液採取、呼気中のアルコール濃度検査、DNA採取、眼球スキャン、バイオメトリック・データの登録、等が挙げられるが、これらはほんの一部でしかない。米国人は政府職員と立ち向かう時には自分の体について何が起こるのかに関してコントロールする術はほんの2~3通りしか残されてはいないのだと自覚させられるのが落ちだ。
たとえば、停止信号で完全停止をせずに、車をずるずると前進させていたシャーネシア・コーリーは地面に投げ飛ばされ、衣服を剥ぎ取られ、何時ものように交通を取り締まっていたテキサス州の警官は彼女を道路脇での局所検査へと導き、彼女は開脚させられたのである。彼らが言うには、これらのすべての行為は彼女の車の中でマリファナの匂いがしたからであった。
エンジェル・ドッブスと彼女の24歳の姪であるアシュリーはテキサス州の警察官に停車させられた。車の窓からタバコの吸い殻をはじき飛ばしたからだと言う。マリファナの匂いがすると言って、警察官は彼女らを取り調べ、車内を物色した。ふたりの女性はマリファナを吸ったり、所有したことなんて一度もないと主張したにもかかわらず、その警察官は女性の警察官を呼びだした。女性警察官は道路脇で局所検査を行った。年配の女性の肛門や膣に指を挿入し、次に若い女性に対しても同じことをした。同一の手袋を装着したままであった。マリファナは見つからなかった。
レイラ・タランティーノは通常の交通取り締まりで通過する他の車の眼前で2回も裸にされた。1歳と4歳のふたりの子供は車の中で母親を待っていた。二回目に裸にされた時、ヤクを何とか探し出そうとする余りに女性警察官はタランティーノの局所からタンポンを取り出してしまった。非合法物質は何も見つからなかった。
デイビッド・エカートはウオールマートの駐車場の停止サインで一旦停止を怠ったという理由で、肛門検査を強制され、3回も浣腸を受け、直腸内視鏡検査をさせられた。警察官らはエカートがヤクを所有していると睨んだのである。彼らが言うには、彼は「直立姿勢を保ち」、「両足をタイトにしていた」からだった。ヤクは発見されなかった。
その一方で、ミルウオーキーの4人の警察官は、過去の数年間、路上や警察署内で容疑者に対して肛門検査を行ったとして訴えられた。その内の一人は男たちの肛門や陰嚢周辺についてヤクを物色し、多くの場合、肛門へ指を挿入して、出血を引き起こしたりした。
裁判所によって是認され、立法府によって伝統的に見過ごされて来たこれらの出来事は米国人に、年齢や皮膚の色には関係なく、政府が法や秩序を「追求する」際には限度なんて何もないんだという苦い教訓を教えてくれている。
もしもこれが戦争であるとすれば、「われわれ市民」は政府の敵なのである。
ラドレ―・バルコがワシントンポストに記しているように、「あなた自身が戦争に行ったら、自分の敵を非人間扱いにすることが重要となる。強制的に、しかも、痛みを与えながら、誰かの体へ侵入すること以上に敵を非人間的に扱う手法はない。特に、性器を対象にすることができれば、もっと効き目がある。」
殴られ、銃撃され、からかわれ、調べ上げられ、われわれの集団的良心に激突して来る現状についての教訓はこうだ。あなたの側に正義があるかどうかは問題ではない。警官の行為が不正義があるかどうかは問題ではない。あなた自身にふさわしい尊厳は何も感じられなかった、あるいは、あなたが法的な要請に満たない取り扱いを受けたかどうかは問題ではないのだ。
米国の警察にとって重要なことはたったひとつであって、それはあなたが政府の要人(政府の制服を着ている者、たとえば、警察官、ソーシャルワーカー、下級公務員、あるいは、都市計画の責任者、等)があなたに「こうしろ」と告げたことに従い、それを受け入れ、権力を敬い、一般的に言えば何の疑いも抱かずにそれに従うことにある。
あなたが政府による発砲を許容すると、実際に起こることは政府がより以上に横暴になるってことだ。
歴史が示すように、大惨事に対するこの処方箋は何時もうまく行くのだ。たとえば、自分たちに与えられた権限やバッジの威力に舞い上がっている警察官を取り上げてみたまえ。個人の権利よりもむしろ治安を優先することを示唆する二つ三つの判例を持ち出してみたまえ。終りが見えない戦争やすっかり軍事化してしまった法の執行当局の背景にしたがって治安政策を設定してみたまえ。次に、これらの組み合わせに加えて、娯楽にうつつを抜かし、政府の行動にはまったく関心を払わず、現状に挑戦するのではなく、2~3人の不運な連中が苦しむのをそのまま放置しようとする一般大衆をさらに付け加えてみたまえ。
「過剰な警察権力が自由に対して有害であることはナチの社会だけではない」と、前最高裁判事のフェリックス・フランクフルターが警告している。これは1946年にデイビス対米国の訴訟において彼が述べたことだ。「市民的自由の保護にかかわる率直な関心を軽視することは、特に、それが取るに足りない連中について求められている場合は、ことさらに容易である。非常に簡単だ。歴史が証人である。そういった軽視によって、自由の権利は剥奪されてしまう。最初は無頓着に、それ以降は秘密裏に、そして最後には公然とだ。」
換言すれば、それがナチ・ドイツで起こったならば、当地、アメリカでも簡単に起こるということだ。
それは当地でも起こりつつある。
不幸にも、われわれは余りにも長い間警察国家と歩調を合わせて歩いて来たので、自分たちの革命のドラムに歩調を合わせることなんてすっかり忘れてしまった。事実、その調べに合った言葉はもうすっかり忘れてしまったのである。
われわれは従順に振る舞うことをしっかりと身に付けてしまった。
「われわれ市民」は、実に長い間、憲法に対抗して、政府がスパイクの蹄鉄を付けた馬に跨ることを許容して来た。これらの行為が如何に憲法違反であり、不道徳なものであっても、政府の暴政に目をつぶることは愛国心と等価であると見立てて来たのだ。
これは、まさに、歴史家のハワード・ジンが言っている通りだ:
われわれの問題点は大衆が従順であることだ。われわれの問題点は世界中で非常に多くの市民が政府の指導者たちの暴政に対して従順であって、戦場へ出かけ、この従順さのせいで何百万もの市民が殺害されて来たことだ・・・。われわれの問題点は貧困や飢餓、愚行、戦争、あるいは、残虐行為に接したとしても、世界中の何処でも市民が従順であることだ。われわれの問題点は刑務所が軽微な窃盗犯で満杯になっているけれども、とんでもない盗人が国を運営していることだ。このことこそがわれわれの問題点なのだ・・・。市民は従順で、大きな群れを成している。
いったいあなたはどうする?
答えは簡単であるが、私の本(Battlefield America: The War on the
American People)で書いているように、その結末は命取りになるかも知れない。
従順でいることは止めよう。従順に群れを成すことは止めよう。制服組に卑屈に追従することは止めよう。政府のために働いている人たち、つまり、大統領や議員、判事、軍人、警察官を他の一般市民よりも優れていると見なす誤った考えを永久に守り続けることなんて止めよう。政治を自分の原則で弄ぶことは止めよう。人権に対する政府による嫌がらせや犯罪についてあれこれと言い訳を探すことは止めよう。政府の汚職や悪行、窃盗や殺人行為を見て見ぬ振りをすることは止めよう。政府職員の愚劣さや無能さを許容することは止めよう。政府があなたを二級市民として扱うのを許容することは止めよう。過激派として、あるいは、最悪の場合には売国奴として見られる恐怖のあまりに自分が喋ったり、行動する内容を(自分自身が)検閲することは止めよう。警察国家が仲間の市民を殺害し、略奪し、重傷を負わせているのに、それを脇から静かに眺めていることなんて止めよう。
奴隷でいることは止めよう。
反戦活動家としてのローザ・ルクセンブルグは「動こうとはしない人たちは自分が繋がれている鎖に気付くことはない」と結論した。
あなたはまだ気付いてはいないかも知れないが、あなたは自由の身ではない。
もしもあなたがこれとはまったく異なる状況を考えているとすれば、それは単にあなたが真の自由を行使しようとしたことなんてないからに過ぎない。
あなたは今までにご自分の自由を行使しようとしたことがあるだろうか? たとえば、警察官の権限について疑問を挟むとか、不当な課税や罰金に挑戦し、政府が行っている終りのない戦争に反対し、監視カメラの侵入に対して私生活を干渉されない権利を擁護し、あるいは、政府が他の形で権力を振るうことや一方に偏った現状に挑戦をしたことがあるならば、警察国家というのは自由には何の食指を動かすこともなく、国家に対する抵抗は決して許容しないということをすでに学んでいることだろう。
これは権威主義、あるいは、専制主義、あるいは、抑圧と称される。
グレン・グリーンワルドはガーディアン紙に次のように書いている:
抑圧というのは市民が否応もなく権力に従い、屈服するように設計されている。そのような状態に自らを置こうとする者は、自分たちの権力制度は正当であり、好ましいと考えることによって、それを倒そうとするのではなく、むしろ、それに従うことによって、抑圧を冗長で不要なものとしてしまう。もちろん、このように考え、このように行動する者は抑圧に遭遇することなんてない。それは良心的で、従順な振舞いをすることに対して与えられる報酬である。権力制度は彼らを放っておく。何故ならば、彼らは、さらなる衝動を覚えることはなく、必要とされる自己満足や服従の振舞いに適合してしまうからだ。しかし、良心的で、従順な市民が抑圧を感知してはいないという事実は決して抑圧が存在しないことを意味するものではない。
自分の地歩を保てるように準備しておくか、逃げることにしよう。米国という警察国家があんたを捕まえにくるからだ。
著者のプロフィール: 憲法弁護士であり、著者でもあるジョン・W・ホワイトヘッドは「The Rutherford Institute」を設立し、その会長を務めている。彼の新著「Battlefield America: The War on the
American People」(SelectBooks, 2015)はwww.amazon.comにてオンラインで入手可能。ホワイトヘッドはjohnw@rutherford.orgのアドレスで通信可能。
<引用終了>
これで仮訳は終了した。
何とも恐ろしい。実に恐ろしい米国の現実が報告されている。
ここに引用された記事を読むまでは、私は警察国家と化した米国社会がかくも劣悪な状態にあるとは想像をすることもできないでいた。毎日の生活では、すでに想像を絶するような過剰な警察権力の前で米国市民は成す術を失っている。米国市民は「シープル」と化したのだ。
[注: 英語圏ではsheepとpeopleとを合成してsheepleという新語が現れた。従順な一般市民を指す言葉だ。通常は、政治には無知で、周りから目立つようなことはしたがらない群集心理を示す存在として描かれる]
この記事は実に衝撃的だ。一言で言えば、米国の「自由神話」ならびに「民主主義神話」が音をたてて崩れ去った。
米国の社会はこれから何処へ向かうのだろうか?
米国にべったりの日本の政治指導者に率いられている日本に住むわれわれとしては無関心のままではいられない。
日本の政治では、日米安全保障条約を論じる際、あるいは、環太平洋経済連携協定を論じる際には、政治家は頻繁に日米は同じ価値観を共有すると主張して来た。
そういった議論においては、米国でも日本でも、「自由」や「民主主義」は常に議論の先頭に立って来た。これらの言葉は象徴的な旗手としての役割を担っていたものだ。少なくとも、建前を説明するために美辞麗句が必要とされる政治の世界では・・・。
民主主義では後発国であった日本は自由や民主主義に関して米国のそれを1から10まで学ばなければならないと言わんばかりであった。戦後に義務教育を受けたわれわれの世代は米国発のさまざまなテレビ番組の中に光り輝く民主主義の香りを求め続けて来た。それが何十年も続いた。その過程では米国社会における自由や民主主義に関しては何の批判もせずに、まさに念仏を唱えるかのように、それらを盲目的な従順さで受け入れてきたのである。少なくとも、私にはそう思える。そして、そのような時代は今や完全に終わったと言わざるを得ない。
日本はもはやお手本のない時代に突入したのである。
参照:
注1: If
This Is Freedom and Democracy, What Is Tyranny?: Paul Craig Roberts and John Whitehead, Apr/20/2017, www.paulcraigroberts.org/2017/.../freedom-democracy-tyrann...
のっけから、起きろーと耳元で言われた感じだ。 警官の路上での取り調べなど、人を惨く扱う事を楽しんでいるようにしか思えない。沖縄でも上に従順な制服組が住人らに結構な振る舞いをしているが、人権蹂躙の質はアメリカのようではない。アメリカでは市民が警官の発砲を怖れている事もあり、その優越感から警官の路上での人権蹂躙がすぐにエスカレートしていったのだろうか? 翻訳と解説をありがとうございます。
返信削除岩間和枝さま
返信削除コメントをありがとうございます。
日本の政治家は「日本は法治国家だ」と頻繁に言います。そのこと自体は問題はないですが、法の執行に人権を無視した行為がまかり通る場合、つまり、人権蹂躙がエスカレートした場合は、警察官と言えども法の裁きを受けるのが本当の法治国家である筈です。また、下級審での裁判の結果が最高裁で政治がらみで、判を押したように、覆されてしまうという現実があります。日本は真の法治国家からは程遠いと思えてなりません。民主主義のあるべき姿が実際には定着していない現実があちらこちらで見えます。そういう現実を理解する上で、この米国における実態に関する報告は全体像を見るのに役立ち、貴重な情報であると考えます。幸いなことには、日本では米国のような銃の乱用はありません。しかしながら、非力な一般市民に対する国家権力の横暴さは大なり小なり同一に見えます。今日はそうでなくても、明日は米国のような人権蹂躙の現実に曝されるのかも知れません。
私の個人的な懸念が現実のものにならず、完全に外れてくれれば、嬉しい限りです。