まず、ロシア・ウクライナ戦争に関して米国で今何が起こっているのかを吟味しておこう。
最近、ニューハンプシャー州のゴフスタウンにあるセント・アンセルム・カレッジでCNNのケイトリン・コリンズ記者が会場を埋め尽くした聴衆の前でトランプ前大統領にインタビューを行った。両者の間では極めて興味深いやり取りがあった。
私がもっとも興味を覚えたのはロシア・ウクライナ戦争に関連した次のやり取りだ:
コリンズ:しかし、ここでの問題はあなたが再選された場合、あなたはウクライナに武器と資金を与えるのだろうかということです。
トランプ:私はじっくりと座って、皆さんにこう言いたい。もし私が大統領になったならば、この戦争は1日で、つまり、24時間で決着させる。
コリンズ:この戦争を1日でどうやって解決するのですか?
トランプ:まず、プーチンと会い、ゼレンスキーとも会う。どちらにも弱点があり、どちらにも強みがある。そして、24時間以内にこの戦争は決着するだろう。戦争は終わらせる。絶対に終わらせる。
コリンズ:ウクライナにはこの戦争に勝ってもらいたいですか?
トランプ:私は勝ち負けの観点でこの戦争を見てはいない。私は戦争を解決するという観点で物事を考えている。だから、われわれはこれらの多くの人々を殺し、国家が崩壊するのを阻止するのだ。
コリンズ:あなたは何をしたいのですか?私はそのことについて再確認したいのですが。あなたは・・・の観点では考えてはいないと言いましたよね。
トランプ:しかし、あなたがしなければならないことのひとつは・・・
コリンズ: ・・・が勝つか負けるか・・・
トランプ: あなたは入手しなければならない・・・。ヨーロッパを取り込まなければならない・・・
コリンズ:大統領、そのことについて再確認していただけますか?なぜならば、それはあなたがたった今言ったことは実に重要な声明であるからです。
トランプ:済まないが、もう一度言ってみて欲しい。
コリンズ:ウクライナとロシアのどちらにこの戦争を勝たせたいのかを言えますか?
トランプ:私は皆が死ぬのをやめて貰いたいのだ。皆が死んで行く。ロシア人とウクライナ人が。私は彼らが死ぬのをやめて貰いたいのだ。
トランプ:そして、私はこれを成し遂げる。私は戦争を24時間以内に終わらせる。私はこれを成し遂げるのだ。これを実行することができる大統領としての権威が必要だ。
この種のインタビューでは質問と答えがうまくかみ合わないことがしばしば起こるが、今回のインタビューも例外ではない。視聴率を上げることにしか関心がないCNN記者とトランプ前大統領との視点の違いが極めて鮮明に浮かび上がった。近視眼的なCNNの記者の質問はロシア・ウクライナ戦争にどっぷりと浸かっているバイデン政権を後押しをし、共和党の大統領候補を何とかやり込めようとすることだけに集中した。それに対して、トランプ前大統領の基本的な関心は米国が金喰い虫の戦争から撤退し、国内問題に注力することにある。両者を比べると、明らかに、ロシア・ウクライナ戦争を見る視点やそれを考える精神構造には極めて大きな違いがある。来年の米大統領選について考えれば、民主党や共和党のどちらかを支持する選挙民のことは別の議論として残すとすれば、トランプ前大統領はこのインタビューを通じて浮動票のハートを鷲掴みにしたのではないかとさえ感じられる。
このインタビューから数日後、トランプ前大統領には追い風となる出来事がもうひとつあった。5月16日の報道によると、ダーラム報告書が公開された。これはトランプ前大統領がロシア政府と共謀していたのかどうかに関して3年余りの時間を掛けて調査してきたジョン・ダーラム特別検査官からの最終報告書である。その中で、同特別検査官はトランプとロシア政府との間の共謀を示す証拠は見いだせなかったと報告している。この報告書もトランプ前大統領の選挙戦には追い風となろう。
奇しくも、これらの最近の出来事はロシア・ウクライナ戦争の今後の方向性を示しているのではないだろうか。
情報戦争によって事実が歪曲され、真実は報道されず、一般大衆の洗脳が巧妙に行われ、われわれ一般大衆は洗脳されている事実にさえも気付かないのが現状だ。残念なことには、真実が正しく理解されるまでには長い時間を要する。
ここに、「連中は市民に向かって発砲した ― マリウポリの住民は2014年の戦勝記念日の虐殺を思い起こす」と題された記事がある(注1)。
本日はこの記事を仮訳し、読者の皆さんと共有したいと思う。
大手メディアのプロパガンダに振り回されずに歴史を振り返ることによってロシア・ウクライナ戦争の背景を少しでも客観的に理解することが重要だ。言うまでもなく、この重要性は新型コロナ禍におけるワクチン戦争を通じて学習したばかりである。
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2014年2月に非合法的に権力を掌握したネオナチによって牛耳られたキエフ政権はロシア語の使用を禁止し、ドンバス地域でロシア寄りのウクライナ人を脅迫した。マリウポリの住民たちはウクライナの超国家主義者と軍部が9年前に市内でいかにして戦勝記念日パレードの参加者を殺害し、迫害したのかについてスプートニク社に語ってくれた。
2014年5月9日、キエフ政権は、当時ウクライナ東部の都市マリウポリの市民が戦勝記念日のパレードを開催するのを防ぐために民族主義者や重装備の軍隊を派遣した。この動きは2014年2月のクーデター後に樹立されたウクライナ政権とそれを支援する西側が追求する、厚かましい反露政策の一環として行われた。
関連動画:”How Kiev Nazis Turned Sacred May 9 Victory
Day Into Massacre in 2014”: 0:41, © Sputnik, https://youtu.be/mKYPI1Vra_4
5月9日、ソ連邦崩壊後のロシアの人々は1945年にソ連がナチスドイツに勝利した歴史的偉業を祝っていた。ソ連邦を構成する国家グループからは2700万人の命が奪わた。1991年に旧ソ連邦が崩壊したにもかかわらず、この戦争の歴史的記憶はソ連崩壊後の共和国の住民にとっては長い間強力な統一要因として役立ってきた。
「これはわれわれの祝日であって、われわれの祖父たちの勝利の日だ」と、マリウポリの住民であり、ドネツク民兵のオルガ・セレツカヤ大尉は言う。彼女は2014年5月9日の催事の参加者だった。「私の祖父は大祖国戦争(ソ連の人々がナチスドイツとそのヨーロッパの同盟国と戦った解放戦争に関して用いられる用語 ― スプートニクの注釈)で戦って、戦車長を務め、上級軍曹としてこの戦争の全体を体験し、捕らえられ、脱走し、ベルリンに到着した。彼は戦争について話すのは好きではなかった。この日、5月9日は私たちにとってはファシズムに対する大勝利を祝う祝日なのです。」
2014年2月にキエフで政権を掌握した連中は、彼らの多くがナチスの協力者であるロマン・シュヘービッチやステパン・バンデラのイデオロギー的相続人であり、ウクライナ民族主義者組織(OUN)とその準軍事組織であるウクライナ反乱軍(UPA)の悪名高い指導者でもあったことを考えれば、この休日に対する恨みを隠しさえもしたことはない。
「私の曽祖父は大祖国戦争で戦った。戦争についての彼の話を聞きながら、私は大きくなった。連中はこの日が私たちにとっては神聖な祝日であることを知っていた。そして、連中にはあらゆる方法でこの日を台無しにすることが必要であった」と、2014年5月9日のマリウポリでの催事の参加者であり、ドネツク民兵の経験者でもあり、ドネツク人民共和国(DPR)軍の軍人であるヴィクトルは言う。
Photo-2:マリウポリでの戦勝記念日の祝い ©
Sputnik / Valery Melnikov
マリウポリの擁護者は退役軍人たちを防護する手立てを準備:
「正確に5月9日当日から始まるのではなく、ナショナリスト大隊である「右派セクター」*からは何らかの挑発があることを私は予期して、彼らの攻撃に対して準備をしていた。だから、この話は当日よりも少し前から開始します」とヴィクトルは言った。
マリウポリ住民の懸念は正当化された。つまり、ちょうど一週間前、第二次世界大戦時代の「バンデラ信奉者」の血を引くウクライナの超国家主義者や民兵らは2014年5月2日にオデッサの「労働組合の家」で約50人の親ロシア派活動家を生きたまま燃やし、殴打して、殺害したのである。
OUN-UPAの反乱者たちは一般にバンデラ信奉者と呼称される。彼らは1941年にキエフのバビヤールで約34,000人のユダヤ人を処刑し、1943年から1945年の間にヴォルヒニアとガリツィアで女性や子供、高齢者を含む少なくとも88,700人のポーランド人を相手に行った大規模な民族浄化について特に責任があった。ウクライナの民族主義者たちはユダヤ人やポーランド人、ロシア人、ロマの人々(訳注:「ロマ」とはジプシーの別称)を、ならびに、その他の少数民族を虐殺し、彼らを「人間以下」と呼んだ。バンデラ信奉者は犠牲者を非人間化し、恐怖を引き起こすために犠牲者の遺体をばらばらにした。
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May/02/2023 07:00 GMT
OUN-UPAはナチスドイツと協力したことで有名である。驚くべきことに、キエフの「マイダン革命」では何人かの参加者らは黒やカモフラージュで身を包み、奇妙な数字14/88を施した盾を持っていた。オープンソースによると、14は「白人至上主義者」のコードであり、「88」は暗号化された「ハイルヒトラー!」のスローガンである。(「H」はラテンアルファベットの8番目の文字。) ウクライナの民族主義者のもう一つのお気に入りのシンボルは、同テロ組織がPR目的でブランド変更を行った2022年6月まで悪名高いアゾフ大隊*によって誇らしげに着用されていたナチスのヴォルフスアンゲル記章である。
「私たちは街中に分散配置され、迅速に対応できるグループを持っていた。車のトランクには攻撃を撃退するためのパイプやガラクタが入っていた」とヴィクトルは回想する。「それぞれに市内の特定のエリアが割り当てられた。しかし、その主力はパレードが行われることになっていたマリウポリのレーニン通りに沿って配置された。レーニン通りに沿って車があった。皆は挑発を防ぐ準備ができていた。」
「5月9日の朝から、私たちは第二次世界大戦退役軍人のパレードを守る準備をした」とオルガは言う。「前日、挑発が準備されているというメッセージを受け取り、私たちはこのような対応をした。挑発とは5月9日にマリウポリで退役軍人の列が処刑されるというものであった。このメッセージは法執行官からのものであった。事実、キエフの連中は一日早く到着していた。そして、血腥い挑発を行うよう手配し、退役軍人の列を撃つように命令した。すべての決定はキエフで行われ、この惨たらしい挑発の命令はキエフから来た。」
ヴィクトルとオルガはマリウポリ劇場で自分たちの持ち場を整えた。彼らには、第二次世界大戦中に米国や英国の連合軍とともにナチズムと戦った退役軍人を保護する準備ができていた。
戦勝記念日での虐殺:
戦勝記念日のパレードは退役軍人や他の民間人らが街中を行進することで始まった。
「すべては平和で、すべてが順調で、穏やかだった」とオルガは言う。「このパレードを守るのを手伝う法執行官さえもいた。パレードはナヒモフ通りに沿ってレーニンスキーコムソモール広場の方向に進んだ。」
だが、ある時点で、マリウポリ内務局の地域で彼らは銃撃音を聞いた。
「民間人はすぐにある方向に、警察署の建物に向かって走り出した」とヴィクトルは言う。「われわれは彼らと一緒にそこに急いだ。」
その瞬間、彼女の電話が鳴り始めたことをオルガは思い出す。彼女を呼んでいたのはスラヴィクという少年だった。彼は建物が攻撃され、中には負傷者がいるとオルガに言った。「俺たちをここから出してくれー!」とその少年は懇願した。
その日の早い段階で、右派セクターは戦勝記念日の催事が始まる前にマリウポリ内務局に到着していたことが判明している。右派セクターのナショナリストらはマリウポリの警察が第二次世界大戦の退役軍人の集会を解散させることを要求した。マリウポリ警察はそうすることを拒否。ナショナリスト民兵と法執行官の間の口頭での小競り合いは最終的に銃撃戦へと変わった。
「マリウポリ内務局の建物に閉じ込められた男たちを助けるためにレーニンスキーコムソモール広場から移動した時、ひとつのグループはアパトバ通りに沿って行き、2番目のグループはドラマ劇場の角を回った。その瞬間、ウクライナの民族主義者らがわれわれに発砲した。連中は民間人に発砲した。連中は足や頭を撃ってきた。狙撃兵がひとりいた。一発の弾丸が私の近くの壁に当たったが、私はかろうじて身を翻すことができた。私の目の前で人々が地面に倒れた。カメラを持って歩いているジャーナリストがいた。私の推測では、この状況のすべてを記録していたのは外国人ジャーナリストであったが、彼は私の目の前で殺された。」
「マリウポリ内務局に近づいた時、銃撃が行われているのが見えた」とヴィクトルは続ける。「黒服の男たちが警察署に発砲していた。民間人はそこに行こうとしたが、連中は彼らにも発砲した。われわれは交差点に陣取って、人々が攻撃を受けないように人々が内務局に入らないように誘導した。」
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Regalia: Who Are Right Sector and Neo-Nazi Azov?”: Feb/28/2022,
15:12 GMT
右派セクターの民族主義者は自分たちだけで来たのではなく、ウクライナ軍と装甲車両に支援されていた。
「ウクライナ軍の重火器が通りに現れ、軍服を着た連中が民間人に発砲し始めた」とヴィクトルは言い、多くの人が死傷したと付け加えた。「歩兵戦闘車両(IFV)や装甲兵員輸送車両が現場に到着した時、私たちはわれわれが持っている武器では彼らに抵抗できないことに気付いた。私たちは銃器を持っておらず、数丁のピストルしかなかった。われわれは主として白兵戦の準備はできていた。しかし、彼らが対戦車擲弾発射筒で警察署の建物に向けて発砲し始めたのを見た時、われわれはそこに行くのは危険であることを理解した。われわれは、これらすべてが起こっていた中心地や建物から民間人を引き離し始めた。」
オルガは人々が戦車や装甲車両の前に立って、止めようと試みたことを思い出す。彼らは連中を通過させまいとした。無駄だった。戦車は民間人を押しつぶした。内務総局の建物の近くでの戦いが終わった後、戦車やIFVが街中を走り回り、路上で市民を撃ったとオルガは述べている。
その間、マリウポリの擁護者は警察署の建物に閉じ込められた警察官と民間人を救出しようとしていた。彼らはなんとか建物の裏庭にたどり着き、窓格子にロープを掛けて引っ張り、それを外し、梯子をかけて、閉じ込められていた人たちを救出した。彼らの中には負傷者がいた。
「そして、私に電話を掛けて来た少年、スラヴィクは建物から出てきて、ひざまずいた。彼は神に祈った。彼がどれだけ耐え忍んだのかを想像していただきたい。彼はこの出来事のすべてを目撃した。そして、彼は彼らが生き永らえたことを神に感謝したのです」とオルガは言った。
関連記事:”Priest Condemns 'Godless' Zelensky
Regime's Seizure of Kiev-Pechersk Lavra During Great Lent”: Mar/29/2023,
15:15 GMT)
だが、死傷者の数は多過ぎた。死体が通りに横たわっていた。血痕は至る所にあった。あの日、マリウポリ市の遺体安置所は溢れてしまった。
「これが戦勝記念日に連中がわれわれに仕出かしたことなのです」とオルガは言う。
2014年の住民投票、弾圧、解放:
この血まみれの出来事はマリウポリの市民が2014年5月11日に住民投票を行うことを諦めさせるには至らなかった。数キロもの長さの列を作って、マリウポリの住民は投票所の前に並んだ。「ドネツク人民共和国の国家独立法を支持しますか?」という質問に答えるために、人々は住民投票をした。
「5月2日のオデッサでの虐殺と5月9日のマリウポリでの虐殺は5月11日の出来事に非常に強い影響を与えた。住民投票はマリウポリで開催された。96%以上もの人々が投票に出向き、ドネツク人民共和国の独立に投票した。キエフ政権はマリウポリの人々を脅迫し、破壊することには失敗した」とオルガは回想する。
非合法的なキエフ政権による軍事行動に応えて、ドンバスの人々は武力による抵抗を組織化した。
「住民投票の後、2014年の6月中旬、キエフ政権はマリウポリの都市を彼らの支配下に置いた」とオルガは続けた。「そして、大規模な民族浄化が始まった。2014年9月現在で3,500人もの住民が行方不明になった。彼らの運命や連中が彼らに何をしたのかについては推測することしかできない。当初、被拘禁者たちは誰もがマリウポリ空港に連れ出されて、そこで人々は拷問を受けた。すでに建設済みではあったが、まだ機能してはいなかった火葬場はちょうどその時から操業を開始した。その後、24時間体制で操業した。空港の近くに住んでいた人々には機関銃の発砲音が聞こえた。これはいったい何事を物語っていたのか?人々はそこで銃殺された。大量処刑があったのだ。」
マリウポリ空港の悪名高い秘密の拷問刑務所は「図書館」と呼ばれていた。元SBU将校のヴァシリー・プロゾロフによると、それはアゾフ大隊によって運営され、ウクライナ保安庁(SBU)によって「監督」されていた。DPR、あるいは、親ロシアのイデオロギーとの繋がりを持っていたがために拘留された人たちは「本」と呼ばれた。チェックを行った後に囚人たちは空港のレストランの冷蔵庫に収容された。元被拘禁者の証言によると、ウクライナの民族主義者たちは水責めや窒息、指の骨折、等、さまざまな拷問テクニックを使用した。
マリウポリにおける戦勝記念日の虐殺から8年後、2022年5月、同市はドンバス軍とロシア軍によってようやく解放された。
「西側の読者に対してだけではなく、主にウクライナ軍の管理下にあるウクライナ住民にも言いたいことがある」とヴィクトルは言った。「私たちは彼らと戦争をしているのではなく、キエフ政権と戦争をしているのだ。ウクライナ住民はわれわれの敵ではないが、キエフ政権はわれわれの敵だ。連中はウクライナを米国や英国といった西側集団に売り渡した。そして、普通のウクライナ人たちは私たちの兄弟姉妹のままだ。彼らはわれわれの敵ではない。これが私が言いたいことだ。」
*右派セクターとアゾフ大隊はロシアでは禁止されている過激派組織である。
***
これで全文の仮訳が終了した。
ウクライナの民族主義者が行った血腥い民族浄化の歴史は第二次世界大戦当時に始まり、その系譜はロシアによる特別軍事作戦の開始前の8年間にウクライナ政府軍がドンバス地域の非戦闘員に対して行った残虐行為に明確に見い出される。歴史は繰り返されたのである。
「私たちは彼らと戦争をしているのではなく、キエフ政権と戦争をしているのだ。ウクライナ住民はわれわれの敵ではないが、キエフ政権はわれわれの敵だ。連中はウクライナを米国や英国といった西側集団に売り渡した。そして、普通のウクライナ人たちは私たちの兄弟姉妹のままだ。彼らはわれわれの敵ではない。これが私が言いたいことだ」と述べたヴィクトルの言葉は熱い。彼の心境は大事にしたいと思う。
ロシア・ウクライナ戦争は昨年の2月24日にロシア軍が一方的にウクライナへ侵攻したことから始まったわけではない。
その8年前、選挙を通じて民主的に選出されていたヤヌコビッチ大統領は暴力的に大統領の座から追い出され、それに代わってキエフには米国の傀儡政権が樹立された。ロシア語を喋る住民が多い南東部のドンバス地域に対する武力行使やロシア語の使用を禁止するといった極端な弾圧政策が8年間も続いていた。この間、西側諸国は「ミンスク合意」や「ノルマンィー・フォー」といった和平交渉の枠組みを作った。しかしながら、これらの枠組みは西側がウクライナ政府へ時間を与え、ロシアと戦うための戦力を整えるための隠れ蓑であったことがメルケル前ドイツ首相の言明によって、最近、明らかになった。要するに、マイダン革命以降、8年間にもわたって、ウクライナ政府と同政府を支援することを約束した西側諸国は対ロ戦争の準備を進めて来たのである。西側の意図的な対ロ戦争を理解しようとする場合、昨年の2月24日の前の一週間の出来事は特筆に値する。連日、ウクライナ軍はドンバス地域に対して今まで以上に猛烈な砲撃を開始し、継続した。専門家たちの見方によると、この時、つまり、2月24日の一週間前、ロシア・ウクライナ戦争は実質的に始まっていたのだ。この猛攻に耐えかねて、ドネツクとルガンスクの両人民共和国はロシアへ軍事支援を要請し、ロシア側はこの要請を受けた。こうして、2月24日のロシア軍による特別軍事作戦が始まったのである。
今や、これらの一連の歴史的背景はわれわれ一般庶民の多くが理解し始めている。
昨日(5月21日)の報道でバフムートが陥落したことを知った。ウクライナ軍側が構築したバフムートの要塞の街はついにロシア軍のコントロール下に入った。バフムートにおける勝敗はロシア・ウクライナ戦争の将来を決めるとかねてから言われて来た。バフムートの陥落はロシアとウクライナの代表が和平交渉のテーブルに就くことをはたして約束するのであろうか?そうなって欲しいものである。
参照:
注1:'They Fired at Civilians': Mariupol Residents
Recall 2014 Victory Day Massacre: By Ekaterina Blinova, Sputnik, May/09/2023
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